おなかに赤ちゃんがいます

いりやはるか

おなかに赤ちゃんがいます

 満員の電車が緩慢な仕草でホームへと滑り込んで行く。


 ワイシャツがはみ出したまま直すことすらしない、鼻息の荒いサラリーマン、馬鹿でかいリュックサックを前に回すこともなく周囲へぶつけながらスマートフォンからは決して目を離さない若い男、朝から痴漢してくれと言わんばかりの露出度の高い格好の若い女、思わず鼻を摘みたくなるほど、トイレの芳香剤のような香水の香りを漂わせる派手な格好の中年の女。

 どいつもこいつも、ろくなやつはいない。由香里はこの電車の始発駅が最寄りのため、立って乗車する必要はない。何時に乗ろうが快適に座って通勤することが出来る。

 先日書店で見つけた好きな作家の新刊本をバッグから取り出し、読み始める。隣の女子高生が膝の上に乗せた、やたらと荷物が満載の角ばったスクールバッグが肘にあたり、思わず舌打ちが出そうになるがぐっと堪え、さりげなく視線だけ向ける。

 女子高生はスクールバッグを引っ張り上げ、スマホを顔の近くに引き寄せて顔を隠すように由香里の反対方向に背けた。ほんの一言でも「すみません」と謝ればいいものを。どうせろくな女じゃない。こういう輩は誰にでもすぐに股を広げるビッチに違いないのだ。家では親に暴力を振るわれて育ったのだろう。制服を着ているが、本当にこのまま学校に行く途中なのかも怪しいところだ。

 スマホで熱心に見ているのは援交相手との待ち合わせ場所を指定するLINEか、今夜家に帰りたくないが為の宿代わりに使う、泊めてくれる家を提供してくれる性欲に支配された馬鹿な男と繋いでくれるマッチングアプリに違いない。

 変質者に自宅に連れ込まれ、セックスの最中に首でも絞められて殺された挙句に全身をバラバラに解体されて、クーラーボックスに詰め込まれた状態で発見されればいい。

 由香里は一気にそこまで女子高生について脳内で悪態をついてから、手元の本を改めて開いた。


 停車した駅で人の入れ替えが一通り終わり、由香里の目の前に女が立った。

 この時間程にはあまり見かけないタイプの女だ。最初に由香里の視線に入ったのは、細い足だった。やや内股気味で、肌は真っ白だった。グレーベージュの光沢のあるヒールの低いパンプスを履いている。膝丈のふんわりとした生地のワンピース。本を読む振りをしてさりげなく視線を上にやると、女が持った小ぶりな革製のバッグが目に入った。そこにさりげなく、あのしるしがあった。

 由香里がどれだけ欲しくても決して手に入れることが許されなかった、あのしるし。


 「おなかにあかちゃんがいます」


 「残念ですが」

 初老の医師は誠実だった。由香里の三度目の流産を自分自身の失敗であるかのように伝えた。夫と取り組んできた不妊治療の結果、ようやく叶った妊娠は、その度に流産し、由香里と夫の希望を打ち砕いた。

 辛い治療を乗り越え、やっと手に入れかけた希望を、最悪の形で取り上げられる。そんなことが三度も続き、由香里の中の何かが壊れた。

 夫を責め、自分を責め、アルコールを大量に摂取し、急性アルコール中毒になって病院へ搬送されたこともある。夫婦関係の継続は困難となり、夫側からの申し出で離婚はしないまま別居状態に突入した。夫からはいまだにきちんと話し合おうと定期的に連絡が来るが、由香里は返事を返さない。

 仕事をやめないでよかった、と今になれば思う。

 結婚当初、妊娠して出産すれば、仕事などやめてもいい、と思っていた。

 子供と暮らす時間を、それも一番可愛い幼い時期の子どもたちとの思い出をたくさん作りたかった。仕事などで子供のそばを離れることなど、考えたくなかった。夫も由香里の考え方に賛同してくれた。まだ不妊治療を始める前、夫と何度も子供用品の専門店や、子供服の店に行っては、こんな服を着せたい、男の子だったら最初のお誕生日にはこんなおもちゃを贈ろう、女の子だったら一緒にこのおもちゃで遊ぼう、そんな風に話した。


 そのまま視線を上へと上げていく。

 女は大きめのマスクをし、うつむいてスマートフォンを操作している。その指にはしっかりとネイルが施されていた。つやのある赤いベースの色の上に、小さな星柄が点々と散らされたデザインだった。明るい栗色の髪の毛は肩の辺りまで伸ばされ、由香里の方へまっすぐと垂れている。電車が揺れるたびに毛先が揺れ、由香里の鼻腔にもコンディショナーの香りが感じられた。

 女の腹の辺りに由香里は視線を下げる。

 ブルーのワンピースに包まれた女の体型はゆったりとしたそのワンピースのデザインもあってはっきりとはわからない。それでも薄く、細いこの女の体の中に本当にもう一人人間が入っているのはにわかには想像し難かった。

 この中に、まだどれくらいの大きさかはわからないが、この女の子供がいるのだ。丸裸で、へその緒に繋がったまま、この女の羊水の中で目をつぶったまま、ぷかぷかと浮かび続けているのだ。今この瞬間に、思い切り女の腹を殴ったらどうなるのだろうか。ページをめくりかけた右手に力が入る。

 拳を握りしめ女の細く薄い腹に素早く思い切り、手首の辺りまでめり込ませる。腰を折ってしゃがみこむ女を張り倒して、今度は足で腹を踏みつける。何度も何度も踏みつけると女の口からひしゃげた子供のできそこないがドロドロと流れ出す。ゆかりはそのドロドロのできそこないを瓶に詰めてラベルを貼って名前を付けてやる。男の子だろうか、女の子だろうか。男の子だったら、おおきな樹と書いて、大樹。だいき。女の子だったら、自分の由香里という名前から「香」という漢字を取って、紗弥香。さやか。


 電車が揺れて、女の体が傾いた。

 「おなかにあかちゃんがいます」のマークが女の肘のあたりに下げられた鞄の前方に垂れ下がる。由香里は本から目を離さないようにしながら、視界の隅でそれを捉える。由香里の隣に座っている女子高生はスマートフォンから顔を上げようともしない。女子高生とは反対側の由香里の隣に座っていたのは、若いサラリーマン風の男だった。男もスマートフォンを見ていたが、車内が揺れた際、ふと顔を下げた先に女のマークを見つけたらしく、譲ろうかどうか迷っている素振りを見せた。


 不妊治療の末、一度目の妊娠をした頃だった。

 既に由香里は30代の後半になっていた。本当は外になど一歩も出たくなかった。今の自分はガラス細工を両手の手のひらいっぱいに乗せて細い細い平均台の上を歩かされているようなものだ。そう由香里は思っていた。妊娠したらすぐに辞めるはずだった会社も、想像以上にかさむ不妊治療の費用を稼ぐためには辞めることが出来ず、安定期に入って会社に報告できるまで、産休に入れる前までは調子を見ながら通わざるを得ない。そう思って恐る恐る通勤し始めた。

 渋谷で山手線に乗り換え、埋まった座席を見てため息をつく。優先席の近くへ行くべきだろうか。つい先日「おなかにあかちゃんがいます」マークを最寄駅の駅員からもらっていた。「おめでとうございます!」と垢抜けない、素朴な顔つきの若い駅員は息を弾ませて言った。

 トートバッグにつけたそのマークをどうしても堂々と周囲に見せられない。由香里は無意識にマークを隠すようにバッグをさげていた。由香里の前には大きく足を開いてスマートフォンを見ている若い男が座っている。こちらを見もしない。おそらくマークに気がつくこともないだろう。それで構わない。マークを見せていることで席を譲るよう暗に催促しているなどと思われたくない。

 その時だった。由香里の近くに立っていた老婆がマークに気がつき、由香里の前で座っていた男に声を掛けたのだ。

「ちょっとあなた、この方妊娠していらっしゃるんだから、席を譲りなさい」

 周囲がいっせいに由香里の顔を見る。

 なんでそんなことを言うんだ。やめてくれ。

 由香里は自分の頬が一瞬で紅潮していくのをはっきりと感じた。

「あ、あ…」

 うまく言葉が出せずに、口からは息だけが漏れていく。

 若い男は由香里の顔を一瞥すると、舌打ちをし、周囲の目を気にしてか気怠そうに立ち上がった。由香里のすぐ横を通り抜ける際、男は由香里の耳元で言った。

「ババアのくせに、気持ち悪りぃ」


「あの、席、どうぞ」

 若いサラリーマンが中腰の姿勢のまま、座席の方に手のひらを向けて、由香里の前に立つ女に声を掛けた。由香里は全身の神経を前方へ集中させる。

「いえ、すぐ降りますので、大丈夫です」

 女の声は見た目と違い、低く、落ち着いていた。

 そうですか、と拍子抜けしたようなサラリーマンの声がして、そのままサラリーマンは席に腰を戻した。

 人から好意をもらっておいて簡単に断りやがって。若くて綺麗な格好して、ばっちり子作りしながら仕事もこなしちゃうあたしは完璧とでも思ってんのか、このクソ女。目だけを動かして目の前の女を睨みつける。女は気にした風もなくスマートフォンをいじり続けている。


 由香里は不妊治療を始める前、一度妊娠したことがあった。

 学生の頃のことだ。相手は妻と二人の子供がいる、バイト先の40代の社員の男だった。

「堕してくれ。頼む。君の子の父親にはなれない」

 男は由香里の大学までやってきて、近くの公園に由香里を連れてくるなり言った。そして堕胎手術の費用なら全部出す、慰謝料も出す、だから堕してほしい、このままでは君にも申し訳ない、別れよう、とついでのように言った。

 由香里はなぜこんな男と自分はセックスまでしたのだろう、と頭を下げる男の薄くなり始めている頭頂部を見つめてぼんやりと思ったが、その遺伝子が既に自分の中で形づくり始めているのだと思うと、吐き気がこみ上げるようだった。

 

 由香里は手元の本を閉じると、勢いを付けて立ち上がった。

 目の前の女が急に立ち上がった由香里に少し動揺した様子でこちらを見つめてくる。女はヒールのないパンプスを履いているにも関わらず、由香里よりもずっと背が高かった。

「座ってください。妊娠中なんですよね」

由香里は言った。女は頷くが、動こうとしない。

「大事な体ですから、一駅でも座った方がいいですよ。ほら」

 由香里は女の腕を掴む。その腕は想像よりも固く、筋肉が引き締まった印象だった。

「本当に、大丈夫ですから」

 女は視線を落として言った。

 電車が速度を落とし、車内アナウンスで間も無く次の停車駅であることを告げた。

「ありがとうございます。ここで降りますので」

 女はそういうとやんわりと由香里から腕を解き、ドアの方向へと向かって歩き出した。由香里はその場に立ったまま、腰を下ろすことも出来ず、女の方を見ていたが、ドアが開き女がホームに歩き出すのを見て、自分もホームへ向かった。

 人混みの中に紛れてホームへ吐き出される女に、由香里は人を押しのけて追いつき、その腕を取った。驚き、大きな目を見開いて由香里を見つめる女に、由香里は言った。

「あんた、なんで席に座らなかったの。妊娠してんでしょ。お腹に赤ちゃんいるんでしょ。席譲ってもらっておいて、なんで座らないの」

 由香里と女の周囲を、大勢の人間たちが好奇の視線を向けながら、それでも厄介ごとには巻き込まれまい、と警戒して見えない壁があるかのように隙間を作って器用にすり抜けていく。中には混雑するホームで場所を取っている二人に露骨に舌打ちをしていく者もいた。

「あんた、あんた自分が何もかも持ってていい気になってんじゃないの。周りのこと馬鹿にしてんでしょ」

 由香里はもはや自分で口をとめることが出来なかった。無茶苦茶だ。八つ当たりだ。妊娠している女に対して自分はどうしてこんなひどい言葉を投げつけているのだ。女がこれで精神的にショックを受けて流産でもしたらどうするんだ。自分は殺人犯になるのか。それでもいいか。こんな女の子供など、流れてしまえばいい。そんな思いがぐるぐると交互に入れ代わる。

「妊娠して子供産めることが偉いの。子供一人産めなくて何が女だって言うの。子供が産めなかったら、女として生きている意味がないみたいに…」

 由香里は言葉に詰まった。こみ上げる感情が言葉を失い、由香里の胸のあたりで渦巻いていた。言葉は代わりに由香里の目から流れ出た。いつのまにか流れていた涙の感触に気がついて由香里は嗚咽した。

 女はゆっくりと由香里に近づき、華奢な体つきに不釣り合いに大きな掌で由香里の背中と肩を抱くと、耳元で言った。

「私、男なの。赤ちゃんなんて、一生産めない。嘘ついてて、ごめんなさい」

 低い声だった。

 由香里がはっとして顔を上げると、女は寂しそうに目元だけで笑って見せ、鞄に付けていた「おなかにあかちゃんがいます」を取り、ホームへ投げ捨てた。


 由香里は、去っていく女の後ろ姿を呆然と見つめたまま、しばらくずっとホームに佇んでいた。女の捨てたマークはホームを行き交う人に蹴られ、踏まれ、そのうち、どこかに見えなくなった。











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