第2話

 翌朝、僕は騒ぎ声で目が覚めた。昨日とは打って変わって街が騒がしかった。

 居間に行くと、母はいつも通り朝食の支度をしていた。僕は、新聞を読んでいた父に疑問を投げ掛ける。


「今日は外が賑やかだね」


 父はそっと新聞を差し出した。寝ぼけていた僕は、内容が頭に入るまでじっと見出しを見ていた。やがて、事態の深刻さに気付くと、一瞬で眠気が吹き飛んだ。


「宣戦布告? ハワイへ決死的空襲? まさか、これって……」

「ついに戦争の道を進みだしたのさ」


 のちに真珠湾攻撃と呼ばれる出来事だった。戦争の火種は収まるどころか、新たな場所へ移ってしまった。

 僕は母を見つめた。野菜を切る音は変わらずとも、今は唇をきつく噛んでいる。

 家中が静かになったとき、誰かが訪ねてきた。声の主は昨日の客だった。手にはトランクを持っている。


「旦那、昨日確かに言ったな。戦争が始まれば俺の商売は続けられないと」

「あぁ」


 客は荒い息を抑えて言葉を紡いだ。


「旦那の息子は徴兵されないのか?」

「生まれつき足が悪い。軍の規定に従えば、徴兵されることはないだろう。杖がないと歩きにくいからな」


 客は覚悟を決めたようだ。


「トランクを旦那に売ろう」


 その目に迷いはなかった。客は祈るように僕を見つめた。


「使いようはきみに任せるぞ。絵の具の使い道も、色の作り方も」

「でも、僕なんかでいいのかな?」


 迷いを口にすると、父は一言だけ告げた。


「生きがいを持って進むための糧にしろ」


 足に不安があることは、後で生きることにつらさを覚えてしまう。父は僕に色を守らせることで、生きる希望に気付かせようとしたのかもしれない。

 それから戦争が終わるまで、僕はトランクとともに生き抜いた。戦地へ赴いた父と客の分まで生きると約束して。

 戦前、僕は規制だらけの芸術を目にしていた。芸術家を縛っていた法律が消えたとき、惜しげもなく絵の具を売った。今度こそ、見せかけではない未来を作り上げたかった。

 画家の絵の中で、色は本来の居場所を見つけたかのように自信をもって輝いていた。


 しばらくして知った戦死者のリストの中に、父の名前があった。異国の海底で、安らかに眠っていることを願う。

 客の生死は分からなかった。いつかのようにふらりと家を訪ねるような気がして、僕は長い間待ち続けた。

 思いがけない再会があったのは、街に少しずつ活気が戻ってきたときだった。


 僕は、母と一緒に画材を扱う商店を営み始めていた。

 来客と母から伝えられたとき、僕は絵の具の在庫確認をしていた。母の背後に立っていた人物を見て、驚きのあまりどこまで数えたのか分からなくなってしまった。

 かつてのトランクの持ち主は、僕が作った絵の具を興味深そうに眺めていた。


「俺の採集は自己満足にすぎなかったのかもしれない。きみでなければ、こんなに綺麗な色を集めることはできなかっただろう」


 客は、僕が知らない名前の島から戻ってきた。どんな戦いだったのかは話さなかったが、背が小さくなったように見えた。他人が理解するには重すぎる過去を抱えてきたのだろう。

 平穏を噛みしめるように、客はぽつりと呟いた。


「この世界のどこかに、ある色を待っている人がいる。そんな人のために絵の具を届けてくれ。きみなら必要とされる場所に運ぶことができるはずだ」


 俺はもう年を取りすぎたと、寂しそうに微笑んだ。

 僕は驚きを隠せなかった。快活そうな性格から、暗いものへ変貌していた。少しでも昔のように笑ってほしくて、大切に残しておいた19230901の絵の具を見せた。


「懐かしい。あのときは夢中で色を作っていたが、今思えば馬鹿なことをしていたものだ。命を削らなくても、いい色は身近に転がっていたのに」


 飼い猫が死に際になって去るように、客はそれきり僕の前から姿を消した。ただ一言、トランクを守ってくれてありがとうと告げて。

 客が話した「色を待つ人」の言葉の意味を、僕はそれほど大切なものだとは思わなかった。少なくとも、それから三十年間は。


 妻と出会い、二男一女を育てていくうちに戦争の記憶が薄らいでいったのだ。過去の人の言葉は忘却の彼方へ押しやられた。トランクには原色に近い絵の具が多く詰め込まれ、あの客の作ったものは全て売りつくしていた。真新しいものに目がくらんだ僕の肩に色のありようが重くのしかかるのは、四大公害による被害が報道されるころだった。


 今の街は、灰色の建物と鮮やかな看板がひしめく混沌とした空間になっている。そう気付いたとき、僕は自身の扱う絵の具がくすんで見えた。

 かつて街を彩った素朴な風合いは姿を消し始め、色の持つ力は弱まりつつあった。その余波なのか、昔ほど絵の具が貴重品ではなくなった。小さな店は大型商業施設に対抗できず、店をたたむ決断をした。


 退職した後、日本各地を少しずつ巡った。トランクを片手に色を蒔いた。あるべき場所へ。色を待っている人のために。

 思いつきで始めた小さな旅は、歩行器を使うようになるまで続いた。

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