第2話:フォルクローロの街
やがてトンネルを抜けた気動車は、山間の川を縫うように敷設された線路の上を、やや減速しながら進んでいく。少しだけ標高が高いのだと思う。木々の間から窓に差し込む陽の光が、列車の蛇行に合わせて方向を変える。影があるって、きっと確かな存在の証なんだと、あらためて思った。
幾つかの鉄橋を渡り、険しい渓谷を抜けると、少しずつ民家が見え始める。道端に咲いているコスモスの花が、もう秋がすぐ近くまで来ているのだと思わせた。ピンクに紫を混ぜたような小さな花が、空に向かって一斉に咲いている晩夏。その脇を走る気道車がゆるりと減速を始めた。きっと駅が近い。
「さっきのおじいさんが言っていた駅だよね。降りる?」
――過去との和解。
あの老人はそう言った。過去は僕らがそこから何かを学ぶために存在しているのではなく、今を生き抜くために和解するという仕方で存在しているのかもしれない。
「でも途中下車なんてできるのかな、この切符……」
「フォルクローロの街」
「え?」
「語り継がれる過去と記憶の世界。でもそれは過去そのものじゃない。やがて薄れていっても良いものよ」
「希海?」
「いえ、何でもないの。きっと途中下車できるから大丈夫」
気動車が停車し、乗降口の扉が開くと、僕らはホームに降りた。改札付近には、駅係員が一人立っているだけで、他に乗降客はおらず閑散としていた。
「あの、この切符……」
改札出口で切符を見せると、駅係員はそこに小さなスタンプのようなものを押してくれた。
「この街で、ゆっくりしていくと良いですよ、時間はまだあと少しだけあるんですから」
僕は駅員に軽く頭を下げると、足早に改札を抜けていった希海の後を追った。
駅前には小さな観光案内所があって、その隣には、時刻表が空白だらけのバス乗り場がある。どこにでもあるような、郊外の風景といえばそうかもしれない。いつだったか、希海と二人でバス停のベンチに座って、空の高さについて話したことがあったっけ。きっと昼と夜では空の高さが違うんだって、彼女はそういっていた。
「少し歩こうか」
希海は駅前から真っすぐ伸びている道を歩き出した。車通りもなく、両脇に立ち並ぶ建物にも人の気配は感じられない。街全体の時間が止まっているかのように静かだ。しばらく進むと、建物の影すらなくなり、その代わりに田園風景が広がっていく。風にそよぐ緑色の稲穂が夏の音を奏でていた。
「なあ、希海、どこに行くの?」
彼女は立ち止まり、後ろを歩く僕を振り返った。
「大事なのはどこに行くかじゃないの。どこに行くのかわからない中で、何かに出会えること」
微かに笑った希海の瞳がとても綺麗で、思わず見とれてしまう。僕らの間をすっと吹き抜ける風が少しだけ涼しくて、夏の終わりを告げているような気がした。
やがて目の前に小さな鳥居が見えてくる。真っ赤に塗られた鳥居が、艶やかな青空と印象的なコントラストを生み出していた。はるか昔に建てられたもののはずなのに、真新しい塗り絵の世界を見ているように、今と過去を共に含んでいる景色。僕らは足元にいくつも並ぶ石碑の周りを迂回して、ぬかるんだ地面を進んだ。
鳥居をくぐると、その先に続く勾配のきつい石段を登っていく。石段はところどころ崩れていて、少し斜めになっている場所もある。足の置き場を誤ると、つまづいてしまいそうで、ちょと危ない。
「ねえ、何が書いてあるんだろう」
希海は石段の途中でしゃがみこみ、その脇にある小さな石碑を指さしている。今更ながらに気が付いたのだけれど、石段の両脇にも小さな石碑がずらりと並んでいた。よく見るとそこには何か文字のようなものが書いてある。ただ、目を凝らしても何が書かれているのか分からなかった僕は「さあ」と答えるより他なかった。
「きっと希望につながる言葉が書いてあるんだね」
この辺りは日本でも有数の豪雪地帯だ。山間の小さな集落は、冬期に孤立することもあっただろう。遥か昔、天候によっては食糧難のために、多くの人が飢えに苦しみ、そして亡くなっていったに違いない。この街の至る所にある石碑は、それだけ多くの自然災害を物語っている気がした。いつだって人は自然と向き合い、自然に助けられ、そして自然に苦しめられたのだ。
石段を上った先には、小さな神社がひっそりと立っていた。もうずいぶん昔からこの場所に鎮座しているのだろう。木造の拝殿はところどころ朽ち果てていたが、賽銭箱の上から垂れ下がっている
僕はポケットから財布を取り出すと、賽銭箱に5円玉硬貨を入れる。その隣で希海は、赤と緑の鮮やかな鈴紐を握って、
二礼して柏手を二回うつ。そして、いつかまた巡り合えますように、と願う。“ずっと” が叶わないのなら、”いつかまた”。
「なあ、希海。どんな願い事したの?」
拝殿を眺める彼女の表情は、少しだけ悲しみをまとっていた気がした。
「それ、教えちゃだめでしょ?」
そう言えば、願い事は口にしちゃだめだと、彼女は昔からそういっていたのを思い出した。
「だよね」
神社の裏側には、さらに奥へ続いている道が延びていた。細い道は木々に覆われ、たまに吹き抜けていく風に、葉がかさかさと音を立てている。額から地面にポトリポトリと落ちる汗のしずくの上を、大きな蟻たちが通り抜けていった。
「まだ、先に行くの?」
「うん」
セミの声が大きい。希海は僕の手を握るとゆっくり歩き出した。今まで、彼女から手を繋いできたことなんてあっただろうか。よく思い出せないけれど、出会ってから一度もなかった気がする。
トンボが飛び交う細い草道を進むと、茂みの向こう側に小さな祠が見えてくる。その隣にはご神木だろうか。巨大な木が立っていて、祠との間に、太い縄が張られていた。その縄には真っ赤な布がいくつも巻き付けられていて、際立つ赤色が、この場所に独特な空気を生み出している。沢山の赤い布が垂れ下がる境内はどこか神秘的だ。
「
「うねどりさま?」
「左手だけで赤い布を結びつけることができたら、縁が結ばれるんだって」
祠の横に置かれた木箱には、赤い布が何枚も重ねられて入っていた。それほど大きな布じゃない。だけれど、左手だけで結び付ける作業は想像しているよりも難しい。僕も希海も少しばかり必死になって、赤い布を縄に巻きつけていた。
「これでいいかな」
「うん、きっと」
縁は今現在の人と人との関係を作るものだ。だけど、現在を現在として誰かと共に生きるのはなかなか難しいのだと思った。その短い瞬間そのものは思いのほか儚く、油断すると、過剰な過去や未来が現在を覆い尽してしまうから。
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