東京 2014年6月

「橘川准教授せんせいがフィールドワークの時にいつも持ってる錫杖あれ――そんな由来があったんですね」 


 そう尋ねながら、新任の若い助教は冷えた麦茶のグラスを橘川の机に置いた。


「うん――あれだけは月がもとに戻った後も、なぜか古びずにそのままでね」


 幾つになっても武具や刃物の類に心惹かれてしまうというのは、どうにも子供っぽくて照れ臭い――橘川ははにかみながらそう答えると、グラスを手に取り、半ば眼を閉じて麦茶を一口あおった。

 

 二〇一四年、六月二十日。朝からの曇天は午後遅くから快晴に変わっている。


 である橘川の研究室では、二日前にエアコンが故障して修理業者を手配中だ。

 だがこの日に限っては日照時間が短かったことと、窓の外にそびえるクスノキの老木が日陰をつくるせいで、麦茶が美味いと感じられる程度の過ごしやすい暑さにとどまっていた。


「それで……どうなったんですか、その後は」


「その後はまあご覧の通りですよ、樋口君。私は地質学を放り出して大学を移り、一般学生からやり直して民俗学の道に入ったわけです」


「ああ。それで准教授せんせいの研究テーマは今も、江戸末期の遊行僧についてのものなんですね」


 樋口と呼ばれた若い女性の助教は、得心したようにうなずいて、そのあと片眉を持ち上げた奇妙な笑みを浮かべた。


「正直なところ、今のお話はよくでき過ぎてて、どこまで信じていいのかちょっと困りますけど」


「ああ。まあ話半分で聞いておいてください」


 もう二十年になるんだなあ、とつぶやくと、橘川はまた目の前のノートPCに向き直った。



 彼の胸中には、年月が過ぎても癒せない悔恨があった。立花は、あの影の一つに変わり果てることは確かに免れた。だが、彼が大量のサシガメに刺された事実は変わらなかった。

 島から戻って数か月後。立花はこれまでに知られていなかったシャ―ガス病類似の原虫症で倒れたのだ。収容された大学病院で数年にわたる長い闘病生活を送った後、彼はついに帰らぬ人となった。

 その間ずっと、病床の傍らには一人の若い女性の姿があった。おそらくはあのシステム手帳の紙片に名前があった、逢瀬の約束を交わした相手だったのだろう。そのためかどうか、とにかく立花の死に顔は不思議に安らかだった。


 彼が持ち帰ったシマホタルブクロの標本は、その後の調査によって新種と認められた。日子島にはわずかながら溶岩の被害を免れた一帯があり、くだんの変異株はそこにも生息していたのだ。

 やがて定められた学名の末尾には、立花の名がラテン語表記で記された。けだし、夭逝した学者としてはもって瞑すべきところであったろう。


 橘川自身は特に何ごともなく今日まで健康体を保っていた。それがまた何とも、亡き友に申し訳なく思われるのだ。



 窓の外では西日がその色をやや濃く変えつつあった。橘川はキーボードの音だけが響く研究室の静寂を破り、樋口に声をかけた。


「……樋口君も助教に昇格したんですし、いつまでもここに入り浸ってないで自分の研究室に戻った方が良くはないですか」


「そうですねえ。まあ面白いお話が聞けましたし、この辺で――ただ、ですね准教授せんせい


 樋口は立ち上がった姿勢のまま、かくんと首を横に傾げた。


「どうもわからないことが、二つあるんですよ。それについてだけ、准教授のお考えをうかがってからでよろしいですか?」


「ん……まあ、いいでしょう。言ってごらんなさい」


 樋口は首をすくめるのによく似た動作でこくりと一礼した。


「それじゃあ、まず……その、島にいた渡海上人たちは、本当に補陀落へ行けたと思いますか?」


 橘川は一瞬、ぴくりと体をこわばらせた。そして深々とため息をついた後、ゆっくりと首を振った。


「厳密な意味では、だめでしょうね。そもそも補陀落は想像上の『浄土』です。日子神が彼らをどこへ導いたにせよ、そこはあの存在が上人たちの心の中からくみ上げたイメージ、その中の『補陀落』でしかないわけですから。それは結局人間に想像できることの限界の中にあります。そこに本当に救いがあったかどうかはわからない」


「そうか……上人たちの――怨念に染まった――心象にも引っ張られてるわけでしょうしね」


「その通りです。いったいに、神仏のありよう、存在というものは長い歴史の中で見れば、常に変化してきました。そもそも観音菩薩にしてからが、インドでその信仰が萌芽した段階では明らかに男性的な存在だったんです。それが今ではどちらかといえば女性としてのイメージの方が強くなっています。慈母観音がそうであるようにね。ましてや――」


 橘川は遠い日の光景を反芻するようにいっとき目を閉じ、ほんの一瞬、何かひどくおぞましいものに触れたようにぶるりと身を震わせた。


「上人たちを連れて行ったのは、本来仏教と何の関係もなかった古代の、何ものが信仰したのか、そも信仰されていたのかどうかすらわからない神が姿を変えた『菩薩』ですからね。もしかするとそこもまた別種の地獄、悪趣だったかもしれません」


 それでも、あの島で彷徨っているよりはよかったのだと、橘川は信じたかった。そうでなくては、慈海が二百年を待ちわびて自分に託した願いが、あまりにも報われぬものになるではないか――


 橘川はその思いをためらいがちに、ぼそぼそと言葉にした。


 樋口は何やら、それこそ慈母のような微笑を浮かべた。


「らしくないですね。いつも私に、『研究者というものは資料と事実に対して、という思いを先にして臨んではいけない』って仰ってるのに」


 そして、しばし眉をしかめて首をかしげたあと、こう切り出した。


「ええ、補陀落については納得しました。それでもうひとつはですね……僧侶慈海は……慈海本人は日子神に何か願わなかったんでしょうか。あるいは何を願ったんでしょうか、というか――」


「それは……本当に難しい質問だな」


 橘川は急に居住まいを正し、口調から普段の柔らかさを消し去った。


「准教授のお話を聞く限りでは、彼はサシガメに刺されたけれど、赤い影にはならなかった――たぶんその前に死んだのかもしれませんけど。でも日子神の観音菩薩につきしたがって補陀落に向かったわけでもない。そうですよね?」


「そうだ……彼は、日子神が人間の思念に呼応して様々な姿を取り、現象を起こすことを知っていた――そのはずだ。だからこそ、あの紙片にメッセージを残して後世に託すことができたんだ。であるからには……なにかを願ったはずだ。なにかを」


 しかしね、と橘川は付け加えた。その口調には再び、普段の綿をかぶせたような柔らかさが戻ってきていた。


「それをおいそれと容易く解き明かせるようなら、私はとっくに研究をやめて仏門に入っているでしょうね。彼が何を願うような人間だったか。どういう類の人間で、何を考えて生きていたか。そういうことが知りたくて、私はこの民俗学みちに踏み込んだような気がしますよ」



 樋口助教が研究室を辞した後、橘川は部屋の隅に置かれたロッカーの前に立った。その中には、例の錫杖が入っている。


「くそ……」


 固めた拳の小指側、「鉄槌」と呼ばれる部位で彼は手近な壁を叩いて歯ぎしりをした。


(あの時、俺は確かに、読み方を習ったこともないはずの観音経をすらすらと誦み下していた。なぜそんなことが可能だった?)

(島での経験は確かに衝撃的なものだったが、それでも、なにも地質学で手を付けかけていた修士論文を放り出してまで、こっちに鞍替えするほどのものだっただろうか?)


 考えれば考えるほど、不安になる。何かに操られているようで薄気味が悪く、ついには自分が誰なのかさえ、おぼつかなくなる。


 もしかして、自分は日子神をダシにした壮大な目くらましの中で、慈海に捕らえられてしまったのではあるまいか? 

 本土に残るわずかな記録を調べて判る限りでは、僧侶慈海は自ら好んで妖怪や幽霊、土地神といったものと、それが起こす怪異を求めて旅をしていた節さえあった。俗な言い方をすれば、所謂『ゴーストハンター』の類に近い。


 自分は、巧妙にその衣鉢を継がされてしまったのかもしれない――そんな不穏な考えが頭をかすめるのももう何度目になるかわからなかった。



 あれから二十年か、と橘川はもう一度呟いた。


(体が衰える前に一度あの島を再訪してみるのも、いいかもしれないな……)


 あと四年たてば、ちょうど立花の二十五回忌を迎えることになる。溶岩に覆われた日子島も、そのころには今よりさらにもう少し、緑を取り戻しているだろう。


 そして、初夏にはまた、あの巨大なシマホタルブクロが咲きほこるにちがいない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

孤島の影(改訂完全版) 冴吹稔 @seabuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ