エピローグ
重苦しく垂れ篭める鉛色の雲の切れ間から、一筋の真っ白い光が差し込んでいた。
それは幼い頃に抱いていた杏子ちゃんのイメージそのままだった。
その罪のない幼馴染に恨みを抱くようになったのは、いったいいつからだったろうか。
永遠のように続く浮遊感の中、私の記憶は過去へと遡っていく。
きっと、その最初のきっかけになったのは、あの目の青いブロンドの人形。
幼い頃。まだ人を恨むことを知らぬ純粋な心を持っていた頃。
杏子ちゃんに一体の人形をもらった。
青い目をして鼻の高い、ブロンドの髪が綺麗な人形。洋服だって、私なんか着たこともないようなかわいい服を着ていた。私は心の底から嬉しかった。親に人形を買ってもらったことなどなかったからだ。
大切な杏子ちゃんからもらった大切な人形を、私は宝物のように抱きしめて家に帰った。いや、事実短い時間ながら、あの人形は私の宝物だったのだ。だが、その宝物を母は私から取り上げた。なにかを喚き散らしながら、口の端から泡を飛ばしながら母は口汚く杏子ちゃん家族を罵った。あの頃にはわからなかったが、それは劣等感からくる怒りだったのだろう。
母は人形を私の小さな手から乱暴に取り上げると、生ゴミや空のカップ麺の容器やいろんなゴミが混ざったゴミ袋の中へと押し込んだ。すでにいっぱいまで詰め込まれていた袋はギチギチと不快な音を立て少し破け、そこから人形の頭が飛び出した。
さっきまで綺麗だったはずの人形は、なにかよくわからない汁で汚れていた。あの青い目も、蝋のように白い肌も、光を受けてキラキラと輝いていたブロンドも、すべてがドス黒く汚れていた。
私はそれを見て自分の運命を悟った。
私は杏子ちゃんのようにはなれないのだと、彼女との違いを歴然と感じた。
一度手に入れた宝物を失った痛みは私の心をひどく傷つけた。
その傷から溢れ出る血の大半は悲しみになったが、残りの一部は杏子ちゃんへの怒りとなった。彼女が人形をくれなければ、私はこんな現実を思い知ることはなかった。そんな理不尽な怒り。
今にして思えば、この僅かな怒りと共に恨みの種が蒔かれたのだ。
そして、その芽に水を与え成長を促したのが、あの柿色の教室の一幕だった。
この頃になると自分の親が最低だということをしっかりと理解していた。
母は甘ったるい香水を付け、舞台上の女優よりも濃い化粧をして男を漁りに毎夜街へと繰り出していた。父は酒に溺れ、私に手をあげるばかりだったのが、成長期を迎え女性らしい丸みを帯びた私を見て、態度を変えた。やけに優しくなったかと思うと、私の身体にその太い指を這わせた。私はどうにかその手から逃れながら、毎日怯えて暮らしていた。
そんな中でも私は思春期らしい淡い恋心を抱いていた。相手はクラスメイトの男の子。特別顔立ちが整っているわけでも、教室内で目立つわけでもなかったが、彼の白い首筋を見ると心臓が跳ねた。
彼とは会話すらまともにしたことはなかったが、遠くからその姿を眺めているだけで、私の心は救われていた。
杏子ちゃんが用事があるから先に帰ってと私に言ったのは、中学校を卒業する少し前だった。冬の冷たい空気がピンと張り詰め、彼女の頬を赤くしていた。私はうんと頷いて先に帰ろうとしたけれど、少しだけ気になって杏子ちゃんの後を追って行ってしまった。
あの時、素直に家に帰っていれば私が杏子ちゃんをあれほど恨むことはなかっただろう。
熟れた柿色の夕日が教室を染めていた。彼がこちらを向いて立っていた。光を背に受け、彼の顔は影に沈んでいたけど、その真剣な眼差しは見えた。杏子ちゃんはフレアスカートをもじもじと弄っていた。私はここから逃げ出さなければと思いつつも、足が縫い付けられたように動かなかった。扉越しにふたりの様子を見つめていた。
彼が杏子ちゃんに想いを告白した。杏子ちゃんはそれを受け入れた。ふたりは恋人同士になった。
私は目の前で起きたことが信じられなかった。私が彼に想いを伝えることはしないつもりだった。だからきっといつか彼の隣には私ではない誰かが立つだろうとは思っていた。だけど、それがまさか自分の親友だなんて。地面が割れて落ちていくような気分だった。
うふふ、と杏子ちゃんの笑い声が聞こえ私はふと我に返った。ふたりが踵を返し、こちらへやってこようとしているのが見えた。
私は扉に寄りかかるようにしてどうにか支えていた身体を引き剥がし、誰もいない廊下を駆けた。明るい教室と違い、廊下は静かに闇に沈んでいた。
逃げるようにして帰った家では、昼間から酒を飲んでいたらしい父が待っていた。にやにやと口元に笑みを浮かべ、近づいてきた父は力づくで私を押し倒し、そのまま無理やり私を犯した。父の締りのない醜い身体が私の上で動くのを見ながら、私は杏子ちゃんに対して明確な敵意を覚えていた。
私が彼に好意を寄せていたことは知っていたはずなのに。あれは私にとってひどい裏切りだった。あの幼い日にできた心のカサブタが剥がれ、中からドス黒い感情がどろりと溢れ出してきた。
私がこうして父に犯されている間に、杏子ちゃんは彼と手を繋ぎ楽しくお喋りをしていると思うと、殺してやりたいくらいだった。
だけど、私が彼女から離れることはなかった。
私の友人は杏子ちゃんだけだった。他には一人もいなかった。彼女がいなくなってしまえば、この腐りきった世界にひとりだけになってしまう。それはあまりにも孤独だった。
杏子ちゃんは私にとって暗闇に差し込んだ一筋の光だったのだ。その光が無くなることは耐えられそうになかった。だが、その光に近づけば、暗闇では見えなかった己の醜さを思い知ることになった。光がなければ生きていけないと思っていたが、しかしその光が私を苦しめていた。
二律背反の苦しみに耐えながら、私はどうにか生き続け、短期大学へと入学した。隠れながらアルバイトをして貯めたお金で、とうとう親元を離れてひとりで暮らし始めた。
世界が変わった気がした。
ここには父も母もいない。
私は初めて自由になれた気がした。これからは陽の光の下で生きていける。絶望という名のトンネルから抜け出して、私は明るい光を全身に浴びていた。
あの裏切りの日から杏子ちゃんに持ち続けていた恨みの気持ちも、この頃になるとかなり薄まっていた。私はもう彼のことは忘れたし、それにこれから先のことを考えるので精一杯で過去のことに目を向ける余裕はなかった。
ひとり暮らしは順調だった。
借りた部屋は小さくてボロボロだったけれど、そこは紛れもなく私の城だった。もう誰かに怯える必要もない。手足を伸ばして眠ることができる。それがなにより幸せだった。
大学で新しい友達もできた。杏子ちゃんとは相変わらず一緒にいて、幼い頃のような対等な関係に戻れた気がした。
ただひとつ問題だったのは、私の体重が見る間に増えていったことだった。
自由になった開放感から、私はすっかり太ってしまったのだ。ただ、それほど重く考えていたわけではない。これも一種の幸せ太りというのかしら、なんて笑っていた。
私の人生はこれから始まる。いままでの不幸はこれからの幸せのための助走に過ぎなかったのだ。ほかの人より少し助走が長かった分、これからより幸せになれるかもしれないじゃないか。
そんな甘い考えを持てていたのは、大学卒業が見え始め、就職活動を始めるまでだった。
周りの友人たちが次々に内定を貰っている中、私の就活はうまくいっていなかった。どこを受けても、なにをしてもダメだった。たしかに私はそれほど成績もよくなかったが、それにしても決まらなかった。始めの希望よりも数ランク落としてみたが、それでも箸にも棒にもかからない。
私はどうしていいのかわからなくなっていた。そんな時に杏子ちゃんの書きかけの履歴書が机の上に置きっぱなしになっているのを見つけた。気づいた時にはその一枚の紙をカバンの中に入れていた。
履歴書の顔写真を私のものに変え、試験を受けてみた。小さな会社だったからか、疑われることなく面接を受けることができた。
不思議なもので高木杏子という名で受けた面接は非常にうまくいった。いつもなら答えに詰まる質問にも難なく答えることができ、手応えはばっちりだった。私だってやればできるのだと自信になった。
果たして私はその会社の一次試験をパスしたのだが、履歴書の住所を書き換え忘れていたために、杏子ちゃんの元へ案内が行ったのは誤算だった。
高木礼子に戻った私は結局就職先が決まらず、浪人となった。貯金は授業料で使い切ってしまったので、日々生きるためアルバイトをいくつも掛け持ちするようにした。お金は貯まらず、就職活動をする時間もなく、ただ無為に日々が過ぎていく。
ひとり暮らしを始めた時に思い描いていた未来図から大きく外れた道を歩いていた。少しずつ私の希望は磨り減り、また暗闇へと沈み込んでいった。小さい部屋はいつの間にかゴミ袋で埋まり、まるで子供の頃のあの家のようになっていた。
そしてまた私の心もあの家にいた頃のように荒んでいった。
私とは違い、杏子ちゃんは望み通りの会社に就職し、描いた通りの生活を送っているようだった。治ったとばかり思っていた心の傷がじくじくと痛み、恨みという名の血が滲んでいた。なんでいつも杏子ちゃんばかりと下唇を噛み締めた。
またしても入り込んでしまった暗いトンネルの中、振り返れば小さく光が灯っているのが見えた。それは高木杏子の名を借りた成功体験だった。私が礼子でなく、杏子であればきっとすべてうまくいく。次第にそんな考えに囚われ始めていた。頭の片隅に生まれたその考えは日に日に大きくなり、気付けば自分が杏子になるための方法を模索していた。そして、ついに私は行動に移った。
彼女を捕まえるのは簡単だった。
私に対して警戒心など持っていない彼女は隙だらけだった。私の部屋にあがり、その惨状に動きを止めた彼女の細い喉を後ろから両手で思い切り締めるだけでよかった。彼女は意識を失い、人形のように倒れ込んだ。ゴミ袋の中に横たわる杏子ちゃんは、まるであの日の人形みたいだった。
杏子ちゃんを捕まえてから数日、食事も水もまともに与えていなかった。積極的に彼女を殺すつもりはないけれど、死んでしまっても構わないと思っていた。そうなれば、私が彼女の代わりに高木杏子として生きていける。
そして、記憶は今日へとたどり着く。
買い物から帰ってきた私はベランダで一服をしていた。これからどうしようかと考え込んでいた。そこに、立つのもやっとだったはずの杏子ちゃんが凄まじい勢いで突っ込んできたのだ。私の背後にあった木製の手すりが重みに耐え切れず、太い割り箸を折るような音を立てて壊れた。私たちは宙へと放り出されたのだった。
突然の衝撃が私の思考を途切れさせた。
背中を強かに打ちつけて息が止まった。
脳を支配する痛覚に視界は黒や赤や黄色に明滅した。
抑えきれぬ吐き気に
「なんてこと! 大丈夫!?」
驚き慌てふためく声が聞こえた。そちらに視線をやると初老の夫婦が横たわるひとりの女性に駆け寄っていくところだった。あの枯れ木のように細い身体はおそらく杏子ちゃんだろう。
「助けて!」
私は声を張り上げたが、それはすぐに唸り声に変わった。肋骨が折れているのか、息をするたびに電気のように鋭い痛みが走る。それに視界の片隅に見える左足が関節ではないところで折れ曲がり、白い骨が飛び出している。
とにかく全身が痛かった。鼓動に合わせて全身のあらゆるところが痛みを訴える。まるで心臓がいくつもあるみたいだった。獣のような唸り声をあげながら、私は懸命に痛みに耐える。
「助けて! ねえ!」
ふたりとも杏子ちゃんのほうに行ったきり、私のほうを見ようともしない。
そこでふと私の脳裏にある言葉が蘇った。
――記憶を間違えるとあなたが消えてしまいますからね。
灰色の川。白い霧。船の上に立つ痩身の黒い男。
まさか――。
「ねえ、ちょっと! 私を見て! 助けて!」
あまりの恐怖に痛みすらも麻痺していた。私は自分の存在を主張するように叫び続けた。
あなた、救急車。ああ、わかった。そんなやりとりのあとに夫のほうが家の中へと戻っていった。
「ちょっと! ねえったら!」
私の声に、残った妻がぴくりと反応を示した。こちらを見る。よかった、私に気づいてくれた。そう安堵したのも束の間、私を見る目の冷たさに息を呑んだ。
――あの目。
彼女はこちらへゆっくりと近づき、傍らに膝をついた。
そして、口を開く。
「だから言ったでしょう」――その声はあの船の上で聞いた――「あなたが消えてしまうと」――あの男の声――。
私は愕然として彼女の顔を見つめた。皺の多い、それでいて上品な顔立ち。唇は薄く、乾燥していた。どこにでもいる歳をとった女だった。その女が、あの男の声で喋っている。
「あなたは己の罪を認めなかった。だから、地獄へと落ちた。ここが、あなたの地獄です。あなたの存在はすでにこの世界から消えている。この場所で誰に気づかれることもなく、永遠に痛みに苦しみ続ける――それがあなたへの罰です」
家の中から夫が飛び出してきた。
「そんなところでなにをしているんだ。救急車もうすぐ来るからな!」
夫の声に妻は弾かれたように振り返った。
催眠術が解けたように彼女が数度瞬きをした。あら、私なにをしていたのかしら、と不思議そうにひとりごちると、すぐさま夫と杏子のもとへと戻っていった。その声はすでに男のものではなくなっていた。
「そんな、嘘でしょ! 私はここにいる! ここにいるのよ!」
私は懸命に声を張り上げるが、誰も私に気づかない。
高木杏子になろうとした私は、杏子になることも礼子に戻ることも許されなかった。これが私の罪に対する罰だというのか。
全身を貫く痛みに気が変になりそうだった。いっそ死んでしまえたらと思う。だが、男の言葉が真実ならば、私は死ぬことも許されないのだろう。
無駄だとは知りつつも私は叫び続ける。
私の悲鳴を消すように、どこか遠くでサイレンが鳴り響いていた。
分水嶺 芝犬尾々 @shushushu
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