第8話 漫才

 クロエと一緒に本会場である駐車場へ戻ると、既に祭りは大勢の来場客で賑わっていた。それとは対照的に、メインステージは老人たちの踊りやカラオケ大会などでお茶を濁している。まるで、あそこだけ祭から切り離されているようだ……。


 どの店も忙しなく働いており、邪魔にならないよう簡単な挨拶だけ済ませて回っていると、もう時間帯はお昼前である。これから本格的に込み始める前に、釈迦戸家の店に並んで昼食をとることにした。


「ここは俺が奢るよ」


 夏澤は論外として、姉と妹以外の異性をエスコートするのは初めての経験だったため、きっと俺は気が動転していたのだろう。並んでいる最中、特に話すこともなかった俺は真顔で平静を装いながら、つい見栄を張って意味の分からないことを口走った。


「いや、奢られる理由が無いよ」


 彼女らしいと言えば彼女らしい断り方だ。しかし、男から言い出したのであれば引っ込みがつかない。なんとか俺は脳内をフル回転させ、奢る理由になりそうなことを探り当てた。


「じゃあ、都大会優勝祝いってことで」


 天道中女子バスケは見事、都大会優勝を果たして関東大会への切符を手に入れた。そのお祝い自体は学校で済ませたのだが、ここで改めて祝うのも酔狂だろう。


「……それならいいかな。ありがと」


 暫く逡巡した後、クロエは照れ臭そうに申し出を受け入れた。もう、その表情が見られただけで俺は満足である。


 束の間の幸福感に浸っていると、ようやく俺たちまで順番が回ってきた。屋台の鉄板で調理を行っているのは永介だ。気軽に挨拶する。


「よう、繁盛してるな」

「おう、準とクロエやないか。これ持ってけや」


 そう言って差し出したのは、焼きソバやタコ焼きなどの商品が入った袋だ。ついでに飲み物が入った袋も渡される。差し出されたものはつい受け取ってしまう性分なのだが、これはけっこうな金額になりそうだぞ……。


「いくら?」

「金はいらん」

「そういうわけにはいかないだろ」


 あまりにも気前が良すぎると不気味である。それでなくても、クロエに奢ってやると言ったばかりなのだ。これでは面子が立たない。


「まぁ、その……なんや。ステージ設営を途中で抜け出した詫びや。遠慮せんと食え」


 少しは早朝の出来事に対して後ろめたい気持ちがあったらしい。これで貸し借りはチャラということにして、今回は永介の顔を立ててやろう。


「うーん、分かった。ありがとな」

「店の裏に回れば基樹もおるで」


 混雑した会場の中で、ゆっくり食事できるスペースを確保できるのはありがたい。俺たちは永介の厚意に甘え、受け取った商品を持って店の裏手側へ行った。


「あ、準君とクロエちゃんだ。いらっしゃい……」


 基樹は縁石に腰を掛け、缶コーヒー片手に黄昏ている。元々、病人のように顔色は悪い方だったが、より一層の悲壮感が辺りに漂っていた。


「うす。見ない間にやつれたな……」

「朝の四時からいたからね。二人はデート?」

「た、たまたま会ったから遊びに来ただけだよ!」


 俺よりも先にクロエが否定する。少しショックを受けたが、外から見たら恋人同士のように見えるという、ポジティブシンキングで精神を立て直す。


「……そういうこと。今は休憩中か? なら一緒に食おうぜ」

「うん。オレも賄はもらったんだけど、今は食事が喉を通らないなぁ……」


 屋台の商品は油っこい粉モノが中心であり、このボリューミーな食べごたえは胃に優しくないだろう。でも絶対に美味いから、一口食べるだけで食欲は増進するはずだ。


「ちゃんと食わないと午後で倒れるよ」

「それもそうだね。じゃ、いただこうかな」


 クロエが基樹を励ましただけで、あっけなく彼は陥落した。俺とクロエも縁石に腰を下ろし、目の前に料理を並べる。


「確か今日は漫才やるんだよね? サワーさんは?」


 食事の最中に何気なく基樹は雑談を始めたが、まさかクロエがいる前で居場所を言えるわけがない。あの着ぐるみの正体が夏澤だと知れたら、また彼女は取り乱して発狂しかねないのだ。俺は誰も傷つかない優しい嘘を吐く。


「あいつは人混みが嫌いとか言って、本番が近くなってから来るらしい」

「余裕だなぁ。練習はバッチリしてきたの?」

「台詞だけは頭に叩き込んだけど、ネタ合わせは軽くやっただけ。夏澤が言うには自分の中でキャラを作るより、その場の雰囲気でキャラを演じた方が柔軟に対応できるらしい。やっぱり、お客さんに届かないと笑ってもらえないしな」


 俺としては準備万端な体勢で本番に臨みたかったが、さっき言ったような理由で説き伏せられたのである。まぁ、練習できる場所も時間も限られていたし、俺に自信を付けさせるための方便だったという可能性も捨てきれない。


「どんな漫才するのさ?」

「それは本番までのお楽しみってことで」


 クロエは俺たちの漫才に興味津々なようだ。しかし、話題を振ってきた基樹の方はなぜか気が重そうである。


「……余計なお世話かもしれないけど、もうサワーさんに対して怒ってはいないよね?」

「なんで俺が怒るんだよ?」

「ほら、サワーさんが早く秘密を打ち明けなかったせいで、二人の漫才コンビが結成するまで時間かかったでしょ? でも、それに対して責めないでやって欲しいんだ。オレにも少しは気持ちが分かるから……」

「どういうこと?」


 俺よりも先にクロエが訊いていた。友達が悩んでいるのなら、構わず踏み込んでしまうのが彼女の長所でもあり、短所でもある。基樹は静かに語り出した。


「オレが地元から遠く離れて転校した理由は、校舎の耐震に問題があったからだって言ったけど、それはただのきっかけでしかないんだ。本当はイジメられてたからなんだよ」


 他の同級生はそれぞれ近くの中学校に移動したというのに、基樹だけ親戚の家に行ったのは不思議だと思っていた。今ではその選択が正解だったわけだが、どうして今更になって蒸し返すのだろう?


「それがどう夏澤の話と繋がるんだ?」

「準君たちは信頼できるから告白できたけど、普通は自分がイジメられっ子だなんて知られたら、今までの経験則で友達が離れていくことは明確だったんだよ。だから、サワーさんも自分の秘密を明かすのは、すごい勇気のいる行為だったと思う」


 変わるということは必ずしも良いことばかりではない。悪い方向へ転がって行くことも多々ある。それなら現状を甘んじて受け入れ、それを守ろうとするのも一つの手だろうが、俺は基樹の思惑に気づいてしまった。


「……お前、修学旅行で俺に言ったよな? 確か世界が変わったとか、新しい自分を発見したとか。俺からも言っとくけど、あれは基樹の実力だからな? 俺から何か言ってもらえることを期待するなよ?」

「もう言ってるよ……」


 気を遣った俺が苦労して捻り出した言葉にクロエがツッコむと、基樹は疲れを吹き飛ばすように笑い出した。


「アハハハッ! やっぱり準君には敵わないな。あの公園の夜だって二人がコンビを結成する場面を見て、オレは自分の姿を準君に重ねたかったのかもしれない。いや、この場合はサワーさんかな? とにかく、オレも二人のおかげで色々と考えちゃったわけだよ」


 そもそも学校でイジメられていた経験のある基樹に、地元住民のような郷土愛などあるわけがないのだ。それなのに生まれ育った故郷を愛そうとして、知らず知らずの内に商工会で働くことを望んでいたのだろう。


 しかし、コンビ結成の場面を見て自分の気持ちに気づいてしまったようだ。そして、俺に背中を押してもらいたかったらしい。その手には乗らないつもりだったのだが、クロエの言う通り結果的には後押しする形になってしまった。


「アタシはサッパリ分からないんだけど、二人で何を通じ合ったの?」

「……何かを決断したら、もう前にしか進めないでしょ? だからオレは色んなことに挑戦してみようかなってこと。じゃ、永介君と交代してくるね」


 置いてけぼりをくらっているクロエに対し、基樹は晴れ晴れとした表情で答えてから屋台の奥へ引っ込んで行った。


「こう、男同士の熱き約束か何かなのか?」

「そんないいもんじゃないから……」


 真っ直ぐな性格をしているクロエにとっては、基樹の説明も湾曲に思えてしまったか。かと言って、俺が補足しながら教えるのも恥ずかしい。そのような理由で暫く返答に窮していると、ようやく基樹と入れ替わりで永介が来た。


「さっきぶりやな」

「いただいてます」

「邪魔するで」

「邪魔すんなら帰って」

「ハーイ! って、くだらんことさすな」


 吉本新喜劇ネタを振ったクロエは満足そうにケラケラ笑う。調子を狂わされた永介はバツが悪そうに頭を掻き、どっしりと縁石に腰を下ろした。


「……随分と祭に馴染んでるな」

「そう見えるか?」

「違うのか? 屋台での料理だって任されるくらいには認められてるんだろ? そう簡単にできることじゃない」


 修学旅行で屋台を食べ歩きしたのも、今日の祭りのための布石だと思っていた。俺たちの中で誰よりも自分の夢に突き進んでいたはずだ。そう思っていたのに、永介は予想外の悩みを打ち明けた。


「実はな、料理人になることは親父から反対されてたんや」

「マジで⁉ なんでよ?」

「それは自分もよう分からんけど、息子には経営者になってもらいたいんやと。元々、親父は料理人になりたくてなったわけやないしなぁ」

「そうだったの⁉」


 いかにも頑固職人のような風貌だったのに、仕方なく料理人になったとは意外な事実である。実の息子に同じ道を歩ませたくない、その真意とは何だろうか? 永介は至って軽く話してくれた。


「親父の故郷は沖縄なんやけど、店を継ぐのが嫌で家を出たらしいんやわ。そんで大阪に行ったら当時のお袋と出会って、なんやかんやで今の地に落ち着いたと。本当の話かどうか知らんけどな。現に姉貴は関西弁やあらへんし」

「それならお姉さんの翼さんに訊けば、親父さんのことが分かるんじゃないか?」

「もう必要あらへん。あの公園の夜に起こった出来事のおかげで、もう自分も迷うことは止めたんや。今こうして祭りに参加できとるのも、そのままの勢いで親父に直談判したからやで? 礼を言うわ」


 まさか基樹だけではなく、永介にまで影響を及ぼしているとは思いもしなかった。でも、実際に行動へ移せたのは彼らの力だ。俺が何かしたわけじゃない。


 だからこそ、俺は褒められたことに対して謙遜するのも忘れ、いつかは友人たちと離れ離れになってしまうことを寂しく思う。


「……永介は天道町に留まるのか?」


 この時、俺はどんな顔をしていたのだろうか? いつも仏頂面だった永介がニカっと笑い、強くもなければ弱くもない力加減で俺の胸を叩いた。


「中学を卒業したら暫くは離れるかもやけど、いつかは戻るって決めとるから商店街は自分に任しとけや」


 俺は実家を継いで商店街に残るつもりは無いのに、やはり生まれ育った故郷が衰退していくのは悲しいという自分勝手な理由で、後のことを全て永介に押し付ける形になってしまった。それでも彼は快く引き受け、俺たちが帰れる場所を守ろうとしてくれている。


 すぐには無理だとしても、俺も絶対に何らかの方法で彼に貢献しよう。そう心の中で誓っていたら、店の方から翼さんの怒鳴り声が聞こえてきた。


「永介! 悪いけど休憩は後にして! お客さんが混雑してきたよ!」

「お呼び出しや。ほな、ゆっくりしてってな」


 永介は頭に白いタオルを撒き直し、威風堂々とした面持ちで屋台へと戻って行った。その背中を見送ると、食事を終えたクロエが膝を抱えたままボソッと呟く。


「……みんな、先のことを見据えているんだね」

「そうか? けっこう行き当たりばったりな気がするけど、今のところはクロエの方が夢の実現性は高いと思うぞ」

「アタシはプロになりたいからバスケやってるわけじゃないよ。高校でもバスケを続ける必要性を感じない。誰かさんのおかげで」


 胸に痛い皮肉である。もしも樹理の言っていたことが本当なら、クロエが今までバスケに熱中できたのは俺がいたからなのだ。ただの自惚れに過ぎないのかもしれないが、俺にできることは一つしか無い。


「……俺の分まで、って押し付けるのは良くないか。でも、俺はクロエがバスケやってるだけで救われた気分になれる」

「本当か⁉」

「ああ、だからクロエは先のことなんか考えなくていい。目の前のことに集中して全力を懸けてくれ。その直向きな姿を見ているだけで、俺は自分が間違っていなかったと、迷いを断ち切ることができるんだ」


 別に推薦入学を否定しているわけじゃないが、クロエにはバスケを強豪校に入るための道具として、打算的に考えて使って欲しくなかった。どんなに辛いことがあっても、みんなでバスケをした楽しさを思い出せるように願う。


「アタシが証明してみせる! だからその時は……」


 クロエが俺の手をガシッと掴んだと同時に、道を歩いていた女の子が転んで泣き出してしまった。母親が立ち上がらせて慰めているのを見て、クロエも勢いよく立ち上がった。


「辛気臭いのは無し! それじゃ、そろそろアタシも戻るね」

「分かった。俺も家の様子を見てくる」

「漫才、楽しみにしてるから」


 クロエは俺たちのステージに期待を膨らませると、絶対に漫才を観に行くという旨を言い残してから、体育館の方へ向かって歩を進めた。


 俺も会場の大体は見回りをしたことだし、漫才の出番がくるまで落ち着ける場所で休んでいよう。自分ん家の店で待っていれば夏澤も来るだろうし、あわよくば精神を集中させておこうという、お気楽な考えで俺は店へ戻ったのだった。


× ×


 我が家の店へ行ったら知らぬ間に修羅場が展開していた。


「バイトなんかサボってよ、俺らと一緒に祭を見て回ろうぜ?」

「そういうわけにはいかないから」

「誰も買わねぇよ、こんなダセェ服」

「買わないなら帰って。はっきり言って邪魔」


 俺は祭へ遊びに来ていた高橋が偉そうに、仕事中の樹理をナンパしている場面に遭遇してしまったのである。


「……何あれ?」


 従業員がピンチだというのに、素っ気なく薊姉はレジ前で本を読み耽っていた。


「あんたの知り合いじゃないの?」

「中心の二人はクラスメイトだけど、そうじゃなくて取り巻きの多さだよ。何あの人数? こんな時まで本なんか読んでる場合じゃないって」


 高橋の後ろには、同じ野球部だと思われる坊主頭が数人いた。あいつらのせいで客入りが悪いというのに、我関せずと薊姉は本の表紙を俺に見せる。


「アラスデア・マッキンタイア『美徳なき時代』よ」

「いや、だから何だよ! 親父たちは?」

「お父さんは車で商品の補充に行ったばかりで、お母さんは婦人会の当番があって今はいないの……」


 役に立たない薊姉に代わり、物陰に隠れていた妹の雫が答えてくれた。ナンパされているバイトの樹理はともかく、引っ込み思案な俺の妹を怯えさせるとは許さん。


「どっちにしろ親父たちが来るまでに片付けないと。あー、行ってくる」


 親父が来るなら中学生くらいは追っ払えるだろうが、大きな騒ぎになってしまえば元も子もない。俺は覚悟を決めて樹理と高橋の間に割り込んだ。


「何かお探しですか?」

「あ? 誰だっけ?」

「いやだなぁ、クラスメイトの村西ですよ!」

「ここ、お前ん家の店?」


 高橋の安い挑発くらいだったら流すのは容易だが、自分が有利な立場だと分かった途端に彼の発する威圧感は脅しとなった。それが本気であると錯覚するくらいには、雲行きが怪しくなってくる。


「そうです。お安くしますよ」

「あっそ。樹理のこと連れて行くけど、いいよな?」

「いやいやいや、そういうわけには行きませんって!」


 自分の利益のために樹理を差し出すことができたら、そもそも俺はここにいない。高橋の横暴に難色を示すと、今度は無造作に胸倉を掴まれた。


「大体よ、なんで樹理に働かせてんだ。ふざけてんのか?」

「何をおっしゃいますか。アンジュさんはオシャレ好きですし、良かれと思って誘っただけですから!」

「何あだ名で呼んでんだよ」


 おっと、キレるところはそこなのか……。近づく高橋の不細工面に凄味が増し、俺の胸倉を掴んでいる腕には力が入る。彼の怒りの矛先が俺へ向かい始めたのを察した樹理は、語気を強くして高橋の前に立ちはだかった。


「いい加減にして。あたしはスタイリストの勉強になるかと思って、手伝いたいから手伝ってるだけなの。何も買わないんだったら、お店の迷惑だから早く帰ってよ」

「……この店ぶっ潰すぞ?」

「やれるものならやってみたら?」


 どうせそんな勇気は無い……。樹理はそう高を括っていたのだろうが、言われて数秒の後に高橋は俺を突き飛ばし、商品棚に手をかけて勢いよく倒した。


「きゃっ!」


 アスファルトの上に劈く金属音が反響し、賑やかな祭りには場違いすぎる不快な音が大きく鳴った。


 会場にいる人の視線が音のした方向へ、そして目立つ数人の坊主頭に集まっているのを感じる。騒ぎの中心である高橋は人々の注目を浴びているにもかかわらず、固い所作で樹理の腕を掴んだ。


「嫌っ! 離して!」


 あいつ自身、どうしたら良いのか分からないらしい。こんな注目する場所で騒ぎを起こせば自分がどうなるか、考えられないほどに追い詰められているのだ。


 しかし、今は高橋に感情移入できるような状況ではない。俺は樹理を助けるため、真っ先に彼へ飛びかかろうとした。


「落ち着け」


 くぐもった声に呼び止められ、俺は寸でのところで踏み止まる。慌てて振り返ると、後ろには着ぐるみを被った夏澤の姿があった。


 落ち着けと言われたって、友達が危険なんだ! そのように夏澤へ抗議しようとしたところで、ちょうどよく巡回していた警察官が悠然と騒ぎへ介入する。


「元気だね。何かいいことあった?」


 警察官の笑顔を見た高橋は慌てふためき、まずは樹理の腕を離して何もしていないことをアピールした。それでも彼は咄嗟に弁明することができず、ただ口をパクパク開いたり閉じたりしている。


「とりあえず事情を説明してくれるかな?」


 高橋では話が通じないと思った警察官は周囲を見渡すが、気づいたら高橋の取り巻きたちはいなかった。そうなれば説明を求める視線は、自然と近くにいた俺の方へ向く。


 暴力事件を起こされる心配事が減ったとはいえ、さらなる悩みの種が撒かれてしまう。それでも贅沢は言ってられないので、せめて漫才の出番までには終わらせようと、俺は諦めて事情聴取に応じることを選ぼうとした。


「どうかしました?」


 俺が警察官に全てを話しかける前に、店主である親父が帰ってきたのだ。警察官は未成年である俺には目もくれず、親父の方へ向き直った。


「この店の責任者ですか? ここから少し騒がしい音がしたものですから、様子を見に来た次第であります」

「ああ、今日は風が強いですからね。商品棚が勝手に倒れちゃったんでしょう。すみません、ちゃんと固定しときます」

「そうでしたか。では、本官はこれにて失礼いたします」

「お疲れ様です」


 二人は二、三回ほどの簡単な挨拶を交わすと、何事も無かったかのように警察官はどこかへ行ってしまった。そして親父は商品棚を基の位置に戻すと、まだ立ち尽くしている高橋に向かって怒気を孕んだ声で言い放つ。


「さっさと消えろクソ坊主」


 その言葉で正気に戻った高橋は、樹理には目もくれず一目散に店から去っていく。あの高橋が逃げ帰る一部始終を目の当たりにした俺は、ただ呆然として肩の荷が下りるよりも、親父が大人の対応で騒ぎを治めたことに対して衝撃を受けていた。


 てっきり俺は親父が来たら面倒事が増えるだけで、絶対に状況が悪化するとばかり思っていた。それなのに当の本人は真面目に仕事へ取り組んでいる。なんだかんだ言って遊びつつも、親父は俺たち家族を養うために働いているのだ。今後は親父のことを少しは信用してもいいかもしれない……。


「だから父さんに任せれば良かったのよ。ま、責めはしないけどね」


 薊姉は分かっていたからこそ、あえて動かずに待っていたのだ。そう考えると、やはり俺の行動は軽率だったと反省しかけたが、薊姉は手に何かを持っていた。


「なんでそれ持ってるの?」


 薊姉が手に持っていたのは、何桁かのメーターを回すことで自由に値段を決められ、それをシールにスタンプしながら商品に貼り付けるという優れものである。要するに、馬鹿でかいホッチキスのような形状だと思ってもらえればよい。


「五十円」


 俺の質問に答えようとする素振りは一切なく、薊姉は俺の頬にシールを貼り付けた。よく見ると、雫も凶器らしきものを後ろ手に隠している。おそらく、いざという時は二人とも殴りかかれるような体勢をとっていたのだろう。なんとも勇ましい姉と妹だ。


「休憩していいぞ嬢ちゃん」


 気を利かせた親父が樹理を休ませる。それなら穴埋めのために俺が店を手伝おうとしたら、捨てられた子犬のような目で雫にお願いされてしまった。


「準お兄ちゃんが介抱してあげて」


 妹の頼み事なら断れない。樹理の腕には高橋に強く握られた跡が残っていたため、俺が急いで濡れタオルを用意している間、マスコットキャラクターに扮した夏澤が彼女をパイプ椅子に座らせて背中を摩っていた。


「もう大丈夫か?」

「うん、平気」

「それならいいけど、もう少し休んでいよう」


 明らかに樹理は元気が無かったが、俺は気休めに慰みの言葉をかける気にはなれなかった。仕方なく何もできずに俺もパイプ椅子に腰かけ、白い雲のように青空の下で流れゆく祭の雑踏を眺めていると、暫くして樹理の方から口を開いた。


「こういう商店街っていいね。なんか人情って言うか、温かみを感じる……」

「そうか? そんないいもんじゃないと思うけどな」


 商店街のオッサンもオバチャンも鬱陶しいし、ご近所付き合いというものは難しい。それに俺は兄貴のことがあってから、すっかり世間体が嫌いになっていた。


「内側にいるから気づかないんじゃない? 地域での関わりが無い外側のあたしにとっては、すごく羨ましい……」


 商店街に住んでいることが羨ましいだなんて、生まれて初めて友達から言われた。だから続けて危うく謙遜しそうになったところ、くぐもった声が隣から聞こえてきた。


「……分かる」

「うわっ! 勝手に喋るな!」


 樹理の意見に共感したのは夏澤だった。さらに彼女はハットをズラし、感動した面持ちで樹理に話しかける。


「ずっとアンジュのことはいけ好かないクソ女だと思ってたけど、まさか私と同じ悩みを抱えていたとは知らなかった」

「……いつか殺してあげる」


 二人の間に固い結束が結ばれるようなことはなかったが、共通する悩みを打ち明けたことで少しは気持ちが軽くなったようだ。


 そして再び険悪な雰囲気になってしまったのを察した俺は、流れを変えようと樹理が高橋に言ったことを思い出す。


「さっき聞いて驚いたけど、樹理はスタイリストになりたいのか?」

「変……かな?」

「変なわけないだろ。樹理は服好きだし、ピッタリな職業だと思う。ちゃんとした夢があるんだったら、コミュニティに関わらず俺は応援するぞ」


 きっと彼女は安心できる基盤を求めているのだろう。だからこそ、生まれる前からある商店街のような人との繋がりを羨ましく感じるのだ。それは違うと否定するでもなく、俺は樹理のことを見ていると伝えた。


「…………」


 樹理は押し黙ったままだ。そして着ぐるみのまま隣に座っていた夏澤が、会場にある大時計を指し示す。そろそろ漫才の本番が近いという合図だろう。


「じゃあ、俺は漫才しに行ってくる。ちゃんと観に来てくれよ?」

「……ありがと。あたしも見てるから」


 俺の気恥ずかしいメッセージが正確に樹理へ伝わり安堵する。そして俺も誰が見ているかは分からないが、自分が他人に見られていることに対して、ここまでの充足感を味わうことは今までになかった。

 そして俺は席を立ってステージへ向かう。


× ×


 ステージ上で本屋の店主がギターの弾き語りをしている間、俺と夏澤の二人は出番まで舞台裏で待機していた。舞台裏と言っても屋外ステージなので外から丸見えであり、緊張して落ち着かない俺は気になっていたことを訊いてみる。


「お前が警察官を呼んだのか?」

「余計なお世話だった?」

「いや、おかげで最悪な事態は回避できた。恩に着る」


 俺を呼び止める声が夏澤であったからこそ、こうして問題を起こさずに漫才ができる準備が整ったのだ。自分でも意外なほど素直に感謝することができた。


「礼を言うのは後にして。もうすぐ出番だよ?」

「それが落ち着かないんだ。ギリギリまで何か話してくれないか?」


 集中したいのは分かるのだが、俺は頭の中でシミュレーションしていると悪いことばかり想定してしまって、肩に無駄な力が入りすぎてしまうのだ。相方である夏澤は俺をリラックスさせるため、俺が興味を持ちそうな話題を振ってくれた。


「……ブギーの好きなインドと関連させるなら、マハトマ・ガンディーは当然の如く知っているよね?」

「当たり前だ。世界で初めて非暴力抵抗の思想を持った人物だろ?」

「そう、民衆暴動を嫌った彼は非暴力を貫いたけども、決して無抵抗主義ではなかった。なら彼は、どのような非暴力抵抗運動を行っていたと思う?」

「ハンガーストライキとか?」


 これは相手が要求を受け入れなければ、自分が餓死に至るという状況に追い込むことで注目を集め、自分の主義・主張を通そうとしたり、それを世に広めたりするのが目的である非暴力抵抗運動の方法の一つだ。


「ガンディーは結果を出した。じゃあ、何の効果を期待してハンガーストライキを行ったんだろう?」

「そりゃあ、政府に対する抗議……あれ?」


 よくよく考えてみたら、相手が餓死するからなんだという話である。そりゃあ、民衆が飢餓に陥るということは政権者の無能を訴えることになるのかもしれないが、それで本当に政策が変わるのか?

 俺が考えている間にも、夏澤は絶えずヒントを出し続ける。


「また別の例を出すと、ベトナム戦争中に一人の僧侶がアメリカ大使館前で焼身自殺を図ったことがある。これは仏教徒に対して政府が高圧的な政策を行ったものだから、それに抗議するための活動だったけれど、一体それに何の意味があったのかな?」


 焼身自殺でさえも抗議運動の一環になるのなら、それはもはや事件だろ。そう思った俺は感想でもいいから、無い頭で答えを捻り出した。


「やっぱり……目立つため?」

「ほとんど正解。もったいつけずに答えを言うと、目立たなければいけないのは世論を動かす必要があったからだよ。まぁ、それをガンディーが狙ってやっていたとは思えないけど、近年では実際に広告会社が紛争を止めたという事例もある」


 ほう、実に興味深い話だ。もっと詳しい内容を聞きたいところだが、惜しむべくは今が本番前だということである。俺の士気はだだ下がりした。


「……よりにもよって、なんで今その話を?」

「いや、私たちが今やろうとしていることって、そういうことなのかなーって……」


 いくらなんでもそれは大袈裟だろ、とは容易に言えなかったのが恐ろしい。だが、夏澤も商店街での祭を通して、自分たちの行動が正しいのかどうか悩んでいるのだろう。

 いつもは気丈なくせして、肝心なところで臆病になってしまう夏澤に対し、とりあえず俺は明確にしておきたいことを言ってやった。


「俺は自分が犠牲になるつもりはないぞ?」


 もうピエロになるのは懲り懲りだ。俺は自分のために漫才をするし、自分の世界を変えるために漫才をする。そのために死ぬような覚悟は待ち合わせていないが、派手に傷つくくらいの覚悟だってある。この世界で誰かがクソみたいな顔をしている限り、俺はいつだって挑戦者になってやろう。


「笑い死にさせるんだよね?」


 さっきまでの弱気な表情はどこへやら。夏澤はコンビを結成した日のことを思い出し、俺の顔を見ながら笑っていた。


「分かってるならいいんだよ」


 人間、何か一つでも答えを見つければ、自分を信じることができるものである。気づけば係員が呼ぶ頃には、俺の心拍数は平常に戻っていた。


「えーと、名前は『SAWAMURA』さんで合ってますよね? もうすぐ出番ですので、よろしくお願いします」


 例え俺たちが生きられない生命だとしても、決して爆発はしない。もし対峙するべき虚空に挑むのなら、俺たちは飛び膝蹴りをかましてやろう。当たれば一撃必殺であり、外せば自滅するだけだが、俺たちは何度でも生き返ってやる。そう願ってのコンビ名だ。


 しかし、それをいちいち人に説明するのは面倒なので、夏澤と村西で『SAWAMURA』という表記にしといた。『FUJIWARA』と似ているのが唯一の難点だが、まぁどうにか定着させるしかないだろう。


 などと余計な事も考えながら、係員の指示に従って俺は右、そして夏澤は左側の階段からステージへ駆け上った。


× ×


 向かい合う夏澤との視線を受け止めてから、俺は勢いよく観衆がいる前を向く。


 きっと俺たちの漫才を観ているのは前の方で座っている人たちだけだろうが、ステージの位置が地面より何段か高いだけあって、公民館駐車場の全体を見渡すことができた。俺たちは多くの人間がいる会場の空気に呑まれないよう、夏澤の方から口火を切る。


「どーもーッ! 初めまして『SAWAMURA』でーす!」

「よろしくお願いしまーす!」

「いざここに立ってみると、お祭りの熱気が伝わってきますね!」

「僕なんかもう、男らしく裸になって暴れ太鼓でもやっちゃおうかな!」

「いや、それはない」


 明るい出だしからの、急に突き落とすかのような暗転に俺の表情が強張る。その顔芸を見て、客席から少しだけ笑いが漏れた。

 そして充分に間を取ってから、夏澤は再び漫才を続ける。


「どれだけ私が今日を待ち侘びていたか。みなさんと会える日を楽しみにしてましたよ!」

「記念に僕が荒々しく歌でも歌いましょう!」

「いらないから」


 二度目の緩急ネタで観客の掴みは良い感じだ。それでも飽きてくるだろう頃なので、ここら辺で話を展開させる。


「ちょっと待てぇ!」

「どうしたの?」

「俺おかしなこと言ったか⁉ 祭には関係することなんだから少しは話に乗れよ!」

「漫才としては、おかしなこと言って欲しかったけどね」

「御尤もだ! どうぞ続けてください!」


 俺の潔い身代わりの早さに、客席からしっかりとした笑い声が聞き取れた。その勢いを殺さないよう、俺はカバディでもするような前傾姿勢で夏澤の反応を伺う。


「えー、本日はお日柄も良く」

「エイヤッ!」

「こうして無事に」

「ソイサッ!」

「みなさんの前に立つことができて」

「エイヤァ、サッサァッ!」

「うるさい」

「へごっ!」


 夏澤の台詞に合わせるよう、大声を出していたら頭を叩かれた。次に胸倉を掴まれ、至近距離で問い詰められる。


「だからさぁ、何がしたいわけ? 私に何を期待してるの?」

「いや、ツッコミに愛が無いっていうか……」

「はぁ? もう一回言ってみろ」

「ツッコミに愛が無い!」

「いい加減にしろ。どうも、ありがとうございましたー」

「早い早い早い! まだ始まって一分くらいしか経ってないよ!」


 勝手に締めようとする夏澤のボケに対して俺がツッコんだその時、初めて客席から大きな笑い声が巻き起こった。突然の笑い声に気持ちが押されないよう、夏澤は構わず淡々と漫才を再開する。


「で、私にどうしろと?」

「愛をください」

「愛? 愛って何?」

「例え俺のボケがしょーもないことだったとしても、それを拾って面白くさせるのがツッコミってもんだろ! ツッコミってのは愛そのものなんだよ!」


 俺が長台詞を喋っている間に、鼻歌を歌い終えた夏澤は言う。


「……あんた、あの娘の何なのさ?」

「港のヨーコ! ヨーコハマ・ヨコスカーっ! って、何やらせんだ!」


 懐かしのダウン・タウン・ブギウギ・バンドのネタをやったら予想以上に大ウケした。押し寄せる笑いの波に耐えながら、さらに夏澤は漫才を続ける。


「愛じゃないの?」

「否定しにくいから止めろ! 真面目に俺の話を聞け!」

「漫才なんだからボケてよ」

「御尤もだ! でも、人間てのは合理的に片付けられないんだよ!」

「今この状況が不条理だしね」

「どういう意味だ! いいか、現代社会で魂が救済されることはない! 既に神の威光が凋落した今、自分が生きる理由は自分で見つけなければいけない! その中で俺は自分が自分らしく生きるために、ただ理想を追いかけたいだけなんだ!」


 俺の長台詞が言い終わってすぐ、中腰になった夏澤は扇子を持ったような手振りで、緩やかに踊り始めた。


「人間~~五十年~~♪」

「さぞ意味ありげに『敦盛』の一節を謡い舞うな! 俺の思想が無情だと言いたいのか⁉」

「要するに、承認されたいってこと?」

「ぶっちゃけるとそうです! 次からツッコミお願いします!」

「……あんた、あの娘の何なのさ?」

「港のヨーコ! ヨーコハマ・ヨコスカーっ! って、何やらせんだ!」


 まさかの天丼ネタである。やはり一度ウケると客の反応が良い。ここぞという時に何度でもやりたくなる。


「それは愛じゃないよ」

「なんだってぇ⁉」

「それは、愛じゃないよ」

「二回も言うな! そんなわけないだろ! いいか、俺たちは自分の生を肯定して生きなければならない! 意志こそが人を自由にするのだ!」

「口調が変わってない?」


 そう言うと、夏澤はステージの隅っこでウォーミングアップを始める。俺はその姿にわき目を振らず、意識高い系キャラの長台詞を言い放った。


「神は死んだ! 我々が神を殺した! スピリチュアルからのヒューマニズムこそ、生きていることを実感するのだ! 紳士淑女よ、超人を目指せ! ルサンチマン塗れの家畜共を駆逐しろ! ニーチェ最高! フォーッ!」

「落ち着けぇ!」


 狭いステージで助走した夏澤の飛び膝蹴りを脇腹に受ける。尻もちをついて痛みに悶絶しながらも、俺は半分笑ったような顔でリアクションした。


「おうわぁ! 何すんだ!」

「自分が生きるために敵を見い出そうとするな! そんなことをしても自分が死にたくなるだけだぞ!」

「なんだってぇ⁉ それじゃ俺は自分らしさが自分で分からないじゃないか⁉」


 飛び膝蹴りで見た目のインパクトは与えたものの、終盤で客席がドン引きしているのを空気で感じる。


 しかし、このことを俺たちは伝えたかったのだ。どんなに自分の本質が傷つけられようとも、どんなに不安で生きやすさを求めようとしても、それは現実への逃避にしかならない。むしろ、返って生き辛い世の中にしている。


 社会問題の解決方法なんて分からない。それで魂が救済されるかどうかなんて知ったこっちゃない。だけど、それでも俺たちはこのままじゃいけないってことに気づいている。後は俺たちの生きようとする意志が、知らない誰かへ伝わるように……。

 夏澤は俺に背を向け、空を見上げながら台詞を言う。


「ありのままじゃいられないってことさ……」


 尻もちをついていた俺は立ち上がり、夏澤に向けて握り拳を突きつけた。


「でも、愛は感じたぜ」


 ヂュヂュン、ヂュンヂュンヂュヂュン!


「……あんた、あの娘に惚れてるね?」

「港のヨーコ! ヨーコハマ・ヨコスカーっ! いい加減にしろ」

「どうも、ありがとうございましたーッ!」


 客席に向かって深いお辞儀をすると、観客たちから盛大な拍手が送られる。

 やり終えたという達成感と、やり終えてしまったという感傷に浸りながら、俺たち『SAWAMURA』はステージから退場したのだった。


× ×


 ステージから降りると、親しき友人たちが出待ちしていた。


「面白かったよ! 最高!」


 誰よりも先に漫才の感想を言ってくれたのは基樹だった。

 あんな漫才をしておいて俺たちは、一体どのように評価されるのか内心では冷や冷やしてしたのだが、まるで絶賛するような高評価を受けてモチベーションが上がる。


「あれ本当に自分たちで考えたの?」


 そこに冷や水を浴びせかけたのは樹理である。


「いや、あれは昔のバンドからインスパイアを受けたもので……」

「パクリ?」

「滅相もありません! オマージュでございます!」


 俺は誤解が生まれないように訂正したのだが、なんだか自分で言っていて胡散臭いことになってしまう。案の定、こちらへ樹理が疑いの眼差しを向けていると、興奮冷めやらぬ基樹が俺の代わりに説明してくれた。


「そうだよ樹理ちゃん! あれはオレたちのスタンツから脈々と受け継がれてきた、擬音コントの一環に違いないよ! だから野暮なこと言うな!」


 言われてみれば、基樹の考えている狙いは的を射ていた。実はネタ作りは夏澤に一任しているため、俺に擬音コントの意識は無かったのだが、そういうことにしといてやろう。


「悪かったわねぇ……」

「すみません言い過ぎました!」


 樹理が基樹の首を絞めるのも、もはや見慣れた光景となりつつある。誰が止めるでもなく、クロエは明るく会話を続けた。


「こんなこと言ってるけど、樹理なんか誰よりも大声で笑ってたぞ」

「そ、そんなことないし!」


 笑い上戸である樹理に馬鹿ウケされても、素直に喜べない複雑さが心で渦巻く……。その心情を察してくれたのか、永介はフォローに回る。


「まぁ、ええんやないか? 年齢層に関係なくノリでウケてたみたいやし、こんな町内のイベントで気にする奴らもいないやろ」

「良いこと言うね」


 今の永介の意見は、ネタ作りをした夏澤の思惑通りだったらしい。頻りに彼女は満足そうに、何度も頷いていた。


「それにしても、すごく面白い夫婦漫才だった!」


 ふざけたことを言う基樹に対し、すかさず往復ビンタでもやろうとしたら、俺よりも先にクロエの手が彼の頭を鷲掴みにしていた。


「は? 何か言ったか?」

「いや、だから夫婦漫才は面白いって……」

「まだ懲りてないみたい」


 笑顔を固めたまま樹理は基樹の肩に手を置く。


「誰か助け――!」


 哀れ基樹は助けを求めるも最後まで言えず、クロエと樹理の二人に連れ去られてしまった……。取り残された永介は後ろ頭を掻きながら、あっけからんと言う。


「そんじゃ、仕事を抜け出して来たから自分は店に戻るで。二人は祭のこと気にせんと、後はゆっくり休んだらどうや?」

「ありがとな」


 永介の気遣いに感謝すると、彼は俺たちから背を向けて去るのかと思いきや、また振り返ってから取って付けたように告げた。


「あ、それと、漫才おもろかったで」


 非常にあっさりしすぎていて、言われた方は苦笑しかできない感想を言い残し、今度こそ永介は仕事場に戻って行く。


 もう出番も終わって日も暮れそうな時間帯に、俺と夏澤は舞台裏から祭の喧騒が静まっていくのを眺めながら、かすかな漫才の余韻に浸っていた。


「いっそのこと、みんな悪人だったら良かったのに……」


 そうしたら楽だったのにと、後に続きそうな感慨深さで夏澤は消え入るように呟く。


 以前の夏澤は教室を爆破しようと企むほど、暗く破壊的で過激な思想の持ち主だったのだが、それはこの世に未練が無かったゆえの最終手段だ。きっと漫才も批判されて当たり前くらいの覚悟で臨んでいたのだろう。


 しかし、おそらく夏澤は学校と言う枠を飛び越えたことで、商店街のイベントに集まった様々な人たちと触れあい、すっかり特有の毒気が抜かれてしまった。


「残念だったな。そう簡単に死ねなくて」


 俺は夏澤を正義の執行人にはさせないし、ましてや悪者にもさせない。いつだって一緒に漫才という手段を用いて、どいつもこいつも笑い死にさせてやろう。そして生き返らせるための困難は共に背負おう。


 そう心に誓った途端、ふと俺は基樹の夫婦漫才と言う発言を思い出す。それまで二人の間には不思議と心地良い空気が流れていたのだが、つい俺は夏澤のことを異性として意識してしまい、すぐに不純な考えを取り消せる言葉を探した。


 隣に立つ相方の異変に気づいたのか、夏澤は何も言わずに俺の手を握る。


 その時に気づいてしまったのだ。ああ、やはりこれは恋愛感情などではなく、それ以上か同等の関係だということに。かと言って姉や妹のような家族愛でもない。これは俺が漫才の相方として夏澤を確かめることができ、それが可能な限りは永久に朽ちない絆の形だ。


 安心した俺は夏澤の手を握り返しながら、再び終わりゆく祭の中で輝く人たちを見つめる。この日を決して忘れないように……。


「もし私の世界が変わったと言うのなら、それはブギーが最初に話しかけてくれた時からかもしれない」


 結局、理不尽な世の中は何も変わらず、いつまでも生きる理由は空虚のままだ。それが良いとは一欠けらも思わないが、だからこそ俺たちは前へ進める。

 さぁ、これからどこへ行こうか?




エピローグ


 祭の日から一か月後の七月中旬。

 苦痛でしかなかった学期末のテストが終了し、夏期講習まで受験生としての意識が中だるみしていた頃、失踪中の兄貴から一通の手紙が届いた。


 震える手で文面を読むと、どうやら兄貴は渡米してアメリカを横断している真っ最中らしい。なんでも、キャバレーとかで演奏しながら食い繋いでいるから、安心して俺がビッグになるのを待っていろ、という馬鹿げた内容が書かれてあった。


 こっちは現実味が無さすぎて固まったというのに、手紙を読み終えた親父は大爆笑している。ついに兄貴の奇行で頭がイカレてしまったのか。どうして笑っていられるのか心配して訊くと、流石は俺の息子とのことだ。


 若かりし頃の親父も店の後を継ぐ際に、経営方針で祖父と喧嘩したことがあるらしい。今でこそ祖父は寝ぼけた顔をしているが、昔は店の伝統を重んじる頑固爺だったのだ。それに反発した親父は思いついたまま家を飛び出し、独自の仕入れルートを確保する修業の末に祖父を納得させ、呉服店を洋品店に改装するのに成功したのだという。


 まるで武勇伝のように親父は語っていたが、なんだかんだで期待していた店の跡取り息子がいなくなって寂しいのだろう。語り終えた後の笑いには力が無かった。


 しかし、次男である俺も店の後を継ぐつもりは無い。どうにできない罪悪感を抱えていると、妹の雫が店を継ぎたいと申し出たのだ。ただし大衆向けの洋品店としてではなく、あくまでも専門的な仕立屋としてである。


 どうして仕立屋なのか理由を訊くと、部活で一緒だった樹理と祭で意気投合し、自分たちでデザインした服を制作しようという話になったらしい。それで実際に一カ月の間で服を制作してみたら、予想以上に出来が良くて楽しかったそうだ。


 俺は当面の後継ぎ問題が解消したことよりも、妹が樹理を誘ってくれたことの方が何倍も嬉しかった。あまり自己主張してこなかった雫の熱意に当てられ、親父も子どもたちに好きなことをやって欲しいと快く聞き入れたのである。


 で、その樹理はと言うと、既に進路を服飾系の学校に決めていた。人気の高い私立高で学費も高いため、一部の授業料が免除される推薦枠を狙って、俺の母親から裁縫を教わりながら目下勉強中である。


 夢に突き進んで行く従姉弟を傍で見ていた基樹は、いてもたってもいられずにビデオカメラを持って外を出歩いていた。その撮影対象は町や学校の風景だったり、俺たちの会話だったりと、バラティ番組のように様々だ。


 事あるごとにカメラを回すものだから、受験勉強はしなくていいのかと訊いたら、彼は転校する前から成績優秀者だったらしく、地元の商業高校くらいだったら余裕で入れると豪語するのだった。


 それでも志望校を変えるかもしれないから、とりあえず夏休みに帰省して両親と相談するそうだ。夏休み中は基樹と遊べなくなってしまうが、一時的な別れだと思って俺たちは笑顔で彼のことを見送った。


 永介は中学を卒業したら料亭へ修業しに行こうと考えていたらしいが、それでまた親父さんと大喧嘩した末、仕方なく料理学校へ進学することを決めた。


 なんでも料理学校へ入学するためには厳しい審査があるようで、今から実技試験に向けての対策に専念している。実際に夏休み中は遊ぶ暇を惜しむほど、つきっきりで親父さんと実践的に調理を学ぶ姿を目撃した。


 その様子を見ている限りでは、なんだかんだで永介は親父さんのことを尊敬しているのだろう。母の貴子さんと姉の翼さんも含め、今や釈迦戸家は商店街になくてはならない存在となっている。


 クロエは中体連の女子バスケットボール関東大会で、なんと優勝するという快挙を成し遂げた。今では強豪校からスカウトされるくらいの選手にまで成長し、地元の新聞メディアに取り上げられるくらい有名になった。


 しかし、彼女はその誘い全てを断り、八月下旬の全国大会に向けて精神を集中させている。それは彼女が未来ではなく、今に全力を懸けている証拠だ。もはや誰からの批評も気にすることなく、自分の信じた道を進めることだろう。


 夏澤はクロエの母親である、ナオミ教授の講義に甚く感動したらしく、週一のペースで国府台宅に行っては講義を受けていた。前に一回だけ俺も付いて行ったのだが、正直に言うと話が難しすぎて内容の半分も分からない。それでも彼女はナオミ教授のことを師匠と呼ぶほどに心酔しているのだ。


 別に夏澤が文化人類学を学んで楽しいと思えるのなら、漫才の相方として温かく見守って行こうというスタンスだったのだが、よりにもよって彼女は俺の兄貴が中退した高校へ進学したいと言い出したのだ。


 その学校に行った方がナオミ教授のいる大学へ行きやすいという、至極真っ当な理由であっても、俺は一緒の高校へ入学することを断固として拒否した。


 というか、そもそも俺の内申書は悪いし、夏澤のように成績は良くないし、きっと兄貴のせいで学校側からの印象も悪いだろう。それなら俺はランクが一つ下がろうとも、薊姉がいる雰囲気の良い高校へ行きたい。


 それでまた俺の部屋で醜い言い争いが発生したせいで、騒ぎを聞きつけた薊姉が怒鳴り声を上げながら乱入してきた。俺たちは説教されて反省するついでに、薊姉へ進路について相談してみたのだ。


 受験生の相談に応じた薊姉は、自分のいる高校がどれほど良いのかアピールするよりも、漫才を続けたいのなら兄貴が中退した高校は止めておけ、という忠告を言い残してから部屋を出て行った。


 その後すぐにインターネットで学校のホームページを検索してみたら、なるほど確かに兄貴が中退した高校は、年間の授業シラバスが大変なことになっていた。


 甘酸っぱい学校生活が勉強だらけで終わりそうな、高度すぎる授業内容に辟易していると、あっさり夏澤は俺と同じ志望校に進路を変えたのである。


「暑い……」


 夏休みも八月に入って太陽の日差しが日に日に厳しくなっていく中、クーラーの無い教室で午前中の夏期講習を終えた俺と夏澤は草臥れ、まるでゾンビのように涼みを求めて図書館へ向かっていた。


「この後は暇?」


 もう図書館は目の前だというのに、夏澤は立ち止まって余所見をしていた。俺は無視して置いて行こうと思ったが、一応は相方なので振り返る。


「特に予定はないけど、なんで?」

「ネタ合わせしよ」

「はぁ? んなことやってる場合かよ」


 ただでさえ俺は志望校の偏差値がギリギリであり、日夜勉強漬けの毎日なのだ。一緒に勉強しているとはいえ、夏澤の気まぐれに付き合う余裕は無い。


「これ読んで」


 夏澤が見つめていた建物の壁にはポスターが貼られており、ジュニア漫才コンテストなる企画の概要が書かれていた。


「へぇ、こんなイベントがあるのか……」


 町内会の祭りよりかは規模が大きい上に、同世代の奴らと漫才で競えるというのが面白そうだ。受験勉強の疲れとストレスを発散するには絶好の機会だろう。


「出場してみる?」

「当たり前だ」

「じゃ決定。締め切りは……今日?」


 大会が開かれるのは一週間後だが、その受付期限は今日の午後一時までだった。しかも受付できる場所が地元のローカルテレビ局であり、今いる図書館から歩いても三十分以上は時間がかかる。


 さらに夏期講習が終わって学校を出たのが正午過ぎだったため、もう時計の針は十二時半を通り過ぎていた。


「マジかよ! これ間に合うのか⁉」

「いいから、速く走れ!」


 一目散に駆け出す夏澤の後を追い、慌てて俺も走り出す。俺たち二人は照りつける太陽の直射日光を跳ね返すくらいの勢いで、生まれ育った町の中を疾走したのである。


 そういえば夏澤との漫才を経験した後で、薊姉が俺に青春小説を立て続けに読ませた理由が判明した。


 どうして漫才をした後で分かったのかと言うと、漫才をする前と後とでは決定的な意識の違いがあったからだ。その意識の違いとは、いくら青春小説を読んだとしても、内容に対して面白いと感じることが減ったことである。


 なぜなら、その書いてある内容は結局のところ他人の話だからだ。どんなに感動したとしても、読み終わった後には現実が待っている。どれだけ魅力的な世界観にのめり込んだとしても、自分は物語の登場人物になれない。


 だからこそ、あえて言わせてもらおう。

 これは俺の物語だ。


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生きられないサワムラーの飛び膝蹴り 笹熊美月 @getback81

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