朝の光の中で

 補陀落とはサンスクリット語のポータラカのことである。観世音菩薩が住まうという山で、おおまかにインド南方の海中にあるとされた。

 この観念に古来の常世信仰や浄土思想が混ざり合った結果、漠然とした南方に往生すべき仏国を求めて、数多くの仏僧たちが船出することになった――それが世にいう補陀落渡海だ。

 だがその実態は、三十日分ばかりの食料と水を小舟に積み込み、出入り口のない船室に封じ込められての潮まかせの航海である。捨身行といえば聞こえは良いが、要するに緩慢な自殺であった。


「そうか……じゃあ渡海上人たちはこの島に流れ着いた可能性が?」


「そうさ。それでもで着けばいい方だ。この島へ向かうコースを少し外れれば、島の南東を逆方向に流れる黒潮再循環流に乗って――くそっ、また痒くなってきた……ぐるぐると何周も海の上を漂うことになる。そうなったら三十日どころじゃない。確実に死ぬ」


「それは想像するだにひどいな」


 暗澹とした気持ちに襲われた。この島には調べた限り、恒常的に使える湧き水や川といった水源はない。

 時々降る雨は溶岩層の上にしがみついた灌木や雑草を潤すのが精いっぱい。おそらくはろくな装備も持たずに海に出た僧侶たちには、せっかくたどり着いたこの島でも生き延びることはほとんど絶望的だったはずなのだ。


 そのうえ、たどり着いた陸地の草の上に眠れば、サシガメに体中を吸血される――


「地獄だな。浄土どころか、ここは最悪の地獄だ」


 あの夢を見たのは、単に立花の悲鳴のせいだけではないのではないか――そんな不合理な考えが重苦しくのしかかり、私はなかなか寝付かれなかった。


 翌朝日が昇ると、私たちは早速携帯電話で大島の消防隊に連絡を取ろうとした。見晴らしのいい場所へ行って電話の電源を入れる。そこで、大変なことに気が付いた。


「しまった……ここは圏外になってるんだ。通じるわけがないじゃないか」


 まだ小型化されてまもない携帯電話の、小さなモノクロ液晶ディスプレイには、一本のアンテナも表示されていなかった。携帯電話が通話を行うには、端末側の弱い送信出力でも届く範囲に基地局がなければならない。そのことを、私たちは全く失念していた。


 日子島は伊豆大島からでも六十キロ離れている。つまり、私たちはどうあってももう一夜をこの島で過ごし、明日の朝にやってくるあの漁船を待つしかないのだ。


 呆然と黙り込んだ私の目の前を、日をさえぎって大きな物体がかすめた。バサバサと羽音をたてて着地したそれは、アホウドリだった。

 うなるような鳴き声と足元に落ちる灰色の影に顔を上げると、上空には視界を埋め尽くすばかりに、数知れぬアホウドリがその巨大な翼をいっぱいに広げて旋回していた。

 彼らは次々と島へ降りてくる。金色にまばゆい早朝の太陽が次第に光量を増して昇っていく中を、雲が滑り落ちて来たかのように、青みを帯びた灰色のシルエットがいくつも、いくつも虚空を横切っては周囲の草地に危なっかしい着陸を繰りひろげていた。

 それを見ていて気付いた。日中には島のあちこちで見かけた水鳥たちは、夕刻私たちがテントの用意をするころには、影も形もなくなっていたのではなかったか?


「こいつら……夜の間は他所の島に寝ていやがったのかな」


 鳥たちは、サシガメによる吸血を避けるため、夜が来る前にこの島を離れていたのかもしれない。


「鳥はいいよなあ……どこへでも好きなところへ飛んで行けるんだから」


 立花が恨めしそうにそういった。彼の顔は刺された直後よりさらにひどく腫れあがっていて、時折ひどいかゆみを覚えるようだった。私は懸命に「掻くな」と制止した。昨晩の洗浄はどう考えても十分ではなかったからだ。だが、もうペットボトルの水を使うわけにはいかなかった。明日の朝までこの島にいるとなると、少々心細い量になっていた。


「海辺へいこう。塩水で洗えば痒みもおさまるかもしれん。子供のころハゼの木に触ってかぶれたことがあるけど、海水浴をしたらずいぶん改善したよ」


「そ、そうか」


 立花がすがるようにこちらを見てうなずいた。よほどつらいのに違いない。


 私たちは荷物の中からすぐに食べられるものを探して朝食を済ませた。立花は唇が――おそらく、口の中も――腫れあがっていて普通の食事がとれそうになかった。発売されたばかりのチューブ入りゼリー食品があったので、彼にはそれを私の分も譲った。

 立ち上がって歩き出す。だが、浜辺が見えるあたりまで来ると立花がぎょっとしたように立ち止まった。


「どうしたんだ?」


「……いる」


「え?」


「ほら、あそこ」


 立花が浜辺の方を指さす。そちらへ目を凝らすと――昨日見たのと同様の人影が、浜辺から少し上がった草地の上をゆっくりと歩いているのが見えた。


「……また来た、ってことかな。こんな朝早くから。船があるんなら連れ帰ってもらえるかも」 


「うん。でも密漁者とかだったらちょっと怖いな。ヤクザとつながってるかもしれないし」


「この島より、ヤクザの方がよほどましだよ……おーい!!」


 私が制止する間もなく、立花は人影に向かって呼び掛けた。だが、腫れが声帯にまで及んでいるのか、彼の声はつぶれたようになって響きが悪く、人影のところまで届いたとも思えなかった。


 私はその時、昨日の失敗に鑑みて双眼鏡を首から下げていた。


 「立花、ちょっと待ってろよ」


 少しでも、相手の情報をつかみたい。そう思って双眼鏡を覗く。もちろん八倍程度ではこの距離で細かいところまで見分けられはしないのだが、私はなんとなく背筋にいやなものを覚えていて――それが私に接眼レンズを覗かせた。

 角度がずれたのか、最初に見えたものは照り返しでぎらぎらと光った朝の海だけだった。双眼鏡を持ったまま少しづつ体をねじると、ようやく浜辺と草地の境目を歩くその人影が視野に入った。


 丸い視野の中のそれは、ひどくおかしな印象を私に与えた。


 この時間の光の具合なら、体の東に面した部分が明るく照らされ、反対側にはそこそこ強い影ができるはずだが、それでも着衣などの固有の色が見えて然るべき――なのに、その人影は全体が不自然に黒く見えた。

 つまり、光の当たるはずの部分も暗く見えたのだ。どちらかと言えば赤黒く、妙な光沢を帯びているようでもあった。

 そして、何より私を戦慄させたことには。双眼鏡ごしでも表情など絶対分からないはずの距離で、その人影はこちらを向いてわらった――そう感じられた。

 その嗤いは影の頭部全体にべったりと貼りつき、およそ人間的な感情一切と程遠いところから、私たちに向かって放射されているようだった。


「た、立花――」


 我知らず声が震えていた。まずい。あれはまずいものだ。だが今身体的に弱っている立花に、私が観たものをそのまま伝えることははばかられた。


「近づかない方がいいと思う。八倍でもよく見えないけど、どうも潜水服みたいなものを着てるように見えるし」


 私はとっさに、思いつくままをでっち上げた。


「なんだか大きな刃物を携帯してるのも見えた。中国かロシアか、どこか外国の工作員とかかも」


「うぇ、冗談じゃないな……そういえば、昨日もこちらの呼びかけに応えなかった」


 立花は双眼鏡を自分でも覗きたがった、私はごまかして拒んだ――レンズの反射でこちらから見ていることを察知されるとまずい、とかなんとか。


「北側の船着き場にへいこう。水はあそこで浴びられるし、あそこと南の浜の間はずっと断崖だから、たぶんあいつの乗ってきた船は停まってないと思う」


 私たちは方向を変えて岩山に向かって歩き出した。現在の位置から船着き場へはそれが最短のルートで、ちょうどこの島に来た時の道順を逆にたどることになる――

 

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