島の東側

 私はそのあと祠を離れ、三回に分けて荷物を観測所跡から運んだ。ペットボトルに入ったミネラルウォーターの残りが二本。カセットコンロにボンベ、簡易テント。毛布、カップ麺にチョコレートやビスケット、タオルに着替え、採集した標本の入ったケース。その他もろもろ。


 重くかさばるもの、使用済みのものなどは観測所跡に放置した。今夜一晩あの祠のそばで持ちこたえ、脱出できればいい。そのときはもう、私はそれだけを念頭に置いて行動していた。


 三回目に観測所跡へ向かうときに、私は砂利道から外れ、起伏の少ない地形をたどって観測所よりやや北へ向かった。大荷物を運んで疲れていたので、少しでも楽がしたかったのだ。

 岩山すれすれにその南側へ回り込むコースだ。結果、私はこれまでは気づかなかったすり鉢状のくぼ地に踏み込んでいた。くぼ地にはその円周の四分の一くらいに岩山の岸壁が食い込んでいて――その部分に、またしても鳥居が立っていた。


(ん? ここにも……) 


 鳥居に近寄ってみると、それは西側のものより幾分大きかった。腐朽が進んでいて、木材の表面に朱の色はほとんど残っていない。

 鳥居の北側にそびえる岩壁には大きな亀裂があったが、西の横穴と違って幅がひどく狭く、人が入れるようなものではなかった。その奥は懐中電灯で照らしてもまったく見通せない。


 心の中にもやもやと、奇妙な感じが膨れ上がってきた。はっきりと言葉にできるわけではなかったが、先ほどまであの祠に抱いていた印象がじわじわと別の何かにすり替わっていくようだ。かつてこの島で命を落とした僧侶のされこうべを集め、弔った跡――そう思った。だが、果たしてそれは正しいのだろうか?


 島の姿を脳裏に思い描く。南北にやや長い岩山。そこに立つ鳥居。西側に一つ、南側に一つ――もしや、東側にも、そして北にもあるのではないか? 疲れてはいたが、私はにわかにそれを確かめたい衝動にとらわれた。


 足元に咲いている花がふと目に入る。キキョウによく似た釣り鐘状の白く大きな花――立花をひどく惹きつけた、あのシマホタルブクロの変種だ。それはくぼ地の底に大きな群落をつくって密生していた。

 茶褐色をした虫がかさかさとその花の上で動くのが見えた。長く伸びた口吻とひょうたん型の体。サシガメだ。一瞬ぎょっとして後ずさったが、そいつはしごくのんびりと、体にびっしりと花粉をつけてホタルブクロの花に出入りしている。

 どうやら、これはあの執拗に立花を刺していたサシガメとは違う虫のようだ。大きさも半分ほどだ。それでも私は群落を避け、大きく迂回して歩いた。


 足を速めて草むらをかき分け、観測所跡ではなく岩山の東側へ向かう。だが出鼻をくじかれたことに、少し行ったところで岩山は大きく突きだしてそのまま断崖につながっており、これまでのようななだらかな地面を歩くことはできなくなっていた。東側へ回ろうとすれば、一度浜辺へ降りるしかなさそうなのだ。


 仕方なく、私は地形に従って浜へ向かった。ここは昨日最初に見たときあの影が動いていった、南端の崖に隠れた砂浜とつながっているはずだ。どうもあれの住みかに踏み込んだように思えて、落ち着かなかった。

 二百メートルほど進むと砂浜は途切れていた。岩山に再び近づくルートは見いだせない。落胆に襲われた私だったが、ふと目の前の海を見て意外なものを見いだした。

 私が立っている場所から五メートルほど先の水面に、半ば海中に没した岩が突き出ていた。明るい灰色をしたその岩は、水面から一メートルくらいの高さまでは死んだフジツボの殻のようなものにびっしりと覆われている。だが、半分よりやや上のあたりにはなにやら、おぼろげに幾何学的な模様が線刻されているのが分かった。明らかに人為的な加工だ。


 砂浜の幅いっぱいに回り込んで側面を伺うと、どうやら向こう側にもう一つ、崩れて原形をとどめてはいないが同様の形をしていたと推測される灰色の岩がある。それにもやはり、模様が刻まれているようだ。


(一対になっているのか。二本の……柱?)


 私は首を傾げた。これは「門」の形をしていたのではないだろうか。だとするとこれが東の鳥居に当たるのか。


 去年新聞記事で、そして昨夜夢で見た渡海船を思い浮かべた。船は前後左右に四つの鳥居を備えた形に作られていた。うろ覚えだが密教や修験道において、修行の四つの段階を示しそれぞれ東西南北にあてはめられた、「四門」を表したものだったはず――

 補陀落渡海に失敗した僧侶たちが流れ着いたであろうこの島に、鳥居が四方にあるとすれば――それはいわば島そのものを渡海船に見立てて建てられているのではないか。


 だが、何のために? その答えはおそらく、あの和歌にあるのだろう。


 永らえど ここには 在らず補陀落は 死出にも漕がん 船ぞ欲しけれ――


 繰り返される無謀な渡海によってこの島へ運ばれ、無念の死を遂げる僧侶たち、或いは偶然にたどり着く漂流者。

 彼らが死後に再び、そして今度こそ真に南海浄土補陀落山へたどり着けるようにと、いずれかの渡海上人が鳥居を建て、或いは岩に刻んだ。

 一人の仕事ではなく、何人かが入れ替わりながら手掛けたことかもしれない。何らかの方法で記録を残し、先人の遺志を伝え続けて――それだけの余裕がある漂着者は、長い年月の間にもさぞ少なかったことだろうが。


 つじつまの合いそうな説明を見出して、私は少し安心した。きびすを返して今歩いてきた砂浜を逆向きにたどり始める。浜辺へ降りてきた場所に差し掛かって、往路では気づかなかったものが目に入った。


 南西へ向かって回り込む砂浜の波打ち際に、何か黒いものが横たわっていた。何かひどく不気味なものを想像してぞっとする。近づくにつれてそれは全体に魚めいた形をした、大きな生き物の死骸であると分かった――イルカだ。

 東京の近郊でも、浜辺にイルカやクジラが迷い込んできて砂浜の上に取り残されることはよくある。これもどうやら、そうした不幸な末路をたどった海獣なのだろう。 まだ原形を保っていて真新しく見えるが、全体にうっ血したように赤黒く、どのような経緯で死んだものか見当がつかない。


 その時だった。不意にイルカの死体がわずかに揺れたように感じた。次の瞬間、死んだ海獣の体の下から、何かがざざっと大量に這い出した。 


「ひっ」


 私は息をのんだまま固まった。うごめく無数の黒い虫――立花を刺したあのサシガメだ。そいつらはこちらには見向きもせずに、山側に散乱する風化した溶岩の間へと這いこんでいってしまった。

 あとに残されたイルカが、その時打ち寄せてきた大波によってひっくり返された。


 死体の裏側には、何かが抜け出ていったような無数の穴がおぞましく密集して、ちょうどハチの巣のような塩梅になっている。小さなカニか何かがたかって死肉を貪ったものだろうか――だが、私の脳裏には、イルカの肉そのものが直接サシガメに変化して、元あった場所から離れて歩き出すという、奇怪なイメージが充満し始めた。


 ――待て。待て待て待て。おかしいぞ。おかしいじゃないか。体力と意志力に恵まれた高徳の坊さんが何人か流れ着いて、先人を供養し島を渡海船に見立てて往生を祈願したとしよう。それはいい。当然とはいいがたいがありうることだ。ありうることだが――


 恐ろしい疑念が頭の中でぐるぐると渦を巻き始める。そんな一大供養の結果としては、今この島で起きていることは――因縁話としてもつじつまが合わないのではないか?


 そうした違和感の基底にあるものに気がついて、私ははっと顔を上げた。後ろを振り返る。あの二本の柱、白い岩がそこに見えた。


「何で気づかなかったんだ!! このあたりの島の溶岩は玄武岩質なんだ。だけど、あの柱は……!!」


 砂浜を先ほどの波打ち際まで駆け戻る。周囲の玄武岩とは明らかに様子の違う灰色の岩がそびえていた。表面の様子からすると、石灰岩か大理石だ。


「こんな岩、どこからか運んでこなけりゃあるわけがない。それに……」


 もう一度線刻模様を凝視した。それは仏教由来の意匠というよりは、古墳の石室に刻まれた壁画にいくらか通じるように思われた。だとするとこれは、仏教伝来以前のものである可能性が高いのではないか。


「あの門の奥に、何かあるのか……?」


 確かめてみるには無理があった。私は疲れていたし、あたりの波はやや荒くうかつに遊泳を試みればどうなるかわからなかった。とにかく、この島には仏教的なもの以外にも何かあるのだ。 


 薄気味の悪い考えに取りつかれたままだったが、どうにか荷物の運搬を終え、私は心身ともにすっかり疲弊して祠の前へ戻ってきた。


 すでに午後四時を回っていた。辺りにはやや黄色味を帯びた陽光が差し込み、群生する野草の葉を透かして大気を独特の色に染めていた。

 不意に周囲でばたばたと慌ただしい羽音が起こった。カモメが一斉に飛び立ち、次いでアホウドリが一羽、また一羽と、斜面を駆け下りて、飛び立っていく。


「ああ――」


 言葉を失った。海鳥たちは夜の間この島を去るのだ――サシガメを、あるいはもっと悪いものを避けて。なのに、私たちはこの島で朝を待つしかない。眼下に広がる薄いジンジャーエールのような色の空と海が、ひどくよそよそしく残酷で敵意に満ちたものに見えた。

 吹き付ける風の中、鳥たちはその広大な空間の彼方へ消えていく。

 

 途方もない心細さに胸が締め付けられた。私は親友の看病に集中して朝まで何もかも忘れようと、一種の甘美な期待を抱いて祠の中に駆け込んだ。



 だが、そこに立花の姿はなかった。

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