応援コメント

2018.8.14怪しいから身元調査をやってみた:諸葛宣于」への応援コメント


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     なんと言ういうときめいて仕方のない記事……w

     高車とか、後年には拓跋珪の妨げにもなったりしますものね。この複雑怪奇きわまりない勢力変遷、世代を跨いだ因縁劇みたいな感じに局所化できれば、少しは分かりやすくなりそうです。
    まさに特攻の拓、まさにクローズ~WORST !

     以前レビューで、五胡十六国を「ヤクザの抗争」に喩えた人がいました。当時はいらっときてましたが、取っ掛かりを拾ってもらうには、敢えてその要素にフォーカスしてしまうのもひとつの手立てなのかもな、と思いました。

    作者からの返信

    こんばんは。
    怪しい読み物ですね。

    〉高車とか、後年には拓跋珪の妨げにもなったりしますものね。

    そうですね。

    しかし、高車と勅勒の違いがイマイチ釈然としません。

    北魏末には西部高車のようなのが朔州や高平にいたわけですが、高車と言われたり勅勒と言われたり、一貫性がない。

    勅勒と鉄勒も、同じのようでなんか違いそう。

    遊牧民はあちらから見た史料がないから難しいです。


    〉五胡十六国を「ヤクザの抗争」に喩えた人

    それは適切かも知れませんよ。

    みんな勘違いしてますが、古代に個人はありません。例えば、俗信にしても社のような村落共同体、あるいは、城隍神のようなおそらく条坊単位の神、五祀のような家屋の祭祀が先にあり、竃の神がその中で最も普及し、道教普及後に南斗や北斗の神、あるいは三尸虫のような個人の命数を司る神に遷移していきます。

    これはまあ仮説ですが、たぶん正しいだろうと思います。

    社とか行商人にはあまり関係ないし。

    古代の人々の優先順位は、部族〉一族〉家〉個人、それで当たり前だったはずです。

    このあたりの考え方は江戸期の武士に近く、それはいわゆる度胸千両の稼業の方々も同じです。

    だから、当時の方々の考え方を追懐するには大事だと思いますよ。