黒潮に乗って

 島の夜は予想外に寝苦しかった。暑いのだ。岩山の周辺まではそれなりに植物の群落もあって、東京の熱帯夜ほどではない。だがとにかく夜の空気全体がねっとりと湿ったように胸苦しかった。


「低気圧は来てなかったと思うんだけどなあ」


 私たちはテントの中で寝返りを打ちながらぼやいた。


 出発前、テレビや新聞で天気予報はさんざん確認した。前夜の雨には不安な気持ちになったが、今朝の東京はからりと晴れていた。梅雨前線は小笠原諸島の上空まで大きく南下し、前線を生み出す低気圧は千島列島の東方海上にあった。(※)

 しばらく、風雨の心配はないはずだ。


「……海流のせいじゃないかな」


 私がそういうと、立花はなるほど、とうなずいた。


「黒潮か……確かに。このあたりの生物が南方型なのはその影響だからなあ」


 太平洋に面した地域は冬でも比較的温暖である。その要因となるものの一つが黒潮だ。日本海流とも呼ばれるこの巨大な暖流は、フィリピン近海から北上したあと列島の南岸にそって流れ、ちょうどこの日子島のあたりから日本を離れて東へと遠ざかっていく。

 

 とはいえ、暑い時にその原因をどう言いたてたところで、それで涼しくなるわけではない。立花はついに起き上がり、靴を履き始めた。


「我慢できん。ちょっと外に出てみる」

 

「おい、よせよ。危ないぞ」


 テントから出ようとする立花を、私はあわてて引き留めた。テントの外は半ば廃墟と化した観測小屋の跡で、コンクリート片や錆びた鉄片が散乱していた。テントを設営する際にできるだけ掃除はしたが、暗い中ではどんな怪我をするかもわからない。


「大丈夫だよ、どうってことはないさ」


 しゅーっと噴射音がした。二回、三回。かすかに甘ったるい刺激臭がテントの中にまで漂ってくる。立花が虫よけスプレーを使ったらしかった。


「しょうがないなあ。寝るときには戻って来いよ……地面に直接寝たりすると体温を奪われて、明日の調査に差し支えるぞ」


 テントの外へ向かって念を押したが、立花からの返事はなかった。声の届かない距離まで歩いて行ってしまったらしい。


(物好きな奴だ……)


 立花のことは放っておくことにした。実をいうと私はこの時、外に出るのが何となく嫌だったのだ。島を覆った闇のどこかに、あの黒い影が――その正体である何ものかが潜み、或いはすぐ目と鼻の先を歩き回っているのではないか。日が落ち、夜が深まるにつれて、そんな茫漠とした恐怖が心の中で膨れ上がってしまっていた。


 私はテントの入り口を閉ざし、薄い毛布を顔の上まで引っ張り上げて、無理にでも眠ろうとした。怪談話を聞いた子供が窓を固く閉ざし、布団を頭までかぶって寝るのと同じだ。

 早くから床に就いたせいもあって眼が冴えて仕方がなかったが、それでも努力の甲斐あって、体感にして二時間もするうちに、私の意識はもうろうとしてきて、どこか深いところへと吸い込まれていくようにも思われた。



        * * * * * * *



 海の上にいる――そう思った。


 私は木材を組み合わせて作られた狭苦しい場所に座っている。だが体全体がその座席とともにゆったりと上下左右に揺れ、足元が床からしみこむ水で濡れていた。


 ここはどうやら小さな、ひどく小さな船の上なのだ。


 奇妙なことに、四方は窓も何もない板張りの壁で覆われていて、入り口も出口もなかった。ただ、屋根があったと思われるところが大きく破れて、そこから日差しが容赦なく照り付けていた。

 いつからかわからないが、恐ろしいほど長い間、一滴の水もひとかけらの食物も口にしていないように思われた。

 目がかすみ、手が震える。四肢には力が残っておらず、立ち上がることすら難しい。


 それでも、必死で手を伸ばし、足を突っ張って屋根の破れ目に手を伸ばす。何度も失敗して、そのたびに肉のそげた尻を座席代わりの板にぶつけ、息の止まるような苦痛を味わった。

 ようやく破れ目に手をかけ、頭を外に出した。前方の海の彼方には、小さな島の影が青黒く浮かんでいる。


(ああ……! あそこまで行き着ければ助かる……死なずに済む)


 そう思った。船には見たところ帆も櫂もなかったが、海流に運ばれているのだろう。ゆっくりと、だがまっしぐらに島へ向かっていく。

 ああ、死にたくない。陸を目の前にして死にたくはない。あの島の岸を踏むまで、どんなことがあっても死ぬわけにはいかない。


 近づくにつれて、島の周りとその上空を、白い大きな海鳥が舞っているのがわかった。あれを食いたい。殺生禁断の戒律など、もうどうでもいい。


 浜辺に船が打ち上げられ、横倒しになった。屋根の破れ目から這い出し、砂浜に降り立った。日差しが熱い。

 足元には小さな黒いカニが無数に群れていて、こちらが一歩踏み出すごとにわあっとそこから離れ、歩を進めてそこを離れるとまた寄ってきた。


 視線を上げる。その先に人が立っている。太陽を背にしていて輪郭は黒く沈み、顔がよく見えない。手には何か重そうな棒をぶら下げている。


「……あんたも、かね?」


 そんな言葉が口からすべり出た。相手は突っ立ったままで応えない。

 こちらはやがて手足の力が尽きてしまい、砂の上に手をついた。指先が埋まり、冷たい海水がそこへしみだしてくる。人影はこちらに近づいて来て、無言でその棒――船の櫂を振り上げた。


(俺を殺して、食うつもりだな……)


 なぜかはっきりとそう分かったが、恐怖は感じなかった――振りかぶった姿勢で光が当たり、相手の顔がはっきりするまでは。


  ――に……なっちまえや。


 砂が崩れる音によく似た声が、揶揄するような口調でそう言った。眼の前に現れたのは、だった。


 陽光に照らされた波打ち際に、私の悲鳴が長く尾を引いて――



        * * * * * * *



 目が覚めた。だが、叫んでいたのは私ではなかった。


――うわああ!! 助けてくれ、虫が、虫が!!


 立花の声だ。


 私は飛び起きて懐中電灯をつかんだ。スイッチを入れると、タングステン球の黄色い光が棒状に延びて、ごくささやかな範囲を照らし出した。


「どうした立花! どこだ!」


 声を頼りに懐中電灯を動かすと、立花はテントから三十メートルほど離れたところで何か見えないものを相手に格闘しているように見えた。走り寄って彼を照らしてみて、思わず息をのんだ。


「うわっ!?」


 立花の服と言わず素肌と言わず、足をうごめかせる小さな生き物が無数にたかり、貼りついていた。彼は懸命に手足を振り回して、それをはたき落とそうとしていたのだ。

 『小さな生き物』とは言ったが、形から類推するとそれは『巨大な』と言った方が適切だった。背中側から見るとひょうたんのような形をした、黒く平べったい昆虫――羽根の退化したサシガメの一種か南京虫のように見えたが、その体長は少なくとも二センチを超えていた。


「き……橘川っ。このっ、こいつら、刺しやがるんだ……助けてくれ……」


「ちょっと待ってろ! ……刺されたところにむやみに触るな! 絶対にだぞ!」


 漁船の船長が言い残した、「たちの悪い毒虫」の話が言葉が脳裏によみがえっていた――あれはたぶん、このことを警告していたのだろう。

 ペットボトルの水を求めてテントへ走る。以前に教授から聞いた恐ろしい感染症の話が脳裏によみがえった。


 南米に生息するサシガメの中には、人間の血を好んで吸うものがいる。吸血だけなら痛いだけでどうということもないのだが、この虫の糞にはトリパノソーマ原虫の一種が生息していて、刺し傷や周辺の粘膜露出部、例えば眼にこの糞が付着するとそこから原虫が侵入することになる。


 結果、発熱や下痢と言った急性症状と、長期的には心臓などの臓器肥大や破裂、脳神経症状などを引き起こすのだ。シャーガス病と、呼ばれている。


 水を携えて立花のところに戻った。虫はあらかた叩き落され、立花は泣きそうな様子で息を喘がせながら、何かを必死に耐えるように身を震わせていた。


「大丈夫か!」


「くそ……痒い……! 痒くてたまらない!!」


「我慢しろ。船長がかきむしるな、と言ってただろ」


 水を振りかけて顔と手を重点的に洗いながら、顔をかきむしろうとする立花を何度も静止した。


「うおおっ、痒い……」


「我慢しろって。ヘタすると死ぬぞ」


 あまり刺激したくなかったが、やんわりとシャーガス病の話をしてやる。杞憂かもしれないが、おそらくこれまで報告もされていないサシガメだ。同様の感染症の媒介動物でないという保証はない。


「い……嫌だ、冗談じゃない。あの船長、何だってもう少し詳しく警告してくれなかったんだ……」


「……調査は切り上げだ。明日朝いちばん、大島の消防に携帯で救助要請しよう」


「頼む」


 立花を助けてテントに戻るころ、ちょうど東の水平線から下弦の月が昇ってきた。月明りというには心もとなかったが、刺された部位をもう一度念入りに洗ってやった。水の残量が一気に減ってしまったが、私はこの時まだ事態をそれほど深刻には見ていなかった。


 虫刺されに備えて持ってきていた市販薬の軟膏を塗り、レスタミンコーチゾンの錠剤を服用させた。それですこし痒みが収まったようだが、可哀想に、立花はすっかり興奮して、眠れそうにもない様子だった。


「ちくしょう……あんなでかいサシガメがいるなんて……多分あいつだよ、橘川。あいつらがここのシマホタルブクロを……」


「どうかな……吸血性のサシガメが花の蜜を吸いに来るかどうか……」


「なんにしてもせめて一匹くらいは標本を持ち帰ってやりたい。そうでもしないと収まらんよ」


 私は暗闇の中で苦笑いした。この期に及んでこれだけの元気があれば、心配はあるまい。


「それより立花、お前の悲鳴のおかげで、えらく変な夢を見たぞ」


「夢?」


 私は、先ほど見た奇怪な夢の話を立花に打ち明けた。彼はしばらく考え込んでいたが、不意に『ああ』と大きな声を出した。


「そりゃあ、補陀落渡海ふだらくとかいじゃないか? ほら、坊さんを小さな箱舟に詰め込んで、南海へ向けて流すってやつだよ……確か去年、和歌山かどっかでその船を復元したって記事を新聞で読んだ。あの時確か、お前も横にいたよな」


「ああ、なんだ。それでか……」


 そう言われれば納得がいく。夢というのは覚醒のきっかけになりそうな外的刺激をやり過ごすために、脳が適当な記憶からいろいろと捏ねあげる、つじつま合わせのストーリーである、というケースが多々あると聞いた。頭を殴られる夢を見て目覚まし時計が落ちてくるという、漫画でおなじみのシチュエーションはその伝だ。


「刺激から派生して広がった連想を、起きたときにストーリーとして逆向きに思い出すものらしいからな……暑さと船旅の興奮、昼間見た人影、それに去年見た渡海船の記憶が組み合わさったんじゃないか?」


「うん。そうかもしれない」


「だけど、偶然にしても面白いな……いいか、橘川。渡海船のいくつかは、琉球まで流されたらしい。流れ着いた先で祭り上げられて、寺を開いたという記録も何例かある。彼らは幸運にも実際に南海へたどり着いたわけだが……」


「特例ってわけか? じゃあ、他のケースは?」


「……黒潮だ。渡海上人の多くは、黒潮に乗って東へ東へと流されたはずなんだ」





(※)参考資料:

デジタル台風:アジア太平洋地上天気図 [1994060312]

ttp://agora.ex.nii.ac.jp/cgi-bin/weather-chart/show.pl?type=as&id=1994060312&lang=ja


goo天気:1994年6月

ttps://weather.goo.ne.jp/past/662/19940600/

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