街の風

杉本創太

前編

 MPSスコットランドヤードのジェフリー・シモンズ警部は、白昼堂々ペッカム・ロード沿いの質屋に押し入った自棄ケチ犯人ホシを挙げ、今し方サザークの留置場にブチ込んだばかりだった。

 一仕事終えていつものように外套トレンチのポケットから煙草を取り出したジェフは、すぐにそれがカラであることに気付いた。「しまった」と思うより先に舌打ちがいて出る。

 ジェフはやり切れぬ思いに肩を落とし、嘆息タメイキ深く空を仰いだ。

 十一月のロンドンの空は低く垂れ込めた灰色の雲に覆われ、乾いた風が吐く息の白を薄めて通る。

「切らしたんスか? 良かったら俺のどうぞ」

 隣でアホづらコいてたハリー・ベケットが、マルボロのボックスをジェフの前に差し出した。

「ハリー、お前も知ってるだろ。俺が生粋のロンドナーだって」

 昔から煙草はラッキーストライクのソフトと決めている。

「そういうとこばっか拘るんスね」

「ブリストル出身のお前には分からんだろ」

「それもう立派な差別ッスよ」

 言いながら一人でスパスパやり出したハリーを恨めしそうに見遣ると、ジェフは手の中の空箱ゴミをクシャクシャに丸めて傍のくずカゴに投げ込んだ。

昼飯メシ、行きます?」

 一丁前に生意気な口を利きやがる――と、二回りも歳の離れた部下の成長を喜び鼻で笑う。しかしそれも「ガキに懐かれて喜ぶほど俺も歳食っちゃいねえ」すぐに持ち前の石頭が首をもたげる。

「行くぞ、小僧」

 はためく外套の胸元を押さえ、路肩に停めた愛車の運転席に乗り込んだ。慌てて煙草を揉み消したハリーが「待って下さいよ」と隣に座る。

 キーを回し、ギアをローに入れる。クラッチとブレーキは踏んだまま。

「メシもいいが、俺の口はもっと別のモンを欲しがってる」ハンドルの上で手を組むジェフ。

 深々と座席シートに腰を下ろすハリーはジェフの方を見ずに素っ気無く言った。

「分かりましたよ。好きにしちゃって下さい」

 リズミカルな足捌きに合わせ、指揮棒タクトを振るかのようなギアチェンジで、三秒と経たずにサードまでギアを上げる。この急発進はジェフの下に就く者達への最初の洗礼だが、一年以上共に組んでいるハリーならグランデのカプチーノをこぼさず飲む事だって出来る。


     ◆     ◆     ◆


 二十年来乗っている愛車のヴァンテージは相当にガタが来ているものの、従順さに掛けてはこれまで下に就いた多くの部下の誰よりも優秀だった。

 署から北へ真っ直ぐ――ロンドン橋の袂まで行けばメシを食うには事欠かないが、それより何より今はこの口寂しさを慰める「それ」が必要だ、と途中で道を折れ近くのスーパーへ向かう。大体、いつ無線が入るかも分からない。腰を据えてランチだアフタヌーン・ティーだと優雅に洒落込めるほど、この仕事は呑気にやっていられない。

 駐車場に車を停め、ダッシュボードに投げっ放しのマネークリップからしわくちゃの10ポンド札を二枚引き抜いてハリーに渡すと、「煙草一つ。あと何か適当に」と言いケツを蹴って送り出す。

 ジェフは暫く窓の外を眺めながら、今日は定時に帰れるのか、帰れたら前から楽しみにしていたフットボールの試合を見に行こう、その後はパブで一杯引っ掛けて――と、まだ決まっているわけでもない予定の算段を立てていた。

 次第に重みを増していく空は、所々が今にも落ちて来そうなほど黒く澱んでいる。

 このまま降らなければいいが……考えていた矢先の事だった。

 車内の静寂を払うように緊急無線の警報アラートが鳴り響く。

「おいおい、勘弁してくれ」

 鬱陶しいと思いながらもそこはベテランの貫録。すぐさま頭を切り替えて仕事に戻る。ボリュームを絞って注意深く無線の声に耳を澄ませた。

「……買って来ましたよ。ベーグルで良かったッスか?」

 戻るなり間の抜けた声で呼び掛けるハリーに気を削がれる思いがした。

「ハリー、昼飯メシはナシだ」

「またッスか?」

「いいから早く乗れ」

 ハリーを乗せ、ジェフは至福とばかりに待望の一本に有り付く。

「で、何があったんスか?」

「殺しだ。場所はテンプル・アベニュー」

「テンプル・アベニュー……って、シティの方じゃないスか。俺ら管轄外でしょ」

「容疑者は銃を持って逃走中。身元は不明。……ただ、血塗れの男がブラックフライアーズ橋を渡ってサザークに入ったって目撃証言もあるらしくてな、周辺を一時封鎖するって事だ」

 銃、という単語を聞いてハリーは少し顔を強張らせた。それもそのはず。ジェフ達刑事は限定的に銃の携行が許可されているが、その他一般の警官は常時不携帯。武装した犯人に対してはTSG等の特殊部隊が対処に当たるが、犯人が逃走中という事になればその捜査はジェフ達刑事が率先して熟さなければならない。

「ハリー、お前銃は?」

「持ってないッスよ! だって今日ただの通常巡回ッスもん」

「そうか。とにかく、現場に向かうぞ」

「あの、ベーグルは……」

「もうてめえ一人で食え! 俺の分もやる」

 ジェフは得意の急発進でスーパーを後にすると、サイレンを響かせながらマーシャルシー・ロードを抜け、サウスワーク・ストリートからブラックフライアーズ橋を目指した。


     ◆     ◆     ◆


 ブラックフライアーズ橋周辺は警官隊と野次馬の群れで騒然となっていた。

「おい、状況はどうなってる?」

 ジェフは手近な所にいた警官を片端から捕まえて話を聞くが、自分たちが知っている以上の情報を持っている者はいなかった。

「よお、ジェフ。お前も来てたか」

「ブレンダン……一体どうなってる? お前なら何か聞いてるんだろう?」

 ジェフに話し掛けて来た男はブレンダン・ハート。ジェフより二つ先輩の主任警部だ。昔馴染みで、刑事に成り立ての頃のジェフを何かと面倒見ていたりもした。

「向こうで話そう。ここでは少し具合が悪い」

 ハリーをその場に残し、ジェフはブレンダンと人気の無い裏通りを進む。

 外套のポケットに煙草が入っている事に安心しながら、一本抜き取って口に咥えた。

「まだ吸ってるのか」ブレンダンが言う。

「ああ、お前は?」

「やめたよ。こうも値上がりしちゃあ気軽に買えん」

「人は水とパンのみにて生きるに非ず、って言うだろ。だから神様がニコチンとタールを作ってくれたんだ。吸わねえと返ってバチが当たる」

「俺だって毎日神に祈ってる。早いとここの世から『税金』って罪が無くなりますように、ってなあ」

「おいおい、もしそうなっちまったら、俺達はメシの食い上げだぜ?」

「それもそうだな」

 二人して小さく笑い合いながら、ジェフは煙草に火を点けた。

「……で、事の次第は?」ジェフが訊く。

「容疑者の名前はランディ・ゴールディン。年齢は十九歳」

「ガキじゃねえか。それがなんで銃なんか持ってんだ?」

「まあ聞けよ。ランディはタカられてたみたいでな。まあ、ガキの間じゃそういうのはよくある事だ。けど、ランディはキレちまった。タカりの奴等の所へ出向いてって、金の代わりに一発ズドン、ってわけさ」

「ガキの喧嘩にしちゃあ物騒だが、その銃ってのは狩猟用のライフルか何かか?」

「いや……使われたのは、グロック18だ」

「何、グロック!? おいちょっと待て!」ジェフの表情が変わった。

 グロック18はオーストリア・グロック社製9㎜口径の自動拳銃である。世界的に知られた銃でそれほど珍しい物ではないが、特筆すべきは、それが主に軍や警察といった公的機関のみでしか取り扱いが無いという点だ。

「って事は、そのガキは……」

「ゴールディン、という名前に聞き覚えはないか? ジェフ」

「ゴールディン?」

 言われてみれば、どこかで聞いた事のある名前のような気がする。

「ゴールディン……トーマス・ゴールディン?」

「そうだ。ランディの父親はロンドン市警警視監トーマス・ゴールディン」

 ブレンダンの言葉を聞き、ジェフは大きく息を吐いた。胸の奥が妙にざわつく。

「マスコミに知れたら、エラい事になるな」難しい顔のジェフ。

じきに知れるさ」

 ブレンダンは苦々しそうに言うと、コートに顔をうずめた。

「ランディが撃ったのは一発だけだ。けど、その場にはランディと撃たれた奴の他にあと二人いた。そいつらは市警シティの方で保護してるみたいだが、いつまでも拘束してはいられない」

 吸い終えた煙草を側溝に落とし、ジェフはブレンダンと並んで赤茶けたレンガ壁に背を預けた。

「ブレンダン、俺達はどうしたらいい?」


 これまでも多くの殺人を目にしてきた。殺した奴と殺された奴。どっちも見てきたが、そのどちらにも深く入れ込むような事はせず、ましてやそれ以上の事など考えもしなかった。それらは全て業務的に処理してきた。職務と割り切っていた。

 今回の件にしても、見ようによってはこれまでとさして変わりはない。しかし、何か引っ掛かるものがある。殺した奴と殺された奴。そのどちらでもない、これまで考えもしなかったその「何か」を今もの凄い勢いで考えようとしている。それが何かも分からぬままに……。

 思えば、これまでの自分は随分と薄情な奴だったかも知れない。今では殺しの現場を見ても「またか」としか思わぬほどに冷めた目で遺体ホトケを見ている。だが、今の自分はどうだ? 殺した奴の事も、殺された奴の事も考えてなどいない。それどころか、もっとドス黒い、下卑た感情が胸の中に渦巻いている。


 ――人が殺し、殺された。ただそれだけの事に人は何を思うのか。


 時刻はまだ昼の三時過ぎだというのに、重々しい曇り空とも相俟って、辺りは薄暗く陰鬱とした気が漂っていた。

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