人間のあなたはいつか、人間の私を食べる

@isako

人間のあなたはいつか、人間の私を食べる

「くっついてねてもいい?」

 少女がわたしに尋ねた。わたしはいいと答える。彼女は返事をしないで、小さな背中を私の腹に押し付けるようにして、丸まった。私はそれを抱きかかえるように手を回した。彼女の名前はミーアと言った。姓は教えてくれない。曰く、そんなものはないそうだ。

 しばらくそうしていると、少女は静かに泣き始めた。わたしは何も言わないで、彼女の手を握る。

 わたしの手はもう人間の女のかたちを失いかけている。節々が太くなって、ごつごつとした指には分厚く強靭な爪がついている。鍵盤をたたいたり、麻布を織ったりするかわりに、手斧を握ったり、人を殴ったりするほうが便利な手になっている。わたしは慣れてしまっていた。生きる以上、ありあわせでやっていくしかないのは、皆同じだ。

 初めは人間離れしたわたしの姿に怯えていたミーアも、もうそんな素振りさえも見せない。彼女もまたわたしに慣れたのだろう。だから今晩は、「くっついてねたい」と思ったらしい。わたしはすこし嬉しい気持ちになる。受け入れたり、受け入れられたりすることほど、素敵なものはない。

 わたしの歪な手が彼女の小さな手を包んだ。彼女はなにも言わずに、わたしの手と指を絡め合わせるようにした。――こいびとつなぎ! わたしは思ったけど、何も言わなかった。

 やがてわたしは眠くなって、ぼちゃん、と無意識の暗い海に落ちる。おやすみなさい。


 夜明けにわたしは目を覚ました。意識が覚醒すると同時に、臭いや、音、空気の震えのようなものが一斉に感じられる。周囲にいる生き物や、生き物でないの気配を総括する。そして今この場所に危険がないことが分かる。この身体は、そういう自然的な感覚に敏感だった。恐ろしいくらいに。わたしはミーアを起こして、少し下ったところの川まで連れて行って、朝の支度を済ませる。私が川の水で顔を洗っていると、少女はくすくすと笑った。

「どうしたの?」わたしが尋ねても、彼女は答えない。ずっとくすくす笑っている。

聞いても答えないので、顔の水を切って、着たままのシャツ(男物だけど、今のわたしにはぴったりだった)で顔を拭いた。それを見て、少女はやはりくすくすと笑った。やれやれだ。

 支度を終えると、わたしたちは歩き出した。できるだけ水のある場所から離れないようにして旅をしている。ペースはミーアに合わせる。わたしは一晩くらい休みなしで歩いたって平気だったが、彼女はそうじゃない。背丈だって、全然違う。川沿いに歩けば、何かと困ることは少なくて済む。あてのない旅で最も大切なのは、危険な場所に行かないことだ。

 わたしたちは日が暮れるまで歩いて、それからは目立たないところで野営をする。簡単な食事を済ませると、さっさと寝てしまう。寝つくまで、わたしたちは少し話をする。お互いのこと、世界のこと、これからのこと。 

 ミーアが言った。

「フラノって、ほんとうは何者なの?」わたしはフラノと名乗っていた。そして今日も、わたしたちはくっついて寝ている。

「昔は遠い国のお姫様だったんだけど、悪い魔法使いの呪いでこうなった」

 わたしがそう言うと、ミーアがまたくすくすと笑った。冗談だと思ったらしい。

「わたし、フラノの正体がわかったかもしれない。今日はずっとそれを考えてたよ」 少女は自信満々に言う。わたしは面白いな、と思って続きを促してみた。

「あなたは、ハーフオークなんでしょ。オークと人間のこどもなんだわ。むかし本で読んだことがある。運が良かったら、オークの丈夫な身体と、人間の頭の良さを兼ね備えて生まれてくるんだって。運が悪ければ、逆。これは考えたくないくらい最悪ね。でもあなたは、ハーフオークの中でも、とっても運が良いタイプ。見た目はかなり人間に近いけど、身体にはオークの力があって、そしてその辺の人間よりもずっと優しいし、頭もいい」

 オークというのは、半分人間半分いのししのような姿の怪物のことである。人里とは別の領域で、彼らなりの社会を形成して生活している。個体によっては、乱暴で、人間と敵対することもある。基本的に、頭はよくない。

「なかなか面白い推理だ」わたしがそういうと、ミーアは寝返ってわたしの顔を見つめた。おおきな目が私を捉えている。わたしは少し、どきっとしてしまう。

「違うの?」聞かれて、わたしは答える。「ひみつ」

 しばらく沈黙があったあと、ミーアが尋ねた。

「ねぇ、わたしたちこうして、旅をして、ほんとうに安心して暮らせる場所を見つけられるのかな。ほんとうにそんな場所って、あるのかな」

「ある。見つけるんだ。そして見つけたら、今度は幸せを探すんだ。きっとわたしたちの生きる意味になる」

「ふぅん」そう言って彼女は私の胸に顔を埋めた。細い腕を回して私に抱き着いてくる。不安なのだろう。わたしは自分の不安が彼女に伝わらないように、彼女の頭をやさしく撫でた。柔らかくて豊かな髪だった。丁寧に整えてやれば、きっと驚くほど美しくなる。

「フラノっていくつなの?」ミーアが尋ねた。

「十八歳」

 わたしがそう言うと、彼女は、うひゃひゃと笑った。冗談だと思ったらしい。

「嘘ね。たぶん、五十歳くらいでしょ」

 はっきり言って心外だった。五十歳はあまりにひどい。

「オークだから身体は若いのよ。でも中身は人間だから、どんどんおばさんになる」

 むふふと彼女は笑う。

 わたしはミーアに背中を向けて黙った。

「フラノ、あなた怒ったの?」返事はしない。

「ねぇ、怒ってるの? ねぇ、こっちむいてよ。ねぇってば」

 しばらく放っておくと、寝息が聞こえ始めた。やがてわたしも眠った。


 夜が明け前に目が覚めた。わたしの感覚の全てが教えている。まわりに何かがいる。眠ったふりをしながら、それが近づくのを待つ。人間の、技術的に小さくされた足音が三つ。一つは油断のせいか詰めが甘い。勘のいい人間ならこの程度聴きつけてしまうだろう。少し離れたところにもう一つ。これはほとんど動こうとしないが、動いたとしても音は丁寧に消されている。そしてまた離れたところにも足音が聴こえる。これは怯えているのか、やや震えている。おそらく同業者――盗賊だ。

 油断した一つが近づいてくる。おそらく男。背はそこまで高くない。体重も必要以上はない。対人戦闘に慣れた重心の運び方をしている。手にはナイフか、あるいはそれに近い、軽いものを持っている。

 男がわたしの圏内に入ってくる。小さく、笑い声の代わりの息を漏らした。中途半端な殺気が伝わる。消す気もなければ、確固たるものでもない。殺しに慣れ始めた人間に特有の慢心がある。

 男が眠るミーアの顔を見ようと覗き込んだところで、わたしは腕を彼の頸に絡ませてひねった。鈍い音がして男は動かなくなった。そしてそのとても新しい死体が握り込むナイフを奪い取った。ほとんど伏せているような、とても低い姿勢で、次に近くにいた一人に忍び寄る。人間にこの動きはできない。目の前の男はわたしを人間だと思っていたのか、その挙動に目を剥いていた。わたしはナイフで男の太い首を横に薙いだ。さっと肌に赤い筋が入って、そこから生命いのちの流れが激しく噴き出す。男の血の匂いはよくなかった。酒と煙草、そして何か中毒性のある薬物で身体を浸している。愚かだ。

 残された一人は、もう遥か彼方まで走り去っていた。人間がなにか他の生物(あるいは同じ人間)と殺し合いをするとき、自然のルールと人間のルールが一時的に頭の中で混ざってしまうことがある。ただ、闘いになったときに大切なのは自然のルールのほうで、それになぞらえた行動をしていないと、おおむね負けて死ぬ。死んだ二人はしていなかった。生き残った一人はそれができていた。

 わたしは背を向けて走り去る動物を見ながら、血にまみれてしまったシャツを脱いだ。実は気に入っていたが、血に染まってだめになってしまった。色が薄いから、洗っても染みはとれないだろう。シャツに染み込んで肌まで濡らした血を拭ってから、頸を折って殺した男の服をはぎ取った。十分に着れるが、デザインがよくなかった。でもおっぱいを剥きだしで過ごすのは――たとえあまり人と会わない旅であっても、怪物であっても――嫌なので、仕方なくそれを着ることにする。ただ汗の匂いが気になる。翌朝に洗ってからだ。夜明けまでまだ二時間くらいはありそうだった。

 殺した連中の手荷物を漁って、まとめておく。明るくなってから、ミーアと必要なものを分け合えばいい。ただ煙草と、神経に異常をもたらすタイプの薬と思しいものは取り上げて茂みに捨てた。こんなものに興味を持たれても困る。

 一連の騒ぎの中で眠り続ける少女のそばに横になった。穏やかな寝息を立てて、彼女は寝ている。その頬に触れたいと思うけど、手が汚れているのでやめておいた。目を瞑って、何も考えない時間をつくる。

 だが懸念していたことが起きていた。やれやれだ。ほんとうに「やれやれなこと」が起きている。

 血がわたしの神経をたかぶらせていた。精神は人間でも、身体はオークに近いわたしは、かなり原始的な、動物的な生理システムのなかに生きている。たとえ質の悪いものでも、血液の匂いや温かさ、そして戦闘が招いた心理的な興奮が、ある種の、に結びつくことがしばしばある。下腹したばらに重く鈍い温かさを感じている。呼吸が少し、ほんの少しだけ、荒くなる。

 わたしは尖った牙で唇を軽く噛みしめた。眠ってしまうんだ。そうすれば収まる。となりにミーアがいる。ばかなことはできない。それでも、目をつぶって意識を眠りに近づけようとすればするほど、その感覚はわたしのなかで大きく膨らんでいく。

 「場所」が明らかに熱を帯び始めたところで、わたしは立ち上がって、水筒を取り出して水を飲んだ。ぬるい液体が食道を撫ぜて、腹のなかに落ちていく。だめだ。ぜんぜんやばい。意識はますます覚醒に向かっている。わたしはごわごわした髪を両手で引っ張ってひっかき回した。身体中の骨がかゆい。疼く。そして熱を高めていく。

 身体を動かそうと思って、わたしは殺した連中を埋葬した。頸を折った方はよかったが、ナイフの方は駄目だった。また血を見て、その匂いを嗅いでしまった。わたしは馬鹿なのか? 鞄から干し肉を取り出してかじる。腹は減ってないけど、他の欲求をみたして、「それ」の代わりにする。駄目だった。

 おっぱいを放り出した雌の怪物が、なんとか昂ぶりを抑えようとうろちょろしていた。わたしのことだ。

 結局一時間くらい、おなじところをぐるぐると歩き回り続けることで、発作を抑えることができた。わたしは理性で動物の欲求を克服した。人間のかたちを失ったわたしの、最後の矜持きょうじがこれなのだ。

 眠る少女のそばに再び寄り添って、その顔を見つめた。相変わらず彼女は、無意識の世界をゆるやかに泳いでいる。わたしはこの子の母親にはなれないだろうが、頼れる友だちにはなれるはずだ。呪いで、身体の半分が怪物になっているわたしの寿命がどれほどのものかわからないが、どうかできるだけ長い間、この子と一緒にいたいと思う。あるいは、彼女がわたしを必要にならなくなるまで。

 ミーアが寝返りをうって、その顔をわたしの目の前に転がした。彼女の寝息が私の唇をなでた。そして少し汗の匂いがする。わたしはまた、あの欲求の強い流れを感じた。しかし今度のそれは、さっきのような激流とは違って、激しいものではない。大きく力強い潮流のような、全てを柔らかく押し流す巨大な流れだった。

 わたしは彼女を抱き寄せて、彼女の肌の温かさを直接肌に感じる。そして、細い首に鼻先を埋めた。生命の匂いがする。私の牙の間から、熱くて濃い息が漏れる。

 わたしは、自分が、彼女を侮辱した空想をしていることに気付いて、彼女の身体を離した。そして自分が少し嫌になった。――けものだ。誰にも聞こえない呟きを落とした。身体に熱がこもったままだったが、それは徐々に冷却し始めていた。

 こんどこそわたしは眠った。とても長い夜のように思えた。


 時間としてそこまで眠ったはずではないものの、私は満たされた豊かな眠りの後味を感じていた。遠く太陽の光が顔を覗かせている。朝だった。

 ミーアを起こす。彼女は目をこすりながら身体を起こして、わたしを見て言う。

「なんで裸なの?」

「昨晩に騒ぎがあって、それでシャツを汚した。気付かなかったのか?」

「ぜんぜん」彼女はそう言うと、立ち上がって大きく伸びをした。

 野営の後始末をしたあと、わたしたちは出発した。天気のいい日だった。秋の涼しい風が吹いている。寒くなる前に、南の暖かい地方に移らないといけない。根無し草の渡り鳥は、気候に合わせて、野宿に易しい土地を選ばなくてはいけない。予定では、今日中に町につくことになっている。今晩は柔らかいベッドで眠れるかもしれない。昨晩の臨時収入のおかげで、ふところはあたたかい。


 歩き出して少し経ったところで、ミーアが言った。

「昨日の夜、あなたに食べられる夢を見たわ」

 わたしはなんと答えたものか迷って、しばらく黙っていた。そして聞く。

「それって、どんな?」

「あなたが私の服を全部むしりとって、ロープで手を縛ってつるすの。それから、刷毛はけでわたしの身体中においしい匂いのする油を塗って、つま先からぱくぱくかじる……」

 ますます返事に困る内容だった。「怖かった?」

「全然怖くなかった。最後まで食べらちゃったのに、不思議ね」

「一応言っておくけど、わたしは人間を食べたことはないからな」

 ミーアが明らかに、絶句した様子を見せた。

 この子はわたしを何だと思っているんだろう?

「大丈夫よ。私、フラノが人殺しでも人食いでも全然気にしないわ」

 確かにわたしは善人ではない(というか人間ですらない)。生きるために行商人を襲って、荷や金を奪うことで旅の物資を調達しているし、場合によっては昨夜のように殺人もする。でも人間は食べないし、必要以上に誰かを苦しめたり、傷つけたりしない。殺す時は一瞬ですむよう心掛ける。埋葬もする。それは無用にアンデッドを生まないためという実際的な問題(ある程度知能のある生物の死体を埋葬しないで野に打ちやっておくと、悪霊がとりついて不死身の怪物が生まれることがある)でもあるし、わたしの心理的ななぎのためでもある。

「あなたになら、ほんとうに食べられたって、平気だと思う。でもやるときは、殺してからにしてね。痛いのは嫌だから」彼女はそう言って笑う。

「まったく」わたしはため息をついた。

「あなたが私を食べてくれたら、私はあなたの中で生きていることになるでしょう」 どこで覚えてきたのか、少女はそんなことを言った。

「そうはならない。わたしが君を食べたって、それは君の血肉をわたしが消化するだけだ。君はどこまでも、死んだままだ。意識は闇に閉ざされたままだ」

 うふふ、とミーアが笑った。――わかってないのね。そういうことじゃないよ。

 笑う彼女には妙な妖しさがあった。十代の少女には、自分を必要以上に神秘的に見せることができるものがいる。それが見せかけであっても、本当であっても、彼女たちはなんらかの理由でそれをする。ミーアにもその傾向があった。

 何かを見せるためか、あるいは隠すためか。ただ笑う彼女は、とても美しく見えた。

 昨晩の蛮行から、いろいろと自分に見えていなかったところがあるように思えたわたしは、ミーアとくだらない会話をしながらも自分の心理について長らく考えていた。そして単純で、わかりやすく、かなり信ぴょう性のある推測に至っていた。彼女が涙を流したり、あるいは幼さを隠さず笑ったり、また年齢に似合わない美しさを見せたりすることの全てが、私には愛おしい。

 わたしは、彼女を愛しているのだろう。


 わたしたちは日が暮れるまえに、その町に着いた。旅人たちが集う町だ。どこかの役人や、お忍びの貴族もいれば、わたしたちのような、ならずものもいる。もちろん、棲み分けはきっぱりとなされている。ただ今日は金があるので、比較的きちんとした、一般旅行者向けの宿をとることができた。

 私たちは、人前では兄弟のていで振舞う。皮膚をんで、素肌を全て覆い隠す兄と、その弟である。旅先で女であることを示すのは、あまり都合のいいことではない。特にミーアには、実際の危険がともないかねない。

 旅に欠かせない物資を買い集めたあと、大衆食堂で夕食をとった。彼女は白身魚を揚げ焼きにして、そのうえにスライスしたオニオンや甘酢をかけたものをとった。わたしは牛の骨を煮込んだスープに、唐辛子と果物がベースになった甘辛いスパイスを溶かして、そこにしっかり火の通った肉や内臓を入れたものを注文した。そして二人でわける、バスケットいっぱいの丸パン。ひさびさの贅沢だった。そして冬にむけた、最後の贅沢になる。

 顔の下半分を覆い隠す布に、丁寧に匙を差しこんでスープを飲んでいるとミーアが笑った。

美食主義グルメなオークなのね」

「そこまでじゃないさ。腹が減ったときは選んでられない。いちばんひどいときは、生のねずみを食べたこともある」

「生のねずみ!」少女は顔をひきつらせた。さすがにこれはこたえたらしい。でも事実だった。もちろん、味は最悪だった。思い出したくもない。

「ねぇ、お互いのを食べ合いっこしない?」彼女が提案した。

「いいよ」わたしは答えた。

 彼女の頼んだ魚の揚げ焼きは絶品だった。薄い塩気のある魚の皮と鱗が、ざくざくと口の中で音をたてる。そして脂のほどよい身からうまみが溶けだした。そして全てを統率する、甘酸っぱい味付け。すべてが調和している。

 ミーアもわたしの料理に目を輝かせていた。歯ごたえのある牛の内臓に、スープがよく染みている。あちらも間違いなく絶品だった。


 食事を終えて、店を出るとき、ミーアがなにかを見つけてわたしをひっぱった。彼女が指し示す壁には尋ね人や求人広告、あるいはどうしようもない落書きや卑猥な叫びなどが雑多に書きこまれている。ミーアが示したものは、かなりしっかりした紙で作られたものだった。

 そこにはわたしの人相書にんそうがきと、それにかけられた賞金が書き込まれていた。

【半人半獣の雌オーク。賞金/**********。生け捕りのみ。情報でも謝礼あり。狡猾かつ暴力的ゆえ注意されたし。連絡は西部広告管理協会・賞金首係まで】

「わたしは人気者なんだ」そう笑うと、少女は心配そうにしてわたしの手を握った。

「大丈夫だよ。彼らはもうわたしを捕まえられやしない。連中は威張ってるだけで、まったくの無能者たちさ」

 ミーアはわたしの手を強く握った。わたしを見上げて言う。

「どこにもいかないでね」

「どこにもいかない。ずっといっしょだ」


 普段からはやい時間に寝ているわたしたちは、夕食を終えるとさっさと寝る習慣ができていた。二人ともが久しぶりに下着だけになって、早くにベッドに潜り込んだ。贅沢をしているとはいえ、ベッドは部屋に一つで、わたしたちは同衾どうきんをしている。

 ベッドで眠るのは数カ月ぶりだった。このところはよくても、ぼろぼろの毛皮を引いた草原か、あるい土の上で寝ていた。白いシーツとクッションの効いているマットレスはわたしに文明のありかたを思い出させた。それはミーアも同じ様で、彼女は、ふあぁと唸ると、さっさと眠ってしまった。かわいいらしい寝顔をわたしの胸におしつけている。

 わたしはたまらなくなって、彼女を優しく抱きしめる。自分の鼓動が早くなっているのがわかる。あの柔らかで、温かい欲求が押し寄せてくるが、わたしには、それは気にならない。彼女を抱いているという事実だけでわたしはもう満たされていて、獣の欲求はどこかで小さくなってしまっていた。肉体は興奮していても、心はこの時間を噛みしめることに執着していた。

「わたしは君を愛している」

 思わず、それは言葉になった。小さな声だが、はっきりと言ってしまった。もう自分の心に、後戻りができないことをわたしは悟った。ここまで誰かにこころを許したのはいつぶりだろうか。もう二度と会えない両親にだって、ここまで直截ちょくせつ的な言葉をぶつけたことはなかった。

 少しだけ身体が震えた。自分を晒すことが恐ろしくなった。でもすぐに収まった。すくなくとも、わたしの気持ちに嘘はないのだから。なにも怯えなくていい。


 だがしばらくして、わたしは異変に気が付いた。それは今までのどんな状況よりも、ずっと強く、急激な緊張をわたしにもたらすものだった。わたしの、野生的感覚のすべてが、わたしの人間的法則に訴えかけていた。

 わたしは深いため息を吐いた。

「起きてるな」

 わたしはミーアに言った。彼女の身体がびくりと震えた。

 密着しているからわかる彼女の呼吸や身体のこわばりが、彼女が意識を保っていて、わざと寝たふりをしていることを教えていた。あまりの陶酔に、こんな単純なことにもわたしは気が付かなかった。やれやれだ。

「聞いてたかい?」わたしは尋ねた。ミーアはこちらを見て、恐る恐る頷いた。

 ふふ、とわたしは笑った。まぬけだ。

 そして次の瞬間には、わたしの目から涙がこぼれた。

「な、泣かないで。フラノ」

「いいんだ。ミーア。なにも、言わなくていい。わたしはただ……。いや、何でもないんだ。忘れてくれて、いい」

 わたしはやはり怯えていた。一人のときの愛のつぶやきと、その告白とでは、大きな違いがある。感情が昂る。どうしよう。もしミーアが、わたしを気持ち悪いと思ったりしたら、わたしはどうしたらいい? わたしはこんな姿になった今でも、誰かの愛をもとめていて、飢えていたんだ。愛情は、諸刃の剣だ。一方的な陶酔なんかありえない。いつだって、拒絶の危機にあるんだ。しばらく人間と触れ合ってこなかったわたしは、ごく当たり前のことさえ忘れていた。涙が止まらない。ぼろぼろと大粒のそれが、わたしの醜い顔を濡らす。こんなにも、わたしは、よわい。

 少女がわたしの首に優しく手を回した。ぎゅっと、身体全体を使ってわたしを抱きしめる。

「フラノ、だいじょうぶ。泣かないで」

 そして彼女は、わたしの尖った耳に唇を近づけて、小さく呟いた。

「約束して。いつか私を食べてくれるって」

「でも、それは冗談で、」

「ねぇ、フラノ、さんざんからかったけど、私、あなたのことを本当に怪物だなんて思ったことは一度もないの。だから、約束。人間のあなたはいつか、人間の私を食べるの」

「ミーア、意味が分からない。わたしは、君を食べるために一緒にいるわけじゃない」

 彼女は、いつもみたいにくすくすと笑った。

「あなたって、ときどき馬鹿ね。そんなこと分かってるわ。それに、私が死んだときには、あなたにもきっとわたしの言っていることの意味がわかると思う」

 いつもとは逆だ。わたしは彼女の小さな体に、頭を抱えられている。わたしは彼女の胸に、頬をすり寄せている。

「あなたって、いつも仏頂面で、本当か冗談か区別のつかないことばかり言って、ほとんど無感情な風にしてるよね。でも私には、あなたがとても感情が豊かなひとなのはわかってるよ。自分で気づいてないでしょう? あなた、わたしが褒めたら、ちょっと笑ってるの。右の牙がちらっと見えるぶんだけ。からかったら、眉間のしわが、いつも一本なのが三本に増える。誰かを殺した日はいつもよりちょっとだけ無口になって、早くに寝ようとする。ほかにも、あなたの知らないあなたのことを、わたしはたくさん知ってる。あなたが隠している昔のことは全然知らないけどね」

 彼女はそう言って、わたしの頬に優しく口づけをした。

「嬉しいわ。私だって、あなたが大好きだもの。あなたの、怖くて、優しくて、弱いところが、すき」

 わたしは、声を上げて泣いた。一度わあんと吠えてから、今度はこどもの頃のように、丸くなって、いつまでもしくしくと泣き続けた。その間彼女は、ずっとわたしの手を握り続けてくれた。もう片方の手で、わたしの頭をなでていた。やがて泣き疲れて、知らない間に眠っていた。

 朝になって目が覚めたときも、彼女は眠りながらわたしの手を握ってくれていた。


 町を出てからも、わたしの頭はだっていた。ちょっとした地面の盛り上がりに、何度もつまづいた。ときおり、ミーアに「口があいてるわよ」と指摘される。

 川の流れは透き通って輝き、澱みには、深淵な緑が凝り固まる。草原は、風になびいて、一瞬、太陽の光にあてられ黄金に染まる。青空に浮かぶ雲はひとつだけ。それはいつまでもかたちと場所を変えないで、こちらを見ている。小さいけれど、しっかりとした重みをもって、真っ青な海のなかに自分を認めていた。やれやれ、わたしは恋をしているらしい。

 ミーアは昨晩のことなどまるで気にしていないかのように、自然としてわたしの隣を歩いている。ただいつもと違うのは、わたしと目が合うと、ただにっこり笑うことである。わたしはさっと目をそらす。頬が熱くなる。やれやれだ。

 

 それからしばらくして、わたしたちがまた別の町に滞在したあと(そのときは宿は取らなかった)、町近くで野営をしていると、ミーアがふところから、なにかを取り出した。質の悪い紙で作られた雑誌のようだ。手帳くらいの大きさだ。

「なんだいそれ」わたしが尋ねると、ちょっと戸惑ってから、わたしにそれを渡した。

「さっきの町で買ったの。そんなに高くなかったから……」

 表紙には、過剰に性を強調された女性の戯画と、大きな文字で「女体の神秘」とあるのが刷られている。わたしが彼女を見ると、彼女は顔を赤くして、あさっての方を見た。

 本の中身は、つまり、男女間のある種の交流についての指南本という感じで、どうすれば「いい」のか、また何をしてはいけないのか、技術的なことから心構え、あるいは結婚生活の妙についてまで、言及していた。

「恥ずかしがらなくたっていい。こういうことに興味がある方が、健全だ」

 わたしは本をミーアに返した。受け取った彼女は言った。

「フラノは興味ないの」

「えっ」わたししばらく絶句したあと、慌てて取り繕った。

「ない。わたしにはそういうのはない。オークだから」

 ミーアはつまらなそうに、ふぅんと頷くと、その猥本わいぼんをぱらぱらとめくり始めた。やがて、わざとらしく物憂げなため息をついたり、流し目でこちらを見つめたりしてくる。わたしは呆れて、横になった。

「わたしは寝る」

「じゃあ私も」彼女がわたしの隣に横になった。

 あの夜以来、わたしたちは毎日、何も言わなくとも、くっついて寝ている。驚いたことに、ちょっと喧嘩をしたような日でも、彼女はわたしに寄り添って寝ようとした。わたしは初め拒もうかと思ったが、結局くっついて寝た。それで、翌朝には仲直りをした。

 闇の中で、わたしに身を寄せるミーアが言った。

「本に書いてあったわ。恋人同士は眠る前に口づけをするんですって」

「そう」わたしはそっけなく返した。

 まったくこの娘は、どういうつもりなんだろうか。

「ねぇ、こっちむいて」彼女は言った。「寝なさい」わたしは言った。


 濃い血の匂いで目が覚めた。かなり近い。でもそんなにたくさんの量ではない。少しだけだ。わたしたち以外の生き物の気配もない。何が起きているんだろう。

「ミーア」わたしは彼女の無事を確かめる。声をかけると同時に、闇夜に目が慣れ始める。オークは夜目がきく。

 血を流しているのは彼女だった。だがそれは、まったく危険なものでも緊急を帯びたものでもない。彼女は、自分の指先を何かで切って、そこから流れる血をわたしの鼻先に差し向けていた。「? 君、いったい何を……」

 彼女は血に濡れた細く白い指をわたしの口にいれて、血を舌になすりつけた。濃厚な鉄と生命の匂いが鼻腔びこうに抜ける。血の匂いと奇妙な緊張があいまって、わたしの身体の奥から、「それ」はゆっくりと引き出され始める。

 ミーアがわたしに馬乗りになって、自分の鼻をわたしのものに擦り付ける。

「知ってるのよ。血の匂いがだめなんでしょう?」彼女の息はもうすでに熱く、荒くなっている。わたしもそれにひっぱられる。

 彼女がくすくす笑う。「息の匂いが変わった」

 わたしは口を覆ってのけぞる。彼女はその手を押しのけて言う。

「違うわ。臭いんじゃないの。すごくいいの」

 彼女はわたしにキスをした。やわらかな唇の感触。そしてわたしの口腔こうくうに、彼女の血と、唾液と、息の匂いが混じって溶け込む。熱い息をお互いに吐き出して、吸い込む。彼女の熱が、そのままわたしの脳を痺れさせる。身体の底が、あの熱を帯び始める。彼女が一度口を離した。混じり合った唾液が長い糸を引いて、わたしたちの唇を繋いでいる。ふふ、と彼女が笑った。

「ミーア、こんなこと、わたしたちは」

「しずかに」

 彼女はもう一度、わたしの唇をふさぐ。今度はより激しく、わたしを刺激した。少女はわたしをひきだそうとしている。同じ場所に立たせようとしている。彼女の小さな身体が、びっくりするくらい熱くなっている。そしてわたしも、同じくらいに熱い。

「こういうのって、きっと考えちゃだめなのよ。そのままを楽しめばいいの。それにわたしたちは、お互いを拒む理由はない。そうでしょ?」

 彼女がわたしの指をからめとった。

 翌朝、わたしたちはいつにないぎこちなさの中、挨拶を交わして、出発の支度をする。汗で濡れた服が冷えて冷たくなっていた。人気ひとけのない川辺で、べたつく汗を流したら、いつものように歩き出した。昨晩のことについては、なにも言わない。気まずいとわたしは思った。


 夏の空気は遠くに過ぎさっていて、風は秋の少し焦げたような香りでたっぷり満たされていた。わたしがぼそりと、「秋の匂いがする」というと、少女は鼻を引くつかせて、「あきのにおい」と繰り返した。彼女は出会った頃に比べて、肉が付いた。背も高くなったし、目には輝きが灯っている。余計な知恵もあちこちでつけている。こどもというのは面白い。わたしは彼女を見る度にそう思う。


 一ヶ月ほどの間、野宿と夜盗を繰り返して、わたしたちは大陸の南部に渡るのに十分な金を集めた。その頃にはやや肌寒い風も吹き始めていて、雨に降られようものなら、凍えてたまらないくらいになっていた。

 またこの一ヶ月の中には、わたしに呪いをかけたあの魔法使いをたまたま見かけたので、それを殺害するというちょっとした事件があった。だがなぜかオークの呪いは解けなかった。ただ実際のところ、この身体はいろいろと便利だし、愛しいミーアも受け入れてくれるので急ぎで呪いを解く必要はなかった。

 魔法使いは結構な魔法道具をたくさん持っていた。でもそれらのほとんどは、わたしたちには扱えないものなので、だいたいは闇市に流してしまった。けっこうな額になり、それで南行きの目標には達したのでよかった。必要以上の悪事を働かずに済む。

 その死んだ魔法使いの喋り方が面白かったので、事件のあと、しばらくミーアがずっと彼の真似をして遊んでいた。やがて飽きてやらなくなったが、いまでも思い出したら、たまにやるので、二人で笑っている。この他には別段面白い話もないので、この件についてはここで口を閉ざすことにする。


 南部ゆきの旅船は、出稼ぎ労働者たちで雑多としていて、騒がしい。わたしたちは人前に出るときの変装をしている。波に揺れる船内で、ミーアが手紙を書いていた。覗き込むと、どうやら両親にあてたものらしい。

「とりあえず、生きてるんだよってことは伝えておいた方がいいと思ったの」

 彼女はそう言った。

「でも、その人たちは君を売ったんだろ?」わたしは尋ねた。

 彼女は全然平気に答えた。「うん。憎いけど、家族だし、平気だよってね」

「そういうものか」

「フラノのお父さんとお母さんは、今どこにいるの?」彼女が尋ねた。

 わたしは二人の顔を思い出しながら答えた。

「ここからずっと遠くの、故郷の国でたぶん平和に暮らしてる。そこはほんとうに、すごく平和で豊かなところだから」

「それって、天国のこと?」

「二人は生きている。ただ距離としてすごく遠いところなんだ。もう帰ることはできない」わたしは笑った。

「次の寄港地で、郵便に出せるだろう。それまでは大切に持っているんだ」

 彼女は頷いて手紙を丸め、かばんに収めた。

「フラノは手紙を書かないの?」彼女が訊いた。

私は答えた。「書いても、届かないくらい遠いんだ」


 渡しから飛び降りたミーアは目を輝かせて盛んな港の様子を眺めていた。

 わたしたちが南部の港に着いたのは、もう夕暮れだった。そこは溢れんばかりの人と様々なものでいっぱいだった。たくさんの屋台が立ち並び、各地から集められた食材が叩き売られている。あちこちから、大道芸人の奏でる頓狂なメロディが聞こえる。でもそれらは、人々の雑踏や話し声にすぐかき消されてしまう。ミーアにはすべてが初めての光景だろう。夕闇の中、屋台の明かりがあちこちで照らし上げられ、きらきらしている。良い光景だった。

「ここは南部でも一番の街だからな。はぐれないように気をつけるんだ」

 わたしたちは手を繋いで、町を歩いた。屋台町をぶらついて、特産の椰子やしジュースを分けて飲んだ。簡単な夕食のあと、宿をとって、翌朝わたしたちは出発した。

 南部は変わったかたちをした動植物が多く、ミーアは朝から、あちこちを面白そうに眺めていた。ここは冬でも温暖で、野宿でも快適に過ごすことができる。ただ夏は死ぬほど熱いので、また数カ月過ごしたら、わたしたちは中北部に戻ることにしていた。ただわたしには、この土地に気になっているものがあった。

「これから、向かおうと思っている村は、噂では種族も出自しゅつじも関係なしにみんなが平和に暮らしているところらしいんだ」わたしはミーアに言った。

「へぇ、すごいわね」ミーアは興味なさそうに言った。

「なんでそう、そっけないんだ?」

「なんだか嘘くさいもの。たぶんそれ、でまかせよ」彼女は、南部に着く前の船の中で、占い師を装った詐欺師に騙され、わたしから分けられていたお小遣いを全部巻き上げられている。用心深くなっていた。彼女なりの反省があるらしい。

「確かにわたしもちょっと怪しいとは思う。でも別に急ぎの旅じゃない。様子を見に行ってもいいとは思わないか? 本当なら、そこに腰を落ち着けてもいい」

「……まぁ、見にいくくらいならね」


 二晩、屋根のないところで夜を過ごして、次の昼過ぎにわたしたちはその村に着いた。

 驚くべきことに、その村は本当に様々な種類のひとびとが共存していた。人間、奴隷どれい印を押された者、亜人デミ(人間に似たかたちをしているが、人間ではない種族。獣人や小人、巨人など)、そしていくらかの人外の姿も見受けられる。「同種」が人間の前に姿をさらして歩いていたので、わたしは本当に驚いて、背負っていた荷を落としてしまった。

 そのオークは、短く太い足と胴、浅黒い肌と大きな口、尖った牙、潰れた鼻などのオークらしい特徴を見事に兼ねそろえていたが、振る舞いはどこか知的だった。なにより、ズボンにベルトを差している。しかもちゃんと裾を入れている! こんなオークは、自分以外に初めて見る。

「あの……」わたしは彼に話しかけた。

 彼はわたしの、全身を分厚い布で覆った姿を奇妙そうに見つめている。

「はい……?」

 わたしは少しだけ顔の覆いを捲って、顔を見せて言う。

「ここは人里のようだけど、姿を露わにして、大丈夫なのでしょうか」

 オークは意味が分かったらしく、にこやかに頷いて、「ええ、この村では問題ありません」と返した。

 わたしは恐る恐る、頭に巻いていた布を外して、オークの顔を外気にさらした。

 村ではむしろ、顔や肌を隠している見た目の方が珍しいらしく、それを見ていた人たちは、わたしがオークだったと気付くと、興味を失ったか、あるいは納得したかのような様子で、注目を他のものにむけた。この村では、わたしは「普通」だった。

「ミーア! この村はすごい!」わたしは言った。ちょっと涙ぐんでしまう。

「あなたってわりと涙もろいわよね」ミーアは呆れて言う。

 でも本当に、人前で顔をあらわにできるというのは、すごいことだった。他の場所ではそうはいかない。オークは亜人にも近いが、やはり獣に寄ったものだとみなされている。人里に迷い込めば、袋叩きにされて殺されるか、よくても追い出されるかだ。

「旅をしてらっしゃるのかな? ぼくはフランツといいます」

 さきほどのオークが言った。そしてつづける。

「もしよければ、この村を案内しましょう。そちらの人間のお嬢さんも、もちろんご一緒に。いかがです」とても礼儀正しいオークだった。こんなのは人間にもそうそういない。

 わたしはミーアの方を見た。

 ――どっちでもいいよ。彼女はそういう顔をしていた。

「ありがとう、フランツさん。じゃあ、お願いしようかな」

「光栄です」フランツは言った。、だって? わたしはフランツの背中に人間が出入りできるようなファスナーがついてないか探した。もちろんそんなものはなかった。


 村は豊かで、平和だった。あらゆる種族のひとびとが仲良く暮らしていた。村の裏手には特産のイモ畑が広がっていて、これはこの土地の土壌でしか育たず、ゆえに希少価値があって高く売れるらしい。畑は慢性的まんせいてきに人手不足で、新しい入居者は村としてもありがたいのだそうだ。

 わたしたちが安住あんじゅうの地をさがしていることをフランツに伝えると、彼はいくつか長屋のような場所を紹介してくれた。どれもいい環境で、未来の隣人たちは明るく親切だった。今までわたしたちが身をおいていた世界が嘘のように思える場所だった。

 これにはさすがのミーアも驚いていた。

「ねぇ、本当にここに住めちゃうのかしら」

 フランツが言った。「もちろん。新しい仲間は大歓迎です」

「これから夕食の会があります。ここでは村人みんなが輪になって食事をすることが決まっているんです。旅人の方に強制することはありませんが、もしここでの生活を考えてらっしゃるならどうです? 楽しいですよ」

 わたしたちは断る理由もなく、それに参加した。


 村の中央にある大きな広場は、本当にみんなで輪を作れるくらいに広い。わたしたちはそこに席(といっても、地面にゴザをひいたもの)をとってもらい、そこに座った。皆が同じ夕食を食べた。ローストした豚肉と、小麦粉や卵、牛乳、油なんかを練り合わせて薄く焼いた発酵はっこうのないパン(というかナン)、そして特産のイモを茹でて潰したサラダ。ここまでの道中、船から持ち込んできた固くて臭い干し魚ばかり食べてきたわたしたちにとって、それらはもちろん御馳走ごちそうだった。わたしたちが酒を飲まないことを知ると、彼らは果物をしぼった甘いジュースを用意してくれた。いたれりつくせりだった。

 全員の食事が終わると、輪の中心に、焚き木で大きなやぐらが組まれた。その中にどんどん柴を放り込んで、火がつけられる。やがて太木に燃え移り、それは見事な火柱をあげるようになった。

 日はすっかり沈んでいて、夜空にごうごうと炎が上がる。火の粉が空の暗闇に飛び込んでいって、そして消えた。ミーアも、久々にこどもらしい笑顔をして、それを見つめていた。

 やがて笛や太鼓の音が鳴り始め、ギターのような弦楽器を抱えたひとたちが炎を周りをぐるぐると回りながら歌を歌い始める。不思議なメロディだが、なんだか楽しい。わたしたちと同じように輪になって座るひとたちも、歌を歌っていた。そして本当に種族の垣根を超えて、彼らは肩を組んでいた。

 わたしのとなりにいたフランツが言った。

「さぁ、ここからが本番ですよ」

 濃い緑の干し草で作られたブロックが、どこからか運ばれてきた。重そうではないが、一つ一つが大きく、人間の大人の男でも二つが限界という感じだった。わたしは呑気に、わたしなら四つは持てるな、と考えていた。

「あれは?」わたしが尋ねると、フランツが言った。

「お昼に見せた畑のイモがあったでしょう? あれの葉を乾燥させたものです」

「へぇ。それで?」「いまにわかります」オークはもったいぶった。

 ブロックが焚火の中に投げ込まれた。そして次々に、それが繰り返される。何が起きるのか、わたしはそれをじっと見入っていた。ミーアも興味津々だ。


 突然、ばふんと大きな音を立てて、焚火から濃い煙が噴き上がった。それは一度空に打ちあがるけど、気体として重いのか、ゆっくり拡散しながら、地面に降りてくる。いつのまにか、大きな団扇をもった人たちが輪のあちこちに控えていて、彼らがその煙をより広くまき散らした。煙はわたしたちのところにもやってきて、甘いような、苦いような香りを漂わせ始める。

 初めて嗅いだ。これはなんだろう? やがてあちこちで歓声が上がり始めた。音楽はずっと鳴り響いている。歌も続いているが、どこかけだるげな声色になった気がする。 

「へーんなにおいー。へへ」ミーアが言った。

 少女の顔が緩んでいる。呂律ろれつも怪しい。

「ミーア? 熱があるのか?」わたしは彼女を抱きかかえて、額に手をやる。発熱ではないらしい。

 ――ホーッ! と鋭い奇声が近くで上がったので、わたしはそちらを向いた。

 すぐそばで、人間の男女が素っ裸になって、いた。

 わたしは悲鳴をあげて、ミーアを抱えたまま飛びのいた。彼らの痴態を見せないよう、ミーアの目を手で隠している。

 な、な、な。とわたしが言葉を失って怯えていると、あちこちで「それ」が始まりだした。そこでは男も女も、種族も関係なしに、全員が思うがままに、性を貪っていた。これは、これはまさか。

 わたしのそばにいたフランツが言った。「他の種族のみなさんはいいんですが、我々オークは神経が鈍いのか、効きが悪いんですよね」そして、今もなお煙を噴き出し続ける焚火のところへ駆けて行って、拡散する前の濃いものを、大きな身体いっぱいに吸い込みだした。やがて煙が十分に回ったのか、野太い雄たけびを上げると、オークらしい姿で、ほかの連中に混ざりだした。

 確かにここは平和な村だった。そしてあのイモの葉は麻薬だ。ここは紛れもないヒッピー・コミューンだった。

 わたしは足元からぐらっと倒れた。半分オークのわたしは、つまり半分は人間だ。煙の効果が効き始めているらしい。抗いようのない幸福感と、あの熱(やれやれ)が現れ始める。そして倒れたわたしの上に乗りあがる者がいる。なぜかすでに全裸になっているミーアだった。彼女の目は虚ろで、顔は真っ赤に燃えている。

「ふらの、ふらの、ぎゅってして。すき。すき」そう言って、わたしにキスをしたり、首をなめたり、おっぱいを掴んだりした。

 ほんとうに、まったく、これ以上なく、完璧なまでに、やれやれだ。


 わたしは朦朧とし始めた意識のなか、なんとか立ち上がって、すっぽんぽんのミーアを抱えると、彼女が脱ぎ散らかした衣服を拾い集め、あちこちで進行中の乱交をよけながら、村を後にした。彼らの自由を否定する気はないが、わたしの求める平穏な生活にああいうものはいらない。

 村の端まできたところで、ようやく空気は、南部の冬らしい、涼しくも湿り気を帯びた心地のよいものに戻った。意識はまだぐにゃぐにゃしていたが、これもじき戻るだろう。中毒性が弱ければいいのだが。ミーアが心配だった。


 野営ができそうな場所を探しながら、わたしはまだ、ミーアを背負って、二人分の荷物をぶらさげて歩いていた。

 満点の星空の片隅では、狂人たちの狼煙がまだ上がっている。遠く、太鼓と笛の音が響いていた。そしてミーアは、おぶられながらも意識はあるようで、ちょうどいい位置にあるわたしの耳をなめたり、しゃぶったり、あるいは甘ったるい言葉を垂れ流したりしていた。


「ねぇ。ふらの、あなたことだいすきよ」

「知ってるよ」

「ほんとうにすき」

「ああ」

「わたしのことすきっていって」

「君が好きだ。愛してる」

「うれしい!」

「首を絞めるな」

「ねぇ」

「なんだ」 

「わたしがしんだら、あなたわたしをたべなさいよ」

「またそれか」

「ほんきよ。あなたがさきにしんだら、わたしがあなたをたべるから」

「はいはい」

「しんでもわすれないでってことだからね」

「分かってるよ」

「このままねてもいい?」

「いいよ」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人間のあなたはいつか、人間の私を食べる @isako

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ