色彩のトランク

羽間慧

第1話

 昭和前期と位置付けられた時代がある。白と黒だけの色に包まれた、そんな寂しい時代と思うだろうか。

 暗雲立ち込める世の中、戦争の待ち受ける未来という負の印象が強いかもしれない。それでも、あの時代にも輝く色があった。




 十四歳の冬の夜のことだった。僕の家に不思議な男性が訪ねてきた。

 年季の入った服は薄汚れ、遠くから来たことがうかがえる。トランクを肌身離さず持っていた。身なりはこだわりがなさそうなのに、トランクは金具の飾りが凝っている上等なものだった。

 長年、父と絵の具の取引をしていたという。それを聞いて、僕は驚いて父の横顔を見た。


 父の印象は、めったに外出しない偏屈な画家だ。一日の大半は部屋にこもっている。商売の要であろう絵の具さえ、母に頼んで買いに行かせていた。そんな父が画材を扱う商人と深い仲にあるとは、思いも寄らなかった。


 トランクの中には、二段の木箱が入っていた。一段目には、仕切りの中に絵の具が収められている。まばゆいほどの鮮やかな色で埋まり、どの色もほしいと思えてしまう。二段目にはよく分からない機械が部品ごとに仕舞われ、組み上がるときを待っていた。


 僕は一本の絵の具を手に取った。やや黒みがかった赤色は、息を呑むほど力強い輝きを秘めていた。その様子は、深紅の薔薇のようだ。見れば見るほど心を奪われる。

 客の目がきらりと輝いた。


「お目が高い。そいつは19230901のシリーズだろう?」


 ラベルを見ると、確かにそのシリーズの番号だった。同じシリーズの絵の具も、力がみなぎっている。だが、くすんだ白色だけは、どこか哀愁を帯びていた。


「生と死の美しさ、文明のはかなさ、自然の力がよく表れている。俺が作った最高傑作だよ。だが、これと似たような品をもう一度作るのはごめんだね。作り終わったときに、危うく炎に巻かれるところだったんだからな」


 文明のはかなさと自然の力。その言葉を聞いて僕はピンとくる。


「あの震災の中で作ったの?」


 ラベルの番号は震災の日を表していた。

 甚大な被害を出した震災は、僕の生まれる四年も前に起きた。街に大きな傷を残した出来事だ。しばらくの間、不況で苦しめられたと父から聞いた記憶がある。

 客はうっとりとして遠くを見つめていた。


「あれだけ大きな出来事は、いい色を作る絶好の機会だった。たまたま東京に行っていなかったら、幸運を手放すところだったな。騒動の中、俺はガラス管を慌てて組み立てた。石英の粒をいれた漏斗の上から、水を入れて日光に当てる。ガラス管から水がこぼれる瞬間、その場所で一番輝いた色が鉱物になって固まるんだ」

「色が鉱物になるの?」


 客の語る不思議な現象を、僕は信じることができなかった。ざっと見ただけで五十以上の色がある。これだけの数を非効率な方法で集められるとは考えられなかった。もう一度、トランクの中の絵の具を見つめる。

 目を付けたのは茶色の絵の具だ。父の部屋で岩絵の具を見たことがあるため、違いがよく分かるのではないかと感じたからだ。


「微妙に色が違う?」


 粒、一つ一つに命が宿っているかのように見える。


「それは、昼過ぎに野原で収集したものだ。多分、ちゃぶ台かビフテキの色がうまく混ざり合ったんだろう。花を摘む子供が横切ったとき、綺麗な山吹色が生まれたっけ」


 僕と目が合うと、客は誇らしげに胸を張った。


「出来栄えは保障する。何たって、俺の仕事は人が生きた証を色として残すことなんだからな」

「お兄さん、凄いんだね」

「ま、それだけ危ない場所に行ったってことだけどな」


 客はお兄さんと呼ばれたことで上機嫌になっていた。


「どうだ? 買いたいものはあったか?」

「もちろん」


 父は真剣なまなざしで呟いた。


「このトランクをまるごと買い上げたい」


 一瞬で客の顔色が変わった。


「冗談はよせ。どこぞの富豪から同じことを言われたときも丁重に断ったんだ。こいつを手放せられるものか」


 客にとって、トランクはよほど大切なものらしい。商売道具だからという理由もあるだろうが、人生の友のように大切な存在なのかもしれない。

 客の反応を想定していたのか、父は静かに話し出した。


「アメリカとの戦争が始まれば、今までのように商売をすることはできなくなる」


 戦争。それは日頃耳にすることが増えていた言葉だ。子供が嬉しそうに話す様子とは違い、ずしりとした重みがあった。


「徴兵を免れても、暮らしは厳しくなるだろう。新しい絵の具を求める余裕が消えるからな。きみのトランクは一食分の価値も生み出せない代物になるんだ。今まで作ってきた絵の具を、次の時代に残したくないのか?」


 客は唇をきつく噛みしめた。


「アメリカとの戦争なんて起きるはずがない。起きるはずがないんだ。いくら旦那の頼みだからとはいえ、トランクをまるごと売る気はない」


 その日、父が買った絵の具は淡い黄色だった。

 闇に押し潰されてしまいそうな光の色に、僕は客の心中を思いやった。

 人様の商売道具を買い上げようとするなんて、父はどうかしているのではないか。口論によって、ただでさえ少ない知り合いを減らしてしまった。

 だが、機嫌を損ねた客が再び現われるまで、時間はあまり掛からなかった。

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