まがま

「ほんとはこういうとき、冷たいのよくないんだけど。この季節だとさすがにあったかいのないね」

 豆やんは、ガラスで区切られたホームの待合室に俺を引き込んで、自販機で買ってきたお茶を飲ませた。

 

「マルさんごめん、俺が悠長だった。状況なめてた」

 俺は、浦部さんがもう俺を見限って他の男とよろしくやっているかもしれないと、俺と浦部さんはもう駄目になっているのだということを、当たり障りなく説明するつもりだったのに、悪し様に罵るように喋ってしまった。そのくせ、すでに浦部さんからのラインが来ていることを言えなかった。自分がさっきを待っていたことを、豆やんに知られるのがこわくて言えなかった。

「わかった。……マルさん、アクション起こそう。もう何かしなきゃだめだ。大丈夫、きっとよくなる」

 俺のそんなざまを見てさえ、豆やんは力強く励ましてくれた。嬉しかったけれど、どこか確信をもった豆やんの口調が不思議だった。豆やんは一連のことについて、何か分かったことがあるのだろうか。俺には何も分からなかった。

「それなんだけど――俺、もうスマホは捨てようかと思って」

 豆やんの話を聞くべきとは思ったけれど、つい自分の話をしてしまう。自分が不安に駆られていることだけが、よく分かる。

「え? ああ……そうだね、ほんとに捨てなくてもいいけど、対外的には有効かもしれない。やる価値あると思うよ。でも今からガラケーって戻せるのかな」

 豆やんはそんな俺の不安も受け止めてくれる。不甲斐ない気持ちになる。

「それよりさ、俺も一緒に見た『まがま』あったよね? あれ、あのときの人に連絡取れるかな。ほら、マルさんのゼミの、休んだ人」

 ……何だっけ。誰だっけ。思い出す。

「えっと……尾井くん?」

 そうだ。尾井おい 洲汰しゅうた。あまり親しくない。

「そんな名前だっけ? その人さ、あの日ほんとにズル休みだったのかな?」

「それは――だって、『まがま』が」

 俺は戸惑う。

「確認したい。確認できる? その人の連絡先知ってる?」

 いやそれは。もちろんラインで。でも、いきなり個別に話しかけるような関係ではない。

「尾井くんと仲いい人にでいいなら」

「とりあえずそれでもいいよ。あの日に休んだ理由を、実際のところを確かめられそうなら」

 豆やんに背中を叩かれ、俺はラインの無料通話を発信する。浦部さんのメッセージのことが頭をよぎったが、豆やんが見ている前では開けなかった。

 

「ああ、うん……わかった。いや、ありがとう。助かった。じゃあまたゼミで」


 俺は電話を切り上げる。意外と長くなった。

「終わり? じゃあ、おおよそ聞こえてたけど、一応聞かせて」

 そう言われて、俺は話を頭の中でまとめつつ話し出す。

「――あのゼミの前の日の夜、尾井くんは確かに食事会に出てた。彼が一般教養で取ってた、イスラム文化研究の教授が声をかけた集まりで」

 口が渇いていることに気づいて、お茶を一口飲む。

「それが話のおもしろい名物教授でさ、尾井くんはかなり心酔してて、彼みたいにのめり込む生徒は毎年いて。実際に都度つど何名かは在学中にムスリム――イスラム教徒になってるんだって。それで、今回重要なのはその食事会がそういう人たちの集まりだったってことで、つまり」

 そこで、俺はついを作って見せてしまう。あれ、意外と余裕出てきたな自分、なんて思う。豆やんが俺を促す。

「大体分かるけど、言って」

「――

 豆やんがうなずく。

「期待以上に歴然としてくれたね。その会のあとに二日酔いはあり得ないんだ」

「それで、その食事会自体の主旨なんだけど。表向きは、生徒が一時の興味でイスラム体験したいだけならそれもいいし、もし改宗まで本気で考えてるならこの夏休みに手ほどきを進めたいとか、そういう話をすることになってて。でも別にそれは、わざわざ大勢集めてするような話じゃなく、普段から個別に授業のあとなり何なりにやってることで。――豆やんは、ハラルって分かる?」

 急に話を振られて豆やんは眉を上げたけれど、多少なら知ってるよ、と答える。

「俺も少しだけ。イスラム教って禁忌タブーが多くて、だからお酒もそうなんだけど、食べていいものとか、食べていいものでも加工の仕方とかに決まりがあって。その許可されたものとか許可されるようにきちんと処理されたものがハラル、ハラルフードで」

 豆やんは物知りだからこのくらい知っていそうだけど、というか俺も今聞いたことを組み立てながら喋ってるからどこかおかしいかもだけど、黙って聞いていてくれる。

「その教授は、日本においての食品のハラル認証を押し進める活動もしてるんだとかで。ほら元々イスラム圏にない食べものもあるわけだからさ、そういうのをどう処理すればハラルかって、そして――」

 俺はここで一度息をつく。

「その日はハラルフードとして適切に生育、処理された牡蠣がたくさん手に入った」

 

 豆やんがふうっと息を吐いてベンチに身を預ける。俺はつづけてあと少しを喋る。

「そして、まあ、これは本当にたまたまなんだろうけど」

「もう大体予想つくけど。言って」

「その牡蠣が、ハラルとしては問題なかったけど牡蠣としての処理にちょっと不足があったみたいで。――出席者は全員牡蠣にあたった。尾井くんは今もまだ自宅で布団とトイレの往復で、大学来れてない」

「十分だね」

 豆やんがお茶を開けて一息つく。俺も頷く。

「尾井くんはあの日メッセージで、『体調不良』と言ってた。まごうことなき不測の体調不良で、やましいところはなにもない」

 俺はつい、片手で自分の肩を掴んだ。震えている。だってそうだ。いま思い込みが崩れた。

「『まがま』は必ずしも、嘘を指摘しているわけではない」

 俺はこの事実を、一語一語噛みしめるように言う。

「そう。もしかしたらそれどころか、嘘を見抜くことすらできていない。ところに当てずっぽうでまがまを突っ込んでいるだけじゃないかと思う」

 そう言う豆やんは、俺ほど動じていない。やはり元々何か思うところがあったのだろう。

「というのも実はね、俺もあの日、ほんとに寝坊してなくてさ」

「あの日……って、ああ、あれ? バーキンおごった日?」

「そう。あのとき実は俺、サークルの部室行ってたんだ。天津谷あまつや先輩と阿加井あかいくんが朝から話し合いしてるって情報が入ってさ」

「え、それ、俺も行きたかったなあ」

「だーから言わなかったんだよ。そんな場にが来たらどうなるのさ」

「なるほど」

「なるほどじゃないよ。まあそれでなくとも、二人とも言うことが食い違ってて全然話まとまんなかったんだけど。俺としては、天津谷先輩がラインで書いたことに嘘があるのかどうかを見極められればと思ったんだけど。明確に出た結論は、阿加井くんがサークル辞めることくらい」

「え、やめちゃうの」

「勝手に気持ちは代弁できないけどさ。色々でしょ、そこは。そういうわけで俺が欲しかったものはそこでは得られなかったんだけど、その代わりがあったわけだ」

 ――起きてるよ。

 ――まがま。

 嘘はついていない豆やんにが発された。

「でもさ、寝坊はしてなかったんだけど、隠しごとはしてたようなもんなわけだから。そのときは確信持てなくてさ。引きつづき天津谷先輩のと、金田先輩、肉林先輩のラインの発言の裏をとってた。でも正直、俺、おもしろがっちゃってた。始めからその、尾井さん? の話聞いてればよかったんだ。それでこんなことになっちゃって……マルさんに悪いことしちゃった」

 豆やんはうなだれる。俺はその膝を軽く叩く。豆やんが顔を上げる。

「——だから、もう終わりにしよう。すぐには事態収束しないかもだけど、さいわいこれから夏休みだし、何とかなる」

 豆やんの意志は強く、自信ありげだ。

「うん……でも」

 俺は、どうすればいいのかわからない。

「それに、当てずっぽうで連打される方が厄介かもしれないよ。痛くもない腹を探られる方が怒る人はいるだろうし、嘘じゃない証拠を提示されたら、マルさんが完全に悪者になる」

 想像したくもない状況を豆やんが語る。

「それでマルさん、あれからまたサポートから回答ってあった?」

「サポートって、ラインの? あったけど……特に新しい情報はないよ」

「他からラインにログインしてる形跡はなかったけど、実際に『まがま』がどの端末から発信されてるかってのは、分かった?」

「ああ、それなら。間違いなく全てのメッセージが俺のスマホから発信されてるって――」

 そこまで言って、俺は言葉を切ってしまう。

「待って豆やん。まさか」


 俺は思わず豆やんの視線を確認してしまう。豆やんが、いま俺をどんな目で見ているのかを確認してしまう。

 

「『まがま』は別に嘘を見抜けるわけじゃない。これで怪奇現象としては一つ格が落ちたとも言える」

 豆やんが俺を見ている。俺はその目の奥の感情を探ってしまう。

「そして、さらに一歩進めて『まがま』に超常性は一切ないのでは? と考えると、その場合、残る答えはそんなに多くはない。はっきり言って、ひとつだと言ってもいい」

「待って、豆やん」

「不思議なことなんて何も起きていないと考えてみるんだ。マルさんのラインはマルさんの端末からしか打てない。マルさんの端末はマルさんしかいじれない。誰かがこっそり『まがま』だけ打って戻すなんて、そうタイミングよく何度もできることじゃない。だとしたらマルさんとして発されたまがまを打ったのは」

「豆やんやめてよ」


 天津谷大昭。

 尾井洲汰。

 金田盛夫。

 豆塚柴太。

 肉林早池。

 

 今までまがまが放たれた状況が、走馬灯のように俺の頭を回る。

「——マルさん自身以外に、考えられない」

 それは、豆やんから俺に打たれた『まがま』だった。

 

 

 気がつくと、豆やんはスマホを持った俺の手を両手で握りこんでいた。

「豆やんは、俺が最初から嘘ついてたって言いたいんだ」

「違う。違うよマルさん」

 俺の手の震えを抑えるように豆やんは力を込める。

「マルさん、俺はマルさん信じてるよ、でも、俺は人間をそこまで信じていないだけなんだ。人間って弱いよ。自分のことは何でも自分で把握できてる、コントロールできてるなんて、ふつう当たり前そうなところを、他の誰でもない自分自身があっさり崩してくる。状況として、がまがまを打ってるとしか俺には考えられない。原因が何かなんて分からないよ。単に疲れてるのかもしれないし、日常の思わぬところで精神にダメージ負ってるのかもしれない。でも一番大事なのはそこじゃない。マルさん自身がマルさんを何でか崖っぷちに追い込もうとしていることなんだ」

「俺はそんなに、繊細じゃない」

「マルさん」

 俺の途切れる言葉を聞きとがめて、豆やんが俺の名を呼ぶ。俺は豆やんの目を改めて見て、狂人を見る警戒した目ではないことにほんの少し安心する。

「書かない人のことは知らないけど、わざわざ物書きなんてことする人で、繊細じゃない人間を俺は知らないよ」

「でも俺が、自分で——全部?」

「ねえマルさん、今のマルさんには適切な助けが必要だ。病院行こう。きっとよくなる。俺も付き添うよ。夏休みの間にできるだけ治療を進めよう。ヒロコちゃんさんにも助けてもらってさ」

 そう言われて、俺は躊躇ってしまう。

「浦部さんは、浦部さんは――もう」

「そんなこと言ってる場合じゃないよ。こんな時こそヒロコちゃんさんの支えが必要なんだから。俺はヒロコちゃんさん逃がさないよ。マルさんがよくなるまできっちり付き合ってもらう」

 そこで、豆やんは両手で握った俺の手を軽く上下に振る。

「大丈夫、ヒロコちゃんさん、浮気なんかしてないよ。そんな人じゃないじゃん。マルさんが一番よく知ってるでしょ」

 豆やんの声は穏やかだ。

「マルさん、こんなタイミングで、こんな理由で彼女と別れたら駄目だよ。立ち直るのにどれだけかかるか分かったもんじゃない。少なくとも今はだめだ。頼むよマルさん、しっかりして」

 そう言って豆やんは、俺の手の中のスマホに今ごろ気づいたように目を向ける。

「そうだ。ラインで何か来てないの? 何か話した?」

 そう言われて、俺はおずおずとスマホを開いて豆やんに見せる。浦部さんのメッセージで終わっているトークを見て、豆やんが表情を変える。

「ちょっと、なに放置してんの! 既読にしたのいつよ!」

「一時間は……経ってないと思う」

「この内容でそれはないって」

 呆れられる。俺は仕方なくスマホに向かい合い、返事を考える。返事を考えるために浦部さんのメッセージを読み返す。この状況を動かすことが怖くてたまらなかったけど、それでも何もしなかったらきっともっと後悔するとわかり切っているので、こうなったのは有難いのだと自分に言い聞かせる。

 

『返事遅れてごめん。さわさんが言ってたことなら気にしてないよ。俺のこと信じてくれてありがとう。』

 

 こんな短文をやっとの思いで打ち終えて、豆やんに見せる。豆やんがさっと目を走らせて、頷く。俺は画面に触れてメッセージを送る。

 

 すぐに既読がついた。

 

 浦部さんがいる。今、スマホを見ている。

 俺は豆やんを見る。豆やんも真剣な顔で俺を見る。

 画面に動きがあり、見ると『……』という記号が流れている吹き出しが左側から出ている。浦部さんが何かを入力している。待っていると、メッセージが表示された。

 

 

 

 MUTSUMI:私のことも、信じてくれる?

 

 

 

 俺はその返答を見て、救われたような気持ちになっていた。

 そうだ。怖いことなんて何もなかった。

 浦部さんが俺を裏切ったりするはずがないし、俺だってそれを信じられる。浦部さんも俺が悪質ないたずらをするはずがないと信じてくれている。そして、その気持ちをこうやってお互い伝え合うことができる。

 俺は、自分が一体何に怯えていたんだろうと思った。

 強い信頼を交わせていれば、そして勇気をもってそれに向き合いつづけていれば、何にも付け込まれる隙なんてありはしないのだ。俺の意識にこそこそと隠れて何の意味のない怪しい言葉を打ち込まれたところで、俺は、もっと確かな意味をもった言葉をこうやって日の当たる場所でやり取りすることができる。

 俺は、確信をもって次の返事を打つ。

 

『もちろん信じてる。』

 

 会いたい、とか、好きだよ、とかいう話を付け足そうかと思ったけれど、豆やんの手前気恥ずかしいし、今は大事なことを手短に、確実に伝えた方がよいと思ってそれはやめる。

 いちおう豆やんに確認してもらいたくて、スマホを傾けて見せる。豆やんが覗き込んで、入力された俺の短い言葉を見る。今度も頷く。

「大丈夫。マルさんそれで」

 そう。これを送れば、きっと、もう大丈夫だった。

 

 なのに。

 

 俺と、豆やんが見ているその前で。

 

 メッセージの入力欄に、俺の打った、俺の気持ちを伝えてくれる言葉があるその状態で。

 

 また、は現れた。

 

 

 

 

 

 ヒロマル:まがま

 

 

 

 

 

 既読がついた。

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