船の上

 ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ……。

 船を漕ぐ音が耳朶じだに響く。視界を真白に染め上げる濃霧は風も吹いていないというのにゆうらりと空を揺蕩たゆたっている。

 私は深い眠りから覚めたばかりの虚ろな瞳でただ世界を見つめていた。

 波一つない灰色の水面をへさきがなんの抵抗もなく切り開いていく。船は緩やかに進み続けていた。

 ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ……。

 夢とうつつの狭間で綱渡りをするように朦朧とした意識の中、この鼓膜を震わせる音に僅かに嫌悪を抱いていた。音を止めようと目覚まし時計を探すように腕を振る。

「おや、お目覚めですか」

 静かだが鋭い一声が脳の底に沈んでいた意識を引っ張りあげた。ハッとして船尾を見やる。そこにはひとりの男が立っていた。黒い外套がいとうに身を包んだ、痩身そうしんの男。その姿を視界に捉えたとき、私は思わず息を呑んだ。

「どうされました」

 感情を一欠片も滲ませないその声は、大理石のように滑らかに私の中に心地よく入り込んだ。

 男はひどく美しかった。一点の曇りもないほどに、完成された美しさを持っていた。弓なりの眉も、薄い唇も、すうっとまっすぐに通った鼻筋も。しかし、その中にあって際立っていたのは細められた目だった。水晶のように透き通った瞳に写り込めば、この世は天国にすらなるだろうと思った。

「どうされました」

 男は同じことを繰り返した。時間を巻き戻したように均一な声。私は彼に惹きつけられる視線をどうにか外し「いえ」と答えた。すぐそばを濃い霧が流れていく。

 流れる霧の行方を追いかけながら、私は首をかしげた。

 ここはいったいどこなのかしら?

 私は視線をあちらへこちらへと忙しなく動かした。しかし、どこもかしこも霧が静かに揺れながらも間断かんだんなく白色のカーテンを引いているため、なにも見えない。景色からなにかを掴むことを諦め、私は船尾に立ち櫂をゆっくりと動かしている男に向き直った。

「あの、つかぬ事をお伺いしますが……ここはどこなんでしょうか」

「ここですか? ここは船の上ですよ」

 男は口の端を少しだけあげてそういった。どうやら彼は冗談があまりうまくないらしい。私は「そうじゃなくて」と続けた。

「ここがどこかはどうでもいいじゃないですか。こうして船は進んでいるのだから、いずれ、どこかに着きますよ」

「どこかって、どこに着くんです?」

「それは」――男の両の目が――「あなた次第ですよ」――私を捉えた。

 絶えず流れていた霧が、数瞬、ぴたりと動きを止めた。私は足の多い何かが背中を這い上がるような感覚を覚え、自らを抱くようにしてぶるりと震えた。

「……あなた、いったい何者なの?」

「私はただの船頭ですよ。あなたを送り届けるのが仕事です」

 男はにっこりと笑って言った。その柔らかな笑みを見て私の身体の強張りがゆるゆると解けていく。霧は船にぶつかっては渦を巻いて遥か後方へと向かって流れていく。両手を胸の上にあて、ほうっと息をひとつ吐いた。

 ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ……。

 男は機械仕掛けのように同じ間隔でかいを漕ぎ、船は滑るように進んでいく。しかし、どれだけ進んでも景色は変わらない。霧に包まれた白一色。その中に男の黒い姿だけが影法師のように浮かんでいる。

「ところで」ふいに男が言った。「お名前を伺っても?」

「名前? ええ、私は……」私は答えようと口を開いたが、そのまま固まった。「名前が……わからない」

 自分の名前が思い出せない。なにをしていたかも、どうしてここにいるのかも。自分がいったい誰でなにをしていたのか、なにひとつ思い出すことができなかった。

 世界から突き放され、ぽつねんとひとり暗闇に立っているような恐怖に襲われた。

「自分のことを、お忘れで?」

「それが、そうみたいなんです。どうしてか思い出せなくて」

 右手を額に当て私は深く考え込んだ。しかし、目の前に揺れる霧のように、思考も白くかすみ判然としない。

「なに、焦ることはありません」男はひどくのんびりとした声でいった。ゆっくりとした動きで櫂を操る。ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ……。「最初から思い出していけばいいんです」

「最初から……ですか」

「そう、最初です。あなたは、どんな赤子だったんですか?」

 どんな赤子だったかと問われても、そんなものは記憶に残っていない。

「いえ、あの……」

 答えようとした時に、微かに空気が震えた。緩やかに吹く風にのって、なにか音が耳に届いた気がした。私はそれを確かめようと首を傾げ、耳を澄ました。

 おぎゃあ、おぎゃあ……。おぎゃあ、おぎゃあ……。

 不意に赤ん坊の泣き声が思いのほか近くから聞こえた。火のついたように泣く声がふたつ。続いて母親が子をあやす声が届く。蜜のように甘い声。

 おー、よしよし。可愛いかわいい私の赤ちゃん。どうしてそんなに泣いてるの。よしよし、ほうら、笑って頂戴。可愛いかわいい私の杏子きょうこちゃん――。

「杏子ちゃん……?」

 その声の主を探し、船から身を乗り出して、深い霧の中を凝視する。声はすぐ近くから聞こえるのに、その姿はどこにも見当たらない。

 ひとりの赤ん坊は泣き止み、可愛らしい笑い声を上げ始めた。玩具おもちゃを与えられたのか、カラコロと音が鳴る。もうひとつはいつまでも母親を求めて声をあげていた。

 おぎゃあ、おぎゃあ……。カラコロカラコロ……。

 おぎゃあ、おぎゃあ……。カラコロカラコロ……。

 船は止まることなく進み続け、赤ん坊の泣き声も、玩具の音も遠く消え去っていった。私はいつまでも深い霧に沈んだ遥か後方を見続けていた。

「そんなに乗り出したら危ないですよ。どうしたんです。あの声に聞き覚えでも?」

「ええ、ええ、そうなんです。どうにも聞き覚えがある気がするんです。あの声……それに『杏子』という名前にも……」

「へえ、奇遇ですね。こんな霧深い船の上で知ったような声と知ったような名前に出会うなんて。でも、きっとなにかの勘違いですよ」

「そう……そうだとは私も思うんですけれど」

 でも、私は知っている。あの母親の優しい声も、愛おしそうに呼ばれる杏子という名前も。ようく、知っているはずだ。

 私は警戒心が強く逃げ足の速い鼠のような記憶をどうにか掴まえようとした。慎重に一歩ずつ忍び足で進み、手をゆっくりと伸ばす。しかし、あと少しというところで邪魔が入った。ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ……。耳から飛び込んできたその音で記憶はするりと私の手から逃れ、もう届かない遠いところへと逃げ去ってしまった。

「あぁ、ダメだわ、思い出せない」

 落胆のため息をひとつ吐くとゆるゆると頭を振った。一度掴みかけただけに、喪失感は大きかった。

「大丈夫ですよ。道中、まだ長いですから。ゆっくりと思い出せばいいんです」

 男は慰めるようにそういった。そして少し間をあけて、意味深に続ける。

「――慌てて間違ったら大変ですからね」

「記憶を、間違う?」

「ええ、ほら『記憶間違え』なんていうじゃないですか。これがなんてことないことならいいが、あなたはいま自分を思い出そうとしている。そんなときに記憶を間違えてしまうとあなたが――」

「間違えると私が……?」

 私は得体の知れぬ恐怖心に苛まれながら、しかし好奇心には勝てず男に尋ねた。男は目の前に置くようにそっと呟いた。

「――消えてしまいますからね」

 男のその一言は私に届くまでに何倍にも増幅され、全身から飛び込んで内部に反響した。ぐらりと世界が揺れる。彼の言葉が物理的な力を持ち、私の乗った船を転覆させようとしている気がした。慌てて縁を掴む。

「どうしました、そんなに青い顔をして」男は言った。「なにか怖いことでもあったんですか」

 ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ……。

 船は転覆てんぷくどころかゆらりとも揺れていなかった。今までどおりに滑るように水面を進んでいく。男はその船尾にぴんと立ち、座り込んだ私を見下ろしていた。ぐるりを見回すが世界はなにも変わらず平然とそこにいた。縁から外した両手で自身の身体をさする。

「いえ、すこし体調が優れないみたいで……」

「おや、大丈夫ですか? ここはほんの少しばかり寒いですからね」

 男の言葉に頷きながらも、私の頭の中にはさきほどの男の一言が寄せては返す波のように繰り返されていた。記憶を間違えると私が消える――。そんなことはあるはずがないと思いながらも、男の言葉にある妙な説得力に私の心は縛られてしまっていた。

「なあに、気にすることはないですよ」

「え?」

「要は間違えなければいいんです。正しく、本当のあなたを思い出せば、それでなにも問題はありませんよ」

 私の困惑を見透かしたように男は真珠のような目を細めて怪しく笑った。私はその様子を美しいと思い、同時に恐ろしいとも思った。しかし、いったい自分が彼のどこに恐ろしさを感じたのかが判然としなかった。

 彼の美しくも恐ろしい目から逃れるように身体の向きを変える。記憶を間違えないように順番にゆっくりと思い出そうとする。赤ん坊の次は……。

「あら」その視線の先で世界がすこし顔を変えた。「草地だわ」

 私たちの周囲を絶えず彷徨さまよっていた霧が初めて途切れ、ほんの少しばかりの岸辺が顔を出した。黒と白ばかりだった世界に鮮やかな緑色が眩しい。そこへ軽快な足音と楽しげな笑い声をあげながらふたりの少女がやってきて、ぺたんと腰を下ろした。ひとりは綺麗な格好をした可愛らしい女の子。もうひとりは薄汚れた服を着たおかっぱ頭の女の子だ。

 でも、本当にそのお人形かわいいね。

 うふふ、礼子ちゃんもそう思う? この子ね、お母さんに買って貰ったのよ。

 いいなぁ、私もそんなかわいいお人形ほしい。

 礼子ちゃんもお母さんにお願いしてみたらいいじゃない。

 ううん、だめだよ。うちは杏子ちゃんの家みたいにユーフクじゃないんだよってお母さんよく言ってるもの。うちはビンボーなんだって。

 礼子ちゃん家ってビンボーなの? ビンボーだとお人形買って貰えないの?

 うん、そうみたい。私あたらしいお人形なんて買ってもらったことないもん。

 そっかぁ、かわいそう。……そうだ、この子礼子ちゃんにあげる。

 え、だめだよ。そんなの杏子ちゃんに悪いよう。

 いいの、もらってちょうだい。礼子ちゃんは私の大事なお友達だもん。それに、お人形なんてまたお母さんに買って貰えばいいんだもの。

 そう? そうかしら?

 そうよ。それで私が新しくお人形を買ってもらったら、その子と一緒に遊んでくれるかしら?

 ……うん。杏子ちゃん、ありがとう。

 おかっぱ頭の女の子が人形を受け取って、ふたりは笑いながら手に手をとって来た道を戻っていく。私はその後ろ姿に声をかけたが、ふたりの少女たちがこちらに気づくことはなかった。

「あの人形……」

 少女たちが霧の中に姿を消すと、私はぽつりとこぼした。それを耳聡みみざとく聞き取った男が尋ねる。

「見覚えでも?」

「ええ、ええ。あの人形見覚えがあるんです。それにあの少女たちも……」

 私はさきほどすんでのところで取り逃がした記憶の尻尾を今度こそ掴んだ気がした。その記憶を逃がさないようにゆっくりとこちらへと引っ張っていく。そしてそれが私の手元にやってきたとき、頭の中で明るい光がパンと弾けた。

 ――どうして忘れていたんだろう。

「あれは、私だわ」

「ほう」男は相槌あいづちを打つ。「本当ですか」

「ええ、ええ。本当です。あれは幼い頃の私だわ。あの人形ようく覚えています」

 私は何度も頷きながらいった。

「そうすると、過去の自分をいまあなたは見かけたわけだ。不思議なこともあるものですね」

 男はさして不思議でもなさそうに言った。ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ……。男の変わらぬ様子と、規則的な音が私の興奮した頭の芯を冷やしていく。

「ええ、とっても不思議……」

 杏子と礼子。その名前にも聞き覚えがあるし、なによりあの人形。ブロンドの髪に青い目をしたあの人形を私は子供時代に持っていた。

 やはり先ほどの少女は私なのだ。それは間違いないように思える。

 だけど。冷静な思考が待ったをかける。そんなことがあり得るだろうか。

 大人になった自分の前に、子供の頃の自分が現れるなんていう不思議なことが、実際に起こり得るだろうか。いや、そんなことがあるはずがない。

 あの人形だって、大量生産されたただの玩具だ。たまたま同じものを持っていただけかもしれない。名前だってそう珍しいものでもない。

 偶然、だろうか。

 考えれば考えるほどわからなくなってきた。あの子供が私であるという確信が、あれほど強烈な確信が、いまはぐらぐらと揺れている。

「ところで」男が言った。「先ほどの女の子があなただとして、いったいどちらなのでしょうね」

「どちら?」

「ええ、女の子はほら、ふたりいましたから」

 なんの迷いもなく、身なりの綺麗なほうだと思い込んでいた。だが、たしかにどちらか判然としない。あの人形を持っていたことは覚えているが、あげたのかもらったのか、詳しいことは覚えていないのだ。

「私はたぶん、杏子というほうじゃないかしら」

 幾分かの希望も込めてそう言った。

「ほう、どうしてそう思うんです?」

「ほら、赤ん坊の泣き声が聞こえたとき、お母さんが名前を呼んでいたじゃない? 杏子ちゃんって。私はあの声にも聞き覚えがあったの。あやされていた赤ん坊がもし私だとしたら、私は杏子という名前だということにならないかしら。でもそうしたら、私は私の記憶を見ていることになるのだけれど……」

「そう、お気づきになりましたか」冗談めいた口調で男が言った。薄い唇が笑っている。三日月のように。「この世界はあなたの記憶を映し出すんですよ」

 私は言い知れぬ気味悪さを感じた。全身の肌が粟立っている。男はそんな私の様子には気づかなかかったようで、けれど、と付け加えた。

「決め付けることは危険ですよ。もし記憶間違いを起こしてしまったら――」

 ――私が消える。

 私は手振りで男の言葉を止めた。皆まで言われずとも、その言葉は私の脳裏にこびりついている。私の中で言い知れぬ不安がむくむくと頭をもたげてきた

 自分を消してしまうわけにはいかない。男の言葉をすべて信じたわけではないが、私の中には言い知れぬ焦燥感があった。記憶を探るように、灰色の川の上に忙しなく視線をさまよわせる。船尾にいる男は機械人形のように同じ動きを繰り返す。ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ……。船はどことも知らぬ目的地へと進んでいく。

「おや」

 今度は男が声をあげた。視線は前方を見ている。私がその視線を追うと、霧がふたつに別れ、夕日に染まる教室が現れた。信じられないが、そう表現するしかない。灰色の川の上にぷかりと浮かぶ、正方形の一角だけを切り取ったような部屋。いったいどうなっているのだろう。切り取られた部分を覗き穴のようにして、私は教室の中に目を凝らす。

 どこから差し込んでいるのか、教室の中は熟れた柿色に満たされている。行儀よく並んだ椅子と机。その間にブレザーを着た背中が見える。線は細いが男だ。その男と向かい合うようにして、ひとりの少女が伏し目気味に立っている。気恥ずかしいのだろうか、指でもじもじとフレアスカートをいじっている。

 呼び出しちゃってごめん。

 ううん、それで、用事ってなあに?

 えっと、あの……僕、あなたのことが好きです。よければ僕とお付き合いしてくれませんか。

 ……ほんと?

 うん。

 ……はい、喜んで。

 ほんとに?

 うん、私もずっと好きだったの。

 よかった。断られたらどうしようかと思ってた。

 ふふ、これで私たち恋人同士になったのよね。

 そう、そうだよ。恋人同士だ。だから、今日からは名前で呼んでもいいかな。

 それは、うん、もちろん。

 ……杏子ちゃん。

 はい……うふふ、なんだか恥ずかしいわね。

 うん、恥ずかしい。だけど、嬉しいよ。とっても。

 私もよ。ねえ、いまから一緒に帰らない?

 うん……あ、だけど、いつも一緒に帰ってる子はいいの?

 礼子ちゃん? うん、大丈夫。親友だもん、わかってくれるわ。

 少年と少女はぎこちなく手を繋ぐと部屋を出て行った。

 少女の嬉しげな笑い声が耳の中に残ってなかなか消えない。それがどうしてか私の心を毛羽立たせた。不快な笑い声を追い出すように頭を数度振る。

「体調が優れないんですか?」

 男の声が鼓膜を震わせる。先程まであったあの不快な笑い声はもうどこかへと消え去っていた。私は顔をあげ男を見る。男はこちらをじっと見つめていた。

「それとも」男の小さな口が動くのを私はぼんやりと眺める。「また見覚えが?」

 ハッとなった。見ている時は気付かなかったが、確かにあの光景を昔見ている。男の言葉が引き金になったように、その記憶が底のほうから浮き上がってきた。

 あれは確か中学校を卒業する少し前のことだった。柿色に満たされた教室。冬の澄んだ空気。先ほどの角度からは見えなかったはずの、少年の緊張した面持ちすらもはっきりと思い出せる。

「やっぱり、あれは私の記憶?」

 ひとりごちた言葉に男が答えた。その通りだと。

「先刻も言いましたでしょう。この世界はあなたの記憶を映し出していると」

 冗談としか思えない男の言葉に、今度は深く頷いた。普段ならば鼻で笑い飛ばす類の話だが、不思議と私は理解した。それがこの世界の特性なのだと。

「……だとすると、やっぱりあの子が私なんだ」

「なんだか、嬉しそうですね」

 男にそう言われて、初めて私は自分が喜んでいることに気がついた。ふつふつと湧き上がる嬉しさが、身体を震わせ少しくすぐったい。

「ええ、嬉しいわ。だって、あの子が私なのよ。かわいそうなお友達に人形をあげた優しい子。夕暮れの教室で愛の告白をされた可愛い子。その子が私」

 あの岸部にいるふたりの女の子を見た時から、あの惨めな子であって欲しくないと願っていた。その願いが届いたのだ。私は飛び上がりたいほどに嬉しかった。

「しかし、もうひとり、教室の扉の向こう側に少女がいたでしょう。そちらがあなたかも知れませんよ」

 男の言葉に私は首をひねった。

「そんな子、いたかしら……」

 教室の中心にいたふたりに目がいっていて、そんな細かいところまでは見ていなかった。何度か脳裏で先ほどのシーンを思い出してみるが、どうにも判然としない。

「でも、覚えてないってことは、それは私じゃないんじゃないかしら」自分の言葉に納得するように数度頷く。「そうよ、やっぱり私は告白されていた子よ」

「なるほど。あの子があなたですか」

 男は鋭い視線を私に向ける。目の前に刃物を突きつけられたような迫力に、びくりと身体を仰け反らせた。

「だとすると、あなたの名前は……」

 私は唾を飲み込んだ。やけに粘っこく喉に張り付いて気持ち悪い。もし、これが間違いだったとしたら、私は消えてしまうのだろうか。恐ろしい気持ちを必死で抑えて、震える声で答えた。

「私は、杏子。苗字はまだ思い出せないけど、でも、私の名前は杏子よ」

 言ってしまった。男の反応を目を見開いて待つ。

 男は私の言葉をゆっくりと吟味するように頷くと、口を開いた。

「それが」男の目がこちらを見据えている。爬虫類のそれのように感情の読めない目が、しかと私の姿を捉えている。「あなたの答えですか」

 男に問われ、私はほんの少し躊躇ちゅうちょした。だが、いくら考えようとも答えは変わらない。あの子が私なのだという確信はここに来て揺らぐことなく私の中にそびえ立っていた。

「はい」

 男は一度目をつぶり、もう一度言った。

「本当に、それがあなたの答えでいいんですね」

 念を押すような言い方に私の目の前に火花が散った。

 念? 念とは私に対する疑念ではないのか!

 火山が噴火するが如き爆発力を持って、怒りは一気に頂点へと達した。あまりの興奮に顔は真っ赤になり、身体が知らずぶるぶると震えた。

「私を疑うっていうの!?」

「疑っているわけではないですが、もし間違えていたら」

「間違ってないわよ!」

 男の言葉を私は甲高い声で遮る。船の縁を拳で叩くと、鈍い音がして船がゆらりと揺れた。鼻から音を立てて息をしながら、怒りに茹だる頭で懸命に考えを巡らせた。どうすればあの男に私のことを信じさせることができるのか。

 そのためには私が杏子であるという確固たる証拠を見せるしかない。杏子でしか知りえないことをあの男に見せつけてやればいいのだ。しかし、いくら記憶の中を探してみてもそんなものは見当たらない。思い出せるのは赤ん坊の泣き声と、少女時代のやり取り、それから柿色の教室くらいで――。

 そこまで考えたときに私はハタと気づいた。

 そうだ、いま目の前に私が、杏子がたったひとりで現れてくれれば。

 そうすれば、いくら頭の硬いこの男でも私のことを信じざるを得ないはずだ。

 私は船から身体を半分乗り出し、さらに首を亀のようにぐぐっと伸ばして霧の中を睨みつけた。白い霧の中にいるはずの自分を探して視線を巡らせる。

「出てきてよ! ねえ、お願いだから!」

 私の声に呼応するように靴音が響いた。硬い地面の上を歩くヒールの音だ。そうかと思えば霧の一部が風に吹かれたように開け、そこにひとりの女性の姿が現れた。私は歓声をあげ、それを迎えた、

「見て! 見なさいよ! あれが私、私よ!」

 リクルートスーツを着て颯爽と歩く女性を指さした。男はそちらをちらとも見ずに言った。

「そうですか? あちらの女性があなたでは?」

 男の視線を追って見ると、そこには喫茶店の椅子に座った女性がいた。こちらもリクルートスーツに樽のような身体をぎゅうぎゅうに詰め込んでいる。ボタンがいまにも弾け飛びそうだった。

「あれが私ですって! そんなはずないじゃない!」

 しかし、登場人物がふたりになってしまえば、どちらが自分か証明の仕様がない。思い通りにならぬ歯がゆさに下唇を強く噛む。ここはどちらかがいなくなるまで様子を見るしかないだろうか。

 そんな私を尻目に、ヒールの音高らかに歩いてきた女性・杏子が喫茶店に入る。店内を軽く見回して待ち合わせ相手を見つけると、謝る仕草をしながら席に着いた。

 遅くなってごめんね。

 ううん。でも、おかげでアップルパイふたつも食べちゃったよ。

 ふたつも? 相変わらずすごいね、礼子ちゃんは。

 どうせ、私はおデブちゃんですよだ。

 そんなこと言ってないじゃない、もう。ねえ、それ何飲んでいるの?

 これ? カフェラテ。ここのカフェラテすっごく美味しいんだよ。

 じゃ、私もそれを頼もうかしら。

 杏子が店員に注文を済ませる。礼子は皿に乗ったアップルパイの最後の一切れを名残惜しそうに頬張った。

 それ、三つ目でしょ? すごい食欲。

 甘いものは別腹だもん。それに、私就活がうまく行ってなくて……ストレス溜まると食べちゃうんだよね。

 ああ、それわかる。

 杏子ちゃん、ストレスなんてあるの?

 そりゃ、あるわよ。私のことなんだと思ってるのよ。

 でも、杏子ちゃん就活すごくうまく行ってるじゃない。内定いくつも貰ってさ。今日だって遅くなったの、もしかしてまた内定の通知でも来てるんじゃないかって私思ってたんだよ。

 ううん……ちょっと違うの。

 ちょっと違うって?

 なんかね、受けてない会社から二次の案内が来てさ。

 ……受けてない会社から?

 そう、名前もよく知らない会社から一次試験合格ですよーって。ほら、これなんだけど……。なんだか変だよね。誰かが私になりすまして受けたんじゃないかって、ちょっと怖いの。

 ……そう、そうなんだ。それは怖いね。

 でしょ?

 あ、ごめん。私ちょっと用事思い出しちゃった。

 慌てた様子で礼子が席を立った。礼子は自分の代金分以上のお金をテーブルに置くと、それじゃ、と言い残して立ち去った。杏子は普段からは考えられない素早さで店を後にする礼子に呆然と手を振った。

 ふたりが別れた!

 そのことに歓喜の声をあげた。これで杏子ひとりになれば、私が杏子だという証明になる。

 しかし、どうしたことか、視点は喫茶店を出て、やけに嬉しそうに歩くへとスライドしていく。椅子に座り首をかしげている杏子の姿をやがて白い霧が隠してしまった。

「どういうこと!」私は歩き続ける礼子と霧の彼方へと沈み込んでいった杏子を交互に見ながら、目を血走らせた。「違う、こんなのオカシイわ! これは私の記憶なんかじゃない! だって、これじゃ私が礼子になっちゃうじゃない! 私は杏子、杏子なのよ!」

 口から泡を飛ばしながらまくし立てた。男はその様子を無言で見つめている。

「ちょっと待って、待ってよ!」

 霧の中に消えた杏子を追いかけるように船の後方へと走り寄る。杏子へと伸ばした私の腕を、男が掴んで静止した。初めて触れた男の肌は硬質でひどく冷たかった。まるで死者の手のように。

「なに、するの! 離して!」

「危険なので、元の場所に戻ってください」男の掴む力が強まり、肌に白い指がくい込む。私は痛みに顔をしかめた。「ここからはスピードが出ますから」

 男がそう言うやいなや、船が一度ぐらりと揺れたかと思うと、ぐんぐんと速度が上がっていった。風景が白い線になって後方へと流れていく。

 私は船から落ちそうになり、慌てて縁を掴んでその場に座り込んだ。そうしていないと、今にも振り落とされてしまいそうだった。しかし、そんな中、男は変わらず船尾にピンと背を張り立っていた。

「止めて、止めてよ!」

「もう、止めようがありません」

 男は両手を私に見せた。その手にはなにも持っていない。船を動かしていたはずのかいはどこかへと消え去っていた。そういえばと私は思う。いつからかあの不快な音がしていなかった。

 男の目に妖しい光が宿る。

「分水嶺は、とうに過ぎ去りました」

 灰色の川は穏やかな顔を捨て去り、荒々しく猛っている。船は渦に巻き込まれる木の葉のように、頼りなく流れに身を委ねていた。その行く先から地を揺るがす轟音が壁のように迫ってくる。

「あれ、滝!? いや、落ちちゃう! いやあ、助けて! お願い!」

 行く手が突然に途切れ、灰色の川がそっくり飲み込まれている。私は男の足に縋り付き助けを乞うた。男はそれを振りほどくこともせず、淡々と言う。

「あなたは答えを間違えました。だから」突然、私を見下ろしている男の顔が崩れ、一塊ひとかたまりの肉がボトリと落ちた。ドス黒い色をした筋肉の隙間から白い骨が覗いている。「私と共に地獄へと落ちるのです」

 私は悲鳴をあげて後退あとずさる。離れてもなお彼から漂う腐臭に吐き気を覚え、船の縁から顔を出した。流れる灰色の水面に自分の顔が映り込むのを見た。

 私の一層高い悲鳴が大瀑布の轟音にかき消され、船はなんの躊躇いもなく地獄へと落ちていく。


 私が最後に見たのは醜く脂肪を蓄えた、

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