最後の悪事

いりやはるか

最後の悪事

 野村純一は真っ当な男だった。


 一度だって間違ったことをしたことはない。

 横断歩道でさえ、例え誰も見ていなかったとしても赤信号では渡らなかったくらいだ。そんな彼が今、犯罪を犯そうとしている。いや、正確には犯罪を犯す気になっている。 

 なぜなら、地球は滅びるからだ。


 そのニュースが流れたのは半年ほど前だった。


「地球に大型の隕石が向かっている。衝突時に人類が生き残れる確率は極めて低い」


 当然世界中でパニックが起きた。隕石の軌道を変えるために何人もの兵士が宇宙へ飛び立ち帰らぬ人となった。地上からもあらゆる手段が用いられたが、巨大隕石の軌道は変わらなかった。

 そして地球上での緊張の糸は、切れた。


 今野村は誰もいなくなった街に立ち、これからどんな悪さをしてやろうかと思案している。何しろ、誰もいないのだ。強盗だって、器物破損だって、放火だって何でも出来る。

 隕石のニュースが流れる直前、野村は会社を解雇された。

 その通告を受けた帰り道、交通事故に遭い、彼は意識不明の重症となった。意識が無いまま月日は流れ、やがて彼が病院のベッドの上で目を覚ました時には、病院には彼以外誰もいなかった。荒廃した病院で目覚めた彼は、屑籠に丸めて捨てられていた半年前の新聞を読み、自分が意識を失っている間に起きたことについて知った。そして、改めて自分の不運を呪った。

 

 これまで真面目に生きてきたというのに、何ということだ。誰も俺のことを助けてくれようとはしなかったのか。そして思った。どうせ地球が滅びるなら、死ぬ前に何か悪いことをしてやろう。誰も咎める人間などいないのだ。


 試しに野村はコンビニに入ってみた。

 カウンターを覗き込むと、レジの引き出しがほんの少し開いている。手にかけてみると、引き出しは抵抗なく開いたが、中は見事に空だった。既に誰かが取っていったようだ。世の中は悪人だらけだ。

 そのまま店を出て、今度は銀行へ向かったが、店にはシャッターが閉められ、そのシャッターにはぞっとするほど大量の文字がスプレーで殴り書きされていた。


「地球は滅びる」

「まだ死にたくない」

「助かりたければここへ電話しろ 090ー××××…」


 シャッターの前には、警官が落として行ったのか、手錠が転がっていた。ずっしりと重いそれを拾い上げると、溜息を一つついて野村は再び歩き出した。

 そして、気づいた。

 悪事は、それを受けて苦しむ人間がいることで成立している。誰もいないこの状況では、どんな悪さをしたところで、それは悪事にはならないのだ。誰もいない世界で金を盗んで何を買うというのだ。野村はがっくりと膝をつきたくなった。


 その時「おおい」という男の声が聞こえた気がした。

 気のせいだ、今頃この辺りに人間が残っている訳がない。しかし、声は次第に大きくなり、視界の中にこちらへ手を降りながら走ってくる男の姿が実際に見えると、野村はたまらずに


「ここだーっ!俺は生きてるぞーっ」


と叫んでいた。


 やってきた男は池田と名乗った。

 彼は野村と同い年の警察官で、この街に生存者がいないかどうかを確認して回っていた途中だったという。野村は尋ねた。


「どうして今更生存者なんか探してたんです?隕石が衝突したら助からないんでしょう?」


 野村がそういうと、池田はぱっと嬉しそうな表情になって続けた。


「それが、助かるんですよ!政府が極秘に開発していた避難シェルターがやっと完成したんです。そこに行けば、衝突にも耐えられる可能性が高い。野村さんも、死ななくて済むんです!私も、妻と子供を連れてこれからそこに行く予定なんです」


 嬉しそうに話す池田を見て、野村の中の何かがゆらゆらと揺れ始めた。


「お子さんはおいくつですか?」

「上の子は三つです。下は今年産まれたばかりなんですよ」

「それは、かわいい盛りでしょうね」

「ええ。それに、今年から僕、実は昇進して巡査部長になったんですよ。今ここで死ぬわけにはいかないですからね」


 結婚、子供、昇進。

 野村には無い物ばかりが目の前に男にはあった。野村は思った。仮に生き延びたとしても、自分に何があるのだろう。

 

「隕石は、いつ落ちてくるんですか?」

「早ければ明日には到達する可能性が高いそうです。さあ、早く行きましょう」


 野村はポケットに手を入れた。

 そこには、先ほど拾った手錠の感覚があった。素早くそれを引き出し輪を開くと、野村は池田の手を取ると手錠の片方を嵌め、もう片方に自分の腕を嵌めた。


「何をしてるんですか」


 池田が不思議そうな顔で尋ねる。野村は言った。


「急ぐことはないでしょう。地球が終わるのをここで一緒に見ませんか?こんな

美しい夕焼けを独り占めするのは勿体無いですよ」


 遠くの空が赤く染まり始めていた。

 それが日暮れによるものなのか、隕石の接近によるものなのか、野村には知る由もなかった。

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最後の悪事 いりやはるか @iriharu86

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