分水嶺

芝犬尾々

プロローグ

「……依然犯人の行方はわかっておらず、警察は全国指名手配として――」

 つけっぱなしのテレビの中で、七三分けのキャスターが真面目な顔でニュースを伝えている。私はそれを見るともなしに見ていた。朦朧とした意識の中で、情けない警察への罵詈雑言は泉のように湧き上がってきていた。

 警察はいったいなにをしているのか。卑劣な犯罪者なんてはやく見つけて、罰しなさいよ。私たちがなんのために税金を払っていると思っているの。懸命の捜査だとか言うけれど、そんなの結果を出さなければただの言い訳にしかすぎないわ。

 ――だって、本当に命が懸っているのはこっちなのだから。

 ずっと下になっていた半身が痺れてきたので、私は芋虫のように醜くもがきどうにか体勢を変えた。両足首と、腰の後ろ辺りで両手首をガムテープでぐるぐる巻きにされているせいで、ほんの少し体勢をずらすだけで大仕事だ。しかも、口の中に詰め込まれたハンカチのせいでひどく息苦しい。

 私がこの部屋に監禁されて、今日で五日目になる。

 そこここに食べ終わったカップ麺の容器や、小さくまとめられたゴミ袋が散乱している。床に這いつくばった私の目の前をゴキブリが我が物顔で通り過ぎていく。

 こんな部屋にいつまで私はいなければいけないのか。

 警察はなにをしているのだろう。

 今頃、私の行方を必死になって探してくれているだろうか。

 それとも、私がこうして拉致・監禁されていることに気づいてすらいないだろうか。

 いや、きっと大丈夫。いまにもあの立て付けの悪いドアを蹴破り、警察官が私を救いに来てくれる――。

 そんな夢想はひどく不快な、階段の軋む音に打ち砕かれた。

 ――あいつが帰ってきた。

 あの大きな身体を揺らしながら、ボロボロの外階段をあがってきている。ところどころの腐った木の階段が、一歩ごとに大きな悲鳴をあげている。

 鼻をつく生ゴミの腐った臭いと共に、あいつの存在が私の空っぽの胃を痙攣させる。弱りきった身体は胃液すら吐き出せず、ただ嗚咽を繰り返すだけ。口の中のハンカチはカラカラに乾いていた。

 錠が回り、ドアが開く。雨でも降っているのか、じっとりと重い空気が床を這うようにやってきて、私にまとわりついてくる。

 あいつは怠惰そうに靴を脱ぐと、部屋の真ん中あたりまでやってきて私を見下ろした。テレビの光を背に受けて影に沈むその中で私を見る目だけが爛々と輝いていた。

 おおきく息を吐くと、手に持った買い物袋を床に置きベランダへと続く窓を開ける。部屋の中で濁りきった空気が、私を置いて我先にと逃げ出していく。

 私は身体をもぞもぞと動かして、声をあげた。といっても、口の中にハンカチをめいっぱい押し込まれているので、くぐもった小さな声だ。到底外までは届かない。

 私のほうを振り向く。私は腰をくねらせるような動きをした。トイレに行かせてくれという合図だ。あいつもそれを理解したらしく、こちらへと床を軋ませながらやってきて、私の目の前でしゃがみこんだ。

 騒げばどうなるかわかってるだろうな。そう言うようにあいつが右拳をぐっと握って目の前につき出してきた。私は反射的に痙攣めいた小刻みな頷きを返す。あの拳で何度殴られたか。頭で考える前に身体が拒否反応を示している。

 それを確かめると乱暴にガムテープが剥がされる。皮膚が引っ張られ痛いが、懸命に声は堪える。少しでも機嫌を損ねると、あの拳が鳩尾に突き刺さるかもしれない。

 恐怖に耐えながら私はゆっくりと立ち上がった。食事もまともに与えられていない身体は弱りきり、ただ立っているだけでも全身の筋肉が悲鳴をあげている。いまにも倒れてしまいそうな身体を壁に寄りかかるようにしてなんとか支えていた。

 あいつは私のそんな様子を見ると、唇にいやらしい笑みを浮かべ、ふいと背を向けた。もう私にここから逃げるだけの体力がなく、しっかりと監視している必要がないと判断したのだろう。

 そのままベランダに出ると、うまそうにタバコを吸い始めた。その大きな背中をじっと見つめながら、私は瞬時に決心をした。

 このタイミングを逃せば、あの卑劣な犯罪者から逃れることはできない。これ以上弱り切る前にどうにかしなければ。

 だが、あの立て付けの悪い玄関を開いて走って逃げることなど到底できそうにはない。

 ならば、どうすればいいのか。

 そっと壁から手を離す。

 逃げることができないなら、戦うしかない。

 生まれたての仔鹿のごとくぶるぶると震える足を叱咤して、私は一歩を踏み出した。

 あいつは私の動きに気づいていない。

 二歩、三歩と進む内にようやく足が動き方を思い出したようだ。

 そこから一気に勢いをつけて走り出す。

 狭いワンルーム。駆け抜けるのはほんの数秒あればよかった。

 あいつが気づいて振り返った時には、私はもう目と鼻の先まで迫っていた。

 間の抜けた顔をしているあいつに勢いそのままにぶつかる。潰された蛙のような声が頭上で聞こえた。肩が柔らかい脂肪に突き刺さる感触があった。

 ゴムまりのようにぐっと押し返す反発があったあと、あいつの背後でバリバリと音がした。ふいに抵抗がなくなり、私の身体を浮遊感が包み込んだ。

 どうやらベランダの手すりが壊れたらしい。

 私、ここで死んじゃうのかな。

 なら、これが私にとっての最期の景色になるのかしら。

 生にしがみつくように、私は視界の中をゆっくりと滑っていく景色を網膜に焼き付けようとしていた。

 重苦しく垂れ篭める灰色の雲の隙間から、太陽の光が差し込んでいるのが、ひどく綺麗だった。

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