フォルクローロの街で
星崎ゆうき
第1話:始まりのステラーロ
あの出来事が僕の世界を大きく変えてしまった。いや、それはもちろん僕だけの問題じゃない。この国全体が、あの日を境に大きく変わってしまったんだと思う。過ぎ去った出来事は、受け入れるより他ないのだから、いつだって過去は理不尽なんだ。
「どうしたの? そんな驚いた顔をして」
僕の横には
「いや、なんか、突然だったから……」
小さな駅舎の周辺には、民家の影さえなく、どこまでも田園風景が広がっている。地平線で交差している空は、まるで絵に描いたような夏の鮮やかさを放っていた。日差しは強く、でも微かに吹き込んでくる風が暑さを和らいでくれる。
やがて、まっすぐ伸びている線路の向こう側から、一両編成の気動車がやってくる。ディーゼルエンジンの音が徐々に大きくなるにつれて、気動車はスピードを落としながらホームに滑り込んできた。
真っ白な車体にグリーンのラインが入った気道車は、路線復旧後に導入された新型の車両だった。かつては空調設備すら登載されていない旧国鉄時代の車両が運行されており、この時期の車内は蒸し風呂のように暑かったのを覚えている。僕らの目の前で停車した気道車は、ブルンとエンジンをふかすと、空気圧制御装置の作動音を響かせて乗降口の扉を開けた。
「ほら、乗るよっ」
希海はそう言うと、ステップに足をかけ、軽やかに車内に乗り込んでいった。この駅舎も、その設計基準が古い。だから車両乗車口に比べてプラットホームが少しだけ低いのだ。大股で乗降口のステップに足をかけると、扉横に設置された銀色の手すりに捕まって、車両内に入り込む。
「今年の夏は暑いね」
振り返った希海は、そう言いながら、前から三つ目の四人掛けボックス席で立ち止まると、奥の窓際に座った。「そうだね」 とぎこちなく答えた僕は、彼女の隣に腰を下ろす。
「ここ、良いかね?」
僕らのすぐ後から乗り込んできた老人が、座席の脇で、重そうなリュックサックを網棚の上に乗せようとしていた。
「ああ、手伝いますよ」
僕は席を立つと、老人が押し上げようとしているリュックサックを網棚の上に載せた。
「どうも、ありがとう」
老人はそう言って、僕らの向かいの席に腰かけた。小さな警告音と共に乗降口の扉が閉まると、気動車特有のエンジン音が車内に響き渡る。程なくして気動車は灰色のプラットホームから離れていった。
「まぶしくない?」
午前の日差しが、ちょっとだけ熱を帯びて窓ガラスから車内に飛び込んでくる。
「いいの。景色を見ていたいから」
差し込んでくる陽射しに、やや顔をしかめながらも、希海は流れ去っていく田園風景を窓越しに眺めていた。不思議なことと不思議でないことの境界がふっと消えている時間、そしてその空間。僕には分かっている。それでもずっとこうしていたいと願う。
「君はどこまで行くんじゃ?」
「えっと……」
向かいの老人の問いかけに、僕はどこまで行くのだろうと考えた。行き先が曖昧なのはなぜだろう。そこに明確な僕の意志が存在しないからだろうか。僕自身、どこかで避けていたんだと思う。逃げるように現実から。
「近頃、若いもんがこの気道車に乗るのは珍しい」
希海は相変わらず、外の景色を眺めている。僕はシャツの胸ポケットに手を入れてみると、水色の大きな切符に気が付いた。
「お前さん、それは……」
老人の瞳は大きく見開いたまま、僕の右手に握られた切符から目を離せないでいた。
「えっと……」
「それは、どこまでも行ける切符じゃ……」
老人は大きくため息をつくと、ようやく切符から目をそらし「でも残念だ」と小声で呟いた。
「終点があるのよ。この列車には」
希海も僕の切符を横から覗き込んでそう言う。
「オツェアーノから先は、線路そのものが消えてしまった。想いだけでは先に進めんという事かね。現実は厳しいものさ」
「オツェアーノ……」
この路線にそんな名前の駅はないはずだけれど、どこか懐かしい響きに、不思議と違和感を覚えなかった。
「君は過去と和解したいのかい? ならば、この先の駅で降りると良い」
そう言い残して、老人は一つ目の駅で降りていった。
「なんだか、不思議な人だったね」
「不思議じゃないことの方がきっと少ないのよ」
希海は微かに笑いながらそうつぶやいた。僕は彼女の白い手を握ってみる。暖かいのか冷たいのか、まるで自分の手の感覚が麻痺したかのように分からない。
「そんなにあたしと手を繋ぎたいの?」
温度が伝わらなくても、感じられなくても、それでもいい。手をつなぎたいと思う人がいるというのは、きっと幸せなことだと思う。
「うん」
「じゃ、いいよ」
希海は僕の手を両手で握り返すと、自分の膝の上に置いた。やがて気動車はトンネルに入っていく。視界は暗くなり、車窓の先には闇が映し出される。でも、僕は闇は光をはじき返す強い力を持っていると思うんだ。闇は光をただ呑み込んでしまうわけじゃない。
気動車の天井に設置された、少し濁った蛍光灯の明かりでさえ、窓をから外の闇を照らし、その淡い光は窓ガラスに僕と希海の姿を映し出している。
窓越しに希海の瞳を見つめていると、彼女は僕の視線に気が付いて、やや呆れたような顔つきで「ねえ、そんなにあたしのこと好き?」 と目を細めた。僕はさすがに照れ臭くなって、「まぁ」 なんて言葉を残しながら、車内へ視線を泳がせていた。
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