まがまない
その日、俺は虚ろな気持ちで一日の講義が過ぎきるのを待っていた。
ひどく気疲れしていた。へたばりきっていた。ここ何日か、
浦部さんに会いたかったけれど、連絡をとるのが怖かった。また起こってしまったまがまを浦部さんが何と思っているか。それより、また周りの人間が俺のことで浦部さんにつらく当たっていやしないか。
そして。
浦部さんは和を重んじるひとだから、ごたごたが嫌いで、場の空気を乱す奴を敬遠するから。俺が、自分はもう嫌われてしまったんじゃないだろうか、それを確認してしまうのが怖かった。浦部さんに避けられて、あっけなく潰れてしまう自分の心が見えるようで気持ちが
俺のせいで浦部さんが落ち込んでいたりしたら、誰より先に声をかけなきゃいけないのは俺なのに、俺は自分の臆病を甘やかすほうが大事で、何もできずに過ごしていた。何もせずにいると時間はどんどん過ぎ去っていった。すべてが終わってしまうまで
次の講義がある教室で、始業を待って、何をするでもなく机に肘をついて茫洋としていると、背後からいきなり後頭部をバシッ! と叩かれた。
「え、なに! や、景気悪い顔してるからさー、大丈夫?」
声、というか態度で誰であったかを思い出す。
浦部さんの友達だ。もしくは、学部仲間。どのくらい親しいのかはよく分からない。二人が話しているのを見ていてもよく分からない。
「そうか、さわさんもこの講義だっけ」
彼女は下の名前のほうが苗字っぽいからか、そちらでばかり呼ばれている。俺も流されてそう呼んでいる。
「何それえ。
明るく喋りつつ、横に座るのかと思ったらけっこう離れて座る。その方が俺も助かるので何も言わない。
「まあまあ男の方が引きずるからねー。睦美はもう昨日他の男に行ってたよ? 大丸くんも見習ってさー、いつまでも諦めらんないでクヨクヨしてんなよって」
慈照さんは明るく喋るけれど、こっちは見ない。スマホを取り出して指を送り何やら眺めている。俺は、今の話の意味を掴みかねて彼女のほうに向きなおる。
「待って。今の、あの――他の男って、何」
「えっ何なに、もう自分の女じゃないんだから束縛できないよ? ストーカーとか睦美が可哀想だからやめてあげてね」
「え? なに、それ……」
続く言葉にも掴みどころがなくて、不穏な気配に頭がぐるぐるしてくる。
「え、だって、あんたら別れたんでしょ? まあぶっちゃけ終わんの早そーとは思ってたけどねーなんて」
そんなことを言って陽気にあははと笑っている。
「別れてない」
流されて曖昧なことを言いそうになる自分にあらがい、俺はそれだけをやっと絞り出す。
「俺そんなこと聞いてない。浦部さんが言ったの? ……別れたって」
何でもいいから手がかり足がかりが欲しくて、身を乗り出しそうになるのを抑える。
そんな俺を慈照さんは怪訝そうに見る。それから視線を外して、勢いをなくす。
「え、だって、睦美が――そういう風だったから」
「そういう風って、どういう風だったの」
慈照さんがまた俺を見る。信じがたいことに、鬱陶しそうな表情をしている。
「あ、そう。ごめんね。何かあたし、早とちりしたかな。ねー、ほんとごめんね。これ、睦美にはあたしからちゃんと言うから。あたし嘘つくの嫌いだから」
話がつながっていない。自分が話題ごと放り出されようとしているのはわかった。
「さわさん待ってよ」
俺は
「浦部さんが、浦部さんは、何て言ってたの」
「え何、もういいじゃん。ごめんて。あたしはあたしのしたことちゃんと睦美に言うから。
何を言われているのかわからない。何か理解を
「……あーっ。だめ。こわい。悪いけどこれも睦美には言うから」
慈照さんは机に出していた教科書や筆記具をかき込むように仕舞うと、鞄をつかんで立ち上がった。俺を避けて教室を大きくまわり込み、出入口へ向かう。
「さわさん」
声をかけた途端、慈照さんは無表情で全力で駆け出し、教室の外へ消えた。廊下を、ばたばたばたと激しい足音が遠ざかっていった。
***
MUTSUMI:さわから聞いた
MUTSUMI:誤解させるような行動をしてごめんなさい。でも誤解だから
MUTSUMI:なにもないから
MUTSUMI:ゼミで期末の打ち上げがあって、私は用事があったから、途中で抜けたのを、やっぱり用事があって抜ける先輩がいて、たまたまいっしょに抜けたから、それをさわは見たみたい
MUTSUMI:もちろん駅までで、そのあとはべつべつになったよ
MUTSUMI:に地下のラインの、あれもひろまるくんじゃないんだよね?勝手になっちゃうんだよね?
MUTSUMI:私はひろまるくん信じてる
MUTSUMI:返事ほしい
浦部さんに『まがま』が飛んでいないかはすぐにチェックした。
まがまはなかった。
しばらくして、浦部さんからのメッセージがあった。
俺は駅のベンチに座り込んでいた。
始めは返事を書くつもりで腰を下ろしたのに、何と言おうか考えているうちに、ある可能性に気づいてしまった。
――まがまで分かるんじゃないか。
浦部さんがもし嘘をついているのなら、ここでまがまがつくんじゃないか。
そう思ったらもうだめだった。
俺はもう返事を書けず、考えられず、まがまが付け入る隙ができるように、ホームのベンチで閉じたスマホを抱えて、バイブの振動が来るを恐れ、また振動がないことに
そんなことをしているうちに、帰り際の豆やんに見つかった。
豆やんがベンチで丸くなっている俺をあまりに、そう、雨の日の捨て猫を見つけたみたいな目で見るもんだから、豆やんひどいなあと思って俺は笑ってしまった。
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