第5話
席に着いて、最初に出されたのはやはりコーヒーだった。縹の手元にはミルクピッチャー。夏生の手元には何もなく、ブラックコーヒー。前回の会話を覚えてくれていたようで、妙に感心してしまった。
「さて、今日呼び出した用件だけど、いい知らせになりそうな悪い知らせがある」
「いい知らせと悪い知らせがあるのではなく?」
「映画だとそういう文言が決まりだけどね。そういうものは大抵表裏一体、裏返してしまえば最悪の最悪だったりするものさ」
「確かに……」
縹の言い分に素直に納得させられてしまった。
「いい知らせと悪い知らせ、どっちを先に聞く?」という問いかけの後には、決まってオーバーリアクションの「最悪だ!」がセットになっている。喜びの声が上がるところをあまり見たことがない。
「この三日、かかりきりでキミの母上のクリスタルの解錠に挑んでいるが……キミの母上は特殊な精神構造の持ち主だったのか? 化け物みたいだぞ、これ」
縹の物言いはどこまでも失礼なものだ。普通、肉親を前にして化け物呼ばわりはないだろう。
さすがに二回目ともなると、本人に悪意はなく、こういう物言いが縹の素なのだと理解できた。理解できたところで、不快な思いはそう簡単に消えてはくれないのだが。
相手の明け透けな物言いに、遠慮しているこちらが間違っているような気がしてきた。年も近そうなことを考えれば、あまりかしこまる必要はないのかもしれない。
ここ数日、本を読んで疑問に思ったことをぶつけるなら今がチャンスだと思った。
「あの、そもそもクリスタルの回路ってどうやって出来上がるものなんですか? チップを加工してクリスタルが出来上がるのは知っています。回路も加工の途中で業者の人が作るものなんじゃ……?」
夏生が見つけたクリスタル関係の書籍の中には、工学的な見地からクリスタルについて述べているものはほとんどなかった。この世を去る人のための、死生観・人生観に基づいた、遺品整理の一環として書かれているものばかりだったのだ。
それらは母がクリスタルを遺した意味を想像する手助けにはなったが、真実を掴むための鍵にはならなかった。真実は、縹に託した母自身のクリスタルの中にしかないのだから。
「クリスタルを目にするのはこれが初めて? 亡くなってるとかいう父上はチップをクリスタルにはしなかった?」
「はい。父も病死でしたが……チップを外すことなく亡くなったので、そのまま……」
「まあ、そりゃそうか。自分の身体の中に入っていたものを加工して遺したいなんて物好き、あまりにも多かったら加工業者の数が足りなくなる」
「本も色々読みました。けれど、どれも技術的なことは何一つ書いていなくて……僕は誰かがクリスタルを遺す気持ちを知りたいんじゃない。母さんがどうして遺したのか知りたいんです。母さんのチップが、どうしてこうなったのかを」
母親の左手に埋め込まれていたチップ。彼女と半生を共にしたであろうそれが、どうやったらあのような不気味でありながらも美しいクリスタルの形を取れるのか。
縹はどこか眠そうな眼差しで夏生を見つめると、ポケットから無造作にクリスタルを取り出した。机に置かれたそれは見間違いようがない――夏生の母親のものだ。
「このクリスタル、最初からこの状態で渡されたのか?」
「はい。箱には入っていたけど、取り出したときにはこの状態でした」
「クリスタルにおける回路は、見ての通り真っ赤な直線たちで構成されている。で、この回路というのはこの世でひとつとして同じ形のものにならない。何故か分かるかい?」
「……チップの持ち主が全員違うから?」
「ご名答。クリスタルの透明な部分は、回路を形成するための特殊な材質で出来ていてね。中心に嵌め込まれたチップの内容を読み込んで、透明な部分に赤い直線がじわりじわりと引かれていくんだ。勿論、読み込んだ内容に従って自動的にね。チップの中身というのは、当然人それぞれ違う。チップに何を記録したか、チップを使って何をしたか、そういうものの中身を一つ一つ読み取って、独自の回路をなす」
縹の指先がクリスタルの縁をゆっくりとなぞる。何故かその動きを目で追ってはいけないような気がして、夏生は慌てて視線をコーヒーの黒い湖面に落とした。
「クリスタルについて色々調べたようだけど、本に載っていないのは当然さ。クリスタルに関する産業は、これから伸びしろのあるものだからね。関係者はライバルを蹴落とすのに必死だから、同業者どころか、新規参入の芽になりかねない一般人への解説も拒む。書籍化なんて、技術の流出になりかねないものだ。だから結局、スピリチュアル方面の内容しか盛り込めない。キミが読んだのはそういう本さ」
「そんな……それじゃあ僕らみたいな一般人は、何も知らないままお金を出すしかないじゃないですか。書かれているのが、遺す側の心の準備の仕方だけなんて……」
人の死と想いは金になると言われたような気がした。いや、事実そうなのかもしれない。人がいる限り、生と死の営みは存在し続ける。それに纏わるものは途切れることがない――連綿と連なるものには金の切れ目がないのだろう。
「クリスタルの詳しい話が聞けるのは、それこそ死に直面して自らのチップをクリスタルとして遺したいと思った者だけ。死にゆく者になら何を話しても大丈夫、ってね」
縁をなぞっていた縹の指先が、夏生の方へクリスタルを押し出した。
「心と体、遺す者と遺される者。現在のクリスタルに関する書籍のほとんどは、チップを遺す側に心の準備をさせるためにある。いくら伸びしろのある産業といったって、クリスタルの加工業は客がいなければ成り立たない。出ている書籍は、チップをクリスタルに加工することについて、客に気持ちよく納得してもらうための理由を提供しているに過ぎないのさ」
全てビジネスに繋がっているということなのだろうか。夏生がこうして大切にしている母のクリスタルにしても、業者を通じて加工され、手渡されたものだ。
加工代として弾き出された金額に、心の納得が含まれているのだとしたら、目に見えぬものをどうやって計上したのだろうと信じがたい気持ちになる。
「チップをクリスタルに加工する業者がやるのは、チップの容量に合わせてどの材質を使うのかという選定、それとチップをクリスタルに嵌め込むところまで。あとはチップを嵌め込まれたクリスタルが、勝手に回路を作ってくれるというわけだ」
完成までにそんな工程を通るなんて知らなかった。そもそも、関係者が他者に知らせるつもりもなかったというのが大きいのだが。
クリスタルに関する書籍に、技術的なことが一切書かれていなかったのは、その神秘性を高めるためなのかもしれない。
夏生はまだ、ロックを解除されたクリスタルの中に何が込められているのか知らない。読んだ書籍の中には、『クリスタルに込められた回路は、チップが織り成す心の在り方である』と書いてあるものまであった。その人と共に歩んだチップにならば、持ち主の心が宿っているというのだろうか。
チップをクリスタルにするということは、まるで心を透明な棺に閉じ込めるかのようだ。
「でもそれじゃあ、クリスタルのロックは誰がかけるんですか? 加工した業者がかけるんじゃ……」
「そこが大きな誤解だ。そもそも、クリスタルにロックをかけるかどうかはチップの持ち主が決めることなんだよ。チップをクリスタルに加工すると決めた段階で、持ち主はチップにロックの有無を入力するんだ。だから、この世にはロックのかかっていないチップも存在する――自分の全てを明け透けに他人に見せてしまってもいいという人間がね」
縹の声に、嫌悪らしきものが僅かに滲んだような気がした。
その感情について、自分は触れていいものなのだろうか――夏生は問うべきか否か、一瞬躊躇した。
その一間で、縹の表情はあっという間に取り繕われている。彼がよく浮かべる少し気だるげな表情のまま、次の語が紡がれてしまった。
「まあ、キミの母上はそういうタイプではなかったようだけど」
母の葛藤――チップを遺すが、それを無闇に晒したいわけではないという想い。夏生が想像するしかなかった母の想いの一部は、ある意味想像通りだったらしい。
「ロックをかけられたチップは、クリスタルに嵌め込まれた時点で、解除キーなしでの展開を拒絶する回路を自動的に形成するんだ。加工業者の方も、ロックがかかっているかどうかはさすがに分かるが、チップの持ち主がかけたロックを解くことはできない。なんといっても解除キーが分からないからね。チップはひとりでにロックをかける。それを解くことは、ロックをかけたチップの持ち主本人か、解除キーを知っている誰かにしかできないのさ」
だからネットで有名な加工業者を当たってみても「解錠は専門外だ」と断られたのか。母の遺品を巡って、夏生は随分とたくさんの業者をあてに右往左往した。ようやくたどり着いたここで、クリスタルに関する様々なことを知れたのはある意味良かったのかもしれない。
母はクリスタルと遺書を遺してくれたが、クリスタルを覗くための鍵は用意してくれなかった。ロックをかけた以上、明け透けに人に見せびらかしたいとは思っていなかった。
(クリスタルを遺すくらいなら、鍵くらい僕にだけ分かるよう遺してくれてもいいのに)
いなくなった母に対して、不満らしい不満はなかったはずだった。彼女は病気で苦しんでいた。病に苛まれながらも生き続けること。その辛さよりも、遺される夏生への不安で苦しんでいるようにも見えた。母は、最期まで自分を想っていてくれたはずだった。
どうして解除キーが遺されなかったのだろう。自分の心を形として遺すことは許しても、そのものを見せるまでは心を許されていなかったということなのだろうか。
不満と不安。声にした瞬間、自分の中のすべてが暗い痛みとなって襲いかかって来るであろう強い予感だけがあった。
「解除キーを他人に分かるように残してないっていうのはいくつか理由があるんだけどね。本人がうっかり伝え忘れていたり、キーがなくても簡単に解けるものだと思って残すという発想自体なかったり。あとはそもそも解いて欲しくなかったり……でも死人に口無し、この世は生者が全てさ。遺された側としては、どうしてこんなものが遺されたのか知りたくて堪らない。そこで登場するのがボクのような解錠業者になる」
何も知らせないまま、クリスタルだけを遺した、その気持ちが知りたい。
夏生が知りたいのはそこだった。母が何を思い、自分の半生のこもったチップの入ったクリスタルを自分に遺したのか。どうしてその中身を見ることは叶わないのか。
母は、自分がここにいたという証を遺したかっただけで、それ以上のことは望んでいなかったのではないか――それを暴くということは、夏生自身の身勝手な行動なのではないか。疑問は尽きない。誰かに問い掛けたところで、答えが返ってくるものではなかった。
鍵は遺されていないにもかかわらず、解錠業者を使ってまで無理矢理クリスタルをこじ開けようとする行為。縹の言っていることは、その浅ましさを指摘しているようなものだ。夏生は胸中の不満と不安を眼前に晒されたような気がして、居心地が悪くなった。
「別に知りたいと思うことを責めているわけではないよ。そんなこと言ったら、暴かれる可能性があるものを遺しておくな、という話だ。多少なりとも自分のことを知って欲しい、覚えていて欲しいという未練があるから、死にゆく人々は自分の人生のほとんどが記録されているチップをクリスタルとして遺すのだろうしね」
その言葉が慰めになった。まるで、知りたいと思うことは遺された者の自然な権利だと言われているようだった。
ほっとした心中を悟られぬよう、夏生はゆっくりと息を吐きながら、ふと思ったことを口にした。
「クリスタルに遺すものって選べないんですか?」
「選べるというか、何もチップの中身を整理すればいいだけの話だ。キミだってたまにやるだろう、チップのデータ整理」
クリスタルにロックをかけるか否かを選べるのだ。その中身とて、自ら選べると考えるのが確かに自然だった。
夏生も普段からチップの中身を整理することはある。いらない写真や音楽などのデータを消したり、検索の履歴をリセットしたりするのだ。
自らの死期を悟ったものが、身辺整理の一環としてそういったことをするのも当然と言えた。
「それをクリスタルに加工する前にやっておけばいい。人に見られてもいいものだけにしてから加工業者に渡してしまえば、クリスタルは、あらゆる意味で人に見られても大丈夫な美しいものになる。もっともキミの母上殿は何を思ったのか、データをろくに整理しないまま……下手をすれば生前使っていたチップの記録をまるまる残したままクリスタルに加工してしまったわけだが」
「あっ……データの量が多いから回路も複雑になったんですか?」
クリスタルの中の回路は十人十色だという。夏生の母の回路が複雑なのは、チップの中のデータ量が多いからと見るのが自然だろう。
母は生前、チップの中身を整理するような人だっただろうか。夏生が母の仕草を覚えていないというより、チップの整理を人前でやるという習慣がチップ持ちの人間にないからだ。
プライベートがたんまり詰まったものを、人前で晒せる人間は少ない。チップの整理は基本的に一人のときに行うものだった。誰に教わるでもなく、自然とそういうものだと理解していた。
「それもある。それもあるが……この複雑さは、かけてあるロックが相当底意地の悪いものとしか思えないぞ。そういうロックをかける人間は精神構造がちょっと変わった人間が大半だ。だから化け物か、って訊いたんだ。本当に人間か? キミの母上」
本日二度目の不躾な質問。問い掛けられる理由は納得できるが、問い掛け方が気に食わない。
夏生はむっとしたまま、縹の質問に答えなかった。自分の母親は何者かと問われて、「母です」以外の回答をする人間がどこにいるというのか。
無言のままでいる夏生に、縹が溜息をついた。そしてコーヒーを一口。
「そろそろ本題に入ろうか。いい知らせになりそうな悪い知らせだ。化け物みたいな精神構造をしていたとしか思えないキミの母上がかけたロックだが、どうやら音が解除キーになっているらしい」
「じゃあ」
解除キーが何に当たるか分かったのなら、解錠できたも当然なのではないか。
夏生の胸が期待で膨らんだ。思わず前のめりになり、縹の言葉の続きを待つ。
「言っただろう、いい知らせになりそうな悪い知らせだって。音が解除キーになっているところまでは掴んだが、何の音がキーになっているのか皆目見当もつかん」
「え……」
「何の音を入れてやればロックが解けるか分からないと言ったんだ」
「いや、言われた意味は分かっていますが……」
前のめりになった体を戻せば、そのまま体の力が抜けてすとんとソファーに座り込んでしまった。期待が一気に萎み、まさに映画の登場人物さながら最悪を叫んでしまいそうになる。
事前に言われていたことではないか――いい知らせになりそうな悪い知らせだと。縹がわざわざよこしてくれた、ぬか喜びさせないための言葉を無駄にしてしまったわけだ。
「ここまでが三日間の調査で分かったことの報告。ここからが依頼主殿への相談だ」
縹が姿勢を正し、すっと夏生に向き合った。気だるげな態度は抜け切らないが、今までに見たことのない真摯さが見て取れる。
「鍵となる音を一緒に探してほしいんだ。こういうものの場合、故人に縁のある音であることが多い。でもボクはキミの母上のことを何も知らないわけだから、見当をつけて鍵となる音を探すも何もあったもんじゃない。そこで協力してほしいんだ……いや、協力という言い方も変だな、元はと言えばキミの依頼なんだし」
「言いたいことは分かります……分かりますけど……」
要は、解錠に必要な音の当たりをつけるため、情報を提供しろということだろう。
ただ漠然と音と言われても、夏生には皆目見当がつかない。母が自分の半生を保存しているといっても過言ではないクリスタル。それの鍵になるに相応しい音など、ぱっと思いつくようなものではなかった。
夏生の戸惑いを理解してか、縹は指をひとつ立てるとゆっくりと話し出した。
「鍵となる音は実際にチップに録音してなければ鍵として認識されない。つまり、録音するほど余程思い入れ深い音ってことさ。気に入っていた音楽、生活音。そういったものに心当たりは?」
「急に言われても、ぱっとすぐには出てきません。母が好きだった音楽も……家に帰ればディスクか何かが残っているかもしれませんが」
「ふーん。そういうものなのかな、親の嗜好の把握って。そこは家に帰ってから調べてもらうとして……ボクが一番可能性が高いと思うのは、自分の死期を悟ってから訪れた場所のどこかだと思う」
「それは……どうしてですか?」
「死ぬ前に一度は行っておきたい場所、誰でも一つ二つあるだろう? 行ったことのない場所でも、以前訪れたことのある場所でもね。ボクが扱ってきたクリスタルの中で、音を鍵にしているものはそういうところの環境音やメロディを鍵にしているものが多かったんだ。だから今回も、と思ったわけだよ」
思い出の場所の何らしらの音を鍵にするのは、別段おかしなことではない。
単なる思い出の音を教えてくれと言われるよりも、母が強く想っていたような場所を教えてくれと言われた方がまだいくつか思い当たる節があった。
「母は病に倒れてから、入退院を繰り返して自宅療養をしていた時期もあったんです。もし母がチップをクリスタルに変える決意をしたのだとしたら、その時期だと思います。体調が安定していた日は、一緒に出かけることもありましたし……チップに音を録音するとしたら、その場所のいずれかじゃないでしょうか」
「よし、じゃあ決まりだな。次からは外に出て鍵となる音探しといこうじゃないか。通話で言った通り、ボクはしばらくキミの案件にかかりきりのつもりだからいつでも空いているけれど、キミの方は? 学生……だよな?」
「ええ……まあ、ちょっと。学校の方は両親のことが片付くまで休学しているんです。必要な単位は取れていますから」
私生活については、あまり触れてほしくない話題だった。だから、縹が興味なさげに「ふーん」と聞き流してくれた瞬間、心底ほっとした。
「じゃあキミも空いている時間は多いというわけだ。こちらとしてはできるだけ早い解決を望んでいるから、明日からでも動き始めたいところなんだが……どうだろう?」
「はい、大丈夫です。……あの、何か?」
縹からの頼みを引き受けたところで、紅茶色の瞳が緩く細められた。すうっと彼の纏う雰囲気が鋭くなったような気がして、夏生は思いもかけず身構えてしまう。
「書類に書いてあった生年月日を見るに、ボクとキミは一歳しか離れていない」
「は、はあ……そうなんですか?」
なんとなく同世代であろうと予想はしていたが、本当にその通りだったとは。縹の方は書類で夏生の年齢を確認することができるが、夏生の方は彼の年齢を知る術を持っていなかったのだ。予想が当たった多少の意外さは許されるものだろう。
突然の話の転換についていけず、夏生は目を白黒させるしかない。
縹は人差し指をずっと夏生の方に向け、尊大な態度で言い放った。
「年も近いのにキミはいつまで敬語なんだ、堅苦しいのは止めだ、止め。ボクのことは敬意を込めて縹と呼びたまえ」
え、という驚きの声も出なかった。何を言っているんだろう、この人。
夏生と縹は、依頼人と解錠業者という関係性であり、それ以上でもそれ以下でもない。たとえ今日、今後二人で出掛ける約束をしたとしても、それはクリスタル解錠のためであり、普通に同年代の友人たちと遊びに行くのとはわけが違う。
嫌です、と即答できない自分が不思議だった。縹の物言いは、確かに反発を覚えるものだ。真正面から受けていちいち傷ついていたのでは、真っ当な話にならないと今日だけで十分思い知った。
それでも、彼の言葉には一切の悪意が込められていなかった。悪意のない罵倒というものを、夏生は初めて聞いた。
縹が何を考え、何を思い、どういった経緯でこのような提案をしてきたのか想像もつかない。自分は縹のことを何も知らない。好きなことも、嫌いなことも。だのに向こうは呼び捨てで呼べという。それは夏生の知っている仲良くなるステップとは異なるものだった。
学校でも誰かを呼び捨てにしたことなどない。こんな関係の始まり方があっていいのだろうか――
ごくりと唾を飲み込む。意を決して放とうとする一言が、震えないことを祈った。
「えっと……じゃあ、縹」
人生で初めて誰かを呼び捨てにした。心臓が大きく跳ねる。顔に熱が集まる。
「なんだい、夏生」
返ってきたのは、予想以上に優しい声だった。こちらを見つめる瞳からは気だるげな雰囲気が取り払われ、柔らかい光を宿している。
顔に集まった熱が一気に爆発したかのようだった。喉までひりひりと焼けてしまったようで、なかなか次の言葉が出てこない。
辛うじて絞り出した声は震えていて、訳の分からない恥ずかしさから舌が縺れそうになる。
「君が呼んでみてって言ったから呼んだだけで、特に用は……」
「寂しいことを言うな。まあ、いいさ。敬語も抜けたみたいだしね」
こんな関係の始まりがあっていいのだろうか――この問いに答えてくれる人は誰もいない。
目の前の、何でも知っていそうな新しい友人に問うのは何かが間違っている。これは自分で考えなければならない問いなのだ。
うわばみ食むは花色の煙 てい @tei774
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