第3話:オツェアーノから先

 来た道とは別の小道に入ると、すぐ脇には小川が流れていた。吸い込まれそうな澄んだ水の流れに、ふと時の流れを重ねてしまう。時は流れ去っていくのに、記憶や想いはいつだって同じ場所で淀んでいる。それでも、軽やかな水流は、晩夏の暑さを吹き消してくれるような心地よい音を運んでくる。そんな矛盾に心がキュッと痛くなる。


「カッパいるかな?」


 希海のぞみは、その短めの黒髪を風になびかせて、いたずらっ子のような表情を浮かべ、そう言った。


「そんなの、いるわけないじゃん」


 あの頃と同じトーンの会話。それがずっと続くのだと思っていた。


「キュウリ持ってくればよかった」


「希海って、なんだか、そういうところ、子供だよな」


「そんなところが好きなんでしょ?」


「まあ、そうだけど」


「ヘンタイ」


「おいっ」


 川沿いの道端にも、小さな祠や地蔵が並んでいて、語り継がれた歴史的文化と、リアルな現実が交錯する不思議な世界を作り出している。過去というのは、絶対的にアクセス不可能なのに、目の前に広がっているのは、過去そのものの風景なんだと、そう思わざるを得ないくらいに……。それはやはり、時が止まっていると形容したくなるような幻想的な世界だ。


――このまま、時が止まってしまえばよいのに。


「とってもきれいだな。もっとこの景色を見ていたい」


 希海はそう言って、大きく深呼吸した。きっと僕は同じことを考えていたんだと思う。いや、そうあってほしいという願望なのかもしれないけれど。同じ場所で、同じ時間を過ごせるという事が本当に奇跡だったんだと、あらためて思った。


「また、来ればいいさ」


 僕の頬には、汗なのか、そうでないものなのか、判別のつかない何かがすっと流れていった。


 

 駅に戻ると、一両編成の気動車は、僕たちをずっと待っていたかのようにホームに停車していた。改札を抜け、乗降口の前に立つと、サッと扉が開く。車内に入って、先ほどと同じボックスシートの窓際に座った希海は、鞄からペットボトルのお茶を取り出して一口飲んだ。


 「飲む?」と彼女から手渡されたペットボトルのお茶を、僕もゴクリと喉に流し込む。汗をかいたせいか、さすがに喉がカラカラに渇いていた。


「間接キスだっ」


 そう言って笑う希海の顔に、窓から入り込む陽の光が反射して、その眩しさに思わず目を細める。


「ねえ、疲れたでしょう。終点まで行くんだから少し寝ても良いんだよ」


 気道車のエンジン音が心地よい。仄かな振動と希海の優しい声が眠気を誘う。


――きっとここで目を閉じたら、希海は消えてしまうんでしょう? 


「なあ、希海。もう少しだけ、あと少しだけ、無理なのかな?」


「時間はきっと止まらないので……ごめんなさい」


 薄れていくもの、薄れないもの。時間が止まらないのだとしても、永遠に残り続けるものも確かにある。あの神社の古びた拝殿のように、朽ち果てていきながらも、形を変えながらも残り続けるもの……。石碑や赤い布に託された願いも、それは消えることのない希望でしょう?


「なあ、希海、忘れないよ」


「ふふ。ありがとう。でもね、もう忘れても良いんだよ。一人で苦しまなくていい」


「また、会えるかな」


「そんなに会いたいの?」


「いつだって……」


――ありがとう。あたしも大好きだった。


 過去の思い出を引きずって生きる者は、引きずれるだけの思い出があるという意味では幸せな人間なのかもしれない。意志が未来を主張することは、過去の忘却を強いることであり、回想を奪われることなんだと、そう思った。


「お客さん、終点ですよ」


 肩を叩かれ、僕は目を開ける。座席の脇に立っている車掌を見上げながら、自分がいつの間にか眠っていたのだと気づく。小学生のころ、将来の夢は何ですか? と聞かれ、何も思い浮かばなかった僕は、列車の運転手なんて答えていたことを思い出した。未来に見るの夢と、眠りの中で見る夢。どちらも夢なのに、どうして同じ漢字を書くんだろう。


「あ、すみません」 


 気動車の車内には数人の乗客がいたはずだったが、もう皆、降車してしまったのだろう。車内には僕と車掌の二人だけだった。慌てて荷物を網棚から降ろすと、僕は乗降口に向かった。


 ホームに降り立ち、改札を抜けると、駅前の国道はあの当時のままだった。最近になって竣工した大きな橋を渡ると、その先はかつて漁港だった場所へ通じている。当時は市場などもあって休日になると、地元の人だけではなく観光客多く訪れ、とても賑わっていた。


「あのビルの3階まで海水に沈んだんだからな……」


 世界最大深の湾口防波堤でさえも破壊した巨大津波は、街の中心部をいとも容易に飲み込んでしまった。この街だけで1000人を超える死者、行方不明者を出している。


 津波は魂を抜いていく。生きている人の魂だけでなく、その光景を見ている人の魂を……。それまでの生活が、あっという間に海に消えていった。


 あれからどれくらいの時間がたつのだろう。この街では、復興に向けた作業が急ピッチで進んでいる。倒壊した巨大防波堤も再建作業のただなかだ。主要な幹線道路の多くは未だ工事中だけど、それはきっと希望につながる道になるはず。“ずっと”は叶わなかったけれど、いつかまた巡り合うための希望。人生の意味や目的を決定するのが僕たち自身であるように、歴史の意味や決定は、今を生きる僕たち自身の手にゆだねられているのだから。


 国道を逸れ、工事中の道路を少し内陸側に進むと、大きな多宝塔が見えてくる。真っ白な多宝塔は、あの津波で亡くなった人たちを弔うために建立された。その敷地の奥には細かな欄間彫刻が趣をたたえている寺院の本堂が見えてくる。


 どこからともなく漏れ聞こえてくる読経に耳を澄ませながら、僕は本堂の脇に作られた小さな階段を一段一段登っていく。寺院横にある高台の斜面は墓地となっていて、その一角に宮古希海みやこ のぞみが眠っている。


――きっと、いつかまた。


 遠くに見渡せる太平洋は、ただただ静かだった。

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フォルクローロの街で 星崎ゆうき @syuichiao

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