けうけげんの寝床

宇部 松清

小さな村の小さな事件

「『けうけげん』が出たそうだ」


 その噂は、小さな村の中心にぽとりと落とされたが、大して大きく広がることもなかった。


「まさか」


 村長の毛利は後退しまくっている額の生え際を撫でた。ぬるりとした感触は、自身の皮脂なのか、今朝付け過ぎた整髪料か。


 村の言い伝えによれば、『けうけげん』という妖怪は疫神の一種で、疫病を流行らせたり、災いをもたらすものらしい。

 とはいえ、これまでに目撃情報などというものはなかった。そもそも平成の今日、妖怪なんてものは、例えば何かを見間違えたであるとか、幻覚を見たであるとか、とにかく『存在しないもの』とされているからである。


 何やら怪しいものを見たと騒ぐ者は稀にいたが、酔っぱらいか惚けの進んだ老人、あるいは周囲の気を引きたい幼児だったので、毛利は「あーはいはい」の一言で済ませてきた。


 しかし、今回は――。


 最初の目撃者は高校の男性教諭羽田はだだった。科目は古典担当。35歳独身。下戸。年に一度の人間ドックでもオールAで、健康状態に問題なし。ギャンブル依存やキャバクラ通いなどもなく、品行方正で生徒や保護者からの信頼も厚い。趣味は釣りで、川釣りよりは海釣り派。釣ったものは自分で捌き、調理もするのだという。しかし最近は友人の影響で渓流釣りにも興味が出て来たとのこと。


 羽田が『けうけげん』を目撃したのは、夜22時頃のことだった。無性にアイスが食べたくなってコンビニに寄った帰りのことだったという。

 行きつけのコンビニのため、店員とも顔馴染みである。たまたま釣りを趣味にしているというフリーターの青年がおり、話し込んでしまった。滞在時間にして、約20分。話に話して満足し、危うく当初の目的であるアイスを買いそびれるところだったらしい。


 羽田の住むアパートまで、10分。街灯は少ないが特に治安が悪いわけでもなく、ましてや自分は男なのだし、と、そう思いながら、道中をてくてくと歩いていた時のことだった。


 遥か遠くに見える街灯の下で、何やら黒くて大きなものがもぞもぞと動いていた。


 大きい、といっても、2m、3mというわけではない。それは例えば、漫画の中で見るような黒いごみ袋(それも45l)のように見えた(この辺りの指定ごみ袋は半透明の白と水色、そして黄色である)。中に人でも入っているのか、それとも空気で膨らんでいるだけなのか、とにかく、ふわりと空気を取り込んだ状態で直立していたという。


「あれは――何だ」


 当然の感想を述べ、羽田は自身の尻ポケットに手を伸ばした。ジーンズの尻ポケットの左の方には彼の財布が、そして、右の方にはスマートフォンが入っている。

 酒でも入っているのなら、それはただの見間違いで済ませられるのだが、先述の通り、羽田は下戸なのである。付き合いで多少舐めることもあるが、ふた口も飲めばひっくり返ってしまう。


 飲んでない。断じて自分は飲んでない。


 そう言い聞かせながら。


 自分よりもひと回り上である後藤教諭などは休みの前日に痛飲することが唯一の楽しみらしく、そのため平日は完全に酒を断っているとのことで、そのせいなのか、たった1人の酒盛りが終盤を迎える頃には幻覚の1つや2つなど当たり前なのだという。


 だが、自分は違う。

 酒なんて、20歳を迎えた時に親戚のおじさんから勧められて飲まされたが、あんなの、苦くて不味いだけだ。その上、瞬時にして顔が真っ赤になり、そのまま仰向けに倒れ、数分後には畳の上で嘔吐したのである。


 2つ上の従姉である葉月姉ちゃんにも恥ずかしいところを見せてしまった。酒なんて二度と飲むか。


 スマートフォンを取り出したのは、カメラを起動させるためだ。彼の視力は両目平均1.0。とはいえ、さすがにそこまで離れていれば良く見えない。無用心に近付くよりは、カメラのズーム機能でも使って確認した方が良いだろう。羽田は用心深い男なのである。ついでに証拠として写真におさめておけば完璧だ。そんなことを思いながら。


 そして、カメラアプリを起動させて、構え――た時には、確かにいたはずの黒い塊は消えていたのである。



 次の目撃者はその羽田の教え子と元教え子の生徒達だった。そのうちの1人、現役女子高生である仲毛なかもう理奈は、決して素行の良い子ではないのだという。

 その日も、去年の夏に学校を辞めた男の先輩のバイクの後ろに乗って隣町のゲームセンターに行き(この村にそんな都会的な施設はない)、村に戻って来たのは22時を少し過ぎた頃だった。


「今日って週刊ステップジャンプの発売日じゃん!」


 家まで送る、という段になり、その先輩――現田うつつだ勇二(19歳無職)がそう言った。そんなもの、私を送ってから読めば良いのにと理奈は思ったが、口に出すのは憚られた。ここで勇二の機嫌を損ねると厄介なのだ。こないだ作られた痣は治ったばかりである。

 ちなみに、『発売日』とはいうのは、厳密には、『』を意味する。この村は書籍やCDなどが発売日に店に並ぶことなどない。


 仕方なく、コンビニ(サトウ商店。昨年から24時間営業に踏み切った)に付き合うことになった。理奈の方では読みたいものなど特になかった――というか、立ち読みなんてみっともない、と親から厳しく躾られて来たのである。塾も門限もすっぽかす癖に、なぜかそれだけは彼女の胸に染み付いているのだった。


 本が読みたいのなら、買いなさい。

 

 口を酸っぱくしてそれを繰り返す母親に「どうして?」と聞いたことはもちろんある。すると母親はコンビニの外から、立ち読みをしているサラリーマンと学生らしき男性を指差して言ったのだ。


「見ればわかるでしょ」


 と、ただその一言だったが。


 しかし理奈は、確かに、と思った。たまたまかもしれないが、そのサラリーマンや学生は酷く『みっともない』ものに見えたからだ。


 女優のグラビアページでも見ているのか、サラリーマンは、頬を緩ませ、鼻の下を伸ばしており、

 よほど面白い内容なのだろう、漫画雑誌を読んでいる学生は、必死に笑いをこらえている。みっともない、というか滑稽だった。

 

 あんな姿を晒すなら、買った方が良い。500円? 600円? まぁそんなとこでしょ。はした金じゃん。良い大人が、みっともない。


 理奈の家は特別裕福なわけではないのだが、両親が読書家ということもあり、書籍の購入に関しては割と上限がなかったのである。それにバイト代が丸々小遣いになる高校生というのは、金銭感覚が狂いやすいものだ。


 だから理奈は、やはりだらしない顔をして漫画雑誌を読む勇二を冷めた目で見つめていた。時間をもて甘し、ファッション雑誌を手に取ってみるも、それをここで開くのには抵抗がある。流行りのファッションばかりが集められたその雑誌で表情が緩むなんて思えなかったが、もしかしたら好きなアイドルのインタビューが飛び込んでくるかもしれないのだ。危険、危険すぎる。それに読みにくいじゃないか、立ったままなんて。


 やはり立ち読みだけは出来ないと、雑誌を元の場所に戻す。ちらりと勇二を見れば、こちらを気にする素振りもなく、ひたすらニヤニヤしながらページを捲っていた。


 仕方なく、店内をぶらつき新作のスイーツや季節限定の菓子を眺める。

 一通り見終わって雑誌コーナーに戻っても、勇二はまだ読んでいた。


 何なのよ。


 そうは思っても逆らえない。母も父の後ろを黙って歩くような女なのだ。理奈の知る夫婦の形、男女の力関係は両親が手本なのである。父は暴力こそ振るわなかったが高圧的で、母はいつもそれに耐えていた。父が穏やかな笑みを浮かべているのは本を読んでいる時で、話題の新作を手に入れた日というのは、とりわけ機嫌が良かった。


 けれど、出来れば理奈はさっさと帰りたかった。時刻は既に23時。学校もなければ仕事もない勇二はどんなに遅くなっても良いのだろうが、こっちは明日も学校なのだ。早く帰ってシャワーを浴びたい。宿題は……まぁ友達に見せてもらえば良い。


「ねぇ、勇二――」


 恐る恐る声をかける。

 その返事が拳でないことも稀にある。そう思いながら。

 それでも、いつそれが飛んで来ても良いようにぎゅっと目を瞑り、歯を食いしばった。少しでも被害は軽く抑えたい。けれど、手でガードするのは良くない。かえって勇二の神経を逆なでしてしまうからだ。


 しかし、彼の拳は飛んでこなかった。それに、返事もない。

 よほど集中しているのだろう。そう思い、そぅっと目を開けると――、


「勇二?」


 勇二は冷や汗を流しながらガタガタと小刻みに震えていた。


 何、そんなに怖い漫画なの?

 だとしたらちょっと興味あるかも。買って読もうかな。


 そんなのん気なことを考えていると、勇二が視線だけをこちらに向けてきた。そして震える唇でこう言うのだ。


「理奈、絶対に窓を見るな」と。


 見るな、と言われれば、見たくなるのが人間である。

 けれど、勇二がそう言うのである。絶対的に上の立場にいる『男』がそう言うのである。理奈は見たい気持ちをぐっと堪え、身体全体を勇二の方に向けた。


「ねぇ、窓の外に何がいるの?」


 それによっては警察に通報したり、親を呼んだりしなくてはならないだろう。もしかして勇二の先輩とか? 角材だけでどっかの工業高校の不良達を全員病院送りにして、その後プロボクサーになって、だけどすぐに引退して、サラ金だか何だかに勤めて、いまはベンツに乗ってるっていう、あの先輩? 実在したんだ。


「……け」

「け? 毛?」


 首を傾げながら自分の髪を一束掴む。『け』で連想出来るものなんて『毛』以外にない。

 勇二はやはり視線だけを理奈に向け、小さく何度も頷いた。理奈の言う『毛』で合っているらしい。


 毛?

 毛が窓の外に?

 おっさんのカツラとか?


 わかった、おっかないヤーさんとかのカツラが飛んだ瞬間見ちゃったんだ。

 で、目が合ったとかで。


 うん、確かにそれは怖い。

 完全にとばっちりだけど、そういうのが通用する相手じゃないもの。


 でも、それならば警察を呼べば良いのだ。本当に呼ばなくとも、通報するぞ、という振りだけでもきっと相手は怯む。その隙にさっさと逃げれば良い。


 そう思って、ポケットからスマートフォンを取り出した。そして、通話アプリを起動させ、『1』『1』『0』と入力する。それを窓に向ける。


「何やってんだ、理奈」

「大丈夫、見てない。でもほら、110番の画面見せれば逃げるかなって」

「馬鹿、そんなわけないだろ! だって相手は――」

「相手は?」


 必死の形相でそう訴えかけて来る勇二の剣幕に押され、理奈は背中をのけ反らせた。その時、視界の隅に何か黒いものがちらりと見えたのである。


 夜の闇ではない。

 そういう『黒』じゃなかった。

 何か大きな塊のような『黒』だった。


 じゃあ、一体何?


 理奈はつい、見てしまった。

 その、窓の外を。




「それで?」


 私が続きを促すと、隣の席に座っているその女の子は、再びぽつりと話し始めた。


「最初、名前はわからなかったんですけど、勇二の話では『けうけげん』じゃないかって」

「へぇー」


 その時は、正直、よくわからなかったそうだ。ただ黒い大きな塊が窓にへばりついているように見えたという。

 大きさは45lのごみ袋くらいで、形もまぁそんな感じだった。

 夜の闇に紛れていて輪郭もぼやけていたが、ただ、質感は違う。掴むことが出来ない夜の『黒』とは違い、明確な質量を持っているように見えた。それだけは確かだった。


 窓の外にいた『それ』は、理奈が身体の向きを変えてしっかりと見ようとした瞬間、やはり消えてしまっていたのだという。

 勇二が慌ててそれを追おうと店を飛び出したが、漫画雑誌を持ったままだったため、店員に取り押さえられてしまった。どうやら一度この店で万引きをしていたらしく、たまたまその日は彼の顔を知らない店員ばかりがシフトに入っていたため、入店出来たようだった。


「違う! これは万引きとかじゃなくて!」


 勇二は必死にそう訴えたが、何せその手にはしっかりと雑誌が握られているのだ。説得力も何もない。

 後からやって来た店長が勇二の顔を見るや否や「次は警察だと言ったはすだぞ」と言い渡し、弁解も許されないままに彼は連行されて行ったのである。


 店内に1人残された理奈は、勇二の身を案ずるよりも――、


 どうやって帰ろうか、と、それだけが心配だった。



「勇二から連絡が来たのはその3日後でした。『けうけげん』という名前を知ったのもその時で」

「けうけげん、ねぇ」

「何か、私の学校の先生もそれらしいものを見たらしいんです。『君も見たのかい?』って聞かれました。どうして知ってるんですかって聞いたら、『現田に聞いた』って。勇二も去年までは高校に通ってて、羽田先生が部活の顧問だったから」

「相談したって訳ね」

「そうみたいです」

 

 私達はそれぞれ大きな鏡の前に座っていて、距離は1mほど離れていた。お互いに次の行程を待っている、という状況で。


「それでですね、羽田先生と勇二はもうそれっきりらしいんですけどね」

「うん」

「私の方にはなんですよ」

?」


 そこで、彼女は一度視線だけをこちらに向け、にやりと笑った。

 そうしてから、ゆっくり、ゆっくりと首を私の方に向け、さらに――、


 視線を自分の後ろに滑らせた。



「いまも後ろにいるんです!!!!」



◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「――わぁぁぁあああぁぁぁあっ!!!???」

 

 思わず声が出てしまった。

 慌てて口に手を当てて隣を見る。


 案外狭いダブルサイズのベッドで、僕の隣に寝転んでいる妻の菜佳子は満足気に目を細めている。サイドテーブルに置いたアンティークランプのオレンジ色の灯りが彼女の横顔を照らしていた。


 僕はただ、今日は確か美容院に行くと聞いていたから、その話を振っただけだったのだ。


 情けないことに、僕はあまり女性の変化というものに気がつかない質で、余程思い切って変身してくれなければ「今日何か雰囲気違うね」なんて言葉をかけることすらも出来ない。


 いつだったかも、やはり美容院に行った菜佳子がやたらと髪をかき上げてアピールしてくれているにも関わらず、「今日のご飯何?」なんてのん気なことを言ったりもしてしまったものだ。

 ただ、言い訳をさせてもらえば、その時は、パーマをかけたとか、色を変えたとか、バッサリ切った訳ではなく、ただ毛先を揃えただけだったのである。いくら可愛い妻でもそんな微々たる変化に気付ける僕じゃない。

 ――と、僕は弁解しつつも反論すると、菜佳子は、「じゃあ、これからは祥之助君にもちゃんとわかるようにするから」と笑って許してくれた。


 それからというもの、菜佳子は美容院に行くと、僕が帰宅するなり「ねぇ、あたしどこか変わったところないかしら」などとヒントを出しつつ、ことさら髪の毛をアピールするようになった。

 ストレートパーマをかけた時なんかは、歌舞伎よろしく両サイドの髪を掴んで頭をぐるんぐるん回したりもして、もう本当にどうしようかと思ったけど。

 確かにここまでされりゃ、美容院に行ったことを知らなくとも、髪の毛に何かしらの変化があることくらいわかる。いくら僕でも。


 最近では菜佳子の方でも油断してきたのか諦めたのか、僕の目の前で美容院に予約の電話を入れるようになった。


 だから今回こそは先手を打ってやる気持ちだったのだ。


 それなのに。

 急に仕事が入って残業。

 夕飯はいらないと慌ててメールを打ち、それでもどうにか早めに終わらせて帰ってみれば、菜佳子はもうベッドに入っていた。


 せめて、髪については触れようと思った。『美容院に行った』ということさえ念頭に置けば、確かに今朝の菜佳子といまの菜佳子は違う。ちゃんとわかる。長さは大幅に変わってはいなかったけど、梳いてもらったらしく、かなりボリュームダウンしている。僕も菜佳子も毛量は多い方なのである。


「髪、だいぶ軽くなったね」


 艶々とした髪を撫で、そう言ったところ、「ありがとう」なんて言いながら頬を染める代わりにお見舞いされたのが先程の話であった。


「え、えぇと、それで――? 後ろに何がいたの……?」


 恐る恐る尋ねる。

 そこで終わっても良かったのだが、やはり続きは気になる。


「聞きたい?」

「き……、聞きたい」


 ごくり、と唾を飲む。

 しんと静まり返った寝室に、その音が響いた――ような気がした。


「いたのよ、『けうけげん』がね」

「ま……っ、まさか!」


 いつもなら彼女の『作り話』で終わるはずなのに。

 今回は、まさかの実話!!?


「写真も撮ったの。見る、祥之助君?」

「えぇ!? 写真におさめられるものなの!?」


 妖怪が?


「もちろん。ちょっと待ってね」


 いそいそと菜佳子はサイドテーブルに手を伸ばし、充電中だった自身のスマートフォンからケーブルを引っこ抜くと、それを枕の上に、ぽふ、と投げた。

 そして、再びうつ伏せの姿勢になり、ウキウキと操作する。見せたくてたまらなかったのだろう。


「はい、どうぞ」


 数秒の操作の後に、にゅ、と差し出されたそのスマートフォンの画面に写っていたは――、


「ん? んん?」


 何てことはない、ただの毛の山だった。

 ぴかぴかの白いタイルの上に、こんもりと集められている。

 恐らくそれは菜佳子の行きつけの――僕も数回お世話になったことのある美容院の床だ。その大量の髪の主は、よもや菜佳子ではないだろうが。


「えぇと、これは……?」

「これね、お隣に座ってた理奈ちゃんって子の髪。と、あたしのブレンド! すっごいよね、この量!」

「えぇ? いや、ちょっと待って。『けうけげん』の写真じゃ……」

「っぽいよね~って話してたの! ぽくない? ぽくない? ほら、こっちが鳥山石燕とりやませきえん先生の『毛羽毛現けうけげん』」

 

 こうなることを見越して用意してあったのか、画面をスライドさせると、僕も見たことのある妖怪画が現れた。鳥山石燕先生といえば、『画図百鬼夜行』という画集で有名な江戸時代の浮世絵師であり、菜佳子が尊敬する人物の1人である。


「そう、これこれ。これだよ。まぁ確かに似てるけどさ。――ん? もしかして、今日のって、ただそれだけの話? 2人の切った髪の毛がこの『毛羽毛現』に似てたってだけの?」

「そうだけど?」

「いや、そうだけどって……。てことは、釣りが好きな羽田先生とか、立ち読みが嫌いな理奈ちゃんとか、その彼氏の勇二君とかは?」

「勇二君は理奈ちゃんの彼氏じゃないよ。別れたもん」

「そうじゃなくて! え? そうなの?」

「そうだよ。だからバッサリ切ったんだって。いつの時代も失恋したら髪を切るってあるのねぇ」


 やっぱり今回も盛り盛りの作り話だったじゃないか!


「も、もう……。またやられたぁ……」


 今回は結構怖かったし!


「ほんっと、祥之助君っていつもいつも新鮮な反応をくれるから、話し甲斐があるよ」

「……あ、ありがと」

「さーって、そろそろ寝る?」

「寝るよ、明日も早いからね。あ、そうだ。どうせ作り話なんだろうけどさ、羽田先生とか理奈ちゃん達が見たのって、結局何だったの? そこまで考えてた?」


 そう問い掛ける。菜佳子はスマートフォンに再び充電ケーブルを挿していた。


「うーんとね、あれは一部本当の話。理奈ちゃんから聞いた話なんだけど、あれはね、抱き枕カバーみたい」

「抱き枕カバー?」

「そ。お洗濯したのが飛んで来たんじゃないかなって言ってた。黒くて、ふわふわの毛がついてるやつ」

「成る程。じゃ、羽田先生が見たのは?」

「それはゴミ袋なんじゃない? 45lの。知らないけど」

「そこは創作なのか!」


 突っ込みを入れると、菜佳子は照れたように、あはは、と笑った。

 つるりとした長い髪を一束つまんでふりふりと振る。いつもとは違う、美容院のシャンプーの香りがする。買えば1本3,000円位するやつらしい。その香りをいたくお気に召しているようで、トリートメントとセットでプレゼントしようかと提案したことがあるのだが、すべてそろえると10,000円近くなるからと辞退されてしまった。その代わりにと、5,000円くらいのヘアアイロンをねだられた。それのお蔭で彼女の髪は真っすぐも、ふわりとしたカールも思いのままなんだとか。


 僕は、もう一度あのこんもりとした毛の塊を思い出した。

 それはほんの数時間前までは確かに彼女の一部だったものだ。


 一部なのだ。

 だからもしかしたら、ちょっとくらいは意思を持ったりふよふよと漂ったりするかもしれないと、そんな風に思ってしまい、彼女の深い寝息が聞こえて来た後も、僕はしばらく眠れなかった。


「けうけげんが、出た、なぁ……」


 仰向けで眠る菜佳子の髪が、一束、僕の方へと伸びていた。



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けうけげんの寝床 宇部 松清 @NiKaNa_DaDa

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