後編(完)


 昼間とは打って変わり、ジェフは慎重な運転でアルバニー・ロードを西に向けて走っていた。ハリーは助手席の窓からバージェス・パークの木立を窺っている。

 ゆっくりとアクセルを踏み込む度、窮屈そうな唸りを上げるエンジン音は「もっと飛ばせ」と催促しているようにも聞こえる。

 目を落とすと、腕時計ポール・スミスの針は縦一文字を切っていた。グローブボックスの中身が気に掛かる。

 イズリントン。エミレーツ・スタジアム午後八時キックオフ。アーセナル対チェルシーのロンドン・ダービーのチケットは、あと二時間もすればただの紙屑だ。


「いつも通り、やるだけさ」

 ブレンダンはそう言ったが、彼自身、自分で言ったその言葉に納得してはいないようだった。ジェフも「そうだな」と言って軽く頷くより他に、上手い返し方が見付からなかった。

 ブレンダンと別れてからはハリーの拳銃を取りに一度署へ帰り、そこで容疑者の身形みなりと特徴、複数の目撃証言などについて一通り確認した後、すぐに捜査へ乗り出した。

 しかし、署ではランディの事を「容疑者の少年」と呼ぶばかりで、誰の口からも「ランディ・ゴールディン」という言葉は聞かれず、ましてやその父親の名前が挙がろうなどという事はまったくもって皆無だった。凶器の銃にしても単に「拳銃」としか説明はなく、それがまたジェフの穏やかならぬ心中に拍車を掛けていた。

 捜査は所轄サザークの刑事総出で行われる事となり、隣接するシティ、ランベス、ルイシャム、タワーハムレッツにまで非常線が張られ、周辺区にも応援要請が出されたと聞くが、「個」として動くジェフとハリーのやる事と言えば、警備巡回を兼ねた地道な聞き込みくらいであり、今も一人助手席を離れたくだんの部下が、道を歩く中年夫婦の元へ行って素人役者丸出しのクサい芝居を打っている所だ。

「すいません、ちょっと人を探してるんスけど。こんな奴、見ませんでした(スマートフォンに入ったランディの画像を見せるハリー)? いやね、友達ダチの弟が家出しちゃったみたいで、ここ二、三日帰って来てないんスよ。警察に捜索願も出してるんで、もしこの辺で見掛けたら、連絡してやって下さい。あ、でも見掛けても声掛けないでもらえます? 普段はイイ奴なんスけど、キレるとヤバくって……ええ、リー・ボウヤーみたいな奴で。今、ナイーヴになってると思うし……」

 戻って来たハリーにジェフは言った。

「ボウヤーは言い過ぎだろ」

「いや、でも分かり易いと思ったんで」

「そいつが、ボウヤーってツラか?」

 小さな画面に映るランディは、大人しそうな、どこにでもいる普通の青年に見えた。

「まあ、どっちかって言うとルーニー寄りッスかね」

 その後も聞き込みを続けたが、これといって有力な情報は得られなかった。


◆     ◆     ◆


 星も見えぬ夜空は街の灯りを映し、張り出した雲の歪な凹凸を鈍く浮かび上がらせている。

 車内の二人は黙して語らず。それはいつもの事だが、今日は少し趣が違う。隣に座るハリーが何時いつになくそわそわとしている気がするが、原因は恐らく彼自身ではなく自分にこそあるのだろうとジェフは察していた。

「腹、減らないか?」信号待ちでジェフが唐突に切り出した。

 この、どうにもはっきりしない心地悪さの一端は、食いっぱぐれた昼飯メシのせいにあると勝手に決め付け、まずはこのきっ腹に何かブチ込まん事には気分が落ち着かん、と束の間休息する事にハリーの同意も取り付けた。

 コスタとサブウェイで悩むハリーにジェフは一も二も無く「コスタ」と応え、いつものように金を握らせて走らせる。

 何時間かぶりに一人になったジェフは、これからどうなるのだろうと思案に耽った。

 ランディを捕まえてその後どうする? 市警シティは事件をどう公表するつもりだ? いや、しないのか? だとしてもメディアへの情報流出は止められんだろう。トーマス・ゴールディンの処分は? 事が公になれば、警察の武装緩和に対する世論の反発も考えられる。上の対応次第では批判の矛先が自分達にも向けられる可能性だってあるだろう。そうなれば一層仕事がやり辛くなる。上の顔色を窺いながら世間様にも配慮するなんてのは、警官になった時から呼吸法として身に染み付いている事だが、どちらからもこれ以上圧を高められては息苦しくて仕方が無い……と、結局行き着く先は自分の身の心配だった。

 これじゃ一体何の為に刑事になったんだ……警官になった当時の無駄に熱い正義感も今は無く、自分は差し詰めシケモク同然の消え掛かった残り火で、持て余すほども無い僅かな熱を抱え込んでいたずらに感傷をこじらせている。刑事としては随分とタチの悪い部類に入ったものだ。

 今さら出世なんぞに興味は無いが、かといって投げやりになるほどプライドを捨ててもいない。中途半端な覚悟で臨むくらいなら潔く辞めた方が誰の為にもなる、とはこの仕事に携わる者皆が理解している事だ。それに、自分には誇りや矜持をかなぐり捨ててまで職にしがみ付かなきゃならないような、野暮な責任や義務感は無い。

 一度は契りを交わした相手も、二年と経たずにセキ・・を離れた。余計なものを背負わずに済むだけ足も軽くなるというものだ。

 思いも寄らず過去の記憶に触れ、ふと脳裏をぎる――ランディ・ゴールディン十九歳。

 自分にもし息子がいたら、それくらいの年になっていたのだろうか……。

「買って来ましたよ」

「おう」

 ハリーに買いに行かせたコスタのチキンサンドを頬張り、ラテで流し込む。その隣でローストビーフサンドをもぐもぐやってるハリーを見ながら、「こいつも息子みたいなもんか」と思ったが、ローストビーフサンドを包むサブウェイの包み紙を見て「違うな」と考えを改めた。


     ◆     ◆     ◆


 区の外れ、ブレンチリー・ガーデンズを走っていると、キャンバーウェル新墓地の前に一台のパトカーと数人の人集りが出来ているのが見えた。

 路肩に車を停め、ジェフは警官の一人に「何かあったのか?」と窓越しにバッジを見せて問う。

「柵を乗り越えて園内に人が入り込んだと、付近の住民から通報があって来てみたんですが、どうしたものかと思いまして」警官はやや困惑気味に言った。

「ここにも警備員ぐらいいるだろ。何の問題がある?」

「ええ、そうなんですけど。何せ広い墓地ですし……それに、殺人犯が逃亡中との情報も入っていますので、ここは慎重に行くべきではないか、と管理者の方々と話をしていた所なんです」

 そこまで聞いて、ジェフはエンジンを切った。

 ハリーが驚いたようにジェフを見る。

「え、まさか手伝うとかって言うんじゃ」

 ハリーの方には目もくれず、ジェフは一人で車を降りた。

「そういう事なら、俺達も手を貸そう」

 ジェフの言葉に警官は顔を綻ばせ、「ありがとうございます。助かります」と言った。

「俺達が追ってる奴なんスかねぇ?」

 渋々、といった表情かおで車から降りたハリーが怪訝そうに言う。

「分からん。そうかも知れんし、違うかも知れん」

「刑事の勘とか、そういうのじゃないんスか?」

「そんなんじゃねえ。ただ闇雲に探し回るよりも、可能性の芽を摘んでいった方がより確実、かつ効率的ってだけだ」

「なるほど、そういうもんスか」

 実際、ジェフにはこれといって何か深い考えがあるわけではなかった。ハリーに言った事はそのまま全部、今自分が抱いている感情から素直に出たものだった。


「……全部で六人、か」

 ジェフとハリー、それに警官二人と警備員二人。

ジェフは集まった六人を二人一組の三班に分けた。すなわち、ジェフと警備員、ハリーと警官、警官と警備員というように。

「俺達はこれから分かれて捜索するが、不審者を見付けてもすぐには接触するな。見付けたらまずは刑事同士、警官同士、警備員同士、互いの無線で残りの二班を呼べ。その後で――俺が接触を試みる」

 かくして、不審者捜索の為に三班は散開した。

 周囲をぐるりと木立に囲まれた墓地は、一見して暗闇と静寂に包まれている。警備員の男と行動を共にするジェフは、左手に持った懐中電灯を低く構え、そろそろと歩を進めて行く。呼吸は、深く、長く――。暗がりに目が慣れてくると、少しは遠くまで見渡せるものの、墓石が立ち並ぶだけの同じような光景がどこまでも続くばかりで、次第に遠近感と方向感覚が失われていく。耳に微かに聞こえるのは、自分達の靴音と木立のざわめき、時折強く吹く風のと翻る外套のはためきくらいだ。

 墓地という場所柄、少しくらい恐怖心を抱いても良さそうなものを、ジェフにはそんな気一切起こらなかった。ジェフにとっては場の雰囲気による恐怖よりも、存在するであろう得体の知れない不審者の方がより恐怖として実感するには容易たやすく、それより何より、この恐怖を払拭ふっしょくする為にも、早く不審者そいつの正体を暴いてやりたいという、好奇心めいた高揚感が前面に立っていた。

「警部、ちょっと」

 少し離れて隣を歩く警備員の男が、小声で話し掛けてくる。

「どうした?」ジェフは歩みを止めた。

「何か、聞こえませんか?」

 言われて耳をそばだてると、風の音に混じってガリ、ガリ、と何か硬い物を削るような擦過音が聞こえる。

 音のする方を探り、じっと目を凝らしてみると、周囲の墓石の群れに紛れて、それらとは異なる動く影が見えた。

 はっ、と息を呑むジェフだったが、冷静に影を視界に捉えたまま数歩後ずさり、警備員の男に無線で応援を呼ぶようジェスチャーで指示する。

「ハリー、対象を発見した。すぐに来てくれ」

「了解ッス」

 埋葬者ホトケには悪いと思いながら、ジェフは大き目な墓石の陰に身を潜めた。警備員の男は別の墓石に隠れ、他の二班に位置を告げる為に懐中電灯を回している。

 改めて様子を窺ってみると、人影はうずくまっている人間のもののようだった。一つの墓の前でこちらに背を向けながら何かしているようで、妙な音はその者の足元から聞こえるのだが、それが何か、はっきりとは分からない。

 そろそろ来る頃か――振り返ってみると、暗闇の向こうから四人がほぼ同時に小走りで駆けて来るのが見えた。

 ジェフは無言のまま、全員に不審者それを遠巻きに囲むよう指示を出す。全員が配置に付くと、ジェフはこれから自分が接触を図る旨を首の動きで示した。

 ――さあ、お前は一体何者だ。

 鼓動が高まるのを感じるが、それを押さえ付けるようにして、一歩踏み出すと言った。

「おいお前、そこで何をしている」

 声は、暗闇の中で低くよく澄んで響いた。次いで、六人の持つ懐中電灯が一斉に声を掛けられた者に向けられる。

 不審者そいつは一瞬肩をびくつかせ、動きを止めた。ジェフが畳み掛ける。

「ロンドン警視庁だ。両手を上げ、ゆっくりと立ってこっちを向け」

 不審者はこうべを垂れたまま少し辺りを窺うような素振りを見せた後、ダルそうに両手を頭の高さまで上げ、おぼつかない足取りで立ち上がり、振り返ってこちらを見た。

「お前は……」

 探している顔だった。

 なぜだか緊張が解け、力が抜けて行くような感覚に陥る。

「ランディ、ゴールディンだな」

 男は口元に薄らと笑みを浮かべ、まぶたを落とすと肩で笑って見せた。


 遠くの空で白い光の筋が走る。

 少し遅れて頭上を通る空の咆哮は、神の怒りとも、悪魔の嘲笑とも思え、人間同士の罪過の呵責かしゃくを「愚か」と蔑むかのようであった。


     ◆     ◆     ◆


 身柄を確保されたランディ・ゴールディンは、手錠を掛けられ、ジェフと共に愛車の後部座席に座っていた。外ではハリーが署に連絡を取っている。ランディを市警シティとサザーク署、どちらに移送するかの判断を仰いでいる所だ。

「あんな所で、何をしていた?」

 狭い車内で互いに黙ったままというのも気まずいと、ジェフがぼそっと呟いた。

「何で殺した、じゃないんですね」

 ランディの声は、思いの外落ち着いていた。

「いや、まあその辺の事は」と言って、ジェフは少し言い淀んだ。

「何だ、知ってるんだ」

 軽く笑って、ランディは続けた。

「墓参りですよ、母の」

「墓参り?」

「ええ。報告も兼ねて、お別れに」

「そう、なのか」

 引っ掛かる言い方だな、と思ったが、深くは追及しなかった。

「もう八年も来てなかったから、酷く荒れちゃってて」

 墓参りに来たと言うランディは、亡き母の墓石を掃除しようと、こびり付いた土や草を拳銃のグリップでこそいでいたらしく、ジェフが聞いた奇妙な音の正体はまさしくこれであった。

 拳銃はその場で回収され、居合わせた警官達によって、今も現場保存の措置が取られている。

「とりあえず、署の方で一時預かりってことみたいッスよ」

「そうか、分かった」

 戻って来たハリーと交代し、運転席に座ると、先程まで協力してくれていた警官と警備員達に礼を言い、墓地を後にした。


     ◆     ◆     ◆


 ランディの逮捕から二日。今日も相変わらずの曇り空で、朝から寒風が吹き荒んでいた。

 テムズ川沿いのチェンバーズ・ストリートに車を停め、ジェフとハリーが中で一服していると、近付いて運転席のウインドウを叩く者があった。

「よお、ブレンダン。抜き打ちのサボりチェックでもしに来たか?」

 ウインドウを下げて言うジェフに、ブレンダンはニッと笑う。

「そんなことしてたら、俺は月一でお前を現行犯逮捕しなきゃならん。あまり俺の仕事を増やしてくれるな」

 車にハリーを置き去りにし、ジェフとブレンダンは歩きながら話す。

「まず、この間は御苦労だったな、ジェフ」

「いや、あれはたまたまだ。運が良かった」

 外套トレンチのポケットをまさぐり、煙草を取り出す。

「捜査の進展はどうなんだ?」ジェフが訊く。

「まずまず、ってとこだな。まだ問題は色々と残っちゃいるが」

 ブレンダンの言わんとしている所はジェフにも察しが付いたが、そこは敢えて触れまいと思い、煙草に火を点けながら会話のターンを自らパスした。

「とりあえず、最悪の事態だけでも避けられて良かった」

「最悪の事態?」ジェフがブレンダンに訊き返す。

「ああ。ランディな、あいつ、死ぬつもりだったらしい」

「……そっか」

 何となく、そんな気はしていた。ランディが車中で言った「お別れに」という部分が、ずっと気になっていたからだ。

「ほんと、よくやってくれたよ、お前は」

 軽く肩を叩いてくるブレンダンに気恥ずかしい思いもしたが、ジェフの口からはそんな思いとは全く別の言葉が衝いて出ていた。

「けど、これで良かったのか?」

「それは……」と一瞬口籠るブレンダンだったが、すぐに続けて言った。

「誰にも決められない」

 ジェフは応えず、灰を落として煙草を咥え直す。

「そりゃ、一番は何も起きない事だ。けど、どんだけ頑張ったってどうにも出来ない事はある。全ての出来事は、皆がその時精一杯やった事の結果なんだ。誰にも、どうも言えやしない」

「そういう事なんだな、結局は」

 ガキみたいにツマらん事を言ってしまった、とジェフは内心恥じた。こんなセンチメンタルは、自分がハリーぐらいの年頃にイヤというほど感じてきた事だ。

「少なくともお前は、失われたかも知れない命を一つ救ったんだ。もっと自分を誇りに思っていい」

「……済まねえな、ブレンダン」

 ジェフが言い終わらぬ内に、一陣の風が舞い、二人は揃って首をすぼめた。

「今日はまた、一段と風が強いな」


 ジェフが車に戻ると、助手席でスマートフォンをいじっていたハリーが慌ててそれをポケットに仕舞った。大方、いつものようにゲームでもやっていたのだろう。

「話、何だったんスか?」

 取り繕うように、ハリーが早口に言う。

「別に、大した事じゃねえよ」

「そうッスか。ところで、腹、減りません?」

 相変わらずアホみたいなツラしやがって、と思いながら腕時計を見ると、ぼちぼちそれもいい時間か――。

 とそこへ、緊急の無線が入る。

 二人で顔を見合わせると、ハリーは絶望でもしているのか、憐れみを請うような瞳でジェフを見ている。

「ハリー。済まんが、昼飯メシはナシだ」

「もう、またッスか!?」

 ジェフはキーを回すと、得意のギアチェンジで愛車を急発進させた。

 サイレンを響かせながらロンドンの通りを駆け抜けるジェフの車は、踏み込むアクセルにエンジンもご満悦のように快調な音を響かせている。

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街の風 杉本創太 @Souta_S

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