第3話

 僕はベッドの上から窓の外を見ていた。慣れ親しんだ家は、少しずつ秋の色合いになっていた。


 紅葉がひとひら風に運ばれていった。

 肺炎が治って一週間、長男夫婦が世話をしていた。家族団らんの幸せなひとときだったが、先ほど妻が泣き始めたため居間で二人がなだめているところだ。落ち着いたのか、今は泣き声が響かなくなった。


「もう長くはないか」


 命の灯火が燃え尽きようとしているのを自分でも感じていた。

 この春で九十七歳になった。両手に余るほど多くの喜びと悲しみを味わったように思える。


 僕は部屋の隅に置かれたトランクを見つめた。初めて見たときより、革は使い古されてボロボロになっていた。一ヵ月前、ガラス管が壊れた後も捨てられずにいた。


 最後に作った絵の具は、旅先でスケッチをしていた青年画家に売った。市販の絵の具では生み出せない色合いは、トランクが最後に絞り出した力の賜物だった。


 色。それは心に響くものだ。人の数だけ色にまつわる物語が生まれる。トランクのおかげで広がった人の輪を思い、僕の目頭は熱くなった。


 父さん、がむしゃらに生きたよ。

 おじさん、人生の色を後世に残したよ。


 母や妻、子供達の顔がぼんやりと浮かんでは消えた。

 僕はふわりと微笑んだ。色に振り回された人生だったが、悪くはなかった。


 しわだらけの手を軽く上げ、トランクを撫でる仕草をした。自分に残された時間はほんのわずかしか残っていない。

 最期の言葉はずっと前から決めていた。


「あばよ、相棒」


 僕はまどろむように目を閉じた。

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色彩のトランク 羽間慧 @hazamakei

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