赤い鳥居

 私たちは岩山の西側、断崖からやや離れた小道を歩いて行った。78年の調査時に作られたこの砂利道は十六年の間にすっかり草むらに侵食され、やっと見分けられる程度になっていた。昨日到着後に、観測所跡まで荷物を運びあげたのもこの道だ。


 船着き場に着くと、私たちは突堤の途中、海中へ降りるスロープのある部分にやってきた。立花はさっそく服を脱ぎ、滑り落ちないようにゆっくりとそのスロープを降りて行った。

 突堤の周囲は水深が深く、水は青黒く冷たそうに見えた。透明度はかなりのものだ。

 工事で崩されたサンゴ礁の残骸の上を、名前の分からない小魚が銀色の腹を光らせてついついと行きかうのが見える。


「沖の方向をよく見てろよ。サメとか来るかもしれん」


「脅かすなよ。もうたくさんだ」


 首を振りながら、立花は膝から下を海水につけた。


「ぐぅっ……こいつはひどい、えらく沁みる。だが冷たくてすっきりするな」


「そうか、よかった」


 ざぶ、と水音を立てて立花の頭が水中に沈む。彼が水中で頭髪をかきまぜるようにして頭を洗うのが見えた。


 彼が水浴している間、私は船着き場の周辺を見て回った。多分無意識にボートとか何かないものかと、探していたのだと思う。

 あの漁船の船長はいい年だったし、急病でも起こされては私たちを迎えに来ることができない。そんなことになったらこの島を出ることができなくなってしまう。


 だが、残念ながらそのあたりにめぼしいものは何も見つからなかった。最初に上陸したときに見た、銅板レリーフの地形図が黒みかげ石の台座の上にあり、朽ちかけた小屋の中に古いブイが転がっているのが見えたくらいだ。

 

 落胆しながらスロープまで戻ると、立花はちょうど水から上がったところだった。


「まだ痒いか?」

 

 私がそう訊くと、立花はかすかにうなずいた。


「痒い。けど、このくらいにしとかないとな。海水を洗い流すだけの真水はもうないだろう?」


「ああ、ない。明日朝まで持たせないと」


 午前10時を過ぎていた。太陽はすでに高く昇り、島中央部の岩山を越えて西側のこちらにまで光が届き始めている。私たちは潮風に吹かれながら、再び崖上の砂利道を戻っていった。


「あー……荷物全部持って船着き場に行くべきだったな。そうすれば戻らないで済んだ」


「そうだな」


 私の愚痴に、立花はおっくうそうにそれだけ答えた。だいぶ調子が悪いらしい。腫れは少し引いたように見えるが、顔が妙に紅潮して汗ばんでいた。


「おい……熱でもあるんじゃないか?」


「大丈夫だ……大丈夫」


 言葉と裏腹に彼の声音はもったりと溶け崩れたように不明瞭になってきていた。不安がこみあげてくる。

 まさか本当に、何か良くない感染症にかかってしまったのではあるまいか――

 立花の膝が力を失ってぐにゃりと崩れ、彼は砂利道の真ん中にくたくたと座り込んだ。私はとっさに彼の腕を引っ張って持ち上げようとした。


「おい、おい……しっかりしてくれ、こんな所――」


 言いかけて、掴んだ彼の腕がひどく熱いことに気づいた。やはり熱発している。これでは歩かせるのは無理だ。

 方針を変えよう。ここから二人で観測所まで戻って、それからまた朝になる前に荷物を持って船着き場に向かったのではどうにも埒が明かない。

 私の体力がいささか消耗することになるが、不要なものは捨てて荷物は最小限にすればよかろう。


「仕方ない……立花、お前はここで休んでろ。荷物は俺が持ってくるから」


「み、水……」


 うわごとのようにつぶやく立花に、スポーツドリンクの入った保冷ボトルを押し付けた。


「そら、これを飲め……だが、俺が帰るまで飲みつくすんじゃないぞ。何があるかわからないんだから」


 私は周囲を見回した。正午を回ればここには太陽が真っ向から照り付け、ひどい暑さになるだろう。直射日光を避け、立花を休ませられる場所がないものか?


 岩山の方を見上げて、私は奇妙なものがあるのに気が付いた。砂利道からは傾斜角20度ほどの斜面が島の中央部へ向かっていて、私たちの立っているところから百メートルほど先で、切り立った岩壁がそびえている。その岸壁の下、斜面との切り替わりのあたりに小さな赤い鳥居らしきものが見えたのだ。


「鳥居……こんなところに?」


 島に上陸したときには気づかなかっのは、大荷物を抱えて観測所跡へと向かったせいだろう。砂利道に沿って進行方向を見ているだけなら、あの鳥居はまず視界に入らない。

 双眼鏡ごしに覗くと、それは確かに鳥居だった。ずいぶん古いものらしく、木材の表面はひどく荒れて朽ちている。だがそれでも赤いとわかる程度には塗料が残っている。

 そこにはどうやら小さな祠でもあるらしく、岩を穿って作られた横穴が黒々と口を開けているようだった。あそこまで行けば、日中でも立花の安静を保てるだろう。


 そうとわかれば、ためらう理由はなかった。私は彼を何とか立たせて肩で支え、溶岩と砕屑物でできた丘を登った。足元の草は次第にまばらになり、足元は滑りやすく変わっていく。

 病人を連れてのハイキングは骨が折れる。私は何度か安全靴の足を滑らせ、危なく転びかけた。ようやく鳥居の前に着いたときは、もうへとへとだった。


「まいったな……俺も少し休んでいくか」


 鳥居の奥の横穴は、足元が細かな砕屑物で敷き詰められたようになっていた。水気がなく乾燥していて、ひんやりと居心地がいい。

 立花をそこに寝かせ、頭と首の下に持ってきたタオルを敷いて、肌の露出した箇所に虫よけスプレーを振りかけてやった。私もそのそばに腰を下ろし、汗が引くのを待つ。


 立花は相変わらず真っ赤な顔をしてうなっていたが、いくらか汗が引いて楽そうに見えた。

 問題は夜だ。ここにもあの大きなサシガメが押し寄せてくるかもしれない。やはり、テントを持ってきてここまで運びあげるしかなさそうだ。さもなくば、火でもたくか。


 ふと、横穴の外で砂利を踏み鳴らすような気配があり、私ははっとして顔を上げた。たしかに一瞬、丸い頭の影が見えたような気がする。心臓が締め上げられるような緊張感――


「何だ……おどかすなよ」


 変な笑いが漏れる。その影は間近へ降りて来た一羽のアホウドリだったのだ。そいつは低い声で一声鳴くと、よたよたと斜面を駆け下りていった。ばさ、と羽音がしたところを見ると無事に離陸できたのだろう。

 緊張は解けたが、その鳥との遭遇は奇妙に私の心をかき乱した。この横穴に抱いていた根拠のない安心感が、急速に薄れていく。横穴の奥はほぼ完全な闇で、そこに何があるか見えないのだ。

 その奥から、何者かの視線がこちらを窺っているような気がしてならなかった。浜辺を歩くあの不気味な人影と同様の何かがそこにいないと、なぜ言い切れるのか。


 鳥居の奥にあるものが安全でありがたいものだと、だれが決めた?


 私は誘惑に――あるいは強迫観念に負けた。ポケットから懐中電灯を取り出し、スイッチを押し込んで横穴の奥の闇に向ける。


 干からびたような茶色の、大きな物体が見えた。全体に、何となく人間の形を模したように見える粗削りな印象――大声をあげそうになったが、かろうじて押しとどめることができた。

 それは流木を刻んで作られた人型だった。頭部にはわずかに、重ねた鏡餅のようなくびれがあり、かろうじてそれとわかる腕の造形は、右手を下に向け左手を胸の前に挙げ、何かを持つ形をしている。


 ひどく稚拙な造形ではあるが、それは仏像だと思われた。おそらく観音菩薩ではないだろうか。この島にたどり着いた渡海上人の誰かが、残り少ない命を費やして刻んだものだとすればうなずける話だ。

 そしてその菩薩像の足元には、色あせて埃をかぶった人間の頭骨が三個、丁寧に並べられていた。してみるとその渡海上人は、先人の菩提を弔うためにここに骨を集め、観音像を刻んで安置したものだろうか。


 木像の足の部分には、何か文字のようなものが刻まれていた。刃物で彫り込んだというよりは尖ったもので引っ掻いたようなその文字は、ひどく読みづらかったが、どうやら変体仮名交じりのかな書きで記されているらしい。苦労して読み取れたのは、和歌と思われる一節だった


  ――なからえと ここにはあらす ふたらくは してにもこかむ ふねそほしけれ


 江戸期までのかな書き文には、濁点が表記されない。補うとすれば――こうだろうか?



 ながらえど ここにはあらず ふだらくは しでにもこがん ふねぞほしけれ


 つまり、こうだ。


 永らえど ここには 在らず補陀落は 死出にも漕がん 船ぞ欲しけれ


 洋上で死ぬこともなく命永らえてたどり着いたが、こんなところに補陀落山はありはしない。私はもうすぐ死んでしまうが、叶うことならば再びの死出の旅には、漕ぐことのできる船が欲しい。そうすれば、自力で補陀落まで漕いでいくことができるから――


 そういう文意なのだろう。


 この島で最期を迎えようとしつつも精神はなお南海浄土を求める、不屈の歌だ――そう思われた。

 私は荷物のところまで戻り、中から飴玉とチョコレートを少し取り分けると、それを持って再び祠に入った。観音像の前に置かれたされこうべ三つの前に菓子を供え、骨自体にも水を少しづつかけて濡らした。


「南無阿弥陀仏……」


 観音菩薩に念仏というのはいかにもちぐはぐで、ちゃんとした経など知らないのが悔やまれた。経だけではない。私が例えば仏教系の大学で学んでいるか、せめて民俗学、宗教学といった専攻であれば、この祠や鳥居の意味についてもっとよくわかったことだろうに。

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