鬼の娘

881374

自主企画『鬼と人の悲恋』参加作品、『鬼の娘』

  一、『親子オニごっこ』のはじまりに。



「──巫女みこ殿。何もそのように、畏まらなくてもよいではないか」


 その美しいひとは楽の音のような声で、私にそう語りかけてきた。

 ……ミコ……ドノ。それは私のことなのであろうか。


 ──ああ。どうして私は、こんなところにいるのだろう。


 広大できらびやかな御殿の大広間。優美に着飾った見目麗しき人々。豪勢で大量の御馳走や美酒の数々。

 そして大きく開け放たれた四方の窓の下に広がるのは、運河に沿って海まで延びている石造りの街並みの大絶景パノラマ


 そう。ここはこの地域一帯をべる『ぞく』である、御領主様の居城の最上階の天守の間なのであった。


 最奥の一段高い上座の中央で、両脇になまめかしい色気をただよわせる美女を二人も侍らせ酒杯を傾けながら、私のほうを興味深げに眺めている一人のひと

 華美な和服を着崩して胸元が大きく開いているものの少しもだらしなく見えることはなく、逆にえも言われぬ色香すら立ちこめており、黒髪黒瞳の精かんなる顔立ちに均整のとれた細身の身体は、まるで根雪のごとく白くすべらかではあるもののけして脆弱さなどは感じられず、むしろ粗削りの大理石の彫像を思わす野性的な美しさに満ちあふれていた。


 ……これがこの街の支配者であり、この城のあるじでもある、巷で噂の『おに』の御領主様なの?


 そこには『人喰い』とも『暴君』とも噂される、怪物のような支配者の姿はなく、ただ見目麗しく若々しい、見るからに貴公子然とした青年が一人いるだけであった。

「どうした、呆けた顔をしおって。そんなにこの私の顔が珍しいのかい?」

「あ、いえ」

 いけない。お鬼族様の御前で、何をぼんやりとしているのだ。

 少しでも粗相があればたとえ十歳に満たない小娘といえど、どんな目に遭わされることか。

「ふふふふふ。それともあまりに私が想像とちがっていたので、がっかりしたわけかな?」

「──えっ⁉」

「何せ虎の皮の下着もはいてなく、金棒も持ってはおらず、何よりも頭にはツノさえも生えていないしな。これで『鬼』を名乗るなんて、まるで詐欺のようなものであろうよ」

 ……ええと。こういった場合、どう反応すればいいのかしら。

「──まあ。お館様ったら、お戯れを」

「何を言う。そなたらもこれからは、虎縞のビキニかボンデージ・ラバーを着るがよいぞ」

「おほほほほ。それは単に、お館様の御趣味なのではございませんか?」

「あはははは。とんでもない。私は断じて、仮装コスプレ趣味も加被虐エス・エム嗜好も持ってはいないぞ」

 二人のお姉様方を交えて、子供の私には意味不明な会話が盛り上がっていく。

 それでもわからないなりに懸命に解釈すると、もしかしなくてもあの女の人たちまでもが、『鬼』だということなのだろうか。

 ──し、信じられない、あんなにも美しい人たちなのに。

 だからといって平民のみなしごごときが、馬鹿正直にその驚きを表すわけにはいかない。

「……あのう、先ほどの『みこどの』というのは、私の新しい名前か何かでありましょうか」

 私は戸惑いながらも、そう尋ねてみた。

 もちろん自分の名前を他人に確かめるなんて、普通ならおかしなことであろうが、私にとってはよくあることであった。

 物心つく前に両親を亡くし、引き取ってくれる親族もなく貧民街の施設へと放り込まれた私は、自分の生来ほんとうの名前なぞ知る由もなかった。

 そして施設でもこれまでの養家でも、そのつど適当な名前を付けられていたので、ここでも同じような仕儀になるものと思っていたのだ。

 しかし、私のその言葉に御領主様はきょとんとした顔になってしまい、いつまでもこちらをまじまじと見つめるばかりであった。

 その後ろでくすくすと忍び笑いを漏らしている、じょのお姉様方。

 ──ううっ。お鬼族様の前で、何かまた失敗をしてしまったのだろうか。

 私はまたたくまに全身真っ赤となり、畳の上に平伏するようにうつむいた。

「──きゃっ、お館様⁉」

 女性の声と酒器が床を転がる音に思わず顔を上げると、すでに目の前には青年の長身が立ちはだかっていた。

 そしてその大きな身体がまるで私を包み込むかのように、膝をつきゆっくりとかがみ込んでくる。


 両頬に添えられる温かな手。近づいてくる優しげな笑顔。


「名前なんかではない、巫女殿は巫女殿だよ。そなたは生まれ落ちる以前からすでに『かがみ巫女みこひめ』として、我らすべての鬼たちのあるじとなるべき運命であったのだ」

「わたしが……かがみの……みこひめ? すべての……おにの……あるじ?」

「そうだ。そなたのそのしろがねの髪と青の瞳こそが、栄えある『かがみ家』の末裔である証しなのだ。もちろんそなたの本名もすでに調べ上げている。そなたの名は、『かがみ亜里沙ありさ』だ」

 あっと思った瞬間、避ける間もなく目の前の男の手が、私の──いまわしき──髪の毛をつかみあげ、

「ああ。思った通りの、きれいな色──」


「……やっぱり」


「え?」

 ほんの目の前の小さな唇からこぼれ落ちた、突然のつぶやき声に、虚を突かれる鬼の男。

「やっぱり私は、人間ひとではなかったのね。オバケの仲間だったのね」

「み、巫女殿?」

 とめどもなく頬をつたい落ち始めた私の涙を見て、その表情かおに初めてわずかばかりのとまどいの色を見せる御領主様。

「だって、だって、施設の院長さんも先生たちも、みんな言ってたもん。こんな髪や瞳の色をしている者なんて、鬼にだっていやしないって。きっと私はどこかよその国から紛れ込んできた、バケモノの落とし子に違いないって!」

 そのときの私はもはやお鬼族様の御前であることも忘れて、まさに駄々っ子のように泣きわめきだしてしまったのである。

 それを真剣な表情で見つめていた御領主様の唇が、突然歪み始めて──


「ぷっ」


 え?

「……ぷは、ぷはははははは。こ、これはまた、傑作な!」

 な、何ですってえ⁉

 何よ何よ何よ、女の子が泣いているというのに! あんたは鬼か?

 ……あ。そういえば、そうだった。

 目の前の娘の膨れっ面に気づいたのか、男が私の髪の毛を砂をこぼし落とすようにさらさらと解き放ちながら、まったく心のこもってないわび言を口走る。

「悪い悪い。巫女殿がオバケなどとは、まるで鬼が神仏に帰依するような話だったからな」

 そしておもむろに、再び私の髪をすくい上げ、

「──きゃっ」

「う〜ん、いい匂い♡」

 な、何なの、今度は。人の髪の毛にいきなり口づけをしたりして。

「馬鹿げたことを言う輩もいるものだ。こんなきれいな髪が化物の証しだなんて」

「え?」

「だって、見てごらん。自分でもわかるだろう。このまるで冷たい月の光のようなしろがね色のけんときたら、まさしくいにしえの女神アルテミスの、涙のしずくを紡いでできているようではないか」

 続いて今度は私の頬に両手を添えて、まるで口づけるようにのぞき込んでくる。

「それにその青の瞳も、あたかも深い海の底の世界を映しだしたような鮮やかさで、まさに本物の宝玉みたいではないか」

 ほんの鼻先に見えるのは、まさしくたった今宝物を見つけだした子供のような、きらきらと輝いている黒水晶の瞳。

 ……まさかこの人、本気なの? こんな幼い子供に向かって、おかしな美辞麗句を並べ立てたりして。

 しかし、それでもそのときの私には、この上もなくうれしかったのである。

 だって、今まで散々あざけられ苛められ忌み嫌われてきた、私の不幸の象徴だったこの髪と瞳を、心の底から褒め称えてくれたのだから。


 今にして思えば、まさにこの瞬間ときだったのかもしれない。私の中にこのおとこへの、ほのかな恋心が芽生えたのは。


「とにかくこれからは、何も気にする必要なぞないんだよ。何せここは『鬼の』なんだからね。髪や瞳の色がどうであろうが、とやかく言う者は一人もいやしないさ」

「え? 『これからは』って……」

「そなたは今日から『鬼族付き巫女姫』として、正式にこの家で暮らしていくのだ。──そう。言うなれば、この私の『娘』になったようなものだと思うがいい」

 私が──ただの人間のみなしごが──このお城の──御領主様の──『娘』に?


「──きゃあああああああああああ!」


 そのとき響き渡る、絹を裂くような乙女の悲鳴。

 それは間違いなく、上座の鬼女のうちの一人の唇からもたらされたものであった。

「『鏡の巫女姫』ですって⁉ そ、そんな馬鹿な。たしかその血統は途絶えていたのではなかったのですか? それに他の巫女姫ならいざ知らず、そやつら『鏡の一族』こそはまさに、我ら鬼の『天敵』ではござりませぬか⁉」

 あたかも自分たち鬼よりも恐ろしげな『異形』でも見るかのように、私のほうを指さしながらわめきたてる鬼女。

 艶やかな緑の黒髪を逆立て振り乱し、陶器のように白かった肌を真っ赤に染め、黒かった瞳をいつしか人にはあらざる縦虹彩の黄金きん色へと煌めかせ、そして大きく開いた唇からはまるで牙のようなけんを覗かせながら。


 ──何て、きれいなの。


 なぜだかそのときの鬼女の取り乱した有様が、まさしく鬼のごとき形相が、あたかも私の身体の奥底でいまだ知り得ぬ『本能』がうずきだしたかのように、愛おしく──いや、むしろ『おいしそう』に見えたのだ。


 その刹那。いきなり斜め前のほうから、えも言われぬ鋭い視線を感じた。


 振り向けばもう一人の鬼女が少しも動じることもなく、むしろ艶然と微笑みを浮かべながら、私のほうを見つめていた。


 まるでこちらの心の奥底まで見透かすような、黒曜石の瞳。


「どういたした、ちょうとにらめっこなぞして。──いや、さすがは巫女殿だ。その歳で城内一の美鬼びきの魅力がわかるとは。これは手強いライバルを引き取ってしまったかも知れぬな」

「よしてくださいよ、お館様。あたしにはけして『幼女ロリコン趣味』はございませんので。もう少し育ってから考えさせていただきます」

 ……性別のほうは、問題じゃないのかしら?

 どうやらこの鬼の女の人たちも、一筋縄ではいかないようである。

 それはさておき、とにかくまずは一番大切なことを確かめておこうと、私は御領主様のほうへと向きなおった。

「……あの」

「うん、何だい?」

「私の名前や呼び名はともかく、これからはあなた様のことは、何とお呼びすればよろしいのでしょうか。ええと、お、『おやかたさま』? それとも『ごりょうしゅさま』?」

「ははははは。私の呼び名なぞ、巫女殿の好きにすればいい。何であろうと構わんよ」

 えっ、『みこどの』って私のことだから、つまり私の呼びたいように呼んでいいわけ?

 だ、だったら。さっきこの人、これからはここが私の家だと言っていたし、私のことを自分の『娘』のようなものだと言ってくれたのだから──だから──だから──、

「……と……さま」

「ん? 何だって?」

「おと…………ま」

「そんなに顔をうつむけたままで、ぼそぼそ言っていたんじゃわからないよ。ほら、ちゃんと顔を上げて、はっきりと話してごらん」

 ええい、ままよ!


「──おとうさま!」


 とたんに沈黙に包まれる、大広間。

 え、何? 私そんなにまずいことを、言っちゃったのかしら?

「おのれっ、『鏡の巫女姫』の分際で、いけしゃあしゃあとまあ!」

 今にもつかみかからんとする勢いでまくしたてる、『鬼灯』さんではないほうの鬼女。

 しかしそんな剣呑な空気を払拭するかのように、軽快な笑い声をあげる『お父様』。

「ははは、これは傑作だ。巫女殿に『お父様』などと呼ばれた鬼は、私が初めてであろう」

「し、しかし、お館様!」

「よいよい、何とでも呼べと言ったのは、この私だ。鬼族たる者おのれの言を曲げることなぞ、断じて許されはしないのだからな」

 そして私の両手を握りしめながら、最後に彼はささやいた。


 ──何か懐かしいものを見るような気配いろを、

その瞳に浮かべながら。


「改めて、これからよろしくお頼みいたす。──私のためだけの、『贖罪の神様』よ」

「しょくざいの……かみさま?」

 そのときの私は鬼族の娘になれたことで、そして生まれて初めて念願の『父親』を得たことによって、すっかり舞い上がってしまっていたから、少しも気づかなかったのである。


 これが鬼の父と巫女姫である自分との、『幸福なる日々』の始まりであると同時に、『絶望の時』への第一歩であったことを。




  二、オニイエ



「お嬢様あ! どちらにおられるのですかあ⁉ 亜里沙ありさお嬢様あ!」

「早く出てきてくださあい」

「お作法の先生がお待ちかねですよう」

「無駄な抵抗はおやめくださーい!」

「──どこにお隠れになろうが、けして逃がしはしませんことよ!」


 可愛らしい声で口々に、まるで罪人つみびとを追い立てるように、私のことを呼ばわる声がする。


 年のころは、十代後半から二十代始めぐらいか。

 ほっそりとした華奢な肢体と透き通るような色白の肌。お揃いの水色の振り袖を包み込む純白のエプロンドレス。やけに似通ったおかっぱ頭の小作りの顔の中で輝いている勝ち気そうな茶色の瞳。


 ──そして、その人海戦術で人のことを執拗に捜し回る様は、まさしく鬼気迫る雌狩猟犬ハウンド・ビッチそのものであった。


「……何で毎日毎日、たちと『鬼ごっこ』をしなくちゃならないのよ⁉」

 私は城の中庭のはずれにある古びた温室の隅に身を潜めながら、うんざりとつぶやいた。

 何が怖いかというと、あの『笑顔』である。常に能面みたいに、素顔の上に貼り付いている微笑み。まさにそれは『人ならざるもの』の本性を、覆い隠しているようでもあった。


 ──なぜなら、あの可憐で愛らしいメイドさんたちもまた、全員『鬼』なのだから。


 私、かがみ亜里沙ありさがこの『おにいえ』に引き取られてから、すでに三年が経とうとしていた。

おにいえ』──というのは、まさに言い得て妙であり、驚いたことにこの城で住み込みで働いている数十名もの人たちは、何と私を除いてすべて『鬼』であったのだ。

 それではこの鬼ばかりの環境の中で、『鬼の天敵』とまで呼ばれる『巫女みこひめ』である私が肩身の狭い思いをしているかというと、実はそうでもなく、どうやら『鬼族付き巫女姫』というものは鬼族の家では思った以上に重要らしく、むしろ領主にして城主である父を始め、城内のみんなから、まさに下にも置かない文字通りの『お姫様扱い』をされていた。

 そもそも、我が神聖皇国『旭光ひのもと』における貴族というものは原則的に人間ではなく、みずからを『おに』と称する異能の力の持ち主たちによって占められており、常なる人間である我々平民からは尊敬と畏怖を込めて、『ぞく』と呼ばれていた。

『鬼』とはいってもその姿形は人間と変わらず、皇統年代記によるとその祖は、皇国建国時において、神の御子である初代みかどを異能なる力で護り支えてきた、十名の勇士だと言い伝えられており、人にはない超常なる力と高度な知能を持つ鬼は味方にすればこれほど心強い者もおらず、以来二千六百年余にわたって帝の御代を支え続けてきたのだ。

 特に十名の勇士の直系の子孫は『じゅうぞく』と尊ばれ、現在のこの国においては人間の政財界の支配層をはるかに超え、帝に次ぐ地位と権力をほしいままにしていた。

 そして私の父はその栄えある『十鬼族』のうちの一つの、侯爵家の現当主であったのだ。


 しかし、人間よりもはるかに強大な異能の力や特権を持つ鬼であるからこそ、逆にその権力を発揮するには様々な制約が課せられていた。


 その代表的なものが『鬼族付き巫女姫』制度であり、人間でありながら鬼同等の異能の力を持つ『巫女姫』を、鬼の監視役として常にその身辺に配するというものであった。

 だからといって巫女姫たちが、むやみに鬼族側から厄介者扱いされることもなかった。

 何せ巫女たちの同意がなければ、領地における施策が何もできなくなるのである。むしろ彼女たちを厚遇することによって味方につけたほうが、鬼族たちにとっても好都合であったのだ。

 なのでこの城の人たちが私のことを大切にしてくれているのは、あくまでも私の中の『巫女姫』としての力への期待であり、それがわかるだけに、申し訳なさでいっぱいであった。

 なぜなら私はいまだそのことに対して、何一つ応えられていないのだから。


 それというのも、巫女姫がその秘められし異能の力に目覚めるときとは、同時に『女のしるし』が訪れるときでもあったのだが、私はもうすぐ十三歳にもなろうとしているのに、まだ一人前の『女』にはなっていなかったのだ。


「──おや、どうしたんだい『お姫様』。こんなところで隠れんぼかい?」

 突然の声に、思わず全身がすくみ上がった。

「き、ちょうさん⁉」

 いつの間にか温室の入口には、一人のあでやかなる美女がたたずんでいた。

 くれないの地に金糸と銀糸を織り込んだ華美な和服に包まれた、白磁のごとくすべらかな肌としなやかなる肢体。腰元まで届くわずかにウエーブのかかった、つややかなるけんの黒髪。そしてその端整な小顔の中では切れ長の闇色の瞳が、やけに悪戯っぽく輝いていた。

「どうせまた、『巫女姫様専従メイド隊』からでも逃げ回っているんだろ? しょうがないねえ。いったいいつになったら『鬼族付き巫女姫』の自覚を持ってくれるのやら。でもまあ、それもしかたないか。何せあんたときたら、『お赤飯』もまだのお子様だものねえ」

「──ぐっ」

 いかにも皮肉っぽい微笑みをその唇に浮かべながら、私を見下ろしてくる『じょ』。


 ふん、わざわざあなたにそんなことを言われなくても、十分に承知しているわよ。そのためにこそ孤児だった私は、この『おにいえ』にもらわれてきたのだから。


 元々この『鬼族付き巫女姫』制度がつくられたのは、人間には手に負えない鬼たちの異能の力の暴走を抑えつけるためなのだ。

 それなのに肝心の『巫女姫』がいつまでたってもその力に目覚めない『半人前』では、まったく話にならなかった。

 また同様に、それぞれが広大な領地の支配者である上級鬼族側からしてみても、巫女姫という『免罪符』があってはじめてその強大な権力を行使できるのであって、いまだ『完全に覚醒していない』半人前の巫女姫しか抱えていない鬼族は、自身の固有の領内における政策や裁判権や経済活動にさえも多々の制限が加えられることになり、それゆえに鬼族の家ではお抱えの巫女姫の『めざめ』こそを、何よりも待ちわびているのだ。


「……何でこんなところに、そなたら二人が揃っておるのだ」


 突然ふわりと上級鬼族ならではの、優雅で退廃的な匂いがわき立っていく。

 温室の古びた扉をゆっくりと開ききり、低い戸口からその長身を折りたたむようにして現れたのは、この城のあるじであり侯爵家の現当主である、私の『お父様』であった。


 ……いけない、忘れていた。ここはお父様の『隠れ家』でもあったんだっけ。


 それは、この城にもらわれてきたばかりのころのある昼下がりのこと。

 私は今日みたいにこの温室へと逃げ込んだおりに、植え込みの片隅にぽつんと咲いているまるで月のしずくのようなぎんはくしょくの小さな花を一心にじっと見つめ続けている、父の姿を見たことがあった。


『……瑠璃亜るりあ


 あたかも、切なさと愛おしさが絡みつくように入り混じった、男のつぶやき声。

 そんな彼の姿を見たのは、もちろん初めてであった。

 この城のあるじであり、最上級の『十鬼族』の一員である侯爵家の現当主であり、広大な領地の支配者でもある、まさに『鬼の王者』と呼ぶにふさわしき男。

 その父がまるで親とはぐれた迷子のような、何とも心細げな横顔を見せていたのだ。

 その日の光景が私の心に強い印象を刻み込んでしまい、なぜだかたびたびこの温室を訪れるようになり、いつしか自分自身にとっての『隠れ家』ともなってしまっていた。

「あら、私たちが一緒にいても、別によろしいではありませんか。お館様こそこんな朽ちかけた温室なんぞに、いったいどのような御用で伺われたのでございましょう。お仕事をおさぼりなっての『お忍び』で? ──それとも、ここでどなた様かを『お偲び』に?」

 自分のあるじに対してさえもまったく遠慮無用の鬼女の思わせぶりな言葉に、むっと顔色を変えるお父様。しかし何かに思い当たったように、すぐに気を取り直す。

「……ふむ。こうして二人揃っているところを見つけたのも、かえって好都合というものか。──鬼灯。これよりすぐに巫女殿を連れて、『北の庭園』へとついて参れ」

「『お白州』に? では、いよいよ──」

「ああ。ようやく『やつら』全員の身柄を、取り押さえることができたのだ」

 その刹那。父の表情から、普段のひょうひょうとした感じが消え去った。


 代わりに現れ出でたのは、まさしく冷徹なる『鬼の御領主様』の顔であった。


 ……鬼灯も何だか意味深なほくそ笑みを浮かべながら、私のほうを見つめているし。

 な、何よ。いったいこれから、何が始まるというの?


 ──しかし、その笑みの意味を知るには、わずかな時も必要としなかったのである。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


 北の庭園──別名『お白州』には、私のよく見知った顔ばかりが並んでいた。


 ただしそれはこの城内の鬼たちだけではなく、何と私の育った貧民街の孤児院の院長や職員たちに、かつて私をたらい回しにした養家の人たちの姿も見受けられたのである。


 ……何でこの人たちが、こんなところに。

 かつて私に冷たく当たり蔑み続けていた大人たちが、今まさに周り中を大勢の鬼たちに取り囲まれ卑屈にうつむき脅えながら、白州の地面の上に膝をついて座らされている。

 その哀れなる姿を見ても、別段喜びも憎しみもわき起こりはしなかった。それよりもこれからいったい何が始まるのかという、不安のほうが勝っていたのだ。

 現在白州の外周には地面に座らされている人間たちを取り囲むように簡単な柵が設けられ、そこへ身を乗り出すように城中の鬼たちが鈴なりとなっているのだが、なぜだか彼らの目はまるで湯気を立てている御馳走を見るような、えも言われぬ欲望にぎらついていた。

 一方私のほうは彼らよりも一段高い庭園に面した座敷内にいるのであるが、部屋の中央には威厳に満ちた顔つきで白州を睥睨している父と、その脇で大きな太刀を捧げ持っている小姓の少年と執事であるけい様が並んで座しており、そして私のすぐ隣には、

「何をそわそわしているんだい。もっと落ち着きなよ。あんたは『御領主様のお嬢様』なんだよ。人間の『罪人』ごときに見くびられたらどうするんだい?」

「……ちょうさん、これはどういうことなの? なぜ私の知り合いの人々が集められているのです。それに『罪人』とは何のことなのですか。いったいこれから何が始まるのです?」

「決まっているじゃないか。『御領主様』が『罪人』に行うことといったら、『お裁き』しかないだろう?」

「──え?」

 そのとき、座敷の中央から大音声がとどろいた。


「皆の者、おもてを上げよ。これより過去十年間にわたる、『巫女姫虐待』の件に関する詮議を執り行う!」


 ──な、何ですってえ⁉

 慌てふためく私を尻目に、父の声は何のよどみもなく続いていく。

「孤児院長、そなたは身寄りの無い子供たちを預かる重責を担いながら、一部の人身売買商や闇興行師と結託し、養子縁組みを装って施設の子供たちを金銭でやり取りし、散々食い物にしてきたであろう。しかも何と全人類の至宝ともいうべき『巫女姫』に対して、その真の価値をおもんばかることもなく、ただ外見の物珍しさばかりに目をつけて、見せ物小屋や好事家の間でたらい回しにし、思ったようには金にならぬとわかると冷遇し、およそ人間扱いともいえぬ仕打ちを行うとは言語道断。その犯した罪はまさに万死にも値しよう」

 そのあまりに厳しすぎる沙汰の宣告に、孤児院長はでっぷりとした身体を無様に震わした。

「お、お待ちくだされ! どうかお慈悲を! わたくしどもはその娘御がまさか伝説の『巫女姫』様だったとは、まったくあずかり知らなかったのでございます!」

「知らなかったではすまされないのだ。おまえら人間どものその無知蒙昧ぶりが、これまでどれだけの数の巫女の血筋の者たちを害してきたことか。もはやこれ以上わずかでも、禍根の種を残すことは相成らぬ!」

 そう言い終えるや父は、いきなり立ち上がってもろ肌を脱いで、小姓が掲げていた太刀を取りあげ鞘から抜き去った。

「お父様、いったい何を? ──だめ、やめて! 鬼灯さん、お父様のことを止めてえ‼」

「それは無理な相談だね。『鬼』としてのお仕事をなされておられるお館様を止めることなんて、誰にもできやしないんだよ」

「……おにの……おしごと?」

「そうさ。人間の組織では手も出せない官僚や政治家などの、特権階級の者たちの人知れぬ腐敗や悪業を問答無用で断罪すること。それがこの国のみかどから直々に与えられた、お館様たち『十鬼族』ならではの『お仕事』なのさ。だからそれを止めることは、どんな人間や下々の鬼たちにもけして許されはしないんだよ。──ただし、唯一の例外を除いてね」

「えっ。その『唯一の例外』って、いったい何のことなのですか⁉」

「何言ってるんだい。それがあんたのことだよ。『巫女姫』様?」

「──ええっ⁉」

 そんな問答をしている間に父は白州へと降り立ち、孤児院長の前に立ちはだかっていた。

「お願いでございます、お、お助けを──うぐぎゃああああああ!」


 大人の背丈ほどもある太刀を、鬼の片腕が軽々となぎ払った瞬間、男の首が宙に舞い飛んだ。


「ぐぎゃっ!」

「ひぎっ!」

「あぐっ!」

 ──次々と刎ね飛んでいく、人々の頭部。

 身体中に返り血を浴びながらも少しも気にせず、続けざまに太刀を振るっていく鬼。

 しかし彼は別段嗜虐の欲望に興じたり、罪人に対する怒りに猛ったりすることもなく、あたかも古式ゆかしい幽玄なる剣舞をただ静かに踊っているようにも見えたのだ。

 そのときの私は、まるで心臓を鷲掴みされたように、彼から目が離せなくなっていた。


 ──なぜならその鬼は、この上もなく美しかったから。


 次々にめった斬りにされ、物言わぬ肉塊と化していく多数の人間たち。

 そしてそれを見守りながら、どんどんと興奮を高めていく城内の鬼たち。

「──さあていよいよ、我らが『カルナバル』の始まりだよ!」

 突然の声に振り向けば、鬼女の唇がにんまりと笑み歪んでいた。

「ほら、あそこを見てみな。そうそう、お白州の右端のほうさ」

 指さされたほうに、目をやれば──

「うぐっ!」

 庭園内に響きだす、何かボロ布を無理やりすり潰したり引きちぎったりするかのような、不快きわまる音。


 何と一番最初に斬り捨てられた孤児院長の屍体へと、あのメイド姿も可憐な乙女たちが群がり、そのできたてほやほやの屍肉を手づかみで貪っていたのである。


「……な……に……?」

 あまりのことに言葉を失った私を尻目に、鬼たちが次々に屍体へと飛びついていく。

「元々このお裁きは、文字通り『謝肉祭カルナバル』でもあったのさ。待ちに待っていた、我ら鬼たちにとってのね。さあ、今からこの城あげての数年に一度の、『鬼の祭』の始まりだよ!」

 自身も興奮を抑えきれないように、怪気炎をあげていく鬼女。

 そのときメイド隊の幾人かが血肉だらけの顔を上げ、私に向かってにっこりと微笑んだ。

「えへへへへ。これもすべて、亜里沙ありさお嬢様のお陰ですよう♡」

「お嬢様がこやつら人間どもの悪事を、お館様にチクってくれたからですう」

 ──そ、そんな⁉ 私、そんなつもりじゃ!

「あらあら。まだお裁きの途中だというのに、巫女姫様がどこへ行く気なのかい?」

 皮肉まじりの鬼女の声。しかし私は、駆け出す足を止めることなどできなかった。

 ちらりと白州を振り返れば、能面みたいな無表情のお父様が、冷たい目で見つめていた。

 そうだ、どこに逃げようが同じなのだ。


 なぜならここは、『おにいえ』なのだから。


 私はすっかり忘れていたのである。


 ──自分の周りにいる者がすべて、人外ケダモノだということを。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「……初対面のおりに私が、昔施設でこの髪と瞳のせいで悪し様に扱われていたなどと、お父様に口を滑らせたりしなかったら」


 その夜、私は自室のベッドの上で身を丸め、激しい自己嫌悪に苛まれ続けていた。


 開け放たれた窓からは蒼ざめた月明かりが、煌々と降りそそいでいる。

 そのいつもよりも赤き満月は、まさにこの忌まわしき夜を照らすにふさわしかった。


 私が途中で逃げ出してしまった『お裁き』のほうはとっくに終わったようであるが、引き続き始まった鬼たちの『謝肉祭カルナバル』のほうは、夜半すぎの今もまだ収まる気配もなかった。

 閉じきった扉の向こうから、相も変わらず男の雄叫びや女の嬌声が聞こえてくる。

 何せ人肉を喰らうことによってすっかり『鬼の本性』をあらわした彼らは、今や場所や相手を選ばず交わり始めており、もはや部屋の外へは一歩も出られない有様なのだった。


「……お父様」


 思い浮かぶは、白州の真ん中で血肉まみれの太刀を手に仁王立ちしている、父の姿ばかり。

 お父様も今ごろはきっと、あのちょうと──。

 そう考えているうちになぜだか急に身体の奥で、何か黒々としたものがわきたってきた。

 それは最初嫉妬心のようでもあったが、すぐに激しい喉の渇きのような欲望へと変わる。


 ──欲しい。今すぐ、『あの人』が欲しい。


 なぜだろう、私は鬼じゃないのに。人肉なんて食べてもいないのに。

 しかし、その初めての切なく醜い渇望はとどまることもなく、私の身と心を責め立てた。

「お父様! お父様! お父様! お父様!」

 私は着物の裾を振り乱し、最近覚えたての『手慰み』で、何とか鎮めようと、


「──巫女殿、もう眠られてしまわれたかな?」


 その瞬間、私のすべてが凍りついた。

「夜分すまない。昼間のそなたの様子が、どうにも気になってな」

 そう言って控えめなノックと共に、今まさに頭の中で思い描いていた男の姿が現れるやいなや、私は慌てて布団の中へともぐり込んだ。

「──むうっ、いかがした。顔が真っ赤になっておるではないか。加減でも悪いのか?」

「い、いえっ、別に! どうぞ、ご心配なく!」

「そうか? とにかくそなたは何よりも大事な身。ゆっくりと休まれるがよかろう」

 私を気遣うように布団越しに優しく触れてから、出口へと踵を返そうとする父。


 ──そのときふわりと漂ってきたのは、あの婀娜なる鬼女の香りであった。

 やはりお父様は今までずっと、あの女と一緒に──。


「お待ちください!」


 考えるより先に、口が動いていた。

 怪訝な表情で、男が振り返る。

「なぜ、なぜなのです。なにゆえにそれほどの罪も犯していない方々に、あんなにもむごい刑罰をお与えになられたのですか⁉」

 そのとき私の口から飛びだしたのは、自分でも予想外なことであった。

 しかしそれでも、かまいはしない。

 とにかく今はわずかな間でも、父をこの場に足止めしたかったのだ。

「……しかたなかったのだよ。巫女姫に少しでも害を及ぼす可能性のある人間たちをそのままにしておけば、そなたの『かがみ家』の二の舞いになる恐れがあるからな」

「私の家の……二の舞い?」

「そうだ。──あまの巫女姫の血統の中でも、名家中の名家と讃えられていた鏡家。しかし今から十数年前、かつて裁きを下した鬼の遺族から逆恨みをされ襲撃を受けて、一度は断絶してしまったとまで言われていたのだ。そんな中、ふとしたことから『鏡家の血を受け継ぐ生存者がいる』との噂を聞きつけた私は、それから四年もかけて侯爵家の総力をつくして捜索を続けた末に、施設にいたそなたを見つけだすことができたというわけなのだ」

「……四年も探していたのですか、この私のことを?」

「憎いかい」

「え?」

「そなたの家族を皆殺しにしたのは、私と同じ鬼族なのだよ。──まあ、その鬼の一族は、すでに根絶させられてしまったがね。しかも同じ鬼族たちの手によってな。何せ巫女姫の血筋に手を出すことは、我ら鬼にとっての最大の禁忌タブーなのだからね」

 そう言いきりながらもその鬼の瞳には、少なからぬ不安の色が浮かんでいた。

 いつもの彼らしくもない弱気な様であるが、そんな父の姿を見ることも実は嫌いではなかった。


 だから私は何も答えず、ただ彼の胸の中へと飛び込んだのである。


「……みこ、どの?」

 その瞬間、あの鬼の女の匂いが、急に強まった。

 私はそれを打ち消すように、さらに必死に父へとしがみつく。

 涙に揺れる上目遣いでめつける私の瞳に、父の唇がおののいた。

「……なぜ、なぜにそなたはそこまでして、この私のことを受け容れてくれるのだ? 今日の裁きのなかに私の『鬼』そのものの姿を見て、嫌気はささなかったのか?」

 私は黙ったままひたすらに、首を横に振った。


 ──だってあなたは、私のこの醜いしろがねの髪と青の瞳を、はじめて誉めてくれた人だから。どこにも行き場のなかった私を、はじめて本当に受け容れてくれた人だったから。


 そのとき夜空の月にかかっていた薄い雲が途切れ、ふいに窓から射し込む明りが強まった。

 もはや遮るものもない満月の光は、父の気弱な顔をあからさまに照らしだしていた。


「……瑠璃亜るりあ


 知らない名前だった。

 だがそんな疑問は瞬く間に、激しい歓喜の中でかき消された。


 ──父が私のことを、抱き返してくれたのである。


「お、お父様?」

「許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ──!」

 うわ言のように、くり返すばかりの男。

 その様はもはや、ただの幼子そのものであった。

 ……そうだった。なぜだかこの人は、満月の夜には決まってこうなるのだ。

 まるで過去の悪夢が満ちゆく月と共に訪れて、彼を呑み込もうとしているかのように。


 ──大丈夫、私が護ってあげるわ。


 そのときの私はあたかも『聖母』のように、自分の父親をその胸に抱きしめたのである。

 もはや、この男が鬼であろうが他の女の匂いがしようが、少しも構いはしなかった。

 だって、私は彼の『特別』なのだから。

 彼がこんなにも情けなく弱々しい姿を無防備に見せるのは、この私の前だけなのだから。


 ──鬼でも男でもない、彼の真の姿を。


 ああ。何て狂おしいまでに美しく、無様なまでに愛おしいのだろう。

 初潮なんて来なくてもいい。『巫女姫の血』なんかに目覚めなくてもいい。

 このままこの父と、二人だけの関係を続けていけるのなら。


 巫女でも鬼でも人間でもなく、子供でも大人でもなく、ただ、この人の『娘』として。


 このとき私は、知らず知らずのうちに、『呪い』をかけてしまっていたのである。

 神聖なる巫女姫であるはずの、この私が。


 そう。時の流れがこのまま、凍りついてしまえばいいのにと──。




  三、めざめ。



「──ハッピー・バースデー!」

亜里沙ありさお嬢様、おめでとうございます!」


 クラッカーの破裂音とともに、色とりどりの紙テープが宙に舞う。

 私の十三回目の誕生日は、こうしてこれまでにない派手な演出で始まった。


「……でも私、こんな上等な振り袖なんか着てしまって、本当に似合っているのかしら?」

 ちょうが城の奥向きから見つけてきたという、少し古いけど上品で優美でそして大人びた振り袖。紫紺の地に大きな菊花の紋様は、まるで冴え冴えとした満月の夜空のようだった。

「何を言っているのやら、よく似合っているじゃないか」

「ほんに、お奇麗ですこと」

「勝手に脱いじゃったりしては、だめですよう」

「お出かけ中のお館様がご覧になったら、さぞかし驚かれることでしょう」

「さすがは鬼灯様、いい物を見つけてこられたこと」

 そう言って顔を見合わせ含み笑いを漏らす、鬼灯と『巫女姫様専従メイド隊』。

 何だか『悪巧み』の臭いもするが、それは考えすぎというものか。この着物の前の持ち主のことも気になるが、『お父様』絡みだと何かと神経過敏になるのは私の悪い癖である。

「じゃあ、そろそろ行くとしようか。準備はいいかい?」

「……本当に、行くのですかあ?」

「何言っているんだい。せっかく着飾ったのに、お館様に見せなくてどうするのさ。ほら、今さらぐずぐずするんじゃないの。女は度胸だよ!」

 そう言ってメイドさんたちとともに、私を強引に引っ張っていく鬼灯。

 私はため息をつきながらも、素直に従っていった。

 今日十三歳の誕生日を迎えたというのに、結局『巫女姫のしるし』がまだあらわれていない私を、みんなが何とか元気づけてくれようとしていることがわかるので、やたらと無下にはできなかったのだ。


 だから私は、憂鬱半分期待半分で向かって行ったのである。


 ──あるじ不在の、お父様の寝室へと。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「それじゃあ、せいぜい吉報をお待ちしているよ」


 最後まで尻込みしていた私を父の寝室へと押し込んだあと、あっさりと立ち去っていくちょうたち。

 ふん。どうせどこかの物陰にでも隠れて、一部始終をのぞき見するつもりのくせに。


「……そういえば、ここに入るのも何年ぶりかしら」


 その、ほろ苦い懐かしさすら感じるほど久方ぶりの室内を、こうべをめぐらせ見渡してみる。

 広々とした二十畳ほどもある木と漆喰の和室。その中央に置かれている五、六人の大人が楽に収まりそうなキングサイズの天蓋付きのベッド。そして高い天井までのびている夜なのに開け放たれた窓には薄い水色のカーテンがかかっており、明りが一つもつけられていない室内を月の光によって、まるで深い海底にいるかのように染め上げていた。

 数年ぶりのそのたたずまいは、少しも変わるところがなかった。

 ──そう。この城に来てからあの古びた温室を見つけるまでは、この部屋こそが私の『隠れ家』だったのだ。

「でも考えてみれば、その原因を作ったのも、たしか鬼灯さんだったんだよねえ……」

 まだ自分以外が鬼ばかりの環境に慣れずにいたころ、あの鬼女は何かとちょっかいをかけてきては、嘘八百を並びたてて私を怖がらせていたのだ。

 ──たとえば、『巫女姫は鬼の大好物なんだよ』とか。『お館様はあんたを食べるために引き取ったんだよ』とか。

 幼い私はすべてを本気にして、父本人に真相を問いただそうとこの寝室にもぐり込んできたのだが、多忙なあるじは不在が多く待ちくたびれた私はベッドで眠り込んでしまい、みんなを大慌てで捜し回らせるはめになってしまったのだった。

 あとで鬼灯に抗議したらしれっとした顔で、『わざわざベッドで待っていてお館様に食べられなかったのは、あんたがまだまだ「お子様」だって証拠だよ』などと言う始末である。

 ……うん? そういえば私が、こんな夜遅くにここでこうして父を待ちかまえているのは、まさに『そういう展開』を期待しているようなものではないのか?


「──誰だ! ここで何をしている⁉」


 突然の男の怒声に、思わず身がすくんでしまった。

 とりとめのない考え事に熱中していたために、部屋のあるじの御帰還に気づかなかったようである。

 続き部屋への出入口には、お父様らしき大柄な人影が立ちつくしている。

 ──まずい、この暗さのために誰だかわからずに、いきなりお手討ちなんかにされたらどうしよう。

 そのときふいに夜風が吹き込んできてカーテンを押しのけ、窓際に立っていた私の身体を月明かりが照らしだした。

 その身にまとうは、まるで『鏡』のように満月の夜空を映しだす、紫紺に菊花の振り袖。


「……瑠璃亜るりあ


 そうつぶやくやいなや人影が近づいてきて、私を抱きすくめ、

「あの、お父──うぐっ!」


 ──唇を力強く、押し当ててきたのであった。


 一瞬時間ときが止まったかと錯覚するような、全身を貫いていくえも言われぬ衝動。

 息をするのも忘れあえぐように唇を開けると、待ちかねたようにすかさず何かが押し入ってきた。


 私の口腔なかを、おとこの熱い体温ねつとぬめる唾液つばとが、蹂躙していく。


 のたうつように絡みつく、舌と舌。

 次第に私は酩酊したように、膝から力が抜け頭がぼうっとなっていった。

 するとそのとき男の唇が離れていき、私は一瞬解放される。

 しかし一息つく間もなく、今度はいまだ未熟な薄い胸元へと、もぐり込むように顔をうずめてきた。

 とまどう私のすぐ下で、あの尊敬する父の、いかにも心もとない声が聞こえてくる。

「……お願いだ、私のことを捨てないでくれ。どこへも行かないでくれ。もう二度と独りぼっちにしないでくれ!」

 どうしたのかしら、今日は満月の夜でもないというのに、このようなお姿を見せられて。


「──許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ──瑠璃亜!」


 ……るりあ?

 まるで赤児にでもなったかのように、私の胸元にすがりついて嗚咽をあげ続ける男。

「お父様、『るりあ』とはどなたのことです? 私は亜里沙ありさです、あなたの『娘』です!」

 はっとなり、顔を上げる父親。

「……巫女……殿?」

「ちがいます! 私は『みこどの』でも『るりあ』でもございません、『亜里沙』です。どうか私のことは、名前でお呼びください!」

 涙まじりの潤む瞳で、胸元の顔をめつける。しかしその男は急に我に返り──


「だめだ! 聖なる『巫女姫』に対して、私はいったい、何ということを⁉」


「きゃっ!」

 いきなり私の身体を突き飛ばすようにベッドへと放り投げ、足早に部屋を出ていく男。

「──鬼灯! 鬼灯はどこにいる⁉」

「あちゃあ〜、どうやらしくじったようだね。──はいはいお館様、私めはここに」

「来い!」

 鬼女を力まかせに寝室へと引きずり込み、それと引きかえるように有無を言わさず私を放り出し、その鼻先で無情にも扉を閉めてしまうお父様。


 ──そして漏れ聞こえてくる、女の嬌声。


「お父様! お願い、ここを開けてえ! お父様お父様お父様お父様お父様お父様──‼」

 私は血がにじみだすのもかまわずに、激しく扉を叩き続けた。

 しかし鬼女のあえぎ声がやむことは、けしてなかったのである。

 もはやこぶしを打ち付ける気力もなくし無様に扉の前でうずくまり、嗚咽をあげ始める。

 ……最低。

 何が誕生日よ! 何で私がこんな目にあうのよ! この振り袖を着たのがいけなかったの⁉ 私が鬼ではなく人間の娘だから⁉ そんなにその鬼女のほうがいいっていうの⁉


 それとも私がまだ、一人前の『巫女姫オンナ』になっていないから?


 その刹那。まるで雷にうたれたような激痛が、私の全身を貫いていった。

「うっ──」

 急に下腹部に、えも言われぬ鈍痛が広がっていく。

「いたいいたいいたいたいいたいいたい──」

 たすけてっ! このままじゃ死んじゃう。お願い、お父様、たすけてえ!

 たまらずに両手でお腹を押さえながら、床の上に横たわり胎児のように身を丸める。

「……お、お嬢様、いかがなされたのです?」

 ふいに女性の声がした。おそらくは私の首尾を遠巻きにうかがっていたメイド隊の人たちが、この尋常ならざる様子を見て声をかけてきたのであろう。

「大丈夫ですかあ?」

「きゃっ、お嬢様の足もとから血が!」

「どこぞにお怪我でも?」

 ざわざわと増していく、鬼たちの気配。それが引き金になったのか、私の中でこれまでにない何か喉が焼けつく『渇き』のようなものが、急激に満ちあふれてきた。


「──きゃああああああっ、亜里沙お嬢様⁉」


「何だ、何事だ⁉」

 絹を裂くようなメイドさんの声に、あれほど頑なに閉じられていた扉が乱暴に開け放たれ、お父様が半裸のままで飛び出してきた。

「お、お館様、亜里沙お嬢様が!」

「──なっ。どうしたんだ、いったい。そなた、血だらけではないか⁉」

 血相を変えて、私のほうへと手を差し伸べる父。

 ──急速に高まる、鬼の気配。


 その瞬間、激しい『嫌悪感』に襲われ、身体の中を何かがほとばしっていった。


「──うわっ!」

「きゃっ、お館様⁉」

 お父様の逞しき大きな身体が、まるで紙風船みたいにはじき飛ばされていく。

 そのとき私の身体がひとりでに、のろのろと立ち上がっていった。

 着物の裾が大きく乱れ、両の太ももを幾筋かの鮮血がつたい落ちていくのが見える。

 私がうずくまっていたあたりには、小さな赤い水たまりができていた。


「……聖なる巫女姫に触れようとは、身の程知らずにもほどがある。この『外道オニ』めが!」


 ──ぞっとするような、氷のごとく冷たい声。

 それは間違いなく、私の唇からこぼれ出たのであった。

 何が何やらわけもわからず混乱しながらも表にはわずかな動揺もあらわさず、私は無様に尻餅をついたまま呆然としている父親のほうを見下ろしていた。

 だが、最初は呆気にとられていたその顔は、なぜだか次第に喜色を浮かべていく。


「……まさか……そなた……『目覚めた』のか?」


 意味不明なことをつぶやく、目の前の鬼の唇。

 その刹那。私の身体がふいに力つきたように、崩れ落ちていった。

 すかさず手を差し伸べる父。私にはもはや、それを払いのける余力なぞはなかった。


「──はは、あはははは。やったやった。『鏡の巫女姫』がようやく目覚めたぞ! これで十年越しの『願い』が、ようやく叶えられるのだ!」


 力強い抱擁に包まれながら、男の狂喜の声が聞こえてくる。

 しかし、私は消えゆく意識の中で、本当は気づいていたのである。


 ──恐れ続けてきた『何か』が、とうとう始まってしまったことを。




  四、オトコ本性スガオ



「──ああもう、うんざりだわ。私いったいいつまで、ここに閉じ込められ続けるわけ?」


 そのとき私は病気でも何でもないというのに、この春の陽気の中ずっと、自室のベッドで寝かしつけられていた。


「しかたありませんわ」

「それだけお館様が、お嬢様を大切になされている証しではありませんか」

「むしろ女冥利につきますわ」

「うらやましいかぎりですう」

 ……メイドさんたちったら、他人事だと思って、勝手なことばかり言うんだから。


 いやむしろ、この人たちこそが、お父様の代理の監視役のようなものなんだしね。


 あの日、女にとっては嬉し恥ずかしの『巫女姫のしるし』があらわれて以来、お父様が突如うざったいぐらいの『過保護パパ』ぶりを発揮しだし、私を面会謝絶の完全看護状態にしてしまい、いつもよりも増してメイド隊を身の回りにはり付かせて、箸よりも軽いものすら持たせないという、徹底した『お姫様生活』を強要してきたのだ。

 たしかに最初の数日間は鈍痛を伴い出血量も多く、日によっては回数も不規則になりがちで、私自身何かと不安な気持ちになったものだが、五日もすぎればいろいろと慣れだし、そのうち出血もやみ症状もすっかり治まってしまっていた。

「……なのにお父様ったら、私が一人でこの部屋から出るのも許さない勢いのままなのよねえ」

「それだけ我々鬼にとっては、『目覚めた巫女姫』が、何よりも大切だということなのですう」

「上級鬼族は家の格を上げるために、少しでも力の強い巫女姫を得ようと、虎視眈々ですしい」

「下々の鬼には誤った先入観から、巫女姫の命を狙っている者もおりますしい」

「だから自分の家の巫女姫は自分たちの手で、何をさておいても守らなければならないのですう」

「なのでまずは何よりも、巫女姫の存在を外部に知らせないことが肝要なのですう」

 ……とはいっても、城の出入りを原則禁止にして、自分の娘を軟禁状態にしなくても。

 しかし、実のところ私はこの窮屈きわまる現状を、心の底では喜んでいたのである。

『──これはあくまでも、そなた自身のためなのだ。この世の中には他人の「巫女姫」を我が物にしようと狙っている、不埒きわまる鬼や人間どもが多いのだからね』

 そう何度も私に言い聞かせる父の口ぶりが、やけに後ろめたそうに弁解じみていて、何だか妙に嬉しく感じられたのだ。


 ──まるで彼がこの私のことを、独り占めしたがっているようでもあったから。


「そういえば、お嬢様。今日もいらっしゃっているみたいですよう、あの『男爵様』」

「げっ、うそっ⁉」

「御愁傷様ですこと」

「あの方がおいでになっているとなると、お館様はいつにもまして、お嬢様をお外へ出そうとはなさらないことでしょう」

「──そ、そんなあ〜」

 お父様の知り合いの中に例外中の例外として、幼いころから『巫女姫』である私の存在を知っている人がいた。

 本人の身分は侯爵である父より格下の『男爵』ではあるものの、母親の血筋が『じゅうぞく』筆頭の名門中の名門『海神わたつみ伯爵家』の出身であり、長年のつき合いもありへたに無下にもできず、本人の熱意とごり押しに負ける形で、渋々私と引き合わせたのだ。

 それからその『男爵様』は、この城を訪れるときは必ず私にちょっかいをかけてくるようになったのであるが、最初物おじしていた私も父同様に優しく上品でまさに『貴族』そのものの彼に、次第になついていった。

 まあ、それを苦々しく思っていたかどうかは定かではないけれど、私が巫女姫に目覚めたことを理由として、父は男爵様にもそれ以降娘と会わせないことを宣言したそうなのだ。

 しかし男爵様のほうは懲りたふうもなく、むしろそれ以来頻繁にこの城を訪れるようになり、あわよくば私と面会しようと目論んでいるみたいなのであった。


 それでお父様は彼が来る日は特に『厳戒態勢』をしき、今日みたいに私を部屋どころか、ベッドからも一歩も外には出させないといった有様なのである。


「というわけで、お嬢様」

「本日は私たちメイド隊とだけ」

「一緒に仲良く遊びましょう♡」

「……とほほほほ。というか、このところ、毎日同じような気がするんだけど?」

「気のせい気のせい」

「さあ、何をなさいます?」

「トランプ?」

「花札?」

「それとも、『黒髭危機一髪! 謎の海底迷宮脱出大作戦ゲーム』ですかあ?」


 脱出したいのはこっちよ! 見ていなさい、必ず隙をみて逃げ出してやるんだから!


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「……ハルミ?」

「きゃっ。ど、どうしてここに、男爵様が⁉」


 そのときその鬼はまるで幽霊に出会ったような顔つきで、私のことを見つめ続けていた。


 狭い室内で『鬼ごっこ』をやることを提案し、しかも唯一人間である自分のほうが『鬼』になることを申し出るという斬新きわまる策略によって、全員素直に隠れてくれた隙をついてあの大人数の監視状態からまんまと脱出することに成功し、めでたくこの古びた温室まで逃げ延びたものの、何とそこには意外な先客が待ちかまえていたのであった。

 私のたたずむ入口へと向かって、これまでにない真面目な表情で近づいてくるお鬼族様。

「こ、これは男爵様。本当にお久しぶりでございます」

 ただならぬ緊迫感に無理やり笑顔をつくって挨拶をすると、はっとしたように男は立ち止まった。

「……何だ、あなただったのか。──いや、巫女姫殿もしばらくお会いしないうちに、随分と大人びてお美しくなられたようで」

 いつも通りの茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべて、妙な雰囲気を払拭する男爵様。

「いやですわ、そんな。美しくなっただなんて。相変わらずお上手ですこと」

「なんの。この温室の花々さえも、あなたの前ではすべて色あせて見えるばかりですよ」

 そう言って、すかさず私の右手をとり、口づける青年鬼族。

 さ、さすがは鬼族界きっての『ミスター・バロン』。何という板についた『気障っぷり』であろうか。


「──そなたら、何をしているのだ!」


 突然の怒声に二人して振り向けば、顔を真っ赤に染め上げたお父様が立ちつくしていた。

「ちょっと人が席を外した隙に勝手に城内を歩き回るとは。これは重大な越権行為だぞ!」

「相変わらずお堅いなあ、侯爵殿は。お手洗いを借りたあとたまたま道に迷っていたら、君の大切な『巫女殿』と偶然出会っただけではないか」

「白々しい言い訳はあとで聞く。とにかく巫女殿から離れろ。貴殿は教育に悪い!」

「……ひどい言われようだが、まあいいか。じゃあ『巫女殿』、また後日改めて♡」

「ふざけるな、後日などはない!」

「はいはい、早くお部屋に戻りましょうね」

 父に連行されるように立ち去る男爵様を見送りながら、私は首をひねっていた。何であの水と油の二人が、『友人』なんかをやっているのだろうかと。


 ──しかしそれよりも気になったのが、『後日改めて』と言ったときの男爵様の顔が、今日最初に出会ったおりの、あの不可解な表情へと戻っていたことなのであった。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


 そしてその悪い予感は数日後、早くも現実のものとなったのである。


 その日彼は父が外出しているのを見計らったかのように突然訪ねてきて、押しとどめようとする家司様やメイドさんたちを強引に振りきり、私の部屋へと上がり込んできた。


「ハルミハルミハルミハルミハルミハルミ!」

「やめてっ! お願い、男爵様。もうおやめになってえ!」

 しかし、もはや彼の耳には私の声など届かないかのように、聞き覚えのない女の名前を狂ったように口走りながら、私をベッドに押さえ込み衣服をすべてはぎ取ったのである。

「なぜ甦ったんだ、ハルミ。なぜそんな責め立てるような目で俺を見るんだ。みんなおまえが悪いのだ。──くそっ。もう一度犯して殺してかけらも残さず喰い尽くして、今度こそ完全に俺の目の前から消し去ってやる!」

 彼は私の幼い身体に覆いかぶさり、硬くそそり立った『おとこのツノ』を近づけてくる。

「いやっ! お父様助けて! お父様お父様お父様お父様あ──!」

「だまれ! おまえは俺のものだ。俺だけのものなのだ!」

 そこにはいつもの気障で優しい、青年貴族はいなかった。

 ──そう。結局彼もまた、『鬼』であったのだ。


「この腐れ男爵めが、何をしている⁉」


 あわやというところで轟きわたる、救いの声。

「──ああ、お父様! お願い、助けてえ!」

「……貴様! 殺してやる」

「ひいいっ!」

 入口から一気に飛びかかるようにして、男を床へと抑えつける父の鋼の体躯。


「このゴミが!」

「──うげっ」

「カスが!」

「──ぐぎっ」

「ゲスが!」

「──ぎゃっ」


 男爵の上に馬乗りとなり、その顔を叩きつぶすかのように拳を打ちつけていくお父様。

 戦意が完全に喪失したことを見て取ると、今度は素手でその四肢を引きちぎり、内臓をえぐり出していく。

「──うぎゃあああああああああああああ!」

 全身に男の血肉を浴び、今やまさに『赤鬼』そのものと化すお父様。

 いつしかその瞳は縦虹彩の黄金きん色へと変わり、唇からは獣のような牙が覗いていた。


 ──私がこの目で父の『鬼の姿』を見るのは、これが初めてであった。


「許してくれ、魔が差したんだ。もう二度としない。俺たち友達だろう、見逃してくれ!」

 鬼の強靭なる生命力ゆえにしぶとく生き延びていたその男は、泣き叫びながら友に対して許しを乞い続けたが、父はさもうるさそうに、その舌を引っこ抜くだけであった。

 まるでそのままミンチでも作るつもりであるかのように、もはやただの肉片と化した男爵の屍体を執拗に叩きつぶしていく赤鬼。

 一方私はというとその殺戮の間中ずっと、引き裂かれてぼろぼろになった振り袖だけをその身にまとい、部屋の片隅でただ震えながらうずくまっていたのであった。

 ふいに耳障りな音がやみ顔をあげると、真っ赤に染まった男の身体がゆらりと立ち上がり、こちらへと向かって歩き始めた。

 思わず目を閉じ身をすくめたとたん、力強い手で両肩をつかまれる。

 恐る恐る目を開ければ、血肉だらけの鬼の顔の中に、いつもと変わらぬ父の瞳があった。

「……すまない、そなたをこんな目に遭わせてしまって。でも本当によかった、どうにか間に合うことができて」

 いつも通りの優しい声。そしてあたかもガラス細工の人形を扱うような、優しい包容。


 ──それは間違いなく、普段の父そのものの姿であった。


「お父様! お父様! お父様! お父様!」

 とたんにすべての緊張が緩み、私はまるで幼子のように涙を流しながら、その厚い胸板へとすがりついていった。

「よしよし、怖かったろう。もう二度とそなたを、他の鬼の手に触れさせはしないからね」

 さらに力強く抱きしめてくれる、鋼のような両腕。

 たしかに私の父は、残虐非道で恐ろしき『鬼』であった。

 でももはや、たとえそうでも構わない。


 彼の本性が何であれ、私の父であることに変わりはしないのだから──。


「よいか、そなたは何も悪くはないのだ。あやつはただ、そなたの『かがみちから』の中に、昔彼自身が殺してしまった姉の姿を見ていただけなのだから」

「……わたしの……かがみの……ちから?」

「そうだ。これぞ聖なる巫女姫の中でも最も強大な力を誇ると言われる、『鏡の巫女姫』の異能の力の一つで、まさしく『鏡』であるかのようにおのが姿の中に、鬼──特に我らのような上級鬼族たちにとっての、その心に秘められし最も大切な人物の姿を映しだすことができるのだ。古くはこの力を自由自在に使うことによって、鬼の攻撃心を奪ったり命令をきかせたりしていたらしいが、そなたは『巫女姫の血』に目覚めたばかりゆえに、知らず知らずのうちに勝手に『鏡の力』が現れてしまったのであろう」

「そんな。私、そんなつもりは。なのに、あの人、むりやり私を」

「もういいのだ。あんなやつのことなぞ、忘れてしまうがいい!」

 心細げにつぶやく私をあやすかのように、さらに父の抱擁が強まった。


 ──うれしい。


 今私は、父に抱かれているのだ。

 しかもこの上もなく大切なる、掌中の珠であるかのように。

 ああ、これも私が『巫女姫』になれたからなのだ。

『しるし』が来るのが遅れたり、たくさんの血を流して気を失ったり、今日みたいに怖い目にもあったけれど、そのお陰でお父様の手で助けられて、抱きしめてもらえたのだ。

 もし私の巫女の力が役に立つのなら、お父様のためにすべて使ってあげる。あんなおとこに喜ばれるのは御免だが、あなただけのためになら『鏡』にでも何でもなってあげる。


 ──そう。さっきみたいに、おとこを狂わす『女の鏡』に。


 私は頬をすりよせるようにして、うれし涙にうるむ瞳で父の顔を見上げた。しかしそこにはなぜか、二つのまなこが驚愕に見開かれていたのである。


「なぜだ、なぜそなたが、そのような顔をするのだ? ──まるで『あのとき』みたいに。……まさか、まさか、そなたが、この鬼の私のことを⁉」


 当惑するように呆然とつぶやく、父の唇。

 もしかして、とうとう気づいてくれたの? 私のこの想いに!

 しかし彼は、今や歓喜に打ち震える娘の身体を、いきなり突き放すように振りほどいた。

「と、とにかく、そなたが無事で良かった。すぐにメイドたちをつかわしてやるから、今日はこのままゆっくりと休むが良いぞ」

「──えっ。あの、ちょっと、お父様?」

 突然のことに慌てふためく私の声など無視するように、足早に部屋をあとにしていく父。

「……お父様」

 一人残された部屋の中にたたずみながら、私の脳裏には疑惑の念が渦巻いていった。


 ──それでは父は『鏡』である私の中に、いったい誰の姿を見ているのであろうか。




  五、きょうえん



「お嬢様、お待ちください!」

「ここから先は、立ち入り禁止の『奥の院』でございます」

「お館様はただ今、お取り込み中であらせられるのです」

「どうか、御遠慮ください!」


「──かまいませぬ。娘が父親に急用があるのです。お叱りはあとで私自身が受けます」


「ひ、姫様⁉」

 私はすがりつくようについてきたメイドさんたちを振りきり、城の最深部にある大広間の重厚なる扉を押し開いた。


「これはこれは、巫女殿。随分と不作法な御登場でありますな」


 見通しもきかないほど最奥にある上座のほうから、耳なれた声が聞こえてくる。

 何十畳もあるだだっ広いその部屋は、まだ昼間だというのに薄暗く、何やらあやしげな臭いのする煙に満たされていた。

 意外にも女人にょにんの姿は一人も見えず、そこにいたのは若い男ばかりであったのだが、その全員ともが普段城内では見かけることのない、市井の身分の低い鬼たちのようであった。

 彼らのほとんどが裸同然の有様で、部屋のいたるところで男同士で身を寄せ合い、何か見慣れない煙草みたいなものを回し飲みしている。

 上座の一段高い壇上で派手な着物を着崩している父の周りにも、数名の見目麗しき少年たちが半裸の肢体をすりよせるようにして、膝元にかしずき酒杯や煙管を捧げ持っていた。

「……お父様。お話がありますので、しばしの間お人払いを」

 私のその尊大な言いように気分を害するふうもなく、むしろ笑みを浮かべる目の前の鬼。

「ほう。いきなり押しかけてきておいて、何とも勝手な言いようですな」

「大切なことなのです。どうかお早く」

「それはもしや『鬼族付き巫女姫』様としての、御下命でありましょうや」

「……………………そうお取りくださっても、かまいません」

 無言でにらみ合う父と娘。ふとため息をついたあと、男の手が唐突に数度叩かれた。

「皆の衆、巫女姫様の御命令だ。すまんが先に『宴』の準備に取りかかっていてくれ」

 ざわめきながらも特に混乱もなく、部屋をあとにしていく鬼たち。露骨に私に色目を使ってくる者もいたが相手にすることもなく、ひたすら毅然と父親のほうを見続ける。

「……お父様。これはいったい、どういうことなのですか?」

「はてさて、何のことですかな。巫女殿のお気に障ることでもありましたでしょうか?」

「おとぼけにならないでください! あの男爵様が押しかけてきた日以来、お父様はすっかり変わられたではありませんか! ほとんどの政務を家司様たちに任せきりにして、御自分はこんな城の奥に引きこもったり。あんなに他人の出入りを嫌っていたのに急に城の門を開け放ち、下街住まいの鬼たちを無差別に呼び込んだり。そしてその者らを使ってくり返しおかしな『宴』を催されたり。それに何よりも、あれ以来ずっと御自分の娘であるこの私のことを、何かと避けておられてばかりではございませんか⁉」


 ──せっかくあのとき、やっと私の『想い』を受け容れてくれたかと思ったのに。


「ふふ、ふはははは。これはまたおかしなことを。名目上は私の養女とはいえ、巫女殿はあくまでも巫女殿であらせられるのですよ。鬼族の私ごときから避けられようが無視されようが、かまわないではありませんか。いやむしろ、政務にしろ鬼の出入りにしろ宴にしろ、何か御不信や御不満の点があれば、巫女姫としての御自分の判断で、いかようにも『裁き』をお下しになられればよいだけのことでありましょうに」

「……裁きを、下す?」

「ええ。まさにそれこそが『鬼族付き巫女姫』様の、本来のお役目にございますれば」

 何を言っているのだろう、この男は。私に愛するあなたを、裁けなどと──。

 しかし、とまどう娘を尻目に話は終わったとばかりに、その鬼は悠然と立ち上がった。

「そうそう、今宵もまた『宴』を催しますゆえ、巫女殿の御臨席もたまわりたく存じますれば、よろしくお願いいたします」

「えっ、またあんな『乱痴気騒ぎ』を、行うおつもりなのですか?」

「もちろんです。何せいくら我々鬼どもがはめをはずそうが、巫女殿のお目配りさえあれば安心できるというもの。せいぜい頼りにしておりますぞ。ではまた、のちほど宴席にて」

 そう言うなり私一人をこの場に残し、あっさりと立ち去っていくお父様。

 あんな宴に出るのは気が進まなかったが、だからといって今の父を放っておくことなぞできるはずもなかった。

 もはや『鬼』の本性をあらわし始めた彼の暴走を止めることができるのは、『巫女姫』であるこの私しかいないのだ。


 だから私は、決意したのであった。


 ──鬼の嗜虐と獣欲と倒錯の限りを尽くした、あの『きょうえん』におもむくことを。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「おやまあ、これは『巫女姫様』。今宵もご機嫌麗しゅう」

「……ちょうさん、どうして」


 その夜、城内最大の大広間で行われた宴において私のために用意された席には、なぜだかあの父の愛人の鬼女の姿があった。

「やれやれ、そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいじゃないか。失礼だねえ。せっかくのお館様おんみずからの御命令なんだから、存分にサービスをしてやろうと思っていたのにさ」

「お父様の御命令?」

「そうさ。何といっても今夜は城外の下級の鬼どもも大勢招かれているんだから、大切な巫女姫様に万が一のことがあってはいけないからね。つまり私はあんた専用の『護衛ボディーガード接待係ホステス』みたいなものなのさ」

 ──はあ? 城内一の美鬼びきと誉れ高き鬼灯さんが、この私ごときの『ホステス』ですってえ⁉

「まあとにかく、この『貴賓席』にさえいれば、何も心配はないさね。お館様や家司殿も目を光らせていることだしね」

 そう言いながら、この一段高い上座に設けられた、上級鬼族用の特等席を見回す鬼女。

 中央には城主であるお父様がどっしりと腰をおろしており、その両脇を三人ほどの綺麗どころの鬼女が囲み、すぐ右手には私と鬼灯の席が設けられ、さらに少し離れたところには家司様が控えており、そしてそれらの周りを取り囲むようにして、父の知り合いの上級鬼族たちが同じく鬼女を侍らせ酒杯を傾けていた。

 私以外は鬼だらけとはいえ、さすがは上級鬼族の方々。この『貴賓席』に関していえばごく普通の宴の席と何ら変わらない、一定限度の品性と常識が保たれていた。

 だが問題は、この上座以外の広間中にひしめく、市井の鬼たちのほうだったのである。

 何せ下々の者では普段滅多に入ることができない領主の城内での大宴会であり、しかもどんなに飲み食いしようが無料ただだというのである。噂を聞いた貧民街中の鬼たちが、喜び勇んではせ参じるのも道理であろう。


 しかし厄介なのは、彼らが持参してきた『お土産』であった。


 その鬼たちはやはり食うに困っている路上生活の人間の少女や少年たちを、自分自身で愉しんだり上級の鬼への贈り物とするために、無理やりに引き連れてきていたのだ。

 今もすでにほとんど明りもなく薄暗い下座のあちこちで、酒だけでなく御禁制の阿片をくゆらせながら、鬼たちが幼い子供たちに対して無体をふるまっている姿が見受けられた。

 それに対して上座のお父様たち上級鬼族席のほうでも、やはり女を侍らせ阿片らしきものをたしなんでる者もいたが、それほどの乱行に及ぶこともなく時おり戯れに鬼女の身体をまさぐったりする程度で、けして見苦しいものではなかった。

 とはいえ、そもそもそんな父たちこそがこの『狂宴』を開いた張本人であり、今も目の前で下級の鬼たちが人間の子供たちを嬲り傷つけ犯す様を、あたかも酒の肴にするかのようにニヤニヤと嘲笑いながら見ているわけであり、このいわれなき非道の被害者たちにしてみれば、彼らこそがすべての黒幕であり最大の加害者なのだと思えてならないであろう。


 ──そして現在間違いなく私は、まさにその加害者側に座っていたのだ。


 鬼たちから執拗な辱めを受けながらも、怨嗟のまなこを上座へと向け続けている子供たち。

 だが、まさに座の中央でそれを一身に受け取っているはずなのに、父には少しも動じる様子もなく、ただ涼しい顔で酒杯を飲み干すばかりなのだった。

「──止めないのかい?」

「えっ?」

 突然の声に振り向けば、鬼灯がいつもの婀娜っぽい笑みを浮かべながら見つめていた。

「だからさ、あなた様は『巫女姫』として、お館様のことをお止めしなくてもいいのですかと、お訊きしているんだよ」

「……だってあなた、先日のお白州の場で、そんなことはできないって──」

「あのときはね。でも今のあんたなら話は別さ。あんたは『巫女の血』に目覚めたんじゃなかったのかい? それなのに何をしているのさ。お館様のことを止めたいんだろ? この世で鬼の所業を止めることができるのは、あんたたち『鬼族付き巫女姫』だけなんだよ」

「──お父様を止めることが、できる? この私が? いったい、どうやって?」

「決まっているじゃないか、『裁く』んだよ」

 つっ! 何であなたまでが、お父様と同じことを言い出すの⁉

「わ、私にお父様を、『鬼の侯爵様』を裁くことなんか──」

「できるのさ」

「え?」

「あんたならできるんだよ。他ならぬ『巫女姫』である、あんたならね。いやむしろ、あんたたち『巫女姫』にこそ、神聖不可侵なる上級の鬼たちを断罪すべき責任つとめがあるのさ」

 ──なぜ、なぜなの。何でみんなそんなに、私にお父様を裁かせようとするの。

「で、でも。それで巫女姫から裁きを下された鬼は、どうなってしまうの?」

「有罪が決まれば、少なくとも爵位を剥奪されることになるだろうね。まあ、それで済めばいいほうかしら。それ以上のことは、御想像にお任せするわ」

 やはり私には無理だ。お父様のことを少しでも、悲しまさせたり苦しめたりするなんて。


 ──たとえそのために、他の人たちがどんなに悲しみ苦しもうとも。


 かたくなに黙り込む私を見て、鬼女が哀れむような呆れるような不思議な表情をした。

「やれやれ、せっかく身体は大人になったというのに、中身のほうはまだまだ子供のようだねえ。お館様のほうも案外、あんたから裁かれるのを持っているのかもしれないのにさ」

 何ですって⁉ お父様がなぜ、そんなことを──


 その刹那、広間のほうがにわかに騒がしくなってきた。


「待ってたぜ!」

「いよいよ今夜のメインイベントだ!」

「『しょくざい山羊やぎ』の御登場だ!」

 口々に喝采をあげる下級の鬼たちの前へと運ばれてくる、大量の料理の山を載せた大テーブル。そしてそれは、世にも奇妙なデコレーションに飾りたてられていた。

 なんと、テーブルの上でまるで給仕のように料理の載った大皿や手燭やナイフやフォークをささげ持っていたのは、素肌の上に派手な長襦袢を羽織っただけの、私とさほど年格好もちがわない人間の少女たちであった。


 ──ま、まさか、あの子たちは⁉


 間違いなかった。彼女たちは以前私がいた、貧民街の施設の子供たちであったのだ。

 その、ほとんどの娘が恐怖と悲しみに打ちひしがれ泣きじゃくっている中で、ただ一人毅然と私のほうを射ぬくように、憎々しげに睨み続けている少女がいた。

 施設にいたころ私たちの中で一番年嵩だったその子は、この奇妙な髪と瞳のためにいじめられがちだった私を何かとかばったりして、唯一親身に接してくれていたのだ。


「どうなされた、知り合いでもおられたのかな?」


 振り向けば、にんまりとほくそ笑んでいる、鬼の御領主様の顔。

 ──しらじらしい。私と同じ施設の子ばかりを、わざわざ集めてきたくせに!

 しかし、私に父への抗議の声をあげる暇も与えず、その『狂乱の宴』は唐突に始まった。

 いきなり料理の山に押し倒され、衣服をはぎ取られていく少女たち。

 そして食材にまみれた幼い裸体に、舌を這わせ、ナイフやフォークを突き立て、蝋燭の火をあびせ、傷つけ嬲り、荒々しく愛撫し、存分に味わいつくしていく鬼たち。

 一人あの少女だけは初めのうち気丈にも抗ってはいたものの、結局は鬼の力にかなうはずもなく、最後には無理やりに身体を開かされ、その口唇を、菊門を、そしていまだ幼い秘所を、何本もの『おとこのツノ』で無惨にも貫かれていったのだ。

 それに触発されたように大広間のいたるところでも、鬼が子供たちを陵辱し始める。

 もはや本能だけに駆られた獣そのものの彼らを、留め立てする者などいなかった。

 幼い少女や少年の悲鳴や鬼の雄叫びが響き渡り、料理や酒の匂いと阿片や鬼の若いオスの臭いが部屋中に充満していき、まさに今や宴の席は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

 それを何食わぬ顔で眺め回して酒を酌み交わすばかりの、お父様たち上級の鬼。


 ──狂っている。


 これこそが『鬼』の──私のお父様の、本当の姿だとでも言うのであろうか。

「よかったわね、亜里沙ありさ

 耳元にいきなり吐息まじりの声を吹きかけられ、ぞわりと身がすくんだ。

 すぐ目と鼻の先で見つめている、意味深な笑みに歪む鬼女の瞳。

「本当にあんたは『巫女姫』でよかったねえ。そうじゃなかったら今ごろは、『あちら側』にいたはずなんだからさあ」

 何を言われたのか、一瞬わからなかった。

 だがすぐに、言い知れぬ恐怖心がこみ上げてくる。


 そうだ。あの子たちは、『私』だ。私自身の、本来あるべき姿なのだ。


 ああやって、いわれ無き暴力にさらされるのも。鬼の醜い欲望を注ぎ込まれるのも。

 なぜなら、すべては私の責任なのだから。この私が巫女姫としてやるべきことを行っていれば、そもそもこんなことにはならなかったのである。


 私が一日でも早く、あのちちを裁いていたのなら──。


 こうしてこれまでにない衝撃に打ちひしがれている私のすぐ目の前を、少女たちがまるで家畜か罪人であるかのように、荒々しく引き立てられてくる。

 ──その痩せ細った裸身を、食材や蜜蝋や、鬼の白濁液まみれにしたままで。

 そしてあの一番年嵩の少女が通りかかったとき、ふいに私のほうへと振り向いた。


「何が巫女姫だい。──この鬼のいぬめが!」


 激しい罵倒の言葉とともに、吐きかけられるつば

 その瞬間。鞭が振り降ろされ、幼い肢体が床に叩きつけられる。


「……人間の小娘風情が。巫女姫様に対して、身の程知らずにもほどがあろう!」


「お、お父様⁉」

 まさしく父が鬼の形相で、少女の幼く小柄な身体を容赦なく打ち据えていく。

「やめてやめてやめて! お父様お願い、もうやめてえー‼」

 必死に泣き叫びながら足もとにすがりつく娘に、その鬼は冷たい一瞥をくれた。

「──ふん。まあ、このくらいにしておくか。やり過ぎて、せっかくの素材の『味』が落ちてもかなわないからな。──おい、あとでちゃんと『料理』しておけよ!」

「──はっ」

 意味深なことを家臣に命じつつ、鞭を放り投げる父。

 ぐったりとしたまま引き立てられていく少女を見ながら、邪悪にほくそ笑む他の鬼たち。まだ何か下劣なる鬼の欲望を、この少女の身に与える気なのであろうか。

 そして宴の場はもはや何の歯止めもなくなり、上座の鬼たちさえも鬼女の胸元に手を入れたり口づけをしたりして、たがいに身体をまさぐり始め、さらには女と連れ立って広間をあとにしていく者さえ、ちらほらと現れだした。

 父もいつの間にか鬼灯を側に引き寄せて、その耳元やうなじに睦言をささやきかけるようにして、唇を這わせ始めていた。

 勝ち誇るように私へと、流し目をくれる鬼女。

 このまま二人が連れ立って消えていくところなど見たくはなかったので、私は控えめに父へとお伺いを立てる。

「……あの、少々気分が優れませんので、そろそろ部屋に下がらせていただきたいのですが」

「まあそう言わず、もうしばしお待ちを。『メインディッシュ』は、これからですぞ」

 まさにそのとき、大量の肉料理の山が運び込まれてきた。

「いよう!」

「待ってました!」

「宴のシメは、これでなくっちゃ!」

 貴賎を問わず異様に喜びわき立つ鬼たちが、なりふり構わず料理へと喰らいついていく。

 あたりに立ちこめるこれまでにない、芳醇にして馥郁たる香り。

 思わず、目の前に並べ立てられた大きな蓋付きの食器に手が出そうになるが、なぜだか心のどこかで『警告音』がしきりに鳴り続けるのであった。

「どうなされた。せっかく巫女殿に、一番いいところをお選びしたのに。──何せそれこそが、『あの娘』の最後の願いでありましたからな」

 父の手によって、あっさりと開けられる蓋。

 現れ出でたのは、こちらを睨みつけるように開ききった、二つのまなこ


 ──それは私のよく知っている少女の、であった。


「いやああああああああああああああああ!」




  六、いつわりのしき



 ──気がつけば私は、自室のベッドの上に横たわっていた。


 開けっ放しの窓からは、煌々と光り輝く『夜の女王様』の姿がのぞいている。


「……そうだ、今夜も『満月』だったんだ」

 父は『狂宴』を──『オトコたちが狂う夜』を、なぜだか必ず満月の夜に合わせていた。

「──うぐっ」

 ふと先ほどの『メインディッシュ』が脳裏によみがえり、激しい吐き気に襲われる。

 私はあの宴の最中にあまりのことに耐えきれず、気を失ってしまったのであろうか。

 ──ああ。さっきの出来事が全部、夢だったらよかったのに。


「……気がついたか」


 ぼそりと聞こえてきたその声に振り向けば、ベッドの端にひっそりとこちらに背を向け座り込んでいる、まるで亡霊のような陰鬱な雰囲気をただよわせている人影が目に入った。

「お父様?」

 いったいいつからそこにいたのだろう。もしかして宴席で急に倒れてしまった私のことを心配して、つきっきりで看病してくれていたのだろうか。

 それにしてもどうしたことであろうか、父のこの変わりようは。まったく生気という生気が抜け落ちているみたいで、さっきの宴の席とはあたかも別人のようである。

「……なぜだ」

「え?」

 突然の問いかけに振り仰ぐと、その鬼の二つの瞳が月明かりの中で、爛々と輝いていた。

「なぜそなたは非道の限りをつくすこの私のことを、いっこうに裁いてはくれぬのだ?」

 まるで絞り出すようなその言葉に、私はくらりとめまいを感じた。


『──神聖不可侵である上級の鬼を裁くことこそが、あんたら巫女姫の責任つとめなんだよ』


 脳裏によみがえる、ちょうの声。しかしそれを打ち消すかのように、私は叫んだ。

「私はお父様を裁きたくなんかない! あなたを裁くくらいなら、巫女姫なんかやめる!」

 そう泣きわめきながら、もはやなりふり構わずに、父の胸へと飛び込んでいく。


「……ありさ」


 はっとして顔を上げると、困ったような慈しむような不思議な色をたたえた瞳があった。

 ──お父様が私のことを名前で呼んでくれたのは、これが初めてであったのだ。

「お父様を裁く巫女姫なんかになるより、私のほうこそあなたに嬲られたいの! お願い、私のことを愛して、傷つけて、犯して、殺して、そして私のすべてを喰らい尽くして──さっきのあのみたいに!」

 驚愕に見開かれる、父の瞳。でもまさにこれこそが、私の偽らざる本当の気持ちであった。

 あの知り合いの少女が、野卑た鬼たちに嬲られ犯され殺されたとき、私は別に可哀想だとも酷いとも思わなかった。むしろ彼女のことが、うらやましくてしかたなかったのだ。

 私も、同じことをされたいと。この身体のすべてに、お父様の欲望を注ぎ込まれたいと。


 そう。満月の夜に狂うのは、鬼だけではなかったのだ。巫女姫わたしだって狂っていたのだ。


「……すべてを喰らい尽くしてほしいだと? 巫女姫様が? ──はは、悪い冗談だな」

「私は本気よ!」

「では、もしも私が、そなたの『生き血』が欲しいと言ったら、どうする気だ」

「え?」

「ほらごらん。考えもなしに、軽はずみなことを言うんじゃない」

「──いいわ」

「なに?」

「お父様にあげるわ! たとえ生き血でも魂でも、私のものはひとつ残らず全部!」

亜里沙ありさ、そなた……」

 長い沈黙に包まれながら、私たちはただ見つめ合い続けた。

 そしてついに娘の本気を感じ取ったのか、父がため息まじりにつぶやいた。

「……わかった。では、ついて来なさい」

 そう言って踵を返し部屋を出ていこうとする男のあとを、私は慌てて追いすがる。


 ようやく父の欲望をとらえることができた喜びに、胸を打ち震わせながら。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


 ──その『儀式』の場として選ばれたのは、あの古びた温室であった。


 ガラス窓越しに煌々と輝く満月の光が降りそそぎ、あたかも昼間のように色とりどりの草花を浮かび上がらせている。

 そんな神秘的な光景の中、父は私をあの片隅にぽつんと咲くぎんはくしょくの花の前へと誘った。


 ……何だろう。この温室であることに、満月の夜であることに、そしてこの花の前であることに、お父様にとっては、何か大切な意味でもあると言うのだろうか。


「本当にいいのか、やめるのなら今のうちだぞ」

「いいえ、かまわないわ。──さあ、いつでも始めてください!」

 気づかうように念を押す男にではなく、むしろ自分自身に納得させるように言いきった。

 ──血を吸われると聞いて、怖くないかといえば嘘になる。

 それでも彼から「そなたの生き血が欲しい」と言われたとき、本当に嬉しかったのだ。

 とうとう父が私のことを、自分の欲望の対象として認めてくれたのだ。

 生き血をすべて吸われてもいい。殺されたっていい。この身を喰われてしまってもいい。


 それで、父と一つになれるのなら。──そう。彼の『永遠の花嫁』となれるのならば。


 そのとき逞しい腕が伸びてきて、月影に青白く染まった私の華奢な肢体を抱き寄せた。

 間近に迫りくる父の顔はすでにその本性をあらわし、瞳を人にはあらざる縦虹彩の黄金きん色へと変え、大きく開けた唇からはまるで獣のごとき鋭い牙を幾本も覗かせていた。

 胸元からうなじへと這わされていく、熱く濡れた唇。たまらずに吐息をもらしながら、逞しき背中へとしがみつく。


 ──その瞬間、激痛がはしった。


 首筋に深々と突きたてられる、そそり立った牙。

 想像以上の痛みにうめき声が漏れ、思わず身をよじらせる。

 しかし父はけしてそれを許さず、逃すまいとするかのように私の身体を抱きすくめ、さらに奥深くその『欲望の刃』を押し入れてきた。


「──ああっ!」


 痛みが次第に甘美な快感へと変わっていき、たまらずにあえぎ声がこぼれ落ちた。

 私の胎内なかにお父様を感じる。彼の快感や欲望や焦燥や煩悶が、すべて流れ込んでくる。

 彼の牙が舌が唇が、私の赤く熱い生命いのちの水を絞り取っていく。

 ああ、もっともっと。もっと私の身体を激しく貪って。このまま全部食べつくして!

 その刹那──


「うがああああああああああああああああ!」


 突然雄叫びを上げ大量の血を吐きだしながら、男が地面へと崩れ落ちていく。

 ──その血しぶきを浴びて足もとの花が、ぎんはくしょくからくれないへと染め変えられた。

「お父様⁉ しっかりして、お父様あっ!」

 慌てふためいてその身体を抱きしめてみれば、もはや虫の息となっていた。


「……これでいいんだ。これでやっと、『彼女』──瑠璃亜るりあの許に行ける」


 自分の血に染まった花のほうへと、愛おしそうに手を差しのべる男。

「お父様、いったい何をおっしゃっているの? 『るりあ』って何なの? 誰か人の名前なの? その花の名前なの? その花はお父様にとって、どんな意味があるっていうの⁉」


「この花は『瑠璃亜』が──そなたの先代の『鬼族付き巫女姫』が、大切にしていた花だよ」


「私の先代の、『巫女姫』ですって⁉」

「そうだ。そなたと同じく我々鬼にとっては毒ともなる『聖なる鬼殺しの血』を持った、神に愛された存在さ。彼女も最初はあくまでも『鬼族付き巫女姫』として、鬼である私の行き過ぎた乱行をただすためにこの城に来たのだが、私がこんないい加減な性格である上に瑠璃亜というのがまたことさら気の強い女であったために、何かにつけ互いに我を張りつのを突き合わせていたのだが、なぜだか次第に相手のことを憎からず思うようになり、そのため彼女は『巫女姫』としての公平な目で私の所行を見定めることができなくなって、神聖なる使命と愛情との間で悩み苦しんだ末に逃げるようにして、みずから命を絶ってしまったのだよ。──そう。まさに今宵と同じような、『満月の夜』にね」

「──!」

「すぐさま彼女の後を追おうとその血をすすってみたが、鬼を愛し自殺の禁を犯した彼女の『聖なる鬼殺しの血』はすでに効力を失っており、私を滅ぼすことはできなかったのだ。それから十年もの間彼女への尽きせぬ想いだけを胸に、私はただ無様に生き長らえるだけだった。そしてようやく三年前、彼女と同じ巫女姫の力を秘めているそなたを見つけだしたとき、私がどんなに狂喜したかわかるかい?」

「そんな! じゃああなたは、その『聖なる鬼殺しの血』を手に入れるためだけに、私を引き取って育てていたとでも言うのですか? 私の気持ちはどうでもよかったのですか⁉」

「……そなたの、気持ち?」

「私、私、本当は、お父様のことを──」


「いやちがう。そなたは勘違いしているだけなのだ」


 ──え?

「そなたには言ってなかったのだが、実は『鏡の巫女姫』には、もう一つの呼び名があるのだ。──『おにいの巫女みこひめ』という、忌み名がな」

「おにぐいの……みこひめ?」

「そう。文字通り、生きる糧としてあるいはおのれの霊力を高めるために、鬼の生き血や異能の力や身体そのものを喰らいながら常に巫女姫の頂点に立ってきた、最強にして災厄なる禁忌の一族。その末裔こそが他ならぬそなたなのだよ。だからそなたが私や他の鬼たちに惹かれるのは、けして愛情や好意なんかではなく、実は『欲望』──しかも『食欲』だったのだ。そしてだからこそ私は、数多あまたの巫女姫の中からそなたを──『鬼喰いの巫女姫』を選んだのだ。必ずや鬼である私のことを、滅ぼして喰らい尽くしてくれるようにな」

 血まみれの手のひらが、私の頬を優しくなでる。まるで『死の女神』をあがめるように。

「嘘よ嘘よ嘘よ! そんなことはないわ! 私は本当にお父様のことが──」

「嘘だと思うのなら私が死んだあと、その屍体をそなたの好きにするがいい。手厚く葬ろうが道端に捨てようが──たとえ、喰らい尽くしてしまおうが、一向にかまわぬよ」

「だって──だって、あなたは最初に出会ったときに、私のこのしろがねの髪と青の瞳を誉めてくれたわ! それまで散々気味悪がれいじめられてきたこの髪と瞳のことを美しいと言ってくれたわ! だから私はそのときお父様のことを、心の底から好きになったんだもの!」

 私は藁にもすがる思いで彼の両手をつかみ寄せ、自分の髪へと押し当てた。

 最後の力を振り絞りきるように、私のしろがねの髪を撫で、青の瞳をのぞき込む男。

 その目には間違いなく、えも言われぬ切なさと愛おしさが、浮かび上がっていた。

 そうよ、やはりお父様は私自身のことを──


「すまなかったね」


 え?

「瑠璃亜もそなたと同じ髪と瞳の色をしていたんだよ。だから懐かしくて、つい──」

 そして、だらりと垂れ落ちる、男の腕。

「──お父様! お父様! お父様! お父様! お父様! お父様! お父様あ──‼」

 彼が最後に私に見せたのは、至福に満ちた安らかなる笑顔であった。


 ──許さない。


 それではあなたは、私自身を愛していたのではなかったのか。単なる死んだ想い人の身代わりだったのか。

 あなたはただおのれの罪悪感から逃れたいがために、娘という名前の『死神』を育てていただけなのか。


 それでは一人残された、私はどうなるのだ。


 偽りの幸せによって刻み込まれてしまったあなたへのこの想いは、どこに葬り去ればいいのだ。


 もはや動くこともない父親の身体を見下ろしているうちに、私の中でこれまでにない、どす黒い感情がふつふつと湧き上がっていった。

 ……いいだろう。あなたの望み通りにしてやろう。『巫女姫』としての、そして『鬼の娘』としての、最後の務めを果たしてやる。

 そうして私はおもむろに、父のほうへとかがみ込んでいった。


 ──その裏切り者のおとこを、喰らいつくすために。


「お父様、お父様、お父様、お父様、お父様」

 私は顔中を涙と血肉まみれにしながら、自分の『父親』だった肉片を喰らい続けた。

 だが、それはけして巫女姫としての、『神聖なる断罪行為』などではなかったのだ。

 むしろ私は喜々として、『彼』を存分に味わいながら食べ続けていたのであった。


 なぜならこれこそが巫女姫の鬼に対する唯一の、『あいかたち』なのだから。


 そう。私たちおやは所詮、喰らい喰われる関係でしかなかったのだ。

 しかし、これ以上の至高の『愛の形』が、他にあるだろうか。


 ──これからお父様は私の血肉となり一体化して、永遠に共にあるのだから。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「こんなところにおられたのですか。──『鏡の巫女姫』様」


 そのとき突然、美しい楽の音のような声が、私に語りかけてきた。

 振り返れば、晩夏の午後の陽射しがさんさんと降りそそぐ古びた温室の入り口に、一人の女性がいかにも人のよさそうな笑顔を浮かべてたたずんでいた。


 ──しかし、私は知っている。この若くて美しい女性も、『鬼』だということを。


 当主である父が死んだあと数日を置かずに、この城内で帝都守護警察の査察が行われた。

 鬼たちに攫われてきて殺された子供たちの無数の骨が、厨房の残飯処分庫の中から発見され父たちの罪が立証されたが、私自身は何らとがめ立てを受けることはなかった。

 そして死んだ父のほうも告発を受けることもなく、その罪が世間にあまねく知れ渡ることすらもなかったのだ。

 しかも何とこの侯爵家自体も、跡継ぎが決まり次第滞りなく引き継がれていくことを、当然のように認められていたのであった。


 なぜなら、亡き父は絶対不可侵の『じゅうぞく』だったのであり、この家は『鬼の』なのだから。

 たとえ警察だろうが何だろうが人間ごときには、上級の鬼を裁くことなどできないのだ。


 ──そう。鬼に対する唯一の『裁きの神』である、この巫女姫わたし以外には。


 そして四十九日がすぎた今日、この『鬼の家』を亡き父から引き継ぐために、新当主に内定した分家の人が訪ねてきた。

 その人はことのほか清楚で大人しそうな女性であり、あの残虐非道だったちちと同じ血を引いているとはとても思えなかった。

「このたびは巫女姫様に対しましては、大変御迷惑をお掛けいたしました。よろしければ引き続きこの私めの『鬼族付き巫女姫』となられて、ぜひお力をお貸し願いたいのですが」

 そう丁寧に言いつつも、そのときの私を見る女の目つきには、鬼にしか持ち得ない浅ましくくらい欲望が潜んでいることが見て取れた。

 大方おおかた『鬼族付き巫女姫』のことを、『囲い者』か何かと思い違いをしているのであろう。

 だからあえて、毅然と聞こえるように言いきったのだ。

「申し訳ございませんが、『父』の喪が明け引き継ぎが済み次第、私はこの家を出て守護警察に入ろうかと思っておりますので」

「まあ、巫女姫様ともあろうお方が、人間どもの警察ごときに?」

 女はさも意外そうな顔をしたが、さすがに異議を唱えるつもりはないようであった。

 いくら十鬼族の後継者とはいえ、巫女姫の決定を覆すことなぞはできないのだ。

 とにかく私はもうこれ以上、鬼のあるじなんかになるのは御免であった。


 ──私の『おとこ』は、あの人だけなのだから。


 それに巫女姫の生きる道は、鬼の家だけではない。

 帝都の平和と安寧をまもる守護警察内に新設された、『対鬼族犯罪専従捜査班』。ここではまさに巫女姫の持てる力を、思う存分発揮することを期待されていた。

 私はあの日、心の中で誓ったのだ。たとえこの身に宿る自分の異能の力をすべて使い果たしても、この国の鬼族制度を打ち倒し巫女たちをその運命のくびきから解放することを。


 もう二度と、自分の愛する者を裁かねばならない、哀しいおんなたちを生み出さないためにも。


 分家の女性が去っていったあと、私は温室の片隅のあのぎんはくしょくの花へと語りかけた。

瑠璃亜るりあさん、お父様の心はたしかにあなたのものでしょう。だけどあの人の血と肉は今や私だけのものよ。そう、やっと私は愛する人を捕まえることができたの。彼は私と一つになりこの身が朽ち果てるそのときまで、もう二度と離れ離れになることはないのだから」

 そう言い終えると、私はその小さな花を握りつぶした。

 あの日、父の血潮を浴びた、誰よりも憎い女の『形見』を──。


 ふと目をやると、まるで『鏡』のような温室のガラス窓に映し出された私のしろがねの髪と青の瞳が、夏の陽射しを浴びてきらきらと輝いていた。


 ──しかし、かつてこの髪と瞳を誉めてくれた人は、もうどこにもいないのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鬼の娘 881374 @881374

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ