2018.8.12怪しいから身元調査をやってみた:劉伯根への応援コメント
>その筋の専門家、まめさん
専門家というのは、アレですが、通俗続三国志や通俗続後三国志、三国志後伝を小説として筋道が立つように分析した視点で読んでいた人は、日本どころか、世界でもただ一人だったかもしれませんね(笑)
劉柏根は資治通鑑でもそれぐらいの記述しかありませんね。
>王彌は洛陽で劉淵と知り合っています。
>二人はどこで知り合ったでしょうかね。
どうなのでしょう。洛陽には、武術同好会みたいなものがあったのでしょうか。劉淵は張華が推薦しているので、王彌もその系列に入っていたかもですね。王彌は、賈充や楊駿の派閥に入られないし、入らないでしょう。
三国志後伝では、以前、申し上げた通り、劉曜が斉万年の乱(296~299年)の時に成人しておらず、蜀漢滅亡から呉滅亡(280年)までの期間か、司馬炎の死去(290年)までは時間が経過していないものと考えています。
仮に蜀滅亡が285年とすれば、304年で劉曜が数えで20歳、310年で26歳ですから、イメージにはあうでしょう。
現代的にリアルに変えるなら、1世代、劉淵の世代を下げないといけませんね。ここは、酉陽野史も悩みどころだったと思われます。
2018.8.10怪しいから身元調査をやってみた:劉霊への応援コメント
資治通鑑でも調べてみました。ここのサイトなら簡略に検索できて、かつ、故三省音注も載っています。
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%e8%b3%87%e6%b2%bb%e9%80%9a%e9%91%92_(%e8%83%a1%e4%b8%89%e7%9c%81%e9%9f%b3%e6%b3%a8)/%e5%8d%b7086
劉霊に詳しく載っているのは、
初,陽平劉靈,少貧賤,〈少,詩照翻。〉力制奔牛,走及奔馬,時人雖異之,莫能舉也。靈撫膺歎曰:〈膺,胸也。〉「天乎,何當亂也!」及公師藩起,靈自稱將軍,寇掠趙、魏。會王彌爲苟純所敗,靈亦爲王讚所敗,遂俱遣使降漢。〈敗,補邁翻。《考異》曰:《彌傳》曰:「彌逼洛陽,敗於七里澗,乃與其黨劉靈謀歸漢。」按《十六國春秋》:靈爲王讚所逐,彌爲苟純所敗,乃謀降漢。今年春,靈已在淵所,五月,彌乃如平陽。然則二人先降漢已久矣,《彌傳》誤也。〉漢拜彌鎭東大將軍、青‧徐二州牧、都督緣海諸軍事,封東萊公;以靈爲平北將軍。
のところです。現行の十六国春秋も同様の記述ですね。晋書だけでは、なぜ、劉霊があれほどまでの武勇の持主に三国志後伝でされているのか、分からないのですが、「力制奔牛,走及奔馬,時人雖異之,莫能舉也」なら、水滸伝風の豪傑ということで、描写だけなら許褚以上ということになります。
酉陽野史さんの出典は、晋書、資治通鑑、捜神記は確実ですね。世説新語は含まれるかは気になりますが。
なお、資治通鑑には、同じ頁に、
詔以王衍都督征討諸軍事。宮純募勇士百餘人突陳,〈陳,讀曰陣。〉彌兵大敗。乙丑,彌燒建春門而東,衍遣左衞將軍王秉追之,戰于七里澗,又敗之。
とあるので、慕容恪のまとめで書いた通り、資治通鑑>晋書なので、
北宮純と王秉の評価はあがりますが、王衍はさほど上がりません(笑)
やはり、「北宮純、強い!」ってことですね。
酉陽野史が晋書だけを参照にしていたら、もっと講談めいた内容になり、歴史好きを楽しませるものにはならなかったでしょう。
作者からの返信
こんばんは。
ご教示ありがとうございます!
> 「力制奔牛,走及奔馬,時人雖異之,莫能舉也」
「力制奔牛」だと許褚っぽいずんぐりむっくり力持ちのイメージですが、
「走及奔馬」があると細マッチョっぽくてカッコイイですね(笑
しかし、これだけの能力がありながら推挙されなかったとは、
どういうことなんでしょうね。武帝の軍備縮小時期だったのかな。
> 王衍
北宮純と王秉を挙げ用いたから、
知人の鑒があったんじゃないですかね。
そこは評価してあげてもよいかも知れませんよ(笑
人の上に立つ人と人の下で働く人の評価は違いますからね。
その前に大きなミスというかアカンとこが多い感じですが、
どうなんでしょうね、王衍さん。
2018.8.25ノラ漢文読みのアタマの中3への応援コメント
歴史を研究するってのは、資料をしっかりと読み込まないといけないのは重々。僕なんかは日本史(の中の津軽)なんでもちろん日本語だし、古語的な物があっても一応は読みやすい物がそろっている。
ただ河東竹緒様の場合、それが中国となるとなおさら大変……慣れてしまえば違う世界が見えているんでしょうが、苦労が果てしなく思われます。僕なんか漢文の所を飛ばし気味で読んでしまいました(汗)すいません。
そんな中でつじつま合わせもしなければいけないし、頭よくなきゃできませんね(笑)
こちら時間の余裕ができてきたので、続三国志演義の方も読みに伺います。よろしくお願いします。
作者からの返信
かんからさま
こんばんは。
ご無沙汰しております!
『津軽藩起始 浪岡編』もスクスク育っておりますね。そろそろ頂いてしまおうかな(笑
〉もちろん日本語だし、古語的な物があっても一応は読みやすい物がそろっている。
古文も漢文も訓練が必要ですから、結局はあまり差がないかも知れません。物量的には日本史のが圧倒的に多いですから、むしろ大変だと思います。
漢文を好むという嗜好がすでに少数派ですから、こんなのを書いてもだいたいの方は目をパチクリさせるだけなんですけどね。
まあ、こんなコトをしているヤツもいるよ、奇特だね、というくらいの感じで。
辻褄は、そもそもあってなかったりする場合もありますから、仕方ないですね(笑
〉続三国志演義
エラく長いモノになってしまいました。
おヒマな折にさらっとご笑覧頂ければ幸いです。
2018.8.25ノラ漢文読みのアタマの中3への応援コメント
「者」
地味に読みにくいやつ。
日本の古文書では「は」になるんですよね。私者→わたくしは、と。
日本人が漢文で書いた漢方薬の本を訓読する、というバイトをしていたときに悩まされたのが「者」の扱いでした。
「肺虚者」みたいに「症状+者」の場合、「その症状の病人」を主語にすべきか「その症状は」と解釈すべきか。
「処」さん、「観」さん
人名なんですね……。
「、」と「,」
現代中国語ベースの句読点が打ってある場合、ここ注意ですよね。
見落とすと、訓読が何かアクロバティックなことになったりします。
作者からの返信
こんばんは。
> 地味に読みにくいやつ。
これ、ほんと扱いに困る場合がありますが、
「もの」「は」「とは」「ば」あたりの
どれがかだ、という先入観で訳しています。
だいたいは主題の強調か、仮定ですよね。
そしてイタイ目を見る。。。
> 日本の古文書では「は」になるんですよね。
古文では、今者(いまは)、昔者(むかしは)の
エクストリームな用例にビックリしました。
>日本人が漢文で書いた漢方薬の本を訓読する
あー、これはキツイ。
引用文もあるでしょうから、漢文と古文の用例が
錯綜しそうですね。発狂しちゃう。。。
>「肺虚者」
確かに!
人なのか、主題なのか。
この一語の解釈で後文とつながらなくなりますね。
「放置して後から考えよう(そして訳し忘れる)」
パターンですねー。
何かがフラッシュバックしそう。
>「処」さん、「観」さん
周處は暴れ者の小僧から改心して『風土記』のような
博物誌に類する著作を物するまでになった頑張り屋、
孟観は優秀ですが趙王倫に与して刑戮されてしまい、
こういう人材の浪費も八王の乱の弊害でありました。
>「、」と「,」
これ、「、」が併記で「,」が読点ですよね。
間違えて「ん?ん?」となる場合があります。
個人的には併記には「・」を使いたいので、
けっこう違和感ありますー。あと、よく間違えます。
ホント微細なんだけどなー、キッチリ影響します。
あー。
2018.8.23ノラ漢文読みのアタマの中2への応援コメント
おはようございまー。
あんまり早くないですが。
島旅1週間がなかなかハードで、やっと日常に戻った感じなのです。
アタマの中、どうやってるかな?
ハッキリしているのは「いちいち返り点を付けない」ことですね。
上から下へ、たーっと文字を目に入れながら、一瞬遅れて訓読文への並び替えをやっている感じ。
訓読文を清書しない場合は、並び替えせずに意味だけ取りますね。
理系研究者の友人らが「私たちが英語の論文を読むのと同じ感覚とスピードで、氷月は漢文を読んでる」と表現してくれたことがあります。
英語がこの感覚で読めるほうが日常の役には立ちます。
作者からの返信
こんばんはー。
わざわざありがとうございます。
〉島旅1週間
あー、五島ですか。
いいですねー。
今夏は知人がいる小佐々までみたいです。五島はなかなかに遠い。
ちなみに、知り合いに五島=ごしま、という姓の人がいて、へー、でした。
何処由来かは不明。
〉「いちいち返り点を付けない」
たしかに、
黙読する際に返り点はつけないですね。
〉訓読文を清書しない場合は、並び替えせずに意味だけ取りますね。
そうですね。
読み方次第ですが、『通鑑』あたりはそういう読み方じゃないと終わりませんし。実際にはじっくり読む時間がある方が望ましいのですが。。。
自分自身は訓読をやらなくなって久しいのですが、本サイトに来て久々にやっています。
〉私たちが英語の論文を読むのと同じ感覚とスピードで、氷月は漢文を読んでる
ぶっちゃけ、
英文も漢文も固有名詞と単語の意味だけの話で、あとは文脈見れば分かるだろ、という意見ですが、まあ乱暴ですね。
通じる人にしか通じない意見です。
知りたいのは、
その、
なんで固有名詞と単語の意味が分かれば読めるかなんだよ!
と言われれば、たしかに然り。
なんで、
漢文読みを分解してみたいんですよねー。
オペレーションって大事ですよね。
どうも漢文教育はその辺が曖昧だ。
ぐちゃぐちゃ言う方はおられますが、オペレーションに落として話す人がいない。
だから読めるようにならないのかなあ、と。
現文も然りですが、
読める人には読めない人のキモチは分からない、
これが不動の哲理のように思えています。
だから、学部や院で読めるようになった方は、
メッチャ努力しているんですよねー。
スゴイですよ。
編集済
2018.8.20ユーラシアの端っことしての中原への応援コメント
【追追記】
先日神保町をさ迷い、いっちーに出会えたので購入しました。史記の方は、お値段を見て即退散…あれは母校の図書館をどうにか使えるようにした上で接したい、と思いました。あるいは次の次のボーナスかな…
いやはや、興味ある本を買うと、すごい勢いで諭吉が別れを告げてきて恐ろしいです。
※
自分の狭い観測範囲からしても、あの豊かなエリアはみんなほしいし、一旦手に入れたら豊かになるので柔弱になる→周りの強い奴らにもれなくボコされる、みたいな流れを妄想してしまいます。そして、そういう原則ってどこまでもついて回るんじゃね? と、北魏、遼、元、清を見ていたら思わざるを得ず。
「殷と周は強かった」。
これだけでも、外部からの侵略の証左とみなしていいんじゃないか…という暴論を今思いつきましたw
※
おお、ここでいっちー!w
かの御大の名前は、ちょっとかじった程度の人間が手を伸ばせるあらゆるエリアにいらっしゃりそうですw
周の放伐については、何やら突然伯夷叔斉がすとんと腑に落ちました。紂王が無道なら、なんであの二人リスペクトされとんねん、って。
まあそこを考えてみたところで、結局歴代的に「無道の紂王の息子が抱いていた旧国への忠誠」がリスペクトされてきた事実は変わらないんですよね。うーん、自分のこの現代人的観点が煩わしい。
作者からの返信
【追記を受けて】
〉いっちー!
宮崎市定センセイは巨大ですよね。
『鹿洲公案』(東洋文庫)は清代の裁判記録ですが、メチャクチャに面白い。特に冒頭は、雍正帝が名知事となる藍鼎元を潮陽県に遣わすまでを小説風に描いており、そのまま行くと中国官僚版の半沢直樹になりそうなクオリティ。
筆が立つとはこういうこと、多作な方ですが、もっと一般書を書いて欲しかった。。。
聞くところ、院生や若手研究者が一般書を執筆するのはよしとされていなかったそうです。やはり、一般向けでは調査や論述が甘くなるからでしょうね。
たしかにそうなんですけど、これほど学界と一般教養が乖離するとはセンセイの慧眼でも見通せなかったんでしょう。。。当たり前か。
〉伯夷叔斉
殷と同じ子姓ですが、支族である孤竹国の王子、歴世に渡って節義の人とされています。
殷の王子は箕子と比干ですね。
轡を捉えて周の放伐を諌め、その禄を食むことをよしとせず首陽山に隠れて餓死したとされる二人。『史記』のテーマ「天道、是か非か」を象徴する人物です。
〉「無道の紂王の息子が抱いていた旧国への忠誠」
この理解では単なる守旧派になるので、紂王を含む同族への強い帰属意識が称揚されたのではないかと思います。
それは時代が下るにつれて細分化され、理解できない部分が忠義という国家に対する概念にすり替わっていったのかなあ、という妄想ですね。
〉紂王が無道
『論語』の時代から疑義が呈されており、また、夏の最期の王である帝辛の逸話との類似性から流用も疑われていたりするみたいです。
亡国の王はテンプレ化が進んでおり、日本では『日本書紀』武烈天皇の記事にも流れ込んでいますね。
武烈天皇の後は福井県から来た継体天皇ですから、言わんとするところはうっすら伝わりますね。
不敬罪。。。
※
こんにちは。
〉あの豊かなエリアはみんなほしいし、一旦手に入れたら豊かになるので柔弱になる→周りの強い奴らにもれなくボコされる、みたいな流れ
そんなアナタにこの本を。
宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』(東洋文庫)
こちらが限りなく近い内容になっております。
触発されますよ。
〉「殷と周は強かった」。
殷は河東解の塩池を握って勃興した、というハナシも聞きますが、はてさて。
周はどう見てもバイオレンスなんですよね。
放伐。
しかも場所が当時の辺境。。。妄想しますよね。
編集済
2018.8.23ノラ漢文読みのアタマの中2への応援コメント
このやり方だと事故が少なそうですねー。
おっちょこちょいゆえに、すぐに先走ってオモシロ訓読爆誕させる身としては、立ち止まることをもっと大切にしないと…。
作者からの返信
こんにちは。
考えられる限り、
一番バカなやり方です。
実際には、みんな慣れて脳内で
完結させてしまうのですけども。
やってることは同じじゃないかな。
氷月さんあたりの見解も
伺いたいところですね。
2018.8.18ノラ漢文読みのアタマの中1への応援コメント
めくるめく読みにくさ(笑)
ありますあります。
謎な俗字に七転八倒した挙げ句、気まぐれで開いてみた現代中国語の辞典にソレが掲載されていて「さっき溶けて消えた2時間は何だったんだー!」と叫んだり。
フツーに読める字ほど漢文では引っ掛かりがちだから、一文中の全文字を辞書で引くことになったり。
めっちゃ時間が溶けてなくなるやつですね。
固有名詞に「おまえ誰やねん」はもちろんのこと。
「何人の名前なんだよ、おまえ読みにくい!」も多発しますし。
「おまえ固有名詞だったのかよー!(ぷっつん)」もありますね。
完全白文の点と丸の位置の見極めは、何なんでしょうね。
スパスパ決まる時がまれにありますけど、あれはテレパシーを受信している気がします。自力じゃない気がします。
作者からの返信
こんにちは。
〉めくるめく読みにくさ(笑)
単純に字が汚いとか、やめて欲しいです。
〉気まぐれで開いてみた現代中国語の辞典にソレが掲載
宋代以降の影印本あるあるみたいですねー。
汽水域だからしゃーないっちゃしゃーない、
と割り切るしかないのかなあ。
俗字辞典なんてのもありますからね。
古文書かいな。。。
〉フツーに読める字ほど漢文では引っ掛かりがち
英語のgetやtakeみたく文脈から意味を
判断するしかないタイプのは厳しいです。
なんじゃそらー?!みたいな用例があったり。
固有名詞はもう仕方ないです。
西洋人とかどうしようもないですし。
白文の句読点切りはたぶん既存のパターン認識に
ハマるかハマらないかに左右されていますかね。
たぶん一瞬で勝負はついていて、自覚的には
その後追いなんじゃないでしょうか。
なんかそんな気がしました。
2018.8.18ノラ漢文読みのアタマの中1への応援コメント
この記事を読んで、「今の俺のレベルで句読点なしとか時間の無駄じゃね…?」って急激に思えてきました。
帰宅したら句読点付き原文に戻そう…(句読点なしにしてから目加田先生に頼る割合がひどくなってた)
それはさておき、通鑑楽しいですね! 順番が明らかにおかしいのは、まぁ気にしません。
作者からの返信
こんにちは。
〉「今の俺のレベルで句読点なしとか時間の無駄じゃね…?」
物事には順次がございます。
やはり固有名詞の判断がつくまでは、
標点本を読むのがオススメですかね。
しかし、それはそれで引きずられる。
難しいです。
〉通鑑楽しいですね!
『通鑑』は読んだつもりが覚えていない
ステキな仕様ですから、楽しいけれども
なんか忘れてしまいます。
何なんでしょうね、アレ。
2018.8.18ノラ漢文読みのアタマの中1への応援コメント
大学時代を思い出すなあ……
中文専攻でもないのに、なぜか句読点なしの白文を読まされる授業があったので(今はもう無理)。
固有名詞には本当に惑わされたものです。
心の叫び、よっっくわかりますよ。
それでも続けているのがすごい。
作者からの返信
ご無沙汰しております。
『紅鷹』は溜まるのをお待ちしております(笑
二条さんも漢文訓読経験者だったですか!
大学生で句読点なしは厳しいですよねー。
スパルタというより漢文嫌いが増えそう。
続けているのは、
・ひとりでできる
・他に趣味がない
以上の理由によるものと考えられますね。
ツライ(笑
編集済
2018.8.14怪しいから身元調査をやってみた:諸葛宣于への応援コメント
なんと言ういうときめいて仕方のない記事……w
高車とか、後年には拓跋珪の妨げにもなったりしますものね。この複雑怪奇きわまりない勢力変遷、世代を跨いだ因縁劇みたいな感じに局所化できれば、少しは分かりやすくなりそうです。
まさに特攻の拓、まさにクローズ~WORST !
以前レビューで、五胡十六国を「ヤクザの抗争」に喩えた人がいました。当時はいらっときてましたが、取っ掛かりを拾ってもらうには、敢えてその要素にフォーカスしてしまうのもひとつの手立てなのかもな、と思いました。
作者からの返信
こんばんは。
怪しい読み物ですね。
〉高車とか、後年には拓跋珪の妨げにもなったりしますものね。
そうですね。
しかし、高車と勅勒の違いがイマイチ釈然としません。
北魏末には西部高車のようなのが朔州や高平にいたわけですが、高車と言われたり勅勒と言われたり、一貫性がない。
勅勒と鉄勒も、同じのようでなんか違いそう。
遊牧民はあちらから見た史料がないから難しいです。
〉五胡十六国を「ヤクザの抗争」に喩えた人
それは適切かも知れませんよ。
みんな勘違いしてますが、古代に個人はありません。例えば、俗信にしても社のような村落共同体、あるいは、城隍神のようなおそらく条坊単位の神、五祀のような家屋の祭祀が先にあり、竃の神がその中で最も普及し、道教普及後に南斗や北斗の神、あるいは三尸虫のような個人の命数を司る神に遷移していきます。
これはまあ仮説ですが、たぶん正しいだろうと思います。
社とか行商人にはあまり関係ないし。
古代の人々の優先順位は、部族〉一族〉家〉個人、それで当たり前だったはずです。
このあたりの考え方は江戸期の武士に近く、それはいわゆる度胸千両の稼業の方々も同じです。
だから、当時の方々の考え方を追懐するには大事だと思いますよ。
2018.8.10怪しいから身元調査をやってみた:劉霊への応援コメント
王衍つええって思いました。
本棚に下敷にされるだけの人じゃなかったんや…
作者からの返信
こんにちは。
これだけ見ると王衍を見直したくなりますよね。
この時の王彌は兗州刺史の苟晞にブッ飛ばされた後、山東から河南を襲って許昌を破り、数万の軍勢を率いていました。許昌で兵器も奪って。
しかし、武装食い詰め数万を洛陽で禁兵を率いて退けたとして、果たして評価できるかはビミョーかなあ。
超有利。
ただ、劉淵の軍勢がその辺の食い詰めとは明らかに違った、と言えそうですね。
つーか、山東から洛陽まで攻め進まれんなよ。。。
編集済
序、というほどでもなく。への応援コメント
お疲れ様です。
twitterはDMであっても3月までは決して使わないと決めているので、ここにお知らせします。
はじめての三国志サイトで、三国志後伝が紹介され、通俗続三国志のところにもリンクが貼られています。(11月にアップされたようですが、気づかなかったです)
また、動画も昨日(1月23日21時頃)にアップされています。閲覧数が増えるといいですね。
リンクは私のnoteをご覧ください。
https://note.com/2020195/n/n154e5e8c2bb2