鬼女の泪

海野しぃる

鬼女の泪

「助けてください……金ならいくらでも払います……もう夕野ゆうの先生のところしかないんです!」


 顔色の悪い男、ナツオが私の営む古本屋を訪ねたのは、よく晴れた7月の午後のことだった。


「お電話で何回かお話は聞きましたが、改めて事件について説明していただけますか? 直接でないと話せない事情なんかも有るかと思いますので」

「恋人の霊に付きまとわれているんです! 僕を恨んでいるんですよ! くそっ! 僕を振っておいてなんて迷惑な女なんだ!」

「はぁ……なるほど」


 我ながら気の抜けた返事だと思う。

 だが、依頼人の金払いを良くする為にも、少し余裕のある態度をしておいた方が良いだろう。

 特に恋人の霊に付きまとわれているとかいう依頼人の場合、まあ概ねろくな奴ではない。なんか既に話を聞いていてテンションもあがらないし、こういう悪い奴は少し巻き上げるくらいが丁度良い。値段でふっかけるのはフリーランスの特権だ。

 ああ、この夕野ゆうのだいだいは善人じゃないが、かといってこんな狡いやつ相手にまでへーこらするような人間じゃない。


「もうここしか無いんですよ! 警察も相手しないし、探偵だって何も見つからないって言うし! 挙句の果てに霊能者だって連中も頼ってみたけどインチキばっかりだ!」

「はは、私も霊能者みたいなものですよ?」

「あっ、いや……先生は違うとお聞きしたので……」

「まあ落ち着いてください。店先で話し込むのも難ですし、まずはコーヒーでも淹れさせ……ああ、失敬。助手が休みでした。まあゆっくりお話を伺うとしましょうか。お金についても、事件についても」


 私はそう言うと古本屋の看板を営業中から休業中にくるりと回転させ、店のシャッターを閉じた。そもそも客が入るような店ではない。

 私は依頼人を奥に招き入れると、助手がバイト先から従業員割引で買ってきたコーヒー豆を挽きながら依頼人の話を聞いてみることにした。


     *


「別れ話を切り出したのは、彼女の方からだったんです」


 その一言から始まった彼の別れ話は、実にありふれたものだった。

 浮気がバレて振られるなんて、本当に、ありふれている。

 ナツオに言わせれば本気じゃなかったということだが、まあそれで通るほど世の中は甘くない。

 事情はともかく、ナツオは女に捨てられ、浮気相手にも愛想を尽かされた……と彼は語った。

 ここまでであれば良くあるバカの転落だ。

 だが話はそう容易く終わらない。

 転落したのは馬鹿だけではなかったのだ。

 ナツオを捨てた数日後、ナツオの恋人が山登りの最中に転落したというのだ。


「それからなんですよ! あいつが僕の周りに現れるようになったのは!」


 元恋人の死を聞いた日の夜、ナツオは夜中に奇妙な薄ら寒さを感じたそうだ。

 ハッとして目を開けると、部屋には確かに誰も居ない。

 しかしそれでもなんだか気になって、カーテンを勢いよく開けたり、家に残っていた恋人の部屋に入ってみたりしたが特に何も見つからない。


「でもね……変なんですよ、匂いがするんです」

「匂いですか」

「香水ですよ。彼女の好きだった香水の匂いが! 職場とか、行きつけのレストランとかで、不意にするんです! 彼女は普段からそこには来ない筈なのに! 追いかけてきているんですよ! 見えないだけで!」


 なるほど、それは確かに奇妙に思えるかもしれない。

 奇妙な現象の中には、嗅覚に訴えかけるものもあるという。

 あながち馬鹿にもできない話だ。


「その日は他に何か無かったんですか?」

「夢を見たような気がしますが……覚えていません。でも違うんです!」

「違う?」

「もっとはっきりしたものを見たんだ! 町中で会ったんですよ! 彼女に! 確かに僕の前を歩いていたんです! それで、追いかけたら消えたんですよ!」


 詳しく聞いてみると、それは街を歩いていると昼日中でも夜でも起きるという。

 突如、彼女が自分の目の前にあらわれて、何処かへ歩いていってしまう。

 自分の方を見ずに、まるで誘うように現れて、追いかけると消えてしまう。

 この前は追いかけようとしたら車に轢かれかけた。きっと自分に死んで後を追えと言っているんだ。

 ナツオはひどく興奮した様子でそう語った。


「なるほどね。まあお飲みください。喉だって乾くでしょう?」

「あ、は、はい……」


 コーヒーを勧めると、彼は大人しくそれを飲み始める。

 コーヒーには覚醒作用があるが、過度の興奮状態にある相手には逆に鎮静的な作用を持つこともある。

 今の彼はまさにそれだった。


「……先生は、怖くないんですか?」

「そうですね。あなたは今まさに怖ろしい出来事の中に居ます。ですが、それを解決する僕まで怯えてしまっては、あなたの為になりません。私は探偵や拝み屋として、この手の事件を数多く扱ってきましたので、こうしてできるだけ感情をフラットにするように保つんですよ……なんて言っても、依頼人が美人だったりしたらのぼせ上がってしまいますけどね」

「あ、あはは……耳が痛い」

「お互い様ですよ」

「は?」

「私もこんなスーツ姿ナリをしているだけあって、女性の方が好きですから」

「え、ええと……?」

「趣味なんですよ、男装」


 ナツオはポカーンとする。

 私のような人間は珍しいものだからよく分かる。

 依頼内容も女性にするのは憚られるものだったから、なおのこと衝撃が大きいのだろう。

 ――ああ、ちなみに女性の依頼人だった場合、私はすぐにこのことを教えるようにしている。

 ――なにせほら、警戒心が薄れるからね。


     *


 高額の前金をふんだくった後、私は依頼人にお守りの護符(実はおもちゃ)を持たせると、家に帰らせた。もし彼女が見えたり、その痕跡が有っても気にしてはいけないとよーく言い含めて。


「――というわけで、依頼を受けることにした」


 翌日、出勤してきたバイトの助手少年に、事件のあらましを伝えると、可愛らしいことに彼は怒り始めてしまった。


「なんですかそれ! 女の敵じゃないですか! もう! なんならその男が恋人を殺したんじゃないんですか!? そうでもなきゃそこまで追いかけ回される理由なんて無いと思いますよ! 警察に突き出しましょう!」

「まあまあ落ち着き給えよ。君は――女の子だから腹が立つかもしれないが」


 少年はフリフリのエプロンをヒラヒラさせてぷりぷり怒っていた。

 なかなかどうして愛らしいものだ。少しぶりっ子なポーズや、派手すぎるリボンも、今の年頃の彼にだけ許される魅力があって、嫌いではない。


「せんせー! あたし納得できません! そんなやつの依頼を受けることはないでしょうに!」

「確かに、普通なら別に追い払っても良い内容だったね」

「じゃあなんで受けたんですか! あたし納得できませんよっ!」

「だから君は何時まで経っても助手なんだ」


 扇子で少年の頭を小突く。


「ひゃんっ!」

。私はもうとっくに君に教えた筈なんだがね」

「で、でも」

「良いかい。私が依頼を受けた理由はよ」

「……ってことは、せんせーはお金に眼が眩んだ訳じゃない?」

「いや、お金は欲しい。古本屋は儲からん」

「じゃあ……えっと……」

「助手少年」

「むすー」

「助手ちゃん」

「はい先生!」


 パーッと笑顔になるところも可愛い。

 まったく、悪くない。


「この後、私が指示する物事について調べてみて欲しい。私が何故この依頼を受けているのか、きっとヒントになる筈だからね」

「先生はどうなさるのですか?」

「依頼人に連絡をとってみる。その後で、依頼人の恋人が死んだっていう山まで行ってみようか。君にもついてきてもらうよ」

「えー、髪が傷んじゃう……」

「若いんだからまだ大丈夫だろうに」


 私は溜息をついてから、まずは労働意欲を生み出す為に、助手にコーヒーを淹れさせることにした。


     *


「久しぶりの運動は応えるな」

「やだー! こんな可愛くない格好いやー!」


 私たちは運動着姿で山へ登っていた。

 後ろで助手が文句を言っているがこの際関係無しだ。

 私たちはナツオの恋人が死んだという崖を見なくてはいけなかった。


「あ、先生。この先ですよね?」

「分かるか?」


 ここだけの話、助手は霊感がある。

 それが縁で私のところに転がり込んできたのだ。

 私は拝み屋を名乗るくせにそういったものには縁遠かったので、正直良い拾い物である。

 ――この世に不思議なものはない。

 逆を言えば、この世の外に不思議なものはある。

 この世は、人間の条理が及ばない本物の混沌に、被膜ガワを一枚をかぶせているだけだ。通常、にいるものが、この薄くて強固な皮膜ガワを破ることはない。

 しかし、不思議なものが薄皮で守られた人間の世界に漏れ出ることを、否定することは出来ない。


「どうだ、助手ちゃん。なんか見えるか、死人の霊とか、人間を捕まえて悪霊にしちゃう系の魔物とか」

「いませーん! びっくりするほどゼロです! ここただの崖です!」


 おや?


「な、なんか無いのか? こう、強い恨みの痕跡とか、現世への終着とか、そういう残留思念的なやつは……」

「保証します! ゼロです!」


 やはり、本当に、私の推理は正しいのか。

 となれば後はそれを突きつけるだけだが……。


「せんせー! 山降りましょうよ~! あたしもうこの服嫌です~! こんな虫だらけのところさっさと離れてお家に帰って髪をセットして鏡の前でポーズ決めて今日も可愛いぞあたし♡ってくつろぎたい~!」

「ったく、根性のない奴だな君は」

 

 私がそうやってため息を吐いていると、手元の携帯電話がブルブルと不吉に震える。

 番号は非通知だ。

 嫌な予感がする。ナツオの身に何か有ったのだろうか。


「もしもし、夕野ゆうのです」

「ユウノ!? 女の声……あなたが私から彼を奪ったのね!? 許さない!」

「は?」


 女性の声だ。


「許さないから!」


 一方的に通話が切れる。

 

「どうしたんですか先生?」

「なあ助手ちゃん。本当に何も見えなかったのか?」


 助手ちゃんはうなずく。

 今の電話も霊的なものではないのだろう。

 となると、誰だ?

 今の女性は一体誰になる?

 もしかして私は、何か大切なことを見落としているのではなかろうか。念のために、もう少しだけ調べてみるか。


「よし、帰るよ助手ちゃん」

「わーい!」

「私は少し単独行動をとる。依頼人に話を聞く必要が出てきたからね。その間、君には別口の調査をお願いしたい」


 その調査こそが一番重要なパズルのピースだ。

 頼んだぞ助手ちゃん。


「でもでもー、あたしが依頼人さんを“視”たら解決するんじゃないですか? 霊がついているか一発で分かりますよ?」

「ああ、そうだね。だがそれは最後までとっておこうか。明日の夜になったらいつもの喫茶店で事件の解決編だ」

「できるんですか!? まだ見てもいないのに?」

「一応プロの拝み屋を舐めないで欲しいな。仮に霊が居ても、居なくても、解決する方法はあるよ」

「え!?」

「まあほら、見えるかどうかっていうのは、祈りに関係ないからさ。私は霊能者じゃなくて拝み屋だよ」


 私はそう言うと、懐から扇子を取り出して、パタパタと仰いだ。


     *


「服装を変えたんですか?」

「前回は驚かせてしまいましたからね」

「は、はあ……すいません。それであの、調査の進捗はいかがでしょうか……?」


 その日の夜。男装をやめ、偶には女性らしい服装に着替えた私は喫茶店でナツオと待ち合わせをした。場所は他の客の座る席からは離れた店の奥の個室である。

 喫茶店で出会ったナツオは、前に会った時よりも更に顔色が悪かった。

 いやはや全く自業自得だが、別に私が実害を受けた訳でもなく、金をもらっている身であるせいか、見ていて哀れにならないでもない。

 少しくらいは楽にしてやろうか、私はそう思った。

 

「恋人さんの周辺を少し探ってみました」

「彼女の周囲ですか?」

「ええ、あなたが祟られているとすれば、きっとそこになにか原因が有ると思いまして」

「で、ですがお守りのおかげか直接姿は……」

「それはあくまで対症療法、例えば風邪を引いても危険だから熱を抑えたと言っても、根治させなくては意味がありません」

「な、なるほど……ありがとうございます!」


 本当に困っている人からのお礼は嬉しいのだが、今回は事情が事情である。何やら複雑な気持ちにさせられる。


「調査してみたところ、彼女の周囲に何か変わったことをするような人間は見受けられませんでした。また、彼女自身のSNSアカウントを調べてみたのですが、死の数日、腹は立てていても恨み言や化けて出る程の精神的な不安定さはありませんでした」

「え、でも、彼女のアカウントはもう……」

「消えてもログは残ってますから」

「そ、そうなんですか!?」

「ナツオさんも気をつけてくださいね」

「は、はい……」


 私はコーヒーを飲む。

 ああ、コーヒーだけが人生だ。今時期に飲む水出しコーヒーは本当に良い。

 コーヒーの味だけは私を裏切らない。

 正直に言えば、私は緊張しているのだ。なにせ私は探偵や拝み屋のマネごとをしているが、本質は古本屋の店主である。

 こういうヒロイックな推理の開帳は性に合わない。

 おじいちゃんから仕事を継いだと言っても、プロの拝み屋を名乗っていても、カフェインでも決めていなければやってられないのだ。


「気をつけると言えば、ですけどね。女性関係についてももう少し気をつけたほうが良いと思いますよ。私もまあ女性相手にそこそこ遊んでいるので人のことは言えないのですが、男性と違って女性はほら、化けて出ますから。お互いに恨みっこなしの気持の良い遊び方をするべきですよ、ねえ?」

「い、今まさに実感しています」

「それは良い。あ、君、水出しコーヒーコールドブリュー、お代わりもらえるかな?」


 近くを歩いていたウェイトレスに声を掛ける。

 正体は助手ちゃんだ。

 私がこの喫茶店を選んだ理由は、マスターがこの仕事に理解が有る人だってことと、彼がバイトをしているからということがある。

 既に下準備を済ませた助手ちゃんはすまし顔で「かしこまりました♡」と言って店の奥に消えていく。

 助手ちゃんは店の奥に消える前に私に一回ウインクをしていた。

 あの子には、霊が視えたというサインだ。眼の前のナツオは本当に恋人の霊に取り憑かれているのだろう。


「それでその、先生」

「どうなさいました?」

「私に付き纏う彼女は、消えてくれますか?」


 私は微笑む。


「ええ、事件は既に解決しております」

「なんですって……?」

「安達ケ原の鬼婆、信州戸隠の鬼女紅葉、四谷怪談のお岩さんなんかも中国における鬼すなわち幽霊ですし、女性が情念で鬼と化す話は枚挙に暇がありません」


 喫茶店の冷房が強くなる。本当に霊がついているなら不要な演出だっただろうか?

 まあ良い。だがきっと彼は気づかない。

 今のすっかり精神的に混乱してしまっている彼には、冷房の変化だという合理的な発想ができない。寒気がして怖ろしいという思考しかないことだろう。


「やっぱり彼女は……」

「今回の事件も、基本的にはそういうものでした」

「そ、その、それはつまり……やっぱり彼女が僕を恨んでいたってことですよね? もうそれを解決する方法も見つけたんだ! すごい! やっぱりお願いしてよかった! 早く追い払ってくださいよ!」


 私は首を左右にふる。


「あなたを取り巻く宿業は根深いものです。私にすら、追い払うことはできません」

「そんな!? じゃあ……」

「解決する方法は、あなた自身の中にあります」


 ナツオは目を白黒させる。


「ぼ、僕……?」

「ナツオさん、あなたは恋人のことをどう思っていますか?」

「ちょ、直前まで浮気をしていた僕にそれ聞きます? も、もう飽き飽きしてたんですよ! 文句は多いし、毎日連絡しないとへそを曲げるし、正直言えば趣味も合わないし、なんで付き合ったのかわからないくらいです! おまけに最近は結婚についてもうるさかったし!」


 そこまで聞いていないのによく喋るなこいつ。

 まあお陰でわかりやすい訳だが。

 ――と、その時、喫茶店の電気が急に明滅する。

 

「ひっ、ひぃっ!? 殺される! なんでだよ! 勝手に死んで! 勝手に恨んで! 今度は勝手に殺すつもりか!」

「そうですねえ、これは怒ってるのかもしれませんね」

「じゃあどうすればいいっていうんですか!?」

「古来より、鬼に変じた女性を討つのは御仏の力だったり、朝廷から派遣された武士だったりする訳ですが、あいにく今はどちらもその場におりません」

「だから! あなたに頼んだんですよ! 百万も払ってるんですよこっちは!」

「ええ、そうですね」


 私はシニカルに笑うと、ポンと手紙を渡す。


「調査の過程で彼女の友人から頂きました。あなたへの気持ちを綴った手紙です。預かっていた友人は渡したくないと言っていたのですが、故人の意思がありますから説得して、譲っていただきました」


 勿論嘘八百だ。

 だがどうだろう。

 それはただの手紙ではない。

 SNSの投稿を元に、私が書いた恋文だ。

 情念たっぷりに綴られる女の恨み言、そして最後に書かれた「だけど愛している。私はもう関わりたくないけど、それでも彼は彼の幸せを見つけて欲しい」という文は、今の錯乱したナツオには効果覿面だったに違いない。


「う、あ、あ゛ぁ……!」


 泣いていた。

 大の男がさめざめと泣いていた。

 単純なものである。


「あなたは恋人を愛していたんじゃないのでしょうか? どうですナツオさん?」


 ナツオは何度も何度も激しくうなずく。


「やはりそうか。あなたは心底恋人を愛していた」

「はい……はい!」

「ほんのわずかな心の迷いから、間違いを犯してしまったが、あなた自身の本当の愛は何も変わっていない」

「先生の仰る通りです。僕は、僕はなんてことを……彼女が生きていれば……やり直せた……居なくなってこんなに大切だってわかったのに、認められなかったんだ! 僕は最低だ! すいませんでした先生! すいません!」

「私に謝っても仕方ないでしょう。そもそも私は依頼を受けた身、仕事をしただけですよ」


 私は扇子でパタパタと自らを仰ぐ。

 これで仕事は終わりかな。ほっと一安心だ。


「それよりほら、やり直すのに遅いは無いんじゃないですか?」


 私は営業スマイルだ。


「あっ……そうか! そうですね……そうでした。彼女は、私にチャンスを与えてくれていたんだ!!」

「そうですよ。だってまだ、彼女はあなたの傍に居るでしょう?」

「ああ……! ごめんよ真理子……マリ……!」


 ナツオは涙をほろほろと流して天を仰ぐ。

 霊が見えないのでよく分からないのだが、ナツオにはもしかしたらなにかが見えているのかもしれない。

 空に向けて謝るようなセリフやら愛の言葉を呟いている。お幸せなことだ。


「ああ……マリ、そういうことだったんだね。僕にもわかったよ。もう逝ってしまうのかい……もっと話をしたいけど、君は逝かなきゃいけないものね。分かっている。止めはしないさ。僕は自分の罪を忘れずに生きるから……君は僕のことなんて忘れて……」


 声が大きい。

 いくら個室とはいえ、流石に声が大きすぎて他の客の迷惑になりかねない。

 私は彼の言葉を遮る。


「そうです。あなたはその罪の意識を抱え、そして彼女に恥じることのない人生を生きなさい。それが不幸にも事故死してしまった……彼女の為になるのですからね」

「は、はい! がんばります! 先生……この度はまことにありがとうございました……! 念の為持ってきていたのですが、こちら残りの謝礼となります! 本当にありがとうございました!」


 分厚い封筒がポンと出てくる。

 中身を確認してみる。

 やったーお金だ! 現金だ!


?」

「ええ、彼女が……彼女は安心して、消えて……」

「お疲れ様でした。それでは私はこれで」

「ありがとうございます。僕も失礼します」

「少しトイレに寄っていくので、先に外に出ていてください。依頼が終わった以上、我々は他人ですから。探偵と一緒に居る姿を見られるのは、あなたにとって不都合でしょう?」

「分かりました。本当にありがとうございました。また何かあったら頼らせていただきます」

「ええ、何時でもご連絡ください」


 ――迷惑だからマジで来ないで欲しい。

 それはともかく、私はイソイソとトイレに籠もって男装を済ませ、少し携帯をいじってから、元の席へと戻る。

 すでにそこには助手少年がちょこんと座っており、私の解説を今か今かと待っている。


「先に質問したいんだけどさ」

「なんでしょうかせんせー」

「あの人、マジで取り憑かれていたの?」

「はい、ガチで女の人の幽霊が肩のあたりに。でも先生のトークでナツオさんがなんか自己解決すると同時に、ふわーっと姿が薄くなって消えていましたよ」


 ってことは、あの男、ちゃんとのか。

 ただの人間のくせに気持ち悪いな。まあでもがあったんだから当たり前か。


「ふーん……そっか。だったら最初から居ても君には真相が分からなかったかもな。なまじ視えてしまうのも考えものだね」

「どういうことですかせんせー?」


 助手少年は愛らしく小首をかしげる。


「今回の事件はね、逆なんだよ」

「逆?」

「男の思い込みが、死んだ恋人の霊を束縛していたんだ。地縛霊ならぬ人縛霊かな?」

「そんな強い縁、別れ際のカップルに生まれるんですか?」

「やることやって出来るのは子供だけじゃないだろうに」

「未成年に何言ってるんですか! セクハラですよ先生!」

「助手少年、この国ではセクハラとは男が女に行うものなんだよ。残念だったね」

「むすー」

「悪かったよ助手ちゃん」


 助手ちゃんはニコッと笑う。まるで天使だな!

 可愛い子は笑顔が一番だ!


「馬鹿な話はさておき、身体的接触による霊的交感はそう簡単に消えるものではない。加えて、あの男の思い込みの強さが、一時的に世界を覆う皮膜ガワを取り去って、不運にも事故で亡くなった筈の恋人を無理やり引き戻し、思い込みで悪霊にしてしまったんだろう」

「成る程……」

「最初、私は全て人間の仕業だと思っていたんだ」

「どういうことです?」

「女性の後ろ姿なんて、男性からしたら中々見分けがつかないだろう?」

「後ろ姿?」

「ナツオは恋人を見たと言っていたが、正面から見たとは一度も言っていない。というか、毎回自分を置いて歩き去ったと言っている。基本的に全部背中を向けていたんじゃないかな?」

「……そうなんですか? まあ後ろ姿の見分けがつかないって話はあたしのクラスの男子もそんなこと言ってましたけど」

「そりゃそうさ。だから町中を歩く女性にその姿を見出してしまったんじゃないか?」


 助手ちゃんは少し考え込む。


「でも変ですよ。それだったら追いかけたら消えたっていうのはどうなるんですか? しかも何度も何度もそういう事が起きたっていうんですよ? 声くらいかけてるんじゃないですか? 街を歩く女性に声をかけたら、相手が幽霊じゃないなら反応が返ってくるでしょう?」

「あはっ、そうだね。そういう事もあったと思う。だけど、一度でも追いかける女性が消える体験をしたら、そんなの無意味だろう。だってほら」


 私は少し呼吸を置いて、シニカルに笑う。


と思い込むんだから」

「つまり、一度追いかけていた女性が消える体験をすれば……」

「そう、その後はどうでもいいんだ。恐ろしい体験をして神経が参っている。そう思えば、どんどんその恐ろしい体験の印象が強くなっていく。間違って何の関係もない女性に声をかけ、驚いたり嫌がられたりしたかもね。そのせいでまた彼は自分の正気が疑わしくなっていく。ああ怖い怖い。一体誰がそんな状況に追い込んだのだろうね」

「ナツオさんを追い詰めた犯人が居るんですか?」

「私はそうだと思っていた。いや、今も思っている。ナツオを追い詰め、ナツオに恋人を追い詰めさせた、本当に悪いヤツ、鬼のようなヤツ」

「まさか……」


 助手ちゃんも気づいたようだ。弟子の成長は喜ばしい。

 私は満足げに頷く。


「そうだ。ナツオの浮気相手だ。、君に調査をお願いしただろう?」

「ああ、そういうことか……! でも、浮気相手とナツオさんが別れたっていうのは本当みたいでしたよ? あたしもちゃーんと調べましたから」

「だからだよ助手ちゃん。本命の死をキッカケに、本命への思いに強く囚われてしまって、自分に興味を抱かなくなった男を、もう一度自分に振り向かせる為に、その浮気相手とやらは芝居を打ったんだ。その男が行きそうな場所に先回りして、使、そうやって追い詰められれば元から思い込みの激しい男はどんどん衰弱していく。そこで自分が手を差し伸べようって思ったのさ」

「でも、だとすると……」

「ああ、別れたって話は嘘。あるいはあの男が勝手に思い込んでるだけ。女の方は未練たらたらさ」


 助手ちゃんは苦い笑みを浮かべ、肩をすくめる。


「はは……考えすぎですよ」

「いや、考え過ぎなどではないと確信を持って断言できる」

「何故?」

「私の探偵業務用の電話番号に、あの女からと思われる非通知の電話がかかってきた。どんな方法を使ったかは知らん。別れたと言ったが実はまだ会っていたのか、それともストーキングしていたのか、知るチャンスなんていくらか有っただろう。なんにせよ彼女は私の探偵業務用の携帯電話に電話をかけてきた。ほら、。あれが霊界からの電話とかそういうふざけたものじゃない限り、あんな電話をかけてくるのはナツオと恋愛関係にある人間しかありえないという訳だ」

「あっ、ああ~~~~!? ずるい! 教えてくれてたって良いじゃないですか!」


 机をぽこぽこ叩いて不機嫌になる助手ちゃん。

 あー、超可愛いわ。好き。


「君の調査に先入観が有ってはいけないだろう? 勿論、推理ゲームだったら君にも教えていたが、我々は仕事をしているんだ」


 悪いね、とシニカルに微笑んでみたりする。

 格好いいぞ、私。


「うぐぅ……!」

「さて、事件の真相があらかた明らかになったところで、この後何が起きるかを推理してみると良い」

「それは……」


 私は待つ。可愛い助手が、この事件の向こう側に起きるであろう未来を見つけるまで。

 しばらく待っていると、助手は顔面蒼白になる。


「先生、?」

「だねえ」

「じゃあ、さっきトイレで男装を済ませた時に、まさかと連絡をとってないでしょうね?」

「まさか。トイレで携帯をいじるのは好きだが、なんでいきなり非通知で電話をかけてきた相手の電話番号を調べたり、連絡をとったりするんだ」

「ほら、ろくでもないやつだから依頼が終わった後に始末しようとしたりとか……」


 私は思わず吹き出してしまう。

 私をそんなサイコ女だと思っているのかこの子は。

 まったくこれだから愚か可愛いんだ。


「正直もう会いたくはないが、良い金づるだぞ? なんでそんなことをする必要がある」


 私は肩を竦め、わざとらしくため息をつく。

 ――そろそろ答えを教えてやるか。


「だが――依頼を終えた人間に、だろう?」


 そう言った瞬間に、助手ちゃんは何が起きたかに気づく。

 良い子だ。


「……先生! じゃあその浮気相手が!」


 そもそも浮気相手なる女。精神のバランスを欠いている。ストーキングまがいの嫌がらせをしたり、私に突然電話をかけてきたり、そんなことをしている奴が、果たして今のナツオの行動を把握していないなどと、何故言えるだろうか。

 自分の下に戻ってくると思っていたナツオが、男装を解いた私のような美しい女性から、喫茶店でお手紙を渡された姿を見ていたら、黙っていられないのではないか?


「私は何もしないぞ?」


 私を無視して走り出す助手ちゃん。もとい助手少年。勇ましいことだ。

 私も雨の中喫茶店を飛び出し、スカートをつまみ上げて爆走する少年の後を追う。

 その時、雨音の中から耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。


「ナツオさん!」


 路地裏に駆け込む助手ちゃん。

 そこに居たのは腹から血を流すナツオ。

 そして包丁を持ち、ずぶ濡れの姿でこちらを見る生気のない女。


「くっ……はは、これは、これは怖ろしいな」


 ――あれこそ鬼女そのものじゃあないか。

 女は何やら奇妙な叫び声をあげて、私たちにも包丁を向け……自分の首筋に突き刺した。


「あっ!?」


 虚を突かれて悲鳴を上げる助手。

 ――即死かもな。

 そうは思ったが、驚きは無かった。死ぬなら勝手に死ねば良い。

 私は君たち愚か者には何もしない。

 ただ、目の前で起きた出来事に衝撃を受ける純粋で可愛い助手を導くだけだ。


「ほら、急いで救急車とパトカー呼ぼうよ。まだ間に合うかもしれないだろ?」

「は、はい!」


 虚ろな瞳の女性は、その場で崩れ落ち、雨に濡れる路地裏を真っ赤な血潮で染め上げる。


「救えないわ……」


 私はため息を付きながら、惨劇の現場となった路地裏を眺める。

 古来、鬼と化した女の泪は血の色に染まるという。

 嗚呼、鬼女の泪がを染める。

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