昇る望月


 あたりはすっかり暗く、懐中電灯が照らし出すわずかな範囲以外は真の闇だった。

 立花を探し出し、荷物を回収して船を待つ――それが私の本来目指すべき最終的なゴールだったはずだ。だがそのためにできることが、現在の条件下ではほとんどない。

 この闇の中を歩き回るだけでも容易なことではない。どこかで人事不省となっている可能性が高い立花を探すのは、まず望みがあるとは思えない。

 そして、朝になれば漁船が迎えに来るといっても、そんなに長くは待っていてくれないだろう。もともと近隣の漁民さえ近寄りたがらない島なのだ。


 いっそこのまま私だけ身一つで船着き場へ向かい、朝を待つべきなのか?


「いや……だめだ。それをやっちまったら……それをやっちまったら俺はもう一生――」


 昨晩の夢で見たものが思い出された。島で飢えと渇きに堪えかね、新たな漂着者を襲って喰らう、半ば人ではなくなりかけた渡海上人たち。

 あれは多分、長い歴史の中で実際に起こったことの一つなのだろう。立花の悲鳴から逆算的に紐解かれた記憶と知識が作り出したというだけではなく、あるいは本当に、上人たちの無念が――たとえば日子神を通じて――私に見せたものかもしれない。

 もし立花を見捨ててしまったら、人食いに堕ちた上人たちと私の間に、いかほどの差もないということになるのではないか。

 その代わりにできることは、まだ一応ある。あるにはあるが、あまりにも常軌を逸している。つまり、僧侶慈海の遺志を汲んで鳥居を完成させ、火口へ赴いて観音経を奉ること――


「はは……」


 乾いた笑いが私の喉から吹き抜けた。目の端がじわっと湿ってくるのが感じられた。


――やってやろうじゃないか。


 半ばやけくそで私は立ち上がった。網代笠と錫杖を拾い上げ、慈海の遺体から墨染めの衣を引きはがして羽織った。上着のポケットには観音経をねじ込み、数珠を巻き付けた左手に懐中電灯を掴みなおす。

 数年前に社会現象にまでなった、家庭用ゲーム機のRPGロールプレイング・ゲームが思い出された。先代勇者の装備をすべてそろえて身に着け、いざラスボスの牙城へ、というところか。

 笠は半ば破れ、風が吹きつけるたびに頭の上でがさがさと音を立てる。江戸時代の人間は今よりも体が小さく、それに合わせて作られた衣は正直なところ、両腕を通す事すら難しい。左袖だけ通した片肌脱ぎの状態でさえ、ボロボロの布地はもういつ裂けてもおかしくなかった。


 それでも、身に着けていないよりはましなはずだ。何せ慈海は死後二百年を経てなお、その姿を生者の前に投影し、遺志を伝えたのだから。その遺徳は私の身も守ってくれるにちがいない――いやどうか守ってくれ。

 そんな観念にすがって歩き出す。まずは、北の鳥居のところまで出た。


 鳥居といっても人の背の高さほどだが、よく目を凝らしてみると、二本の柱はそれぞれ先端部分が四角く削られ、ほぞ穴に差し込むようになっているのが分かった。

 岩陰にあった笠木を慎重に持ち上げて運び、柱の上に載せてみる。何かあり合わせの刃物で削ったひどく荒っぽい細工だが、木材が風化していたのがかえって幸いし、どうにか二つのほぞ穴にそれぞれの先端を差し込むことができた。


 載せ終わったその時――


 きぃん、と頭の中に音が響いたように思われた。しいて言えば耳鳴りに似た――だがそれとはおよそ別のものだと確信できる振動、あるいは共鳴が。そしてそれを境に、島を包む空気が変わった。

 どう、とうまく説明できるものではない。だが確かに何かがそれまでと違っていた。しいて言えば――目の前の空が、自分を包む大気が、東京のそれとはつながっていないようなある種の遮断された感覚があった。

 もしかすると、鳥居を完成させたことでこの島はついに「渡海船」として存在を始めたのかも知れない。だがそれがこれからの事態をどう推移させるのかは予断を許さなかった。

 私はそれから、来た時の道順を逆にたどって、再び西の鳥居とその足元の祠へ向かった。もしかすると、立花が考え直して戻ってきていないとも限らない。   

 

 鳥居の周辺に動くものの気配はまるで感じられず、私は少し逡巡したあとで祠へ再び踏み込んだ。やはり、というべきか立花が帰った様子はない。何か少しでも役に立つものがないかと、私は祠に残してあった手荷物を引っ掻き回した。

 カセットコンロのガスボンベが残っていたのを思い出して手に取る。これに火をつけられれば、とひと思案したが、殺虫剤などとは違ってそのまま噴出させて火炎放射器の代わりにできるような、便利なノズルの類は付属していなかった。虫よけスプレーの缶は大分軽くなっていて、せいぜい三十秒かそこら噴射できればいい方だろうと思われた。


 持ち出していた食料を頬張り、ぬるい水で流し込む。結局ここからは運と体力が勝負だろう――そう考えた直後、私は、自分が本当に、しんから本当に、慈海の遺志に従って観音経を奉じるつもりであることに気が付いた。それが何か事態を好転させることになると信じかけていることに。


 何ということだ。私は科学者の端くれではあったはずだ。今の思考はそれにふさわしいものといえるのだろうか?

 懐中電灯の乾電池を新しいものに取り換えたあと、私は意を決して再び鳥居の外へ足を踏み出した。


 かつてあったという火口への参道は今では溶岩で埋まり、海岸へ続く岩山の一部になっている。本来のルートは使用できないわけだが、その限りで最も火口へ近づくとすれば、南の鳥居のあたりへ行くのが一番だろう。そこからなら、あるいは誦経の声も――日子神とやらに届くだろうか?


 砂利道の上は足を取られて滑りがちだったが、私はなるべく草地を避けて歩いた。草陰に隠れて忍び寄るサシガメが恐ろしかったのと、もう一つは誰かが近づいたときに足音ですぐそれと気づくためだ。

 懐中電灯が照らし出す円形の中に、ふと人影を見たような気がして、私は暗がりに目を凝らした。前方十メートルかそこらの距離に、確かに何か縦長いものが存在している。

 改めてそちらへ懐中電灯を向け直す。光の中に淡いベージュ色のチノパンらしきものを認めて、私はほとんど泣き出しそうになった。それは最後に見たときに立花が着ていたものだったからだ。

 立花はまだ動けるほど元気なのだ。いや、あるいは回復して元気になったのか?


「立花……! よかった……探したぞ。もう会えないかと思った。さあ、一緒に帰ろう」

 すると、立花はまだ少し喉の腫れが残ったような声で応えた。


「いや、だめだ……お前、まだこんなところをうろついているのか。どういうつもりだ? 書き置きは読んだはずだ。あれから何も変わっていない。なにもよくなってはいないんだ」

 何やら苦し気に私をなじる彼の声を聴くうちに、奇妙なことに気が付いた。立花はこの間ずっと顔をあらぬ方向へ背け、光が顔に当たらないように避けている様子なのだ。

 私は早口でまくし立てた。

「祠に戻って書き置きを見たあと、俺は島の北側に行ってたんだ。文政年間にここに来た坊さんの手記を見つけた――だがもうそんなことはどうでもいい! 一緒に帰ろう。シャ―ガス病がなんだ、きちんと治療すれば何とかなるさ」


 必死にかき口説く私に、立花はゆっくりと首を横に振った。


「違うんだ、橘川――これはそんな生易しいものじゃない。トリパノソーマ原虫とか、そんな可愛いものだったらどんなによかったかな。見ろ――」


 立花がぐっと体をひねり、私の方へ正対して一歩踏み出した。その顔が電球の黄色い光に照らされて明るみにさらされる――私はその瞬間、息をのんだ。


 もともとは端正な部類だった彼の顔は、いまや無残に変化していた。唇と言わず鼻と言わずゆがんだように膨れ上がり、その表面には縦横に走る、彼自身のものらしい爪痕が刻まれて、乾いた血がこびりついていたのだ。

 数か所、特にひどい部位では皮膚の下の真皮層まで露出しているようだった。


「なんてこった、そんなにかきむしって……痛くないのか」


「痒い。時間を追うごとにひどくなる。おまけに――」

 

 立花はふいに、何かの発作のように身を震わせて、わきの下、あばら骨のあたりを激しくかきむしった。服が破れ、そこから何かが地面に落ちたようだった。


 落ちたものはかさかさとうごめき、光に照らされた地面の上を、私に近づいてきた。サシガメだ。私は声にならない悲鳴を上げた。


「見たよな? かきむしって落ちた肉は、こうやってサシガメに変わるんだ。で、こいつらは次の犠牲者を見つけると、寄ってたかって刺す――」


 立花は素早く足を出して、つま先でその黒い虫を踏みつぶした。


「で、刺されたやつは俺みたいになるわけなんだろうな。何でこんなことになるのか、到底科学的な説明なんかつかん。多分……この島は呪われてるんだ。渡海上人たちがサシガメに刺されて、病気に苦しんだ挙句に死んで。その恨みが何代も何代も、何百年も積もっていったとしたら――それに、死にたくないという強烈な願いも。そうしたら――」


 立花はもちろん、慈海の手記の内容を知らない。島の四方に建てられた鳥居のことも知らない。だが、彼は熱に浮かされながら自力で、慈海とほぼ同じ結論に達していたらしかった。


「俺はもう、帰れない。たぶん、浜辺にうろついてたのも俺と同じような目に遭った奴らだろう。呪いのサシガメの苗床ってわけだ――」


 立花の言葉がふっと途切れ、彼はぶるぶると震えてこちらに手を伸ばしかけ、必死でそれを抑えてうずくまった。

「からだ……体が自分の思うように動かなくなってきた……もう一度言う、お前だけでも帰れ……!!」


 最後にそう叫ぶと、彼は破裂したような勢いで立ち上がり、奇妙に体を捻じれさせながら闇の向こうへ駆けだした。私は彼を追いかけようとして砂利に足を取られ、膝をついた。

「待て、立花!! まだだ、まだ望みはあるかもしれないんだ!! 神に……日子神に経を奉れば……観音経の功徳を現してもらえば。救ってもらえるかも……」


 言い募るうちに自分の言葉の説得力がしぼみ萎えていく。私はそのままへたり込み、ただ暗闇を透かし見ながら親友の名を必死に呼んだ。


「立花あぁ!!」


 た ち ば な ぁ……


 闇の中から帰ってくるのは木魂だけ――いや、待て。岩山への距離から考えると、いささか木魂の返りが遅くはないか?



 た ち ば な ぁ……


 

   た ち ば な ぁ……



     た ち ば な ぁ……



 その声が山の方角からだけでなく、複数の方位からバラバラのタイミングで聞こえてくるのだと解った瞬間、私の血は凍りついた。

 木魂ではない。これはあの影たちだ。私をさらにぞっとさせたことに、その声のいくつかはさほど離れていないように感じられた。砂利道を進んでいたにも関わらず、私の周囲にはいつの間にか影のいくつかがひっそりと付きまとっていたらしいのだ。

 彼らは口々に何ごとかをぼそぼそと繰り返し呟いている。風の具合で、その言葉の一部が私の耳に届いた。聞いた耳を引きちぎって捨てたくなるような、おぞましい声。それが口々に私に強請していた。


 ――なっちまえ。


 ――なっちまえや。


 ――おまえも、なっちまえや。


 夢の中で聞いたのと同じ台詞だ。新参の渡海上人わたしの頭上に櫂を振り下ろしながら、先着の上人わたしが叫んだあの言葉。


(何に『なれ』っていうんだ?)


 私は心の中で問いを発した。むろん、答えならわかっていた。   


 漂流して流れ着いた渡海上人たちの仲間に。この島の住人に。住人の食料に。 

 水も食物もなく生き続ける何者かに。彼らは私に、同じものになれと言っているのだ。


 幸いにも、彼らは今のところそれ以上に何かをしてくるわけではなかった。何か差しさわりがあるものか、彼らは私から一定の距離を保っていて、それ以上は近づいてこない。

 恐怖と不快に苛まれながら私は無言で周囲の闇を睨みまわし続けた。そうするうちに、やがて憤怒がこみあげてきた。

 

 闇の向こうへ問いかける。その言葉は気づけばはっきりと声になっていた。


「あんたら……あんたら渡海上人は、一部に例外はあったろうにしても、そもそもの大元は衆生のために発心して、捨身行である補陀落渡海を行ったのじゃないか。日子神とやらの影響があったとしても、どうして――そしてよくも――そんなにあっさりと人の心を捨てて怪物に成り果てた……?」


 立花は、それでもまだ頑張っているのに―― 


 応えはない。ただ、影たちが一瞬身じろぎをして、わずかに一歩かそこら、私に向かって距離を詰めたのが分かった。その時だった。


 あたりの風景が急に明るくなり、足元の砂利に私の影が黒々と浮かび上がった。海水温との兼ね合いで風向きが変わったものか、耳元で空気がどっとうなりを上げ、周囲の草地から枯草の切れ端が宙に舞い上がる――その一片が鈍くきらめいた。


 そうだ。月が出ていた。岩山の稜線から顔を出した満月は、対比物のせいかやけに大きく見える。冷たい銀色の光に照らされて、私のいる斜面はどこか他所の星の上にあるように現実離れして見えた。

 だが、その美しさに私が心を奪われ凍り付いたのはほんの一瞬。腕時計に視線を落とすと、文字盤の針は午後十時の位置にあった――ばかな。あり得ない。


 今夜の月齢は二十五日。満月ではなく、か細い下弦の月のはずだ。そしてそれが顔を出すには、ほんとうなら午前一時ころまで待たねばならない。ではあの月はなんだ。


「まさか……」


 時間と空間に何か異常があるのではないか、と直感した。時間がずれて、過去か未来かいずれかの満月を見ているのではないか、と。だが時間がずれているとして、あれはいったいいつの満月なのか?


 ふと恐ろしい考えが頭に浮かんだ。あの大きな月は、周囲に山の稜線が対比物としてあるから、というだけなのか? あまりにも大きすぎはしないか。 

 月は、誕生したときは今よりも地球に近い軌道を回っていて。当初は今の十数倍の視直径があった、と何かで読んだことを思い出した。年々その軌道は地球から遠ざかっていく。


 推論と直感が正しいとすれば、明日の朝――いや、いつなのか定かでない次の夜明けの後、というべきだが――迎えなど来ない。


 迎えに来るものなど、いないのだ。

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