パトリシア(後編)
タクシーの中で、あたしは考えていた。
他の男性の家に泊まるだなんて、本当に良いのだろうか?
あたしとヨウヘイは、まだはっきりと別れたわけではない。つい「失恋を楽しんでやる!」なんてヤケになってみたけど、事実は「別れた方がいいんじゃないか」と言われて、引っ叩いて追い出しただけだ。「大きめのケンカをしただけだ」と思っている可能性は高い。
あたしたちの十年間は、あんな終わり方で良かったんだろうか。
高校の入学式の日、同じクラスだったヨウヘイに、いきなり「一目惚れ!」と告白されて――面白がって付き合って、気が合って、毎日が楽しくて。「俺、初心者だけど軽音部入りたいんだ」って笑ってたヨウヘイの事だって、あたしはちゃんと大好きだった。「何があっても死ぬまで一緒にいようね」って、安物の指輪に誓い合った。
きっとあいつは今頃、誰もいないアパートに帰って「腹減った」って座り込んでる。いつもそうだ。
あたしが仕事で遅くなると、あいつは真っ暗の部屋の中で、ぼおっとスマホを眺めてる。そういう時は、ゲームじゃなくて――トリックトラックの、動画を観ている。
だから今もきっとひとりぼっちで、キラキラしていた昔の自分を眺めてる。砕け散った夢の欠片を、ただぼんやりと眺めているんだ。
そんな事をあたしが考えている間、アキラさんは何も言わなかった。ただ黙って、あたしの手を握っていた。
下心じゃないんですよね、そうですよね。はぐれないように握ってるんですよね。
ただ並んで座っているだけの、タクシーの後部座席で。
あたしが迷子にならないように。
あたしが、ひとりぼっちにならないように。
「そこの角で」
アキラさんはさっきラパンを置いたマンションの前でタクシーを止め、手早く料金を払うと、あたしの腕を掴んでタクシーから降りた。
逃がさない、と言われているみたいだった。
「アスノちゃんには、何もしないよ」
あたしと手を繋いでエレベーターを待ちながら、アキラさんは言った。そうですね。そうですよね。でもアキラさんのマンションで、DVDを見ながら泣き叫ぶわけじゃないですよね。じゃあ何をするんだろうって、ああ、話をするんでしたね。
確かに話し足りないんだ。あたしは「トリックトラックのギタリスト」の話をしたかったのであって、死んだ目でスロット打ってる男の話をしたかったわけじゃない。
アキラさん、どうかあたしの代わりに、キラキラしたヨウヘイを覚えていてください。あたしの中のヨウヘイは、どんどん目が死んでいくんです。「金ないわ」って言いながら、咥え煙草でスマホを弄ってるんです。
あんなヨウヘイは見ていたくないけど、あれ以上傷付いて欲しくもないんです。
ヨウヘイのことは大好きだけど、腐れギタリストは大嫌いなんです。
室内に入ると「おいで」と手を引かれた。素直について行く。ダウンライトに照らされたワンルームの部屋で、あたしは強く抱きしめられた。スパイシー系の香水の匂いがする。どうしよう、あたしは嬉しいと思ってしまった。この人はヨウヘイじゃないのに。
「パトリシア、もっと自由でいいんだ。辛いなら楽になっても良いんだ……僕なら、今すぐ楽にしてあげられるよ」
アキラさんの唇が、あたしの耳朶を吸った。拒めない。だって、こんなのずっと、誰にもして貰ってなかった。もう随分前から、ヨウヘイのセックスは、自分が気持ちよくなる為のセックスだった。相手はあたしじゃなくてもいいような、手入れの要らないラブドール扱いみたいな、そんなセックスしかしてなかった……。
「夢を追う事ができる時間は、ほんの一瞬だ。拗ねていじける暇なんて、どこにもないよ……君の夢は、何?」
アキラさんが、耳元で囁く。あたしの、夢――考えた事も、なかった。
あえて言うのなら。あたしはただ、ヨウヘイが世界一のギタリストになってくれたらいいなあって。あの神様みたいな指が、キラキラした表情が、歌詞で描く世界が、紡ぎ出す旋律が、世界中のみんなに届いてくれたらいいなあって。そしてみーんな幸せになっちまえ、って……ずっと無邪気に、そう思ってた。だけどそれは、もう二度と叶わない。
「ないです……夢なんか、希望なんか、なにも、なんにも、だってヨウヘイは」
「夢を叶える役割を、ヨウヘイくんに押し付けてた?」
アキラさんがあたしの肩を掴んで、突き飛ばすようにベッドへ倒した。そして、あたしはそう言われてハッとした。あたしの夢を叶えられるのは、確かにあたしじゃなかった。それができるのは、ヨウヘイしかいなかった。ヨウヘイに、あたしは何て言っただろう。頑張ってね、負けないでね、応援してるからね――それは、誰のためだった?
「ヨウヘイくんは、君の夢を叶えてあげられない事が、辛いんだよ」
アキラさんは、あたしの上に圧し掛かった。留めていたジャケットのボタンを外して、襟刳りの広いカットソーから露出している鎖骨を舐めた。
「だから君に、その夢を諦めて欲しいのさ」
強引にカットソーが下に引かれて、胸の谷間と黒いブラの縁が、丸見えになった。
「髪を切った君を、まだヨウヘイくんは知らない……パトリシアは、僕のものだ」
「や、いや、だめです……だめ、だって、あたしは、ヨウヘイと」
あたしはパトリシアじゃない、あたしはアスノだ。ヨウヘイは「アスノを世界一大好きなのは俺だ!」って言ってくれた……死ぬまで大好きだって、言ってくれた!
「――ずっと一緒に、生きていきたいの!」
あたしが叫ぶと、アキラさんは手を離してくれた。そしてあたしに向かって「ごめん」と言った。
「嫌だって言うと、わかってたよ……今の言葉が、君の夢だ」
あたしの服の乱れを直しながら、彼は言葉を続けていく。
「見失っちゃダメだよ。その夢を追いたいなら、多分「ギタリストのヨウヘイ」の事は諦めないといけないだろうけど」
構わない。あたしが好きなのは腐れギタリストでもなければ、トリックトラックのギタリストでもない。あたしが好きなのは、ただの近藤洋平だ。
「アキラさんの夢は、何なんですか」
同じベッドに転がって、あたしは聞いた。服は着ている。この全てを悟ったように語るリーマン歌うたいの夢、ぜひとも聞いてみたかった。
「僕の夢は、もう終わった。三年前にね」
「……うちと、対バンした頃ですね」
「そうだね、丁度あの時だ。福岡から東京に帰ってきたら、嫁さんが離婚届だけ残していなくなってた」
「!」
そうか、既婚者だったのか。道理で落ち着いていると思ったんだ。アキラさんはふふっ、と笑った。
「落ち着いてると思った、って思ったでしょう。良く言われるんだ、バンドマンらしくないって。でも会社員が金髪で出社するわけにもいかないだろ?」
「そうですね……」
わかる。あたしだってそうだ。アキラさんは天井を眺めながら、言葉を続ける。
「高校を卒業して、東京に出て来た。大学でクニヤやマリー、それに嫁さんと出会った。僕とクニヤは軽音サークル、マリーと嫁さんは映画研究会だった。俺たちは四人でカップル二組だったんだよ。意味はわかるね?」
はい、と小さく相槌を打つ。そうか、クニヤさんとマリーちゃんは。
「ケスクセを結成して、音楽を本気で続けていきたかった。嫁さんも賛成してくれた。だけど僕は嫁さんを食わせてやりたかったから、就職するし音楽も辞めないって決めたんだ。音楽も嫁さんも、僕にとっては絶対に手放せないものだったから……夢は人生をかけて掴みにいくもの、そう覚悟してた」
「すごいじゃないですか。なのに、なんで……」
どうして出て行ったんですか、なんて直球は投げられなかった。アキラさんは、やっぱりさっきみたいに、ふふっと笑った。
「嫁さんは、僕が音楽に専念しない事が腹立たしかったみたい。離婚の時に言われたのは『明良の足を引っ張り続ける事に耐えられない』だった。逆の視点ならそうなるのかって、こう言っちゃ何だけど、目から鱗だったよ」
アキラさんは視線の先を天井からあたしに変えて、そして目を閉じた。
「子供と一緒にステージに立つのが、僕の夢だったんだ……でもね、僕は新しい夢を持てそうなんだ。もしもいつか、仕事を辞められるくらいケスクセが軌道に乗ったら……僕はもう一度、嫁さんにプロポーズしたい。嫁さんの事だけは、諦めない。クニヤとマリーを見てたら、それだって立派な夢だって思うんだ」
簡単には届かないからこそ夢と呼べるんだよ、とアキラさんは言った。
世の中は、ままならない。
自分だけが不幸だと思ったら、大間違いだった。
あたしは飛行機の便を早めて、午前中のうちに福岡へ戻った。空港まで送ってくれたアキラさんは、にっこり笑って「今度は二人で来るといいよ」と言ってくれた。きっとマリーちゃんたちがいるお店に連れて行かれて、ヨウヘイはお説教を食らうのだ。それともマリーちゃんに口説かれちゃうだろうか。
福岡空港から地下鉄と私鉄を乗り継いで、更にバスへ乗り換えて、あたしはアパートに帰る。道すがら、これからのあたしに何が出来るかを、ずっと考えていた。
アパートに着くと、ヨウヘイの自転車が駐輪場に停まっていた。
「ただいま」
鍵を開けて、声をかけながら中に入った。返事はない。明かりも点いていないけれど、もう十分に明るい時間だ。玄関で潰れていたスニーカーの形を整えて靴箱に置き、あたしは部屋の中に入って行った。
「……アスノ、髪!」
部屋の壁に寄りかかってぼんやりとスマホを見ていたヨウヘイは、あたしに視線を向けた途端に目を剥いた。そうだね、驚いたよね。知り合った時には既に、あたしの髪は背中までのロングだった。
「切っちゃった。失恋したら、やっぱこれかなって」
「失恋って……俺は、別れたいとは言ってない」
「結婚迫る女は重いですよね」
「……ごめん、本気じゃない。家賃は折半しなくていいとか、食った分買ってくれば許すみたいなのがさ、その、アスノは俺を受け入れすぎだろって……」
ヨウヘイはあたしから目を逸らすと、スマホをスリープにして放り投げた。
「悪かった。そして腹減った」
「うめえっちゃんでも食ってれば」
「……アスノの、料理が、たべたいです」
よっぽどお腹が空いているのか、ヨウヘイはぺこりと頭を下げた。その姿勢のまま、言葉は続く。
「ごめん。ずっと、ずっと……ここで、一晩中考えてた。お前が、俺に黙って帰らないなんて、初めてで。だから、寂しくて……このまま帰らなかったらどうしよう、何か事故にあってたらどうしよう、俺はこんな思いをさせてたのか、って……」
肩が震えた。泣いている。その震える肩を、あたしは知っている。病院から帰るタクシーの中で、あたしはその震えを止めてあげたかった。一生守ってあげたいって、あたしはそう思ったんだ。
「ごめん、ごめんな、アスノ。俺ひどかった、ずっとひどかった。自分だけが不幸みたいなツラして。アスノだって、俺と同じくらい辛かったのに……」
「ううん……それはやっぱり、ヨウヘイの方が、はるかに辛かったはずだよ」
ヨウヘイの前に屈んで、そっと抱きしめた。あたしを呼ぶ声は擦れている。苦しかったね、辛かったね。ずっとあたしの夢まで一緒に抱え込んで、その重さに潰れていたんだもの。
「もう、いいんだよ。ヨウヘイは、ヨウヘイの生きたいように生きればいい。あたしもヨウヘイも、それぞれの夢を追えばいいの」
「……もう、俺はお役御免って、ことか」
「うん。腐れギタリストには、もう用事はないよ」
あたしは頷いた。ヨウヘイの身体が、ぶるりと震えた。
「アスノがいないと、俺……ダメなんだよ、ねぇ、アスノ」
「大丈夫、ごはんは作ってあげるよ。同じベッドで眠るし、朝はおはようって言うよ」
ヨウヘイは、キョトンとした顔であたしを見た。
「近藤洋平のことは、死ぬまで大好きだからね。約束したじゃん」
「……アスノ、それって」
自由になろうね、とあたしは言った。
ねぇヨウヘイ、同じ夢なんか見なくても、一緒に生きていく事はできるんだよ。あたしはヨウヘイと添い遂げたい、あたしの夢なんて、たったそれだけだ。だけどそれだってきっと、叶えようと思えば、すごく大変な事なんだよ。
楽な人生なんて、一つもないんだ。
「お昼、何食べたい?」
あたしは聞いた。仲直りのごはんだから、何だって作ってあげたい。でもきっと、いつもみたいに「オムライスがいい!」って言うのかな――あたしのそんな考えを、ヨウヘイは見事に裏切った。
「……アスノが、いいな」
「出たよ性欲大王、えっちで腹が膨れるかっ」
軽くデコピンを食らわせてやった。ああ、こんな風にじゃれ合うの、いつぶりだっけ?
「だって、その髪、可愛いから……だから今すぐ俺のものにしないと、アスノはどこかに行っちゃうんだろ?」
照れながら、視線を逸らしながら、あたしの髪を褒めるヨウヘイは可愛かった。
二人でベッドに飛び込んで、愛し合った。
ヨウヘイは優しかった、昔のヨウヘイみたいだった。
あたしの髪を何度も撫でて、「かわいい」と連呼した。
甘い甘い、蕩けるようなキスをした。
お互いのカラダを、余すところなく触り合った。
大好きだと、愛してると、飽きるほどに繰り返した。
――この人さえいてくれれば、あたしはもう、何もいらない。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
あたしは言った。ヨウヘイはあたしの髪を撫でながら、何でも聞くよ、と言った。そうか、じゃあ遠慮なくお願いしちゃおう。ヨウヘイは嫌かもしれないけれど、あたしがしたい事だから、できたら反対はしないで欲しいな。
「あのね、あたしにギターを教えて欲しいの。トリトラの曲、弾けるようになりたい」
ぶは、とわかりやすくヨウヘイが吹いた。無茶なのはわかってる。チューニングしかできないあたしが弾くよりも、ヨウヘイが痺れる指で弾いた方がマシだ。
「へなちょこアスノに弾けるわけないだろ!」
「いいじゃん、やってみたーい。もし弾けたら褒めてね、ポンちゃんたちに一緒に弾いてよって誘っちゃったりしてさー」
「わははは、ムリムリ! あれは俺様専用なんだぜ?」
怒るかと思ったけど、ヨウヘイは笑い転げた。きっとあたしのしたい事、わかってる。
「よし、じゃあ弾き方は教えてやるよ。そんでさ、アスノの為に曲を作ってやる。へなちょこアスノでも弾けるような、可愛い曲がいいね。弾きながら歌えよ?」
「おっ、楽曲提供!」
「ふふん任せろ、伊達に作詞作曲ぜんぶ手がけてきてねぇんだぜ?」
「うわーい楽しみー!」
「まぁ、まずは基本コードできるようになれよ。それができなきゃ教える以前の話だからな。Fで投げたら指差して笑ってやるから、覚悟しろよ!」
ケラケラと笑いながら、あたしたちは、ギタリスト・アスノについて語り合った。
ゆっくりと、少しずつ、違う夢が描かれていく。
夢の途中で挫折した人は、弱い負け犬なのかもしれないけれど。
――新しい夢を見つけられる人だって、きっと、強くて格好良いはずなんだよ!
パトリシア 水城しほ @mizukishiho
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