肆:「鉈、病院、逃」

「おおい、こっちだ。こっちにこい」

 クロダが手に持ったバットで地面を叩く。ゴン、ゴン、ゴン--。


 想像以上に音が響いたのは、きっとクロダの手に力が入りすぎていることもあるのだろうけれど、誰もいない噴水広場という開けた空間で、自分たち--ジンナイとクロダ、そして枝の生えた男以外には誰もおらず、かつては当たり前のように聞こえていた子供たちの歓声や車道を走る車のエンジン音が、全く存在しないからなのだろう。聞こえてくるのは木々のざわつきだけで、そのざわつきはすでに安心できる類の自然音ではなくなっているのだし、だからこそ、ジンナイはクロダの背中を(それ越しに見えるを)注視しながらも、心細さを感じずにはいられなかった。


 手にはのぼり旗のポールを持っていた(大きく赤色で「暮らしフェア開催中!」と印刷された旗の部分は取り除いてあった)。

 クロダのバッタより頼りなく、それでいて、地面を叩くとバットよりも音が響いた。カン、カン、カン--。

 ジンナイは心の底から、クロダの持つそれと交換してほしいと思った。




 三人--いや、二人と枝男は歪な三角形の形をとって、センターから遠ざかるように動いた。ジンナイとクロダが音と身振りで枝の生えた男の注意を引き、噴水広場の脇まで誘導するつもりだった。できれば人目につかない場所の方がいいとクロダが言い、人目なんてどこにだってないじゃないかと一瞬ジンナイは思ったものの、例の小さな高校生が実際に外を見ていたというのもあって、すぐに了解した。確かに、話に聞く限り、これから起こる事を考えれば人目につかない方が(間違っても子供の目には触れない方が)断然良いのだ。


 枝男の動きは鈍かった。クロダが一度「ユウスケ!」と叫んだけれど--そしてそれはきっと、枝男の名前なのだろうけれど、反応はなかった。

 ジンナイの目には、ユウスケと呼ばれたその男が生きているようには見えなかった。

 顔は青白いを通り越して紫がかった色になっていたし、白目を剥いている(よくよく観察すると目の端から植物の芽が生えている)。なにより、首に生々しい紐の痕が見える--どころか痕を付けた紐そのものがダラリとぶら下がっていた。


 ただ動いているだけで、生きてはいない。


 それは、世界がなった影響の(数多ある問題の)一部であり、例の巨大な樹が出現してからというもの、爆発的に(悪魔的ともいえるほど)成長し始めた植物や、大地震や津波、それに伴う二次災害にさえ耐えた人間たちを襲ったとどめの一撃でもあった。

 急速に成長する植物は街を侵食し、時には破壊して、ついには、人間を含むあらゆる動物に寄生しはじめたのだった。


 ジンナイは一年かけてもその事態を飲み込めずにいた。

 いや、果たして飲み込むことなんてできるのだろうか。喉の奥に絶えず異物があるような、気を抜けばすぐにでも吐いてしまいそうな危機感を抱き続けている。

 そして今から、自分が--逃げるように目を背け続けていた自分が、この事態に対処しなければいけないのだと思うと、比喩ではなく本当に吐き気を催してしまっていた。




 クロダがゴンゴンと鳴らす斜め後ろで、ジンナイも持っていたポールを打ち鳴らした。控えめに「おおい、こっちだ。おおい」と呼びかけもした。

 子供が立ち歩きを覚えた頃、よく妻と競うようにして子供に呼びかけていた時の事を思い出した。手をパンパン叩き、「ほらおいで、パパだよー」と最大限に優しさを詰め込んだ声音で子供を誘導しようとした時の事だ。

 公平さを期すため、メジャーを持ち出してまで距離を等しくしたのに、子供は(ジンナイには目もくれずといっていいほど)まっすぐに妻の元へ向かったから、少し落ち込んだものだ。

 それに比べれば(子供と比べることに嫌悪感が湧いたけれど)、クロダの方が距離が近く、それでいて大きな声であるはずなのに、枝男はジンナイの方によく反応した。

 ポールが鳴らす音の方がよく響くからか、それともなにか他に判断基準があるのか、とにかくジンナイは「なんでだよ」と悪態をつきたくなるのをこらえ、ズリズリとゆっくり後退しながら(できればクロダの背中に隠れながら)噴水広場の脇を目指した。




 ジンナイとクロダは元々、釣り道具屋の主人と客という関係性でしかなかった。


 そもそもジンナイは釣りを熱心な趣味としているわけではなく、二ヶ月に一度か二度、フラリとした心持ちで(それは子供と妻への家族サービスをサボタージュするという意味でもあったのだけれど、ジンナイは別に家庭を顧みない男という訳ではない。父親であり夫である男は、多かれ少なかれ一人でいる時間というものを求める事があるのだ)、釣り竿を一本とクーラーボックスだけを車に積んで港を訪れることがあって、魚の餌であったり、替えの針であったりを「クロダ釣具」で揃える事が多かった(初めに釣り竿を買ったのもそうだった)。


 釣り道具といえば近くに大型店舗もあったのだけれど、そこには初めに足を運んで以来行かなくなった。店員や客層がいかにもな釣り愛好家ばかりで、熱心さとはかけ離れた心境(妻と子供への罪悪感も多少影響している)ジンナイは少し気後れしてしまったのだ。

 その点、「クロダ釣具」は小ぢんまりとした店内であったり、客にしても、決まった常連客(それほど熱心さを感じないご老人たち)が来るばかりで、店主であるクロダも来店者に頓着しない主義らしく、それは無愛想ともとれる態度だったのだけれど、逆にジンナイは居心地の良さを感じていた。


 交わされる会話というのは売り買いの際に発せられる「これ下さい」と「○○円です」のみで、つまりこれまでジンナイは、クロダの声というものを値段を教えてもらう時にしか聞いた事がなく、それだけの関係でしかないと思っていたのだ。


 だからあの日--地震の起こったあの日、妻や子供と共に避難場所に向かっているところを、クロダが呼び止めてくれたことに、ジンナイは驚いた。



 ◆



 長い大きな地震が治まり次第、ジンナイ一家は行動を起こした。まず妻が「大事なものまとめないと」といってジンナイの腕の中から抜け出した。ジンナイと同じく過去に震災を経験している妻は、これからの避難行動を想定して、常備してある避難グッズや通帳、印鑑などバッグに入れて持ち出せるものを探し始めた。

ぐずついていた子供はまず泣くことをやめた。そして、先の恐怖がまだ続いている事を両親の顔色を見て子供なりに判断し、とにかくどこかには出かけるようだ(それはきっと幼稚園ではない)というのを母親の行動から読み取ったのだろう、テーブルの上に置いたままだった動物ビスケットとスパイダーマンのアクションフィギュアを肩に下げたカバンの中に入れた(スパイダーマンの隣にはハルクバスター形態のアイアンマンもいたけれど、それは入れなかった。きっと顔や腕のパーツがすぐにとれてしまい、邪魔になるからだ)。


 二人に遅れる形でジンナイは立ち上がり、玄関へと向かった。もしかしたら揺れで(体感しない程度であっても)家が傾き、そのせいで扉が開かなくなっているかもしれないという心配があったからだ。向かいながら会社に連絡すべきかどうかを考え、後回しにして良いと判断した。

 シャツの第四、第五ボタンはまだ留めていなかったけれど、それも、後回しにした。


 玄関の扉は無事に開いた。小さなギッという音が鳴った気もするけれど、それは傾きのせいなのか、元々建て付けに不備があって今まで気が付かずにいたのか。

 外の様子を確かめてみる。あの揺れから予想されるべき状況という意味では、意外にも周囲に大きな変化は見られなかった。

 ジンナイ一家の住む辺りは新興住宅地で、同じような外観をした住宅が列を成している。ジンナイから見た向かいにも、まるで合わせ鏡のように、自分の家と似た外観をした住宅が建っていて、それはつまり、売りに出されていた際の宣伝文句である「耐震設計」というものがこの辺りすべての住宅にあてはまるのだろう、傾いたり、崩れてしまった家は一つも見当たらなかった。脳裏に家を購入する際に担当だった男の得意げな顔が浮かんだ。《ほら、言ったでしょ? 地震が来ても安心ですって》


 ただ、一つも変化がないわけではなかった。ジンナイと同じように外の様子を確かめる為か、各家から住人が出てきて、周囲に目を配りながら家族や隣人となにやら確認しあい、それが喧騒となって辺りに満ちていた--住人の顔には怯えや恐れというよりも、むしろ困惑や不可解だといったような色が浮かんでいた(中には半笑いのような表情をした者さえいた)。周囲に被害が無い為に、心に余裕が生まれたようでもあった。

 それと何故か、各住宅の軒先に植えられたアサガオや紫陽花、ツツジなどの

 その事について何かを考える前に妻の呼ぶ声が聞こえ、ジンナイは扉を開けたままにして、妻の元へ向かった。

 

 


 ジンナイ家は高台にあるとはいえ、比較的沿岸部に近い。津波を警戒するならば(そしてそれが確実に来るとわかっているならば)避難場所に向かうことは必須だった。

 ジンナイは最後まで車で移動するか悩んだけれど、結局、歩いて避難場所に向かう事に決めた。過去の震災の時、父親の運転する車が大渋滞にハマり、狭い車の中で身動きできずにいる不安と恐怖を思い出したからだった。指定された避難場所の近くには病院もあるし、緊急車両が頻繁に出入りするだろう事も想定した。


 ジンナイは避難用の道具を入れたリュックを背負い、手に旅行カバンを持った。妻の荷物も似たような構成だけれど、そちらの旅行カバンにはキャスターが付いている。

 子供も重装備だ。肩にバッグを下げ(スパイダーマンの足が端から飛び出している)、背中のリュックには着替えと遠足三回分のお菓子、それに結局持っていくことに決めたアイアンマンも入っている。

 いよいよといった感じに決意を込めた顔を三人共が浮かべ、そして家を出た。

 外にはまだ地震談義をしている人が数人いた。しかし、大半の住人は避難に取り掛かっていた。車に荷物を積んでいる家族もあったし、ジンナイ家と同じように両手と背中に荷物を持って歩く家族もいる。

 その様子を住宅の窓から不思議そうに眺めている人もいたけれど、きっと事態の深刻さに気付いてすぐにでも避難行動を始めるだろう、とジンナイは事にした。


 避難場所は北に歩いて十分くらいの距離を行った所にあり、ジンナイ家からそこまで、緩やかな上り坂が続く。途中に大きな交差点があって、同じような荷物を抱えた集団が信号待ちをしていた。近所で見たことのある人も混ざっている。

 軽く挨拶をしたり、無事を労ったりしていると、東の道からまた荷物を抱えた集団が現れて、その先頭を歩く人を見てジンナイはおや、と思った。

 釣り道具屋の主人であるクロダだった。

 クロダを先頭にしたグループはジンナイたちと同じ北行きの信号を待つことはせず、さらに西に行く信号を渡るようだった。

 丁度北行きの信号が青になり、ジンナイたちと西に行くクロダたちが交差する形になった。そこでジンナイはクロダに「おい、兄ちゃん」と声をかけられた。


 ジンナイは初め、それが自分を呼んでいる声である事に気づかなかった。そもそもクロダの声なんて「○○円です」くらいしか聞いたことがなく、現金の受け渡しの時でさえ、いつもこちらの顔なんて確認していないんじゃないかというくらい他の作業をしながらの、無愛想な応対だったのだ。この時も、ジンナイは軽く会釈をするつもりではいたけれど、それすら無視されるものと高をくくっていた。

 だから、首を少し傾けただけのような軽い会釈をした後に誰かを呼び止める声が聞こえたものの、ジンナイの足は横断歩道を進もうと動いていた。

 クロダが二回目の「兄ちゃん」を言うのと、妻が「あなた、呼んでるわよ」とジンナイを呼び止めるのは、ほぼ同時だった。


「あ、どうも。いつもお世話になってます」

 ジンナイは言いながら、果たしてこの挨拶が適当であるのか、と考えた。


「そりゃこちらのセリフだ。いつもありがとよ」


 北に行く他のグループは信号を渡ってしまい、クロダのグループも西行きの信号前まで離れる。横断歩道の前でジンナイ家とクロダのみが残される形になった。

 そこでジンナイは妻にクロダを紹介し、クロダにも妻と子供を紹介した。

 クロダは釣り道具屋の主人というよりも山の猟師のような出で立ちをしていた(なぜか腰には鉈を収めたホルダーをぶら下げてもいた)為に、妻は「ああ、釣り道具屋の……」と納得するような、納得できていないような微妙な声を上げ、ついで「いつも主人がお世話になっております」と頭を下げた。

 クロダも、いやいやどもどもと口ごもりながらペコペコっと頭を下げる。


「あんたら、あの避難場所に向かうのかい?」

 と、クロダは挨拶もそこそこに太い指を北に指した。


「あ、そうです。ご主人はあちらに向かわれないんですか」


「ご主人なんて……、クロダでいいよ。ああ、俺たちはもう一つ向こうの避難場所に向かうつもりなんだ。なんてったっけな。確かコミュニティセンターとかいう--」


「ああ、あそこですか。噴水広場の横の」


「そうだ、そうだ。でかい公園があるそこだ」


 ジンナイもその場所はよく知っていた。会社への通勤時に通る道路沿いにある為だ。


 クロダはそこでふと、ジンナイたちが向かおうとしていた方角を見つめながら、眉間にシワを寄せ、唇をペロリと湿らせた。何か迷っているような素振りだった。

「先に行っちまったやつらには悪いけどよ、あんたらも俺らと一緒に来た方がいい。……正直言ってな、あそこじゃ間に合わねえ」


 ジンナイには一体何が間に合わないのかわからなかった。津波のことならば、どちらかといえばクロダたちが向かうコミュニティセンターよりも、北にある避難場所の方が高い位置にあるし、安全に思えた。


「間に合わないって、津波のことですか? あそこは位置も高いし大丈夫なんじゃ--」


「津波じゃねえよ。多分、津波の方はな、そんなに被害は出ねえ。いくらかは流されちまうだろうけどな。俺の店も……」

 そこで一旦言葉を切り、クロダは腰にある鉈の柄を撫でた。

「海岸通りには横に長い街路樹が続いてるからな。きっとあれが波をせき止める」


「街路樹が? 津波をせき止めるんですか?」


「ああ、まだ見てねえか。そうだよなあ。見なきゃわからねえよなあ」

 クロダはそう言って、今度は顔を南へと向けた。その方角にはジンナイ一家が今しがた上がってきた坂道がある。

 ジンナイもつられるようにその方角を見た。ここに上がって来るまでにもチラチラと振り返って海の様子を確認してはいたけれど、その手前、クロダの言う海岸通り辺りにも目を向けると、その付近の緑が普段より濃くなっている気がした。なんだか森のようにさえ見える。


「木がよお……でっかくなってるんだよ。成長してるっつうのかねえ。見てるそばからグングンと、馬鹿みたいに育ってるんだ」

 クロダは、まるで非常識な事を口走る自分を自嘲するかのように苦笑いを浮かべ、そして呟いた。

「ありゃダメだ。あの成長は、止まらんよ」


 ジンナイには、その呟きが、出来の悪い川柳のように滑稽に聞こえた。



 ◆



 「おおう!」

 クロダが威嚇するような声を上げて、枝男と距離を詰める。そして枝男がグググと腕をクロダに伸ばそうとすると、すぐさま離れる。

 広場脇の、ここだと決めた場所に到達した後、そんな事を何回も続けていた。

 ジンナイはクロダが離脱する際、枝男が相手に集中しすぎないように、時々ポールをカン、カンと鳴らし、注意を引く役を担っていた。


 何度目かの接近、離脱の後、クロダが「よし」と合図を出した。どうやら大詰めらしい。

 枝男を見ると、確かに先程より顔が、

「おおう!」

 威嚇の声と共に、クロダが再接近する。今度はこれまでと違い、枝男が腕を伸ばしてもギリギリ届かないところまで粘るつもりだ。

 見ているジンナイにも緊張が走った。万が一、枝男の指がクロダを掴むような事があれば、すぐにポールで腕を叩き落とす気でいた。


 クロダに指が届くまで数センチといったところで、突如枝男の体がブルッと震えた。ジンナイは咄嗟に「離れて!」と叫ぶけれど、叫ぶよりも前に、クロダは自己判断で離れていた。ジンナイも距離をとる為に後ずさる(もちろん、すでに充分な距離はとっていたのだけれど)。


 枝男は一瞬動きを止めた。そして、顔がさらに膨らみ、紅潮したと思う間もなく、その頭部を爆発させた。


 ジンナイはクロダから、この爆発は「種まき」であると説明された。

 植物の中には実を弾けさせて種を飛ばす種類のものがいて、中でも有名なのが鳳仙花という植物なのだそうだけれど、その鳳仙花と同じように、人間に寄生した植物は最終的に頭部を弾けさせて、種を飛ばすのだという。

 そう説明を受けていたものの、実際に見てみると悲惨としかいいようがない。


 ジンナイは爆発の瞬間に顔を背けたものの、飛び散った脳や肉片を見て、結局盛大に吐く事になった。

 

 ジンナイは涙目でクロダの様子を窺った。

 離れた場所で苦々しい顔を浮かべていたクロダは、飛散した頭部に触れるのを避けながら、その頭部を無くして倒れ込んだ枝男に近づいていった。


「ユウスケよ……ゾンビもどきに、なるなんて……」

 疲れた表情でそう言うと、手を合わせ、目を瞑った。


 ジンナイも、手を合わせ、冥福を祈った。


 遠くから車が近づいてくる音が聞こえてくる。西と東から一台づつ、さらには、噴水広場横の通りを走る音が一台。やがて、木々で遮られていた通りの陰から、白いバンの姿が見えた。


 調達班が、帰還した。

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