吉村昭の熊小説と熊の実際

 私は北海道に住んでいるので、熊は身近な動物である。姿を見たことはないが、近所で熊が目撃されたという行政の情報が出ることがある。北海道の熊は正確にはエゾヒグマと呼ばれるが、別に他の種と区別する必要もあまりないので、ふつうは単にクマと言っている。

 吉村昭よしむらあきらの作品に、クマを扱ったものとして、短編集の『熊撃ち』と、短編ではない『羆嵐くまあらし』という本が出ている。どちらも実話に取材した小説だ。

 『熊撃ち』は、雑誌での連載のために、昭和四十五年から翌年にかけて取材をし、猟師たちから聞き取った話をもとにして小説に仕立てている。全七編の内、富山を舞台にした一編を除き、六編が北海道のことである。『羆嵐』は、有名な北海道苫前とままえ三毛別さんけべつの事件に基づいて書かれている。

 吉村の表現には、よく取材をしたなと感心させられる所もあれば、どうも違っているのではないかと思われる所もある。そう思うのは、今まで実際のクマについて書かれたものなどに少しは触れたことがあるからでもあり、また最近『クマにあったらどうするか』という本を読んだからでもある。

 この本は、「アイヌ民族最後の狩人 姉崎等あねざきひとし」という副題も付いているように、生活の糧として長くクマ狩りをしてきた姉崎等という人物に、筆者の片山龍峯かたやまたつみねが取材をして、その話をまとめたものだ。

 吉村は、北海道のヒグマというのはいつも肉を求めて歩き回り、人を見れば襲うものであるかのように書いている。『熊撃ち』から引用するとこうである。


“…羆は、日本で唯一の凶暴な野獣であり、家畜を襲うだけではなく、人の姿をみとめるとその強大な力で人間を倒し肉を食い散らす。悲惨な人身事故は毎年のように起こり、羆の被害を防ぐために羆駆除機関が各地に設けられている。…”


 これは姉崎の語るクマの姿とは違う。姉崎によれば、クマは臆病な生き物で人を恐れて姿を隠そうとするものである。ただクマが不意に人と出くわしてしまったり、人に襲われて手負いになると、身を守るために人を襲うことがある。一度人を食ったクマは、繰り返し人を襲うようになるので、これは殺さなければならない。だがこれは人の不注意にもよることである。むしろクマは凶暴な肉食獣であるという誤解が、人とクマの関係を不幸なものにするという意味のことを、姉崎は言っている。

 姉崎の述べる所を少し引用すると、こう語っている。


“そうですね。やっぱり、「クマが怖い」ものだっていうその言葉が怖いんだよね。…

 …だからクマが暮らせるようなある程度の環境を作ってやると、クマはそんなに怖くないんだってわかると思う。”


“山の近くで働く人たちは、「おう、クマの足跡だ」って普通に思ってるんですよ。クマがいるんだけどそれで人を襲うかっていうと襲わない。いつの間にかクマも人間も学習して出会わないように暮らしている。…”


“…一般の人がクマを見ると、クマに襲われた本や新聞を見てすぐに危ないと騒ぐ。だからクマにも人間にも学習できるだけの時間をゆっくり与えてやらないといけないですね。”


 姉崎の謂を信じるならば、吉村は実話小説の作者としては、間違いを冒したことになるのではないだろうか。

 もっとも動物が人にどう対するかは、環境にもよる所がある。飼い慣らされた犬は人なつっこくても、野犬は危ないということはある。『羆嵐』がよった三毛別の事件が起きたのは大正四年で、戦後ほど激しい駆除がなく、また明治以来の拙速な和人の入植もあって、クマが人を襲いやすかったのかもしれない。しかし『熊撃ち』の中には昭和四十四年のことというものもあり(前に引用した部分はそれ)、戦後にクマ狩りを始めた姉崎が経験を積んだ時期と重なっている。やはり吉村はクマの性質を誤解していたのだろう。

 しかし吉村の熊小説の面白さは、クマを誤解した所に依存しているようでもある。もしクマがまるで怪獣のような存在でなかったとしたら、全ての描写は意味合いを変えてしまうだろう。これは吉村の小説家としての故意の仕掛けではなく、どうも本当にそう信じていたらしい節がある。それだけにこれらの作品には真実味がある。もし他にクマについて書いたものを読んでいなければ、クマとはそういうものだと読者も信じてしまいそうだ。

 私は『羆嵐』を読んでいて、クマが家々を襲っていく描写に、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』を連想した。この SF 小説は相手が火星人だから話が面白ければそれで良い。しかしクマは私の隣に住んでいる。人と同じ雑食性で木の実を好むクマは、もともと住みやすい所が人と重なっていると言っても良い。クマとの関係は、火星人と違って切実な問題なのである。

 『クマにあったらどうするか』は、聞き書きをまとめたものだけに、まとまりの悪い所もあり、読む人によっては意味の分からない所もあるかもしれないが、私たちの生活の実際に益するものが感じられる。吉村の作品には、小説の中に完結した面白さはあっても、それはちょうどゲームの中のアイテムが、その外では全くの無価値であるのと似ている。

 これは、吉村の作品が小説として出来が良いだけに、私には深刻な問題として感じられる。小説とは虚構として成り立ってこそ完全であり、現実ではない所に文学的価値があるのだろうが、事実をもとにすれば現実に対する責任が生じることも免れない。夏目漱石の『坑夫』に、これが事実であることは「その証拠には小説になっていないんでも分る」という。その意味において、実話小説が事実性を失わないためには、小説になっていない小説を評価する目が必要なのだろう。

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「小説になっていない」とはどういうことなのか 敲達咖哪 @Kodakana

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