第4話 修学旅行2

 俺の感覚ではやっとホテルに着いたと思ったのだが、時刻はまだ午後五時である。時間に余裕のある修学旅行二日目にしては、少し早目のチェックインだ。その理由は教師の説明によって判明する。


「本日の夕食は午後六時からですが、みなさんには夕食を食べ終わった後にスタンツと呼ばれる即興演劇を、班ごとに十分ほど披露してもらいます。制限時間は今から夕食の時間も含めて二時間後です。それでは、班のメンバーと良く話し合って頑張ってください」


 もう今日の日程は終了したと思い込んでいた生徒たちは、突然のグループ課題を出されて一斉にどよめく。俺もその一人だ。


「なんか厄介なことになりましたねぇ……」


 俺たちはクラスのはみ出し者同士で構成された班である。交友関係の広い他の班とは違い、アットホームな雰囲気で楽しくスタンツをするなど無理難題だ。むしろアウェイであり、俺は話し合う前から針の筵に座った気分だった。


「粋なことするなぁ。とりあえずアタシらの部屋に来なよ」


 衝突事故があってから借りてきた猫のように大人しかった国府台は、いつものサバサバした調子を取り戻したようだ。少し強がっているようにも見えるのが気がかりだが、明日にでもなればサッパリ忘れているだろう。


「え、女子の部屋に入っていいの?」

「何興奮してんの? キモいし。あたしたちは三人部屋なだけだから」


 朝に喧嘩していた二人とは思えないほど、安瀬家も平常運転である。あの丘の上で何があったのか、いつかは聞き出してみたいものだ。


 他の班の生徒たちがロビーから移動し始める。俺たちも国府台の提案に乗ることにし、そのまま女子三人の部屋へ移動したのだった。


「メッチャ綺麗っすね!」

「散らかすような女に見えるか?」

「いや、内装の話ですよ?」


 恥ずかしい天然ボケをかます国府台はさて置き、女子部屋は洋風でモダンな雰囲気が漂うリラックス空間だった。監獄のような畳敷きの男子部屋とは違い、洗面台や内風呂まで設置されている。同じ積立金で、この待遇の差には問題があるぞ……。


 窓際にあったテーブルと椅子をベッドの間に置くことにより、六人で話し合える体裁が整った。最初に口火を切ったのは釈迦戸である。


「スタンツ言うても、要はコントみたいなものやろ? ダンスの練習をする時間も無いことやし、どの班もウケを狙いにくると思うで?」

「ウケを狙いにいって滑ったら寒いどころか、下手したら爆死だからね。一生もののトラウマになると思うよ……」

「そうすると普通に演じるんじゃなくて、設定を工夫して見ている人にも分かりやすいものが求められるわけか」


 基樹と国府台は冷静に的確な分析をする。しかし問題なのは、どのようにしてコントの設定を工夫するかである。誰もアイデアが閃かずに押し黙っていると、珍しく樹理が自発的に意見を言った。


「……悪口とか?」


 いつも女子と男子の悪口を言って楽しんでいるわけね……。身内ネタ全開の意見だろうと、アイデアはアイデアである。他人の考えは尊重しなければいけない。


「ブレインストーミングにしましょう。誰の意見を否定するわけでもなく、どんどん思いついたアイデアを自分から列挙していくんです」


 行き詰って辛気臭い空気になるのを改善するため、みんなは俺が提案した話し合いの進め方に賛同してくれた。口々に思いつきの意見を言う。


「殺陣」

「客いじり」

「性転換した上での合コン」


 国府台のは時代劇だし、釈迦戸のは売れない芸人みたいだし、基樹のは趣味がマニアックすぎてドン引きだ。頭でブレインストーミングだとは分かっていても、実践するには難しい使えないネタばかりだ。

 しかし、俺はみんなの意見を収束させる画期的なアイデアを閃く。


「それなら二人一組になって、片方が相方に指示を出すと、指示を出された相方はその通りにに動くゲーム方式なんてのはどうですか?」

「どうゆうこと?」


 樹理が疑問符を浮かべる。確かに見たことがない人には分かりにくいかもしれない。俺はもっと噛み砕いて説明することにした。


「ゲームのコントローラーみたいなものですよ。舞台裏に隠れた片方がストーリーの台詞を言って、あたかも舞台上にいる相方が演じているように見せかけるわけです」


 これならみんなの意見を参考にしつつ、個人でやりたかったことをスタンツに反映することができる。これはアドリブが前提であるスタンツだからこそ光る方法なのだが、まだ国府台はイメージしにくいようだ。


「やって見せなよ」

「じゃあ、永介君に手伝ってもらいましょうか」


 百聞は一見しかず。俺は釈迦戸に協力してもらい、彼に向けて台詞を発した。その台詞に合わせて彼も演じる。


「しまっていこうぜぇ!」


 まるで野球部のキャプテンであるかのように、彼は両手を上げて全体を見回すようなしぐさをする。そしてキャッチャーのポジションでミットを構えるなど、演じる側にもオリジナルの要素を盛り込んだりもできる。


「太陽拳!」


 釈迦戸は前屈みになり、両の手の平を頭部に添える。この辺りでみんなも段々と趣旨を理解してきたようだ。次は笑いを取ってみせるぜ!


「あー、暑い。暑すぎて下半身が蒸れてきたなぁ」

「…………」


 ちょっと遠回しな表現だったろうか? 釈迦戸は俺を睨んで台詞の通りに動こうとしない。本番でミスされると困るため、意志疎通するための演技指導をする。


「そこは脱がなきゃ駄目ですよ」

「ストリップショー⁉」


 国府台が自意識過剰に被害妄想を訴えた。人々から笑いを取るためには体を張らなければいけない。それは決してエロ目的などではなく、人々を笑顔にしたいがための自己犠牲なのだと分かって欲しい。


「いやいや、女の子に対しては紳士に接しますから。ご心配なく」

「早く脱げ雌豚ぁ!」


 一人で妄想を加速させた基樹が唾を吐き捨てるように樹理へ命令し、コンマ数秒の後に顔面を本人に殴られていた。何度失敗しても学習しないバカのせいで、俺の言葉も薄っぺらいものとなってしまう。


「却下ぁ!」


 怒り心頭している樹理の鶴の一言により、俺の案は永遠のお蔵入りとなった。また議題が振り出しに戻るのかと思いきや、静観を決め込んでいた夏澤が意見を言い出す。


「私に秘策があるよ」


 今まで一言も発しなかったのは、ゲームに負けて機嫌が悪かったからではないらしい。夏澤なりに一生懸命アイデアを捻り出していたようで安心した。


「そんなもったいつけないで、早く教えてくださいよー」


 俺が下手に出ながら催促すると、夏澤は自慢げに言った。


「擬音」


 いや、擬音だけ単語で言われても反応に困ってしまう。無音の中で夏澤は班の視線を惹きつけてから、今度は授業でもするように語り出した

「近年の就職活動において、企業が学生に求めるスキルは何だと思う?」

「英会話とかやろ?」


 釈迦戸が即座に答える。


「惜しい。それもあるけど、一番はコミュニケーション能力なのだよ。対人とのコミュニケーションにより、人間関係を円滑に進めることが求められるわけ。だから私は反コミュニケーションとして、全ての会話を擬音で表現してみたい」


 面白い試みだ。似たようなのに『ロゴラマ』という、フランスで制作された短編アニメーション映画がある。内容は登場人物を有名企業のロゴや、企業の人気キャラクターで表わしているロゴの集合体である街の物語だ。この作品は記号で埋め尽くされている人間社会を巧みに表現し、高い評価を得て数々の賞を受賞した。


 もし夏澤がコミュニケーションに用いられる記号として、擬音を通して現代社会を表現したいのであれば、それはただ学校での出し物という枠を超えて、何か社会へ訴えかけるような情熱を感じる。


「でも、それは伝わらなきゃ意味がありませんよ?」


 どんなに高尚な意図があろうとも、観客に興味を持たれなければ押し付けがましいだけだ。時代の流れを泳ぎながらも逆らうように問題提起をして、観客に課題と向き合わせることが重要なのである。


「じゃあ、舞台は教室に転校生が来たという設定にして、そこに常人の視点を加えよう。これなら見ている人も楽しめて共感できるかもしれない」

「それなら実際に転校生の基樹が存在することですし、現実とリンクさせても面白いかもしれませんね」


 これは面白い事になってきたぞ。無自覚な自己顕示欲を惜しげもなく晒す生徒たちに対し、彼らの鼻を明かすチャンスになるかもしれない。俺は絶句している生徒たちの光景を想像し、静かに闘志が燃え上がっていた。


「ちょっと、二人は理解できてるかもだけど、あたしたちは何も分かってないから! ちゃんと説明して。ね?」


 樹理だけでなく、他の三人も首を傾げているようだ。それなら今度は夏澤と協力して、二人で役割担を決める。


「さっきと同じように実践してみますか?」

「私が転校生ね」


 そうすると俺が擬音を駆使する生徒の役か。何をもってして擬音とするのかは曖昧なため、ここは実験的に挑戦してみよう。俺がどうしようか段取りを考えていると、さっそく夏澤は演技を始めた。


「あー、緊張する。新しいクラスには素敵な人がいるかなぁ?」


 普段の夏澤からは想像できないほど健気な少女である。練習であっても本気で取り組む彼女の姿勢を無駄にはできないため、俺も応えるように腹を括った。


「ウェーイ!」

「うわ、意識高い系のウザそうなのが来た」


 たった一言でキャラを如実に表せている。この場合は俺がボケで夏澤がツッコミなのだろう。あまりボケるのは慣れていないが、こうなったら自棄だ。俺は体を張って意識高い系の男を演じ切ってみせる。


「ウェイウェイ、ウェウェウェイ! ウェウェウェウェイ!」

「なんかリズムに乗ってきたよぉ。これ話しかけられてるのかな?」

「それな!」

「何が? これって肯定?」

「ゆーてもワンチャンあるっしょ? ワンチャン!」

「ワンチャンって何? 何語?」

「お疲れー」

「いい加減にしろ。……こんな感じ」


 一通りやってはみせて、俺は確かな手応えを感じた。笑いを堪えていたのはギャグセンスの無い樹理くらいだったが、残りはニヤニヤしている程度の半笑いであり、決して反応が薄いわけではない。


「まぁ、悪くはないな。準の案よりかは十倍マシ」

「キャラ付け次第ってところやな。個性も出るし、ええんとちゃう?」


 国府台と釈迦戸の許可が出たところで、俺たちはコミュニケーションをテーマに擬音コントを披露することに決定した。


× ×


 晩ご飯を食べ終え、いよいよスタンツの時間がやってきた。時間の都合上クラス別に行うらしく、それぞれ違う大部屋へ移動する。そして班ごとに演目の順番を決めるため、夏澤が代表してクジを引いた。


「何番目でした?」

「大トリ」


 よりにもよって、一番観客の期待が高まる位置に、俺たちはスタンツを披露することになってしまった。これは運が良いと言えるのだろうか……?


「プレッシャーだよぉ……」


 演じる生徒のキャラ付けは会議の段階で決めておいたため、俺たちのスタンツは転校生役の基樹に懸かっている。彼のツッコミ次第でボケが生きるのだ。

 主役が背負う重圧に同情していると、教師が本番前の説明を行う。


「代表に配られたアンケート用紙は行き渡りましたか? その紙に演目を披露する班の順に番号を振り分けて、自分が一番面白かったと思う班に丸を書いて投票してください。見事一位になった班には、先生たちから豪華景品を提供します」


 豪華景品というキーワードに、生徒たちから大きい歓声が上がる。今まで乗り気でなかった態度の生徒も、豪華賞品のためという名目を得て目の色を変えた。なんだかんだで盛り上がりそうである。


「それではトップバッターの一班からです。どうぞ」


 紹介されて前へ出てきたのは後藤だ。彼らの班はクラス内でのムードメーカーを自称しており、無自覚な自己顕示欲と自己承認の欲求が強い。それでいて勉強も運動もビジュアルも平均的な彼らは、実は劣等感が強くて非常に他人からの視線を気にする傾向がある。


 俺は友情より世間体の方を優先するのが嫌で、最近は彼らと接するのを避けていた。彼らと話したり遊んだりした過去を振り返ると、どうしても人としての偽物っぽさが拭い切れなかったのだ。


 周りからどのように見られているのか、不安でしょうがない後藤たちのスタンツは、中途半端に照れがあったせいで寒いギャグを連発していた。たまに仲間をいじる毒舌ネタがあるくらいで、俺は全く面白いとは思わなかったが、他の生徒たちの反応は上々である。


 彼らが面白くない理由は、承認欲求が強いくせに他人を軽んじる癖があるからだ。つまり、ウケを狙うのは誰かを笑顔にしたいからではなく、自分が面白いと周囲に評価されたいだけなのである。お笑いを自身のアクセサリー程度としか思っていない彼らに、誰かを心の底から笑わせることなんてできない。


「次は二班の出番です」


 後藤たちの班と入れ替わりで前へ出てきたのは、我がクラス委員長たちだった。彼らの班の印象は地味だ。とにかく暗く、そして重い。不気味さなら夏澤と基樹も負けてはいないが、委員長たちには軽さが無い。どんなに些細な冗談だろうと彼らは本気で受け取ってしまうため、クラス内では割れ物注意の扱われ方である。


 そんな彼らがスタンツで披露したものは、まさかの人狼ゲームだった。人狼ゲームというのは、村人を襲う人間に扮した狼を退治するために、村人たちが協力して人狼を当てるパーティ心理ゲームである。


 スタンツで人狼ゲームをやる狙いは悪くないが、それを外から見て面白いと思えるのは親しい人、もしくは芸能人などがプレイするから共感して楽しめるのだ。妹にせがまれて何回かプレイした経験上、これは口達者でないと純粋な魅力を引き出せない。全体を把握するための状況説明と、人を疑う際の駆け引きが重要なのである。


 しかし、彼らはサークルを作って内へ、内へと意識を集中させすぎてしまっていた。俺たち観客の方を見ようとはせずに、気の利いたトークを聞かせるわけでもなく、特に盛り上がることもないまま制限時間になる。


「……ねぇ、気づいてる?」


 二班が退場している時間の合間に、こっそり夏澤が俺へ耳打ちしてきた。俺は後ろを見ないようにして、予想していることを簡潔に答える。


「……カメラですか?」


 部屋の後方には、三脚で立てられたホームビデオカメラが設置されているのである。教師はカメラについての説明をしていないのだが、誰もそのことについて質問しようとはしない。撮られていることに抵抗はないのだろうか?


「そう、これわざわざ撮影してるってことは、ただの余興じゃないのかもね」

「まさかぁ、考えすぎですよー」


 そう口では誤魔化していたが、俺は確実に嫌な予感がしていた。用意周到なアンケートといい、ビデオ撮影といい、これ絶対に明日クラスの代表班での二回戦があるよ!


 なぜオーディションのようなことをやらされているのか分からないまま、俺は戦々恐々と震えていると、そんな気持ちなど知らない担任は次の班を紹介する。


「次は三班お願いします」


 三班は真面目な良い子ちゃんグループだ。あえて別の言い方をするのなら、大人が期待する通りに動く機械的な優等生である。学校生活では面白味に欠ける印象を持っていたのだが、彼らはスタンツでも優秀だった。


 彼らは童話を基にしたオリジナルストーリーを作成し、それぞれ有名なキャラクターを演じながらスタンツを披露しているのである。所謂、今流行りの二次創作だ。誰もが知っているキャラは共感を得やすく、さらに現実とのギャップから笑いを誘っている。


 今まで二次創作と言えば個人での活動が大半を占めていたのだが、現在では大手の会社も積極的に二次創作へ乗り出している。大手携帯会社のCMが人気一位に輝いたのも、それぞれ主役級のキャラクターを共演させたことが要因だろう。


 なぜ二次創作が人気なのかまでは不明だが、もし彼らがそれを狙ってスタンツの内容を決めていたのだとしたら、相当な策士である。優等生は面白味に欠けるという印象を、今後は改めなければいけない。


 三班の発表が終わった今のところは、彼らが一番の人気だろう。クラス内でのレベルが決して低くないことに安堵し、俄然やる気が湧いてくる。


「次は四班です。どうぞ」


 やる気が一気に萎んだ。四班は高橋が率いるイケているグループ筆頭である。男子は寸胴短足でゴリラみたいな顔と体格をした野球部二人と、サッカー部の爽やかイケメンが一人いる。そして女子は樹理の友達であるゴテゴテした三人で構成されており、もうスタンツを披露する前から観客に対する威圧感が凄まじかった。


 とはいえ、いつも威張っている彼らが何をするのか興味はある。意外に緊張している様子はなく、高橋は憎たらしい表情で発表を始めた。


「それでは第五十回、リアクション王座決定戦を開催しまぁーす!」


 どうやらテレビのバラエティ番組のような形式らしい。高橋と一人の女子が司会進行役であり、女子の方がカンペを見ながらルールを説明した。


「ルールは簡単。それぞれチームに分かれてゲームを行い、誰のリアクションが一番面白かったのか審査します」

「さっそく一回戦は激辛シュークリームだ! 両者、前へ出てください!」


 高橋に呼ばれて出てきたのは、もう片方の野球部員とケバケバしい女子だ。そしてイケメンと残りの女子がアシスタントの役割らしく、コンビニで買ったのだろうプチシュークリームを取り出す。


 それを手に取った挑戦者の二人はシュークリームを口へ運ぶのだが、期待していたような大袈裟すぎるリアクションではなく、美味い美味いとか言って普通に食べていた。これには観客も首を傾げる。


「リアクションが下手ですね。それでは前回大会の優勝者である後藤君に、お手本を見せてもらいましょう! みなさん拍手!」


 これが本命か。自分たちで汚れ役はやらず、客いじりとして他人に汚れ役をやらせたいらしい。アシスタント役のイケメンがカンペを掲げ、観客たちに拍手を強要させる。その勢いに押されて後藤は前へ出るしかなくなった。アシスタントの女子からもシュークリームを手渡され、逃げられないように追い込まれる。


「実食!」


 高橋から催促され、後藤は覚悟を決めてシュークリームを口の中に入れた。


「いただきまーす……ッ! うおげぇ、ゴホッ、ゴホォ……ッ! なんだこれ、すっげぇ辛い⁉ げはぁ、うッ!」


 会場から笑い声が聞こえる。みんなは後藤が辛さを演じていると勘違いしているのだろうが、赤く充血した目は本当に辛いんだということを訴えていた。


 おそらく、後藤に渡すプチシュークリームにだけ辛子を仕込んどいたのだろう。油断していた彼は床に膝をついて胸を叩き、顔から零れ落ちる涙と鼻水と涎は、想像を絶する辛さを物語っていた。


 ……なんとも見ていて悲痛な場面である。別に俺は後藤に対して同情もしないし、いじられて可哀想だとも思わない。ただ憐れだと思う。きっと高橋に悪意は無く、これも遊びの一環だと捉えるだろう。なら後藤も遊びだと思い込むしかなく、この嘘っぽい優しさに包まれた関係を続けなければいけない。


 身から出た錆だ。嫌なら嫌と言えば良い。自分から嫌と言えないのなら、それが後藤の選んでしまった道だ。他人が外から口出しする筋合いは無い。


 ……それなのに、どうして俺は吐き気を催している? 後藤を貶めてまで笑いを取りたがる高橋と、その本質を見極めようともしないで笑っている生徒たちに、俺は嫌悪感を隠し切れなかった。


「二回戦はタイキックです!」


 今度はアシスタントの女子が野球部員とケバケバしい女子の尻を蹴るのだが、さっきと同様に挑戦者である二人は薄いリアクションしかしない。


「まだリアクションが下手ですね。それでは前々回大会の優勝者である委員長に、お手本を見せてもらいましょう! みなさん拍手!」


 また同じ手口で、次はお人好しの委員長を標的にしやがった。先に後藤がいじられていたせいで、彼は困惑しつつも空気を読んで前へ出るしかない。早く終わらせようと自分から前屈みになって尻を突き出し、タイキックの衝撃に備える。


 しかし、アシスタント女子は先程とは打って変わって、過剰な助走を付けて思い切り後ろから股間を蹴り上げた。


「はがぁ! あう~~ッ!」


 委員長はその場で崩れ落ち、股間を抑えながら苦悶の表情を見せる。ずれた眼鏡に、額から滲み出る脂汗が哀愁を漂わせていた。


「ごめん足が滑っちゃった」


 これはギャグ。そう、ギャグなのだ。そのように刷り込ませることにより、観客から笑い声が上がる。床に倒れている委員長の姿は、さぞ滑稽だろう。


 でも、委員長はお笑い芸人ではない。他人よりも少し責任感が強いだけの、どこにでもいる普通の中学生だ。馬鹿にされれば人並みに傷つくし、お笑いのためと割り切れるほど精神は成熟していない。


 そんなことは傍から見ていれば誰でも分かることだが、委員長を笑い者にさえすれば優しい関係性は保たれる。クソ女が委員長に放ったタイキックは、いじりという範疇を超えてイジメに発展したとしても、笑えばギャグとして処理できる。自分の居場所を守るために、たった一人の犠牲で済むのなら安いものだ。


 集団が生む弱者への暴力性に、俺は気が狂いそうになった。首謀者である高橋のような巨悪も許せないが、真に裁くべきは積み重なった小悪の方なのだ。権威に従う彼らに罪の意識は無く、自分だけでは何も考えられない。


 だからこそ、俺は彼らの無意識にある当たり前を、グチャグチャに破壊してやりたい衝動に駆られた。彼らのコミュニティで美徳とされる既成概念を、俺たちのスタンツで世界ごと引っくり返したい。


「いよいよ最終決戦だ! 最後の対決はシンプルに熱湯!」


 興奮が最高潮に達した高橋とは対照的に、挑戦者の二人は事務的に洗面器から水を手で掬う。そのゆったりとした動作は地獄へのカウントダウンでしかなく、賑わっていた室内は急に静まり返った。今度は誰がリアクション芸の犠牲になるのか、気が気でない生徒たちは固唾を呑んで息を潜める。


「まだまだ未熟なリアクションですね。それでは本大会の初代優勝者である安瀬基樹君に、お手本を見せてもらいましょう! みなさん拍手!」


 よりにもよって基樹を指名してくるとは、奴らの性根は芯から腐っているようだ。今となって思い起こせば、基樹は少なからず高橋から恨みを買っており、この罰ゲームに強制参加させられる可能性は非常に高かったのである。


 それを予想して対策を立てておかないとは迂闊だった。俺は自分が思っている以上に他人を慮ってはいても、自分の立場が被害者側である想定をしていなかったのかもしれない。どうしたら良いのか、すぐには最善手が思いつかなかった。


「自分が行く」


 この場をどう収めようか俺が迷いあぐねていると、釈迦戸が基樹の代わりに勇ましく立ち上がった。普通なら友人を庇って身代わりになろうとする彼を頼りにし、友情に熱い心を称えるのだろう。


 しかし、俺は釈迦戸の異変に気づいてしまった。頭部に浮かぶ太い血管と、眉間を歪ませて鋭く睨む目つきと、鉄のように固く握った拳を見て、俺は彼が怒りに打ち震えていることを察する。


 このままではふつふつと込み上がる赤く冷たい感情は、きっと暴力と言う形で高橋たちを襲うだろう。憤怒した釈迦戸が高橋たちを倒したらスカッとするだろうが、次のスタンツは俺たちの番である。それは夏澤が、国府台が、樹理が、基樹が想いを込めて、覚悟を決めて作り上げたものだ。


 たった一時の軽はずみな感情で、魂のスタンツを台無しにするわけにはいかない。俺は釈迦戸の怒りが暴発することを阻止する。


「いや、僕に行かせてくださいよー」


 いつものように締まりのない顔でヘラヘラ笑って、安っぽい道化を演じていたら、釈迦戸は俺の胸倉を乱暴に掴んだ。


「邪魔すんなや」

「頭冷やせタコ。破滅したいか?」


 周囲に聞こえないよう、俺は釈迦戸の耳元で呟く。彼が振り返った視線の先には、心配そうな顔で見守っている班のメンバーがいた。


「…………」

「まぁまぁ、後は僕に任せて」


 やっとのことで釈迦戸を諌め、俺は振り返らないように前へ躍り出た。笑顔を塗り固めたまま高橋へ歩み寄ると、他の男子が二人がかりで俺を羽交い絞めにする。あくまでも、これはギャグとして……。


「え、何々何ッ! ちょっと放してくださいよ! これから何が始まろうとしているんですか⁉ もしかして、僕を連行して何か良からぬことを企んでいるじゃないでしょうね⁉ そう、まるであのエロ漫画のように!」


 俺の目の前に立っている女は笑っている。風呂場から持ってきた洗面器ではなく、おそらく熱湯が入っているのだろうタンブラーを持って、目の前の女は楽しそうに笑っている。きっと彼女は肌が露出している顔面を狙うのだろう。醜悪な人間が考えそうなことは手に取るように分かった。


「そのタンブラーをどうするつもりですかぁ⁉ お願いですから早まらないでください! いいですか、今あなたたちがやろうとしていることは立派な暴力ですよ! このことを知ったら、ご両親がどれだけ残念がることか――ぶわぁ、しゃしゃしゃしゃしゃあッ! あつ、あっつっつぅ、うあたたたたたたぁ、熱っつう!」


 お湯を頭から浴びて卒倒する俺のリアクションで、会場は爆笑の渦に巻き込まれた。自分が特に嫌悪感を示した方法で一番の笑いを得るとは、道化を演じた俺に対して皮肉が効きすぎている。


 ちなみに、熱湯は服の中に首を引っ込めて回避した。お湯を浴びる直前で俺を羽交い絞めにしていた二人が逃げたため、お湯が顔に掛かるのを事前に分かっていたこともあり、頭から被ったように見せかけて床を転げ回ったのである。スタンツのために学ランを着込んで本当に良かったと思う。


 俺のリアクション芸による笑いが一段落したところで、ようやく永遠のように感じられた十分の制限時間が訪れた。高橋たちが満足気に立ち去るのを確認し、俺は何事も無かったかのようにスタっと立ち上がる。


「平気なの⁉」


 いの一番に駆けつけてくれたのは樹理だった。熱湯が掛かったのは服であることを説明し、俺は無事だということをアピールする。


「僕はプロですから」


 班のメンバーを心配させないよう、爽やかなニッコリ笑顔を見せつける。これで後腐れなく楽しむために、次のスタンツへ専念したいところだが……。


「なーんで基樹君が泣きそうな顔してんすか?」

「僕が不甲斐無いばっかりに……」

「主役なんですから、しっかりしてくださいよー」


 基樹は自分の感情を曝け出す時、一人称が僕に戻るらしい。あまり重く受け止められても次の出番に支障が出るため、俺は何度も軽い調子で大丈夫だということを伝えていたら、夏澤に頭を叩かれた。


「カッコつけすぎ」


 こんな時くらいはカッコつけさせてくれ。そうしないとマジになった恥ずかしさで、顔から熱湯よりも熱い火が噴き出しそうだ。


× ×


「次はラストですね。それでは五班のみなさん、お願いします」


 教師からアナウンスされ、俺たちは座布団を用意して持ち場に着く。客席が静かになってから、基樹は最初の台詞を発した。


「あー、緊張する。新しいクラスでも仲良くできるかなぁ」

「転校生、教室へ入って来なさい」


 教師役は国府台だ。基樹は扉を開けるジェスチャーをして、用意した座布団に座っている俺たち生徒役に向かって自己紹介する。


「転校生の安瀬基樹です。よろしくお願いします」


 自己紹介を終えた後で、俺たち生徒役は黄色い歓声を上げ、転校生を歓迎するかのように場を盛り上げる。


「うわー、こういうクラスのノリとか、すっごい苦手だなー」


 心の声を演じる場合は、観客に向かって台詞を言う。こういった一工夫をするだけで、観客の視点は俯瞰するものだ。


「それじゃあ、そこの席に座ってください」


 基樹は前列に並んでいる俺と夏澤の間に座る。俺は練習の時と同様、チャラ男を演じてのコミュニケーションを図った。


「ウェーイ! しくよろでぇーっす!」

「よ、よろしく……」


 苦笑いになった基樹は立ち上がり、観客に向かって心の声を叫ぶ。


「うわ、うっぜぇ~! 面倒そうな人と隣の席になっちゃったなぁ……」


 さっきまでは泣きながら俺に感謝していたというのに、今ではこの有様である。心に一抹の寂しさを感じつつも、俺は国府台の呼びかけに応えた。


「さっそくですが授業を始めます。号令」

「起立」

「委員長だったのかよ⁉」

「礼、着席、あーいあいあいあい!」

「それどうやんの⁉」


 キレの良い基樹のツッコミがあるからこそ、俺の意味が分からないボケを笑いに変えられる。そんなやり取りを無視して、教師役の国府台は授業を進めようとした。 ……彼女の暗黒時代に記されるであろう、一世一代の大勝負である。


「うわっちゃああああ! あちょー、ちゅえーい! ぶええええええッ!」

「どええぇぇーーッ⁉ どうしちゃったんですか先生! さっきまで普通に喋ってたじゃないですかッ⁉」


 転校生の疑問には答えず、国府台は一心不乱に奇声を上げながら、ホワイトボードをペンで黒くグチャグチャにしていく。彼女が編み出した異文化コミュニケーションは、普段のギャップから観客たちの心を鷲掴みにした。黒歴史確定。


「ほあたぁぁーーーー…………はい、ここテストに出ます」


 生徒役の全員で一斉に扱ける。本当は転校生だけでいいのだが、全員で仲良く扱けるのはコントの様式美だろう。扱けずにはいられなかった。そして真面目な転校生だけ逸早く立ち上がり、教師の横暴に対して抗議する。


「授業になってねぇよ!」

「安瀬君、私語は慎みなさい」

「いやオレだけじゃなくて、みんなも授業のポイントが理解不能ですよね⁉」

「ウェーイ!」

「どっちだよ! お前はもういいよ! こっちのあなたはオレと同意見ですか⁉」


 基樹は左隣にいた夏澤に話を振った。彼女は重い表情を変えないまま、リズミカルな念仏を唱える。


「葬れ仇、狼煙上げ、己ただ幾戦辿れ、脳汁出して宿命と踊れや……」

「こわっ! 怖い怖い! どうしちゃったんだよ!」


 夏澤のキャラは怪しい霊能力者である。それは擬音でもコミュニケーションでも何でもないと思うのだが、彼女なりの狙いがあるらしい。とはいえ、このままでは会話にならないため、すかさず国府台がフォローに入った。


「ほわちゃああーーーーッ!」

「それを止めろって言ってんだよ!」

「さっきから何を言っているんです?」

「こっちの台詞だ! 意味の分からない奇声で教壇に立つな!」

「なるほど、安瀬君はジャッキー・チェン派でしたか」

「そういうことじゃねぇ! もう、授業は中断! これから抜き打ち検査を始める!」

「ウェーイ!」

「はい失格ぅ! 二度と出てくるな!」

「大口開け脂加え、臓器荒れてむくみ腫れ、糖質増やして宿便と踊れや……」

「君がいるべき場所はここじゃないね! ちょっと邪魔だから向こうに行ってようか!」


 ここまでは俺の中でも想定できていたパートだ。この先からは後列にいる釈迦戸と樹理のパートになる。まだ時間の関係で彼らのキャラは定着していないため、観客を楽しませられるかは基樹の力量に懸かっている。


「次、後ろの男性は常識人ですか?」

「ギュイーーーーン! シュババババ! バッカスバッカス!」


 ようやく擬音らしいのが出てきた。釈迦戸のキャラはパンクロッカーらしく、エアギターの激しい動きで音楽を表現していた。


「もう手遅れのようですね! でもオレは諦めませんよ! お名前と趣味は何ですか?」

「バッカスバッカス!」

「あ、これ名前だったんですね! 趣味は音楽? すごい! ちゃんとコミュニケーションが取れてますよ! この調子で行きましょう! 好きな食べ物は何ですか?」

「ギュインギュイン! ドゴゴゴゴ! スパシーバ!」

「やっぱり無理でーっす! 次の方どうぞ!」


 基樹は釈迦戸のボケにボケを重ねる形で、なんとか対応し切った。スタンツの途中で拍手を送りたくなるほどの、高度なテクニックを応用した素晴らしいツッコミ力である。釈迦戸もやり切った表情で額の汗を拭っているのだが、もう片方が問題だ……。


「……パ、パピコ? パピプペポぉ?」


 樹理は素の恥ずかしさを捨て切れず、中途半端に痛いキャラを演じている。ボケとしても弱すぎるため、観客たちはクスリとも笑わない。これをどうやってフォローするか困り果てていると、基樹は画期的な方法でピンチを脱した。


「いや、君は普通に話せるでしょ?」

「プ、プピポーっ!」

「こんなことして恥ずかしいと思わないの? このことを君のご両親が知ったら、きっと悲しむよ? 悲しませたくないよね? もう止めよう」

「アポゥ!」

「ぶへぇ!」


 イライラが我慢の限界に達した樹理は、マイケル・ジャクソン風に誤魔化して基樹をビンタしやがった。擬音と言うテーマのスタンツを、根底から覆す暴挙である。でも、かろうじてキャラを守ろうとしたのは評価しよう。


「いったぁ! 結局、最後は暴力かよ! ちゃんと今までのやり取り参考にしてた? 自分からコミュニケーションを断念したのは君くらいなものだよ? こんなに雑なオチはないからね? 次はボケてよ?」


 基樹の駄目出しに対し、樹理はポキポキと拳を鳴らして応える。身の危険を感じた基樹は、必死に助かるための口上を並べ立てた。


「コンプライアンス、コンプライアンス! いいか? オレたちには言葉があるんだ。そして話し合うことができるんだ。それなのに発言できる権利を、自分から放棄するなど愚者の極み! ましてや暴力に訴えるなど言語道断! 君たちは人に伝えることの素晴らしさを知らず、誰かと分かり合える可能性を信じられないだけなんだ! まずは自分たちから歩み寄ってみないか⁉」


 立て続けの長台詞で、基樹自身も混乱しているらしい。社会に警鐘を鳴らすような、壮大なテーマの展開となってしまい、誰も軽はずみにに動けなくなった。お互いにアイコンタクトで腹の内を探り合っていると、唐突に夏澤が民謡っぽいメロディを歌い出した。


「はぁ~いえ! イエィイエィイエィ! はぁ~いえ~、う~ういぇい!」


 霊能力者というキャラで念仏を唱えていた夏澤が、今度はメロディを歌いながら手拍子を叩いている。様々な要素が組み合って奇跡的に目的を察した俺たちは、儀式を思わせる彼女の歌に合わせるように、壁や床をリズミカルに暴れるほど叩きまくった。


「オレの話聞いてた⁉ 悪化してんだけど!」


 俺たちが暴れて音を出している間に、夏澤は数枚の座布団を積み上げる。そこの上に釈迦戸を立たせた。


「ハゲ神様の、おなぁ~りぃ~!」


 夏澤の霊能力者と言う無理がある設定は、全てこのための布石だったのだ。スタンツが行き詰った際のエスケープ装置としては、天丼も可能であるため非常に便利である。観客のウケも最高だ。


「全く御利益なさそうなのが降臨してきた⁉ 髪だけにね! っていうか、これを呼ぶために念仏を唱えてたの⁉ ツッコミが追い付かないんだけど、一体どうやってコミュニケーションを取ったらいいんだ⁉」

「ウェーイ!」

「お前が行くなぁ!」

「ワンチャンある?」

「ねぇよ! 引っ込んどけ!」


 俺と入れ替わりで国府台が前へ出た。


「保護者の方ですか?」

「そんなわけねぇだろ! あんたの生徒だよ! ちゃんと教育しとけ!」

「あー、今は授業参観じゃないんですよー」

「一目瞭然だよ! おっちょこちょいか!」


 基樹のツッコミを無視し、国府台は神になった釈迦戸とコミュニケーションを図ってみる。黙り込んでいた釈迦戸も口パクしながら、ジェスチャーを交えて楽しそうに雑談している雰囲気を醸し出した。


「す、すごい! あの未確認生物と普通に話し込んでいるぞ!」


 どんどんジェスチャーが大袈裟になってきた二人は、仲良くなったかのように手を打ち合わせて意思疎通し始め、遂には複雑なハイタッチを成功させて観客たちを魅了した。


「先生! 何か分かりましたか?」

「さぁ?」


 全員で一斉に扱ける。会場が笑いの渦に巻き込まれる中で、基樹はスタンツを終わらせるために立ち上がった。


「だぁーーもうッ! いい加減にしろ! 誰とも真面にコミュニケーションできねぇ! こんなクラス、絶対に転校してやるからな!」


 基樹は積み上げてあった座布団を引っこ抜き、最初の位置へ座り直す。終わり方だけは事前に打ち合わせをしていたため、俺たち生徒役も最初の席順に座る。


「う、大声を出し過ぎて急に腹が……。駄目だ、もう我慢できない……」


 苦しそうな表情で腹部を抑えた基樹は、服の袖を捲って腕に口を当て、その状態から息を吐くことでオナラっぽい音を出した。笑い声が絶えなかった空間から一変し、静かになった部屋の空気が冷たくなる。


 それだけではなく、基樹は絶妙な間を空かせることにより、観客たちの緊張感を生み出していた。まるで時間が止まったかのように感じられた頃、基樹だけがサイレントの中で自由に動き出す。


「ノーリアクションかよ⁉ そういう所だけ優しいな!」

「どうしたんですか?」


 国府台の質問に対し、基樹は座布団から立ち上がって声高らかに宣言した。


「オレ、このクラスならやって行けそうです!」

「くっさ!」


 教壇に立っていた国府台を筆頭に、基樹の後ろにいた俺たちも次々と倒れ出す。


「みんな気絶してただけかよ! どうも、ありがとうございました!」


 代表で基樹が終了を告げるお辞儀をした後、生徒たちから盛大な歓声と、惜しみない拍手が送られたのだった。


 倒れていた俺たちも立ち上がり、もう一度みんなでお辞儀をする。すると、頭越しに一際大きい歓声と拍手が舞い起こった。俺たちは互いに顔を見合わせ、やり遂げた達成感を共有して味わう。


 無自覚な自己顕示欲、自己満足でしかない自己表現、他人を貶める醜悪な人間性。その全てを引っくり返して、俺は感慨無量に満たされていた。


× ×


 結局、世の中は何も変わらなかった。

 どの班のスタンツが面白かったのかクラスで集計を行ったところ、四班の高橋たちが一位になったのである。彼らには教師から豪華景品である菓子が手渡され、非常に楽しそうに打ち上げを行っていた。


 この結果に納得がいかなかった俺は、別の班である後藤を捕まえて、みんなが四班に投票した理由を訊き出した。


「あいつらの機嫌を損ねて、修学旅行が険悪な雰囲気になるのは嫌だろ?」

「普通は私情を挟み込まず、正当な評価をするべきじゃないのか?」

「たかが余興でムキになるなよ。みんな損得勘定の計算くらいするだろ」


 後藤はそれだけを言い残し、高橋たちと一緒の大部屋へ戻って行った。同じ被害者であり、保身に走ろうとする彼の言い分に一瞬でも納得してしまい、咄嗟に言い返せなかった俺は立ち尽くすしかなかった……。


 そして修学旅行の三日目、俺たち三年生は平和記念像の前で黙祷し、午後からは班の自由時間で軍艦島に来ていた。軍艦島は日本の産業革命時代を支えた炭鉱施設であり、世界遺産に登録されたという話題性もあって人は大勢いた。


 しかし、軍艦島に行って帰るだけで一日の自由時間が終わってしまうため、思いっきり遊び回りたい生徒たちには不人気であった。みんなハウステンボスへ行くらしく、学生で俺たち以外の姿は見えない。


 実のところ、俺もさして軍艦島に興味は無く、心の底から楽しんで見学できる気分にはなれなかった。それもこれも、昨日やったスタンツの成果が失敗に終わったことを、未だに引き摺っているからだ。


 そのまま観光は終了し、今は帰りのフェリーに乗っている。他のメンバーが船内で休んでいる間に抜け出して、俺だけ一人で甲板へ足を運んだ。


 きっと楽観的な人に限って、自分に酔いながら海は良いとか言うのだろう。こうして甲板に立ち、風に吹かれながら海を眺めていても、俺には暗い水面しか見えない。それどころか逆に暗い海底から、何か得体の知れないものが俺を見ているような錯覚さえする。


 海は広くて大きい。そりゃあ、ちっぽけな悩みくらいは投げ込んでしまえば、偉大な海が受け止めてくれるのだろう。そして知らない場所へ流れ着くのだろう。


 でも、きっと心が軽くなるのだとしても、俺は今の気持ちを大事にしなければならないと思った。あの現実を重く受け止めなければならないと思った。いつまでも忘れず、鬱屈とした負を原動力にするのだ。そうしないと報われないじゃないか。


「身投げでもするの?」


 失意の中で海を覗き込んでいたら、後ろから夏澤が声をかけてきた。


「自殺しそうに見えますか?」

「うーん、見えなくはないよね」


 他人から見ると、今の俺は世捨て人だと思われるらしい。まぁ、否定しようとも思わないが、自分が弱っている姿は見られたくないな。


「……I can flyって言ったら、本当に飛べると思います?」

「You can flyって言って欲しいの? そりゃあ、死んだら飛べるよ」


 そんな肉体をゴミみたいに……。このままでは死に体である俺の精神が足蹴にされてしまうため、もう一人で隠れてクヨクヨするのは止めることにした。取り留めもない世間話でも始めることにする。


「容赦ないっすねぇ。そういえば、行きたがってた軍艦島の感想はどうでした?」


 実は俺たちの反対を押し切ってまで、軍艦島に行きたいと申し出たのは夏澤なのだ。前に彼女は誰もいない場所へ行きたいと言っていたし、軍艦島の退廃的な雰囲気は気に入ったのではないだろうか。


「世界遺産になっちゃった後じゃ魅力も半減だよね」

「よくもまぁ、元も子もないことを平然と言えますね……」


 肝心の言い出しっぺが楽しんでいないとは、まさに無駄骨である。俺はドッと疲れてしまい、ハイテンションでツッコム気力も失せた。

 悪びれもせず夏澤は俺の隣に並び、海を眺めながら世間話を続ける。


「ブギーはどうだったの? インドじゃないけど、長崎に来て何か変わった?」


 俺はどこか遠い所へ行けたらそれで良かった。ここから抜け出せれば変われると思っていた。インドに拘りは無く、別に長崎でも良かったはずだ。


「何も変わんないっすよ……。何やっても変えられないっす……」


 修学旅行でスタンツを披露しても、俺の本質はクラスから離れられない。どんなことをしても人の価値観は変えられず、俺は誰にも評価してもらえない。マイノリティの信念は、マジョリティの権威に勝てないのだ。


「そもそも変えることに意味はあるの?」


 環境を変えた先にあるもの。実は夏澤に言われるまで、俺は具体的なビジョンを考えたことはなかった。なぜ変えたいのかさえ曖昧だ。俺はただ、自分が社会で生きやすいように、人の可能性を信じたかっただけかもしれない。


「……僕が変わりたいんすよ」


 もう何も無いのは嫌だ。あいつらと同じになるのは嫌だ。俺は誰にも無いような、俺だけの武器が欲しい。そして確固たる立場を形成したい。


「私は変わらなくてもいいと思う」

「なんで?」


 思わず反射的に質問した。俯いていた俺は夏澤の方へ顔を振り向けると、彼女は遠くの地平線を見つめながら言う。


「私は理想と現実の狭間で揺れ動いている、今のブギーが好きだから」


 ………………えーと、今のは愛の告白だろうか? いや、まだそうだと確定したわけではない。だとしても、何て返答したら正解なんだ? どうしても流せる雰囲気ではない。斯なる上はトイレエスケープだ!


 ショートしてしまった思考回路を整理するのに四苦八苦していると、船内と甲板を繋ぐ扉から数人の見知った顔が飛び出てきた。


「うおわぁ!」


 最初に基樹が現れ、そして国府台と樹理の下敷きとなる。その後から釈迦戸も罰の悪そうな顔で登場してきた。俺はゴミを見るような目で問いかける。


「……何やってんすか?」

「……風に当たりに」


 下敷きにされて文字通り苦し紛れの状態とはいえ、果たして基樹よりも下手糞な言い訳が過去にあっただろうか? 慌てて釈迦戸は無関係であることをアピールする。


「いや、自分は止めたんやで?」

「裏切るつもりか⁉」

「二人で何を話してたの⁉」


 連帯責任だと言い張る国府台を押しのけ、樹理は切迫した表情で俺と夏澤の二人を問い詰めた。まさか夏澤に愛の告白をされていたなど、口が裂けても言えるわけはないが、これは話を誤魔化すチャンスである。


「昨日やったスタンツの反省ですよ」


 嘘ではない。俺はスタンツをやっても何も変えられないという、思春期の悩みを夏澤に相談していたのである。しかし、夏澤は不服そうだった。


「ああ! スタンツ楽しかったよね!」


 下敷きから解放された基樹は、元気いっぱいにスタンツの感想を言う。それについては俺も同意したいところだが、結果が伴わないのでは諸手を挙げて喜ぶ気にはなれない。


「まぁ、やっている間は楽しかったですけど、僕は終わってみれば何てことなかった感じっすね……。少し冷静になったというか……」


 バスケ部の顧問から爪弾きされて以来、熱くなるのは止めようと決めていたはずに、こいつらとスタンツをしている間は心地良い夢を見ているようだった。


 だが、夢は夢だ。夢から覚めてしまえば現実に引き戻され、何もできないまま理不尽に打ちのめされてしまう。それなら何もしない方がマシだ。


「そう? オレは世界が変わった気分だよ!」

「どうしてですか?」


 俺は何も変えられなかった。挑戦しても自分の無力感を再確認しただけだ。それはみんな同じではないのか?

 基樹は恥ずかしそうに、照れながら笑顔で言った。


「いやー、劇で主役を務めるなんて初めての経験だったし、自分が人前であんなに喋れるなんて思いもしなかったよ! なんか、新しい自分を発見できて嬉しい!」


 ああ、灯台下暗しとはこのことだ。

 俺は何もかもを深く考えすぎて、身近な人の変化に気づいてやることができなかったのか。それは外から見れば小さい変化でしかないのかもしれないが、決して無駄なことではなかった。俺は誰かの役に立てた。


「アタシはできれば発見したくなかったよ……」


 その一方で、国府台は珍しく意気消沈している。いつもはクールな外見でリーダーシップを発揮するような、みんなの姉御的存在である彼女が、よりにもよってブルース・リーの真似をして奇声を上げていたのだ。誰にも想像できなかったキャラであり、誰の得にもならないギャップ萌えだった。


「もう二度とやらんわ……」


 国府台と同じような理由で、釈迦戸も心に深い傷を負っている。だが、その傷を負ったからこそ、自分の殻を破れたのではないだろうか。怖いと思われて近寄りがたかった釈迦戸は、今回の件で周囲の誤解が解けたことだろう。


「あたしもマジで無理……」


 樹理は……うん、頑張ったね!

 彼女がスタンツを通して得たものが無い疎外感に苛まれていると、優しい基樹は自分の抱えていた悩みを打ち明けた。


「あのさ、実はオレが樹理ちゃんの居場所を壊すんじゃないかって、転校が決まってからずっと心配だったんだ」


 もしも国府台が学校のヒーローと位置付けるのなら、樹理は学校のアイドル的存在だ。自分から周囲を巻き込みはしないものの、自然と周りの人間を引きつけるファッション性は女子のカリスマである。それゆえに、彼女は女王蜂なのだ。


「なんで早く言わなかったの?」

「負担になりたくないからだよ。これでも最初は環境に適応しようとしたけど、やっぱり駄目だった。それなのに樹理ちゃんは優しいから、つい距離を置こうとして失敗しちゃったんだ。本当にゴメン」


 女王蜂の巣に異物が入り込んでしまうのでは、環境システムの妨げとなって上手く機能しなくなる。基樹は自分が邪魔者に思われないか恐怖を感じ、それが昨日の朝食で爆発してしまったのだろう。


「余計なお世話だっての」


 樹理は基樹の額を小突く。よくよく考えてみたら、基樹なりに気遣った結果が転校初日の大惨事を招いたのだ。それなら気を遣わないで普通に接した方が、おそらく樹理のためにもなるだろう。


「捨てる神あれば拾う神あり、だね」

「まとめなくていいですから」


 励ますように夏澤が諺を言うものだから、気恥ずかしくなった俺は言葉を茶化す。タイミング良く空は夕暮れとなっており、赤らんだ顔がバレることはなくて助かった。


 そして既に日が傾いているということは、もう修学旅行も終わりだという合図を告げているのである。明日には飛行機に乗り、あの騒がしい家族が待っている地元へ帰ることになるだろう。一体、俺たちは旅行を経験して何を学び修めたのか?


 集団的自衛権の行使を巡る安保闘争に合わせたかのような、戦争の悲惨を伝える長崎への修学旅行。若い内から生徒の愛国心を育み、内閣の横暴と対立させたい教育者たち。


 とまぁ、それっぽい陰謀めいたことを目論んでみたが、長崎に来たくらいで全て分かるのなら苦労はしない。どこに行っても答えは風に吹かれている。


 どれだけ考えようとも答えは風の中で舞っているのなら、俺は大切な人のためにやれることを考えようと思った時だった。突如吹かれてきた一陣の旋風が、女性陣のスカートを捲ったのである。


 意外にも夏澤は、レモン色の可愛らしくも派手なパンツを履いていた。その光景を目に焼き付け、それぞれどんな色のパンツを履いていたのか、後で男子と教え合おうと心の中で決めていると、次に目の前へ現れたのは拳だった。

 夕日よりも赤く、熱い鼻血が宙を舞い、穏やかな海に垂らされる。

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