第3話 修学旅行1

 修学旅行の初日。俺たち三年生と引率の先生は学校からバスに乗り、空港に着いて息つく暇もなく飛行機に乗った。それまで俺はとある理由により終始無言を貫いていたのだが、いい加減に我慢の限界だ。


「何見てんだよ?」


 通路を挟んで左側、窓際の席に座っている基樹が釈迦戸の影に隠れながら、俺のことをコソコソ覗き見ているのである。あの事故が起こった一件以来、彼は俺との接し方について計りかねているらしく、今日も学校であった時から気まずい空気が流れていた。


「言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」

「……襲われる」

「被害者ぶってんじゃねぇよ。誰のおかげで命からがら助かったと思ってんだ?」


 俺だって好きで人工呼吸したわけではない。人の命を救うために身を挺したというのに、その本人から恨まれるとは心外である。


「ファーストキスだったんだよ……」


 あまりにも女々しすぎる基樹の物言いに、俺は我を忘れて不満を爆発させた。


「ファーストでもセカンドでも何度でもキスしてやるよ。今度はケツの穴に手でも突っ込まれたいか? ああん?」

「そんなのあんまりだよぉ」

「引っ付くなや」


 基樹と俺との間に挟まれている釈迦戸は居心地が悪そうだった。あいつも共犯だというのに、この差は何だ? 釈然としない。


「さっきから丸聞こえだよバカ」


 釈迦戸の真後ろの席に座っている国府台から、頭部目掛けて飴玉を投げつけられる。それを軽くキャッチし、すぐさま糖分でイライラを解消させようと口へ放り込んだ。


「酸っぱぁ!」


 渡された飴玉は男梅だったらしく、極度の酸味で身が悶絶する。甘さでリラックスしていようとしたところに、酸っぱいものを食べさせられて逆に思考がクリアになった。


 それでも国府台に文句の一つでも言ってやろうと振り向いたら、彼女は無邪気にケラケラと笑っていた。いつも大人びた表情をしている彼女の笑顔を見ると、なんだかドギマギして俺は何も言う気になれなかった。


「大体、保健室に運ばれたのは自業自得でしょうよ」


 かといって何も言わないのも変なので、国府台に構わず話を元に戻す。ちなみに、席順は左側の窓際席が二人掛けであり、そこに基樹と釈迦戸、その後ろに夏澤と国府台が座っている。通路を挟んで釈迦戸の隣にいるのが俺であり、その右隣りには樹理が座っている。彼女は仲の良いクラスメイトと談笑していた。


「だとしても、保健室に行った先での方が酷い目に遭うっていうのは、誰にも予想できなかった展開だと思うよ」

「殴ったのは夏澤だしね!」


 頑なに己の非を認めず責任転嫁しようとする基樹に対し、さらに俺も夏澤へ責任転嫁しようとしたのだが、振り向いて様子を見たら彼女はアイマスクと耳栓を装着して熟睡していた。こいつ、旅慣れてやがる……。


「何の話してるの?」

「あはは、気にしなくていいよー」


 樹理が友人の疑問を煙に巻いてくれた。もう、これ以上は事故の話をしないほうが良いだろう。あらぬ誤解を受けてしまうかもしれない。


「どういう関係なんだろ?」

「ちょっとBLっぽいね?」


 時既に遅し。俺の前の席に座っている女子二人が変な噂をし始めた。それは聞かなかったことにして、俺は国府台の話に集中して耳を傾ける。


「隣の夕景が寝てるから、アタシも暇を持て余してるねぇ。……なぁ、今こそ部活動について話合わないか?」

「もう終わった話やろ」


 国府台の提案を釈迦戸は一蹴する。もうちょっと聞く耳を持っても良いと思うが、基樹の方は興味を示した。


「釈迦戸君は何のスポーツやってたの?」


 不機嫌な俺と無愛想な釈迦戸に代わり、国府台が答える。


「アタシも準も永介もバスケ部さ」

「奇遇だね。オレもバスケ経験者だよ」

「転校してからも続けないのか?」

「まぁ、いろいろと忙しいからね」


 そういえば、未だに基樹が転校するに至った経緯について、俺たちは詳細を聞かされていない。数年たった今でも、やはり震災が関係しているのかと想像してしまうのを払拭するかのように、なおも国府台は引き下がらなかった。


「でも、こいつらと一緒ならバスケしたいだろ?」

「確かにね。こっちのバスケ部はどんな感じなの?」


 あー、それについては俺が答えないといけないか。修学旅行中に部活の思い出を話すのは億劫になるが、もし基樹がバスケを再び始めたら面倒なことに巻き込まれそうなため、いかにバスケ部がクソであるかを語った。


「活気の無い部活ですよ」

「それはどうして?」

「部員は顧問の言いなりでしてね。みなさん試合に出たくて胡麻を摺るから、顧問もいい気になって指導しやがります」


 顧問の横暴に反撥した結果、俺は試合に出させてもらえなくなった。そしてチームメンバーは誰も助けてくれなかった。もう俺は誰のことも信じられなくなったし、あのカスどもとバスケをする気にもなれなかった。


「実力で証明しなよ。努力した姿を見せれば顧問も納得するはずさ」


 今でも俺がバスケすることを期待しているのは国府台だけだ。その彼女の言葉であっても、俺は努力に意味が無いことを悟ってしまった。結局は評価する人間の匙加減一つなのだ。それなら器用に世渡りするしかないだろう。


 俺が国府台の意見にどう返答しようか窮していると、敏感に基樹が事情を推測した。


「え、ひょっとして二人とも部活には行ってないの?」

「ご名答」

「村西君はともかく、永介君はどうして?」


 おい、ふざけんな。呼び方一つにしても扱いの差から新密度を把握できるぞ。とはいえ、釈迦戸がバスケ部に参加しない理由は俺も知りたい事だった。彼とは入部してから一度もプレイしたことがない。


「……他にやりたいことがあるからや。それ以上のことは言えん」


 この前、下校する姿を尾行した時は真っ直ぐ帰宅していたが、どうやらまだ隠していることがあるようだ。家が近所でも親しくなったのが最近であるために、どのような趣味があるのかイメージできない。


 これ以上は話が進展しないことを見据えていると、寝ながらも話を盗み聞きしていたらしい夏澤が起きて、偉そうに自分なりの意見を述べた。


「何があったか知らないけど、人によって好奇心の方向性は違うんだから、本人の好きにやらせるのが一番だよ」


 その意見には同意する。しかし、どのようにして夏澤がその答えに至ったのか知らなければ、国府台は納得しないだろうから質問してみた。


「夏澤さんって何部でしたっけ?」

「クリエイティ部」


 真面目に答える気は無いようだ。まぁ、人は秘密があってこそ魅力的な人間性になるものである。この修学旅行を通して信頼関係を築き、いつか相手から告白してくれたら、そして俺の方から告白できたら良いと願う。


× ×


 みんなと仲良くなれることを期待した矢先、盆地育ちの基樹は飛行機の着陸時に耳が気圧の変化に耐えられず、痛みに絶叫しながら空港の医務室に運ばれた。


 出発して早々に一人が脱落してしまったが、初日に班単位での行動は無いため、今夜中に戻ってくれば大丈夫だろう。初日は移動ばかりで観光する元気が持てなかったと後で言えば、不幸中の幸いとして基樹にとっても気休め程度にはなるはずだ。


 ホテルに着いて一息ついても、釈迦戸がすぐに寝たせいで時に何もやることがない。同じ部屋のメンバーは修学旅行先でも携帯ゲームや、何かのカードゲームに興じている。ゲームもカードも持っていない俺は、とにかく一時間ほど旅の疲れを癒すように薊姉から借りた本を読み耽った。


 今まで本を読む気になれなかった俺に、薊姉が中学生の内に絶対読めと薦めてくれたのは、作家の恩田陸が書いた『夜のピクニック』だ。内容は高校生が夜通し外を歩くという、苦行としか思えない特殊な学校行事の中で、それぞれの生徒たちが自分の目的を果たすというものである。


 最初は単純な恋愛小説だと思っていたが、面白いので夢中になって読み進めて行くと、どうやら主人公とヒロインは異母兄弟らしい。その蟠りがあるせいで同じ学校にいながら仲良くなれないのを気にしているヒロインは、いつも無視されていた主人公に声をかけて返事してもらえたら、自分たちの境遇について話し合うという賭けに出ていた。


 ヒロインの目的が判明したところで、夕食の時間になってしまった。夕食は班で食べることになっていたため、遅れたら国府台あたりに怒られてしまう。俺は寝ている釈迦戸を起こし、のろのろと食堂へ移動したのだった。


「まだ基樹は戻って来ないの?」


 夕食の席につくなり、樹理は従姉弟の安否を気遣う。あまり心配させないように気を楽にして返答した。


「でも、流石に入院はしないでしょうから、気にしないで先に食べちゃいましょう。美味しそうですよ~」


 丸いテーブルの上にはエビチリや麻婆ナスなどの中華料理と、魚をメインにした和食と、スープやパスタなどの西欧料理が所狭しに並んでいた。この和・洋・中が雑多に入り混じった料理のことを卓袱料理と呼ぶらしい。オランダから伝わったメニューを、長崎風にアレンジした結果だそうだ。


「魚なら味噌汁、麻婆ナスなら白米、パスタなら肉が食べたいよ」


 元も子もないことを言う夏澤だった。困るのは俺もその意見に同意していることである。みんな思っていても口に出さないで卓袱料理を楽しもうとしているのに、彼女は言いたいことを言ってしまう性格らしい。


「まぁ、組み合わせ自体は珍しいから楽しめるけどねぇ……」

「一つ一つは普通やけどな」


 フォローに回った国府台の発言を、よせばいいのに釈迦戸が反論することで場の雰囲気が険悪になる。


「よーし、みんなの分まで僕が水をコップに注いじゃうぞぉ」


 空気を和ませるため、わざとらしく俺が道化になりながら水汲みを買って出る。樹理、夏澤、国府台の順に回って行ったら、唐突に尻を撫でられた。


「ひゃん!」


 変な声が出てしまったじゃないか……。こんなことをするのは夏澤しかいない。


「へへ、姉ちゃん良いケツしてんなぁ」

「あっ、そんな、お客さん困りますぅ~……何やらせんだ!」


 伝家の宝刀ノリツッコミ。これさえあれば、友達との間に入った亀裂も瞬く間に元通り! 俺と夏澤はドヤ顔で国府台と釈迦戸の反応を伺った。


「…………」


 真顔かぁ~。そうきたかぁ。遠くを見つめる彼らは黙ったまま食事を始め、機械的に食べ物を口の中へと運んでいった。


 俺もさっさと食って、さっさと部屋に戻ろう。自分の席へ座ると、右隣に座っている樹理がテーブルに突っ伏している。心配になって声をかけた。


「具合が悪いんですか?」


 返事が無いため俺は肩を揺さぶって、もう一度だけ確認した。


「な、なんでもない……」


 かろうじて返ってきた彼女の言葉は、なんともか細い声だった。小刻みに体が震えているし、客観的に見ても全く平気そうではない。このまま放って置いて良いのか判断しかねていると、夏澤が樹理の肩を突いた。


「アンジュ、アンジュ」

「へぇあ? ……ぶばッ!」


 樹理が面を上げた先には夏澤の変顔があった。それを一瞬でも視界に入れてしまった樹理は、人目を憚らず大笑いする。


「ははーん。アンジュは笑い上戸だね」


 弱みを握った夏澤は悪そうな表情を浮かべる。樹理がテーブルに突っ伏していた理由は、単に笑うのを必死に我慢していたからか。それだけなら欠点というほどでもない可愛らしい性格なのだが、夏澤の前では命取りになる。


「アンジュ~、これってお幾ら?」


 そう言って夏澤が取り出したのはオクラだった。くだらないダジャレであっても、樹理の顔が引きつる。


「ふっ、し、知らないってーの……」

「どうナスったの? どうナスったの?」

「ぷ、クククク……」


 調子に乗って麻婆ナスを頬張りながら迫る夏澤に対し、俺は焼き魚の上に載っていたネギを箸で一掴みしてから注意した。


「サワーさん、たまにはアンジュをネギらいましょうよ」

「真っ平ご免よ!」


 まるで樹理が親の仇でもあるかのように、夏澤は付け合せのキンピラゴボウを力強く咀嚼する。樹理の腹筋は崩壊寸前だった。


「もう止めてぇ! 笑い過ぎてご飯食べられないじゃん! あんた達も黙ってないで、この馬鹿たちに何か言ってやってよ!」


 一連の流れであってもピクリとも笑わない国府台と釈迦戸は、無表情のまま漬物のキュウリとサラダに入っていたコーンを箸で掴んだ。


「そんなキュウリ言われても」

「またコーンどな」

「アッ、ハッハッハッハァ! 誰か助けてぇ~、ここにいたら笑い殺されるぅ~~ッ!」


 衆人観衆の中で腹を抱えて泣きながらも盛大に笑っている樹理は、大袈裟などではなく本当に笑い死にそうな迫力があった。その姿を見ていて罪悪感が芽生えてしまった俺は、自分の分であるデザートのスイカを差し出す。


「お腹スイカか?」

「グヒィィ~~~~ッ!」


 しまった! つい、息を吸うようにダジャレを言ってしまった!


「先生、村西君が安瀬さんをイジメています!」


 近くのテーブルにいた樹理と仲の良い三人の内の一人が、あろうことか問答無用で教師に告げ口しやがった。俺は反射的に立ち上がり、必死に無実であることを弁明する。


「イジメじゃないですって! これは班内での純然たる円滑なコミュニケーションですよ! ねぇ、そうでしょ⁉」


 ダジャレを言って樹理を笑わせていたのは俺だけではない。これはみんなでふざけて遊んでいただけなのだと、振り向いて同意を得ようとした。


「食事の邪魔」

「貴様らぁ!」


 返ってきたのは夏澤の辛辣な言葉だけだった。仲間からの裏切りにより責任を押しつけられ、俺は教師からこっぴどく叱られてしまった。


× ×


 ようやく教師の説教から解放されて部屋に戻ろうとすると、ホテルのロビーに基樹の姿が見えた。


「おっ、やっと帰ってきた」

「あ、村西君」


 基樹は俺の顔を見た途端、肩の力が抜けたようにソファへ腰を下ろした。一人で心細かったのだろう。俺も彼の隣に座る。


「もう体調は万全で?」

「おかげさまでね。でも、晩ご飯を食べてないから、お腹ペコペコで……」


 昼から何も食べていないらしい。男子にとって空腹は何よりも辛いことだ。友人である彼のために自分ができることを探す。


「買い出しに行けるか先生に訊いてみます?」

「うーん、どうせ無理だろうけど、言うだけ言ってみる価値はあるかな? 頼んじゃっても大丈夫?」

「首を長くして待っててねん」


 飄々と席を立ち、風呂場を監督している教師の元へ向かった。基樹が懸念している通り、外出許可をもらうのは困難だろう。ましてや、俺は教師に説教されたばかりである。その信頼度は底が知れているのだ……。


 しかし、ここで引き下がっては男が廃る! 俺は基樹の体が弱いだの、俺にとって唯一の親友だの、あることないこと言った後の土下座でフィニッシュを決めた。


「許可もらえました!」

「すごい! どうやったの⁉」


 基樹の嬉しそうな笑顔を見たら、まさか土下座したとは言えない。


「僕の巧みな話術にかかればね、始めて会った女でさえも股を開きますよ!」

「マジで最低だけど、さっそく行こうよ!」


 どちらにしても幻滅させてしまったか。それはさておき、浮かれて制服のまま外へ出ようとする基樹を引き止める。


「ちょい待ち。現地の警官に補導されても面倒だから、私服に着替えてから行きましょう。ちゃんと持ってきてる?」

「こんなこともあろうかと、ちゃんと私服を準備したよ。早く部屋に戻って着替えよう」


 既に基樹の荷物も運んであるため、嬉々として大部屋へ入ると、黒パーカーにジャージと言うエグザイルみたいな居出立ちの釈迦戸がいた。


「永介君どこ行くの?」

「自分らに関係あらへんやろ」


 現地のヤンキーと喧嘩しにでも行くのだろうか? 班の中に面倒な因縁を持ち込まれるわけにはいかない。


「おい、待てよ釈迦戸。……外出許可証なら、もらってあるぜ?」

「心の友よ。一緒に行こか」


 俺たちは目的のために一致団結し、夜の長崎を闊歩することになった。

俺はロングTシャツに紺のGパンで、基樹はジャージに黒パンツというラフな格好に着替えてからホテルを出る。


「そんで何しに行くん?」

「まだ何も食べてないから、これから食べ物を買い出しに行くんだ」

「お、そんならええとこ案内しちゃる」


 そう言って釈迦戸が得意気に連れて来てくれたのは、中学生だけで入るには敷居が高すぎる屋台だった。カウンター席は満員のため、その脇に置いてある長机の席に座る。


「おっちゃん、餃子とおでん頼むわ。あと、取り皿とウーロン茶も三つずつ」


 俺と基樹は大人の雰囲気に怖気付いているというのに、釈迦戸は堂々と手慣れた様子で主人に料理を注文していた。


「なんで屋台? オレたち入ってもいいの?」

「こういう機会でもないと行けんからな。それに酒さえ飲まなければ、ガキでも普通に振る舞える時間帯やろ」


 時間はそろそろ二十時になろうかという頃である。中学生って何時まで外出していいんだっけ? あまり夜を出歩かないものだから分からない。気にしない事にした。


「屋台には前々から行きたかったと?」

「せっかくやし、ご当地のグルメを食べ尽くしたいやんか」

「それは実家の家業と関係してたり?」

「まぁ、そんなもんや」


 釈迦戸に食べ歩きの趣味があったとは知らなかったが、彼なりに店の将来について考えた上で、今の自分にできることをしているのだろう。もし、現在も料理の修業をしている最中ならば、バスケに時間を割いている余裕はないはずだ。


「永介君の家って料理屋さんなの⁉」

「まぁな。今度、帰ったら御馳走したるわ」

「約束だよ!」


 基樹と釈迦戸が約束を取り交わしていると、さっき注文した料理が運ばれてきた。


「はいよ」

「おおきに。そんじゃ、いただこか」

「すごい美味しそう」


 小ぶりでありながら餃子は肉厚であり、綺麗な焼目をつけて丁寧に並べられている。調味料は潔く酢のみ。ニンニクの香ばしい臭みと、さっぱりした酢と油の混ざった匂いに鼻孔をしげきされ、俺は真っ先に餃子へ齧り付いた。


「あっつぅ! すげぇ熱い!」


 焼目はパリパリ、その逆側はモチモチとした食感である餃子の皮を歯で貫くと、中の具から一体どこに入っていたんだと驚く量の肉汁が迸った。


「ははは、村西君は大袈裟うあっつ!」


 基樹は微笑みながらおでんの竹輪を口にした瞬間、あまりの熱さに全身の毛を逆立てた。まるでベテラン芸人のようなリアクションにノっている余裕など無く、次に俺はおでんの方へ箸を伸ばした。


 具材は大根を選ぶ。割り箸でも簡単に切り分けられるほどの柔らかさで、それでいて全く崩れるということがない。箸にとってみると不透明でありながら、ずっしりとした重みを感じることができた。それなのに食べた途端に口の中で溶け消え、同時におでんの汁が溢れ出てくる。出汁を取ったおでんの汁は優しい味で、さっき食べた餃子の油を浄化するように体全体へ行き渡った。


「メッチャ美味い!」


 煮込んでいる時間からして違うのだろう、屋台で食べるおでんは家庭で食べるよりもいっそう美味しく感じた。あれだけあった餃子もおでんも、男子中学生三人にかかればすぐに平らげてしまう。


 それでも腹八分目と言ったところだろうか? 火のついた胃袋に少し物足りなさを感じていると、釈迦戸は男らしく自慢げに言ってきた。


「次は焼き鳥と、締めにラーメン行くで」


 一生、付いて行きます。

 中学生でありながら大人になったような新鮮な気分を味わい、地元では食べることができなかったであろうグルメを堪能しながら、俺たちは肩を並べて長崎の街を歩いた。


× ×


 結局、ホテルへ戻る頃には二十一時を超えていた。何事も無かったかのように風呂場へ行こうとしたら、そこで教師に見つかってしまう。外出する許可を受けていたとはいえ、どうしてここまで遅くなったんだと問い詰められたが、ホームシックになって公衆電話を探していたんです、とか意味の分からないことを言って難を逃れた。


 なんだかんだで充実した一日を過ごし、ぐっすりと安心して眠った次の日、朝食の時間に現れた基樹を見て樹理は驚愕していた。


「ちょっと、戻ってきてたなら教えてよ!」

「ああ、ごめん。遅くなったから部屋に行くの躊躇ったんだ」


 まさか夜にホテルを抜け出して、ラーメンを食べていたなどとは口が裂けても言えまい。このことは俺たちだけの秘密だ。


「体調は回復したの?」

「うん。すっかり元気だよ」

「信用ならないっての。次また報告しなかったら殴るから」


 言っている内容は怖くとも、彼女は心の底から安堵しているようだった。その様子から本当に従姉弟のことを心配していたことが分かる。これは二人の間でしか共有できない時間があってこそ、理解できる特別な空気なのだろうが、そんなものを親切に読み取ろうとするような奴は我が班に一人もいない。


「樹理は晩飯を食べた後も、風呂に入った後も、消灯時間までロビーで基樹のことを待ってたのさ。もう心配かけさせるんじゃないよ」

「余計なこと言わないで!」


 江戸っ子気質のくせに、無粋なことを言う国府台だった。まぁ、人が良いから友人の苦労を見過ごせなかったのだろう。樹理には今度、何か違う形で謝罪しよう。


 何はともあれ、これで班の六人が揃った。今日から気楽に修学旅行が楽しめることを期待していると、夏澤が無表情のまま基樹に接近する。


「で、一体いつ戻ってきたの?」

「…………」


 基樹は笑顔が固まったまま、汗腺が狂ったかのように冷や汗を垂れ流す。樹理の健気に帰りを待つ新婚みたいなエピソードを聞いた後では、屋台で呑気にラーメンを食っていたことが、どれだけ最低な行為なのか猿でも分かる。

 俺と釈迦戸は基樹を助けるため、この会話の流れを変えようと一肌脱いだ。


「そんなことより、ほらトロピカルなフルーツですよ! このパイナップルなんか、食べたらおっぱいプルンプルン、なんつって!」

「マンGO!」

「お前ら少し黙れ」

「……すみませんでした」


 昨日はくだらないダジャレで大笑いしていたというのに、目を見開いた樹理は基樹から視線を外さなかった。基樹は蛇に睨まれたカエルのような面持ちで、動揺を隠せていないまま言い逃れをする。


「き、昨日はぁ、夜の八時くらいには帰ってたんじゃないかなぁ? 疲れて部屋に戻った途端に寝ちゃったから、よく覚えてないんだよねー。たた多分、樹理ちゃんが入浴中にすれ違ったんだと思うよ?」


 嘘の中にも本当のことを交えながら話す。それだけで話にリアリティという信憑性が付随するのだが、相手の方が一枚上手だった。


「あんたって、嘘吐くと耳が赤くなるんだよねー」

「マジで⁉ あっ……」


 どうやら間抜けは見つかったようだな……。


「何してたの?」


 もはや言い逃れできない所まで追い詰められ、後はもう落ちるだけ落ちるしか選択肢は残されていなかった。俺にできるのは、せめて雰囲気を軽くするだけ。


「ごめんなさーい! 本当のことを言うと、基樹が戻った頃には夕食が終わってまして、僕たちでホテルを抜け出して食べ物を買いに行ってたんですよ! だから、アンジュさんと入れ違いになったというのは嘘じゃありません!」


 夕食の席で俺が説教された後、基樹がロビーにいたことは確かなのだ。それを裏付けするアリバイが保障しているため、俺が下手に出ながら強気に弁明すると、樹理は形だけでも納得したような態度だった。


「それならそうと先に言ってよね。あんたは虚弱体質なんだから、一緒にいるあたしまで気苦労が絶えないっての」


 自分は心配して帰りを待っていたというのに、その相手が遊んでいたのでは文句の一つや二つも言いたくなるだろう。それらは甘んじて受け入れることにし、さっさと心機一転して今日を楽しもう!

 しかし、次に基樹が発した言葉は、俺たちの予想を裏切るものだった。


「……うるさい」

「え?」


 腹の底から響くような唸り声。彼は身に付けていた重りを全て取っ払うかのように、頭を掻き毟って声を荒げた。


「うっせーな! いちいち小言を並べやがって! 心配してくれなんて頼んでねーし! お前は僕の彼女かよ⁉ 頼むから変に気を遣わないでくれ!」


 爽やかな朝食の場となるはずだった空間が、一気に凍りつくのを肌で感じる。彼が積み重ねていた鬱憤を爆発させようとも、それに俺たちは応える言葉を持ってはおらず、ただただ呆然とするだけだった。


「……ご、ごめん」


 かろうじて捻り出した樹理のか細い声。彼女自身、どうして従姉弟が怒っているのか理解できないでいた。


 樹理が困っているのを察した基樹は、自分がしでかしたことの恥ずかしさと、投げやりになってしまった不安の寂寥感に耐えられず部屋を抜け出した。その背中を追おうとすると、釈迦戸が動きを制する。


「自分が行くわ」


 今までドライな性格だと思っていた釈迦戸が、今は友人のために土壇場で人情味の溢れる行動に移っている。例え追いかけたとして、かける言葉が見つからなかった俺は立ち止まるしかなく、基樹のことは釈迦戸に任せるしかなかった。


 この修学旅行を通して距離が近くなったと勘違いしていたが、班のメンバーのことも自分のことも、まだ俺は何も分かっちゃいない。


× ×


 重苦しい空気のせいで喉に通らない朝食を済ませ、基樹と釈迦戸が戻ってきたのはホテルから出発するバスへ乗り込む頃だった。


 右の窓際から基樹、釈迦戸、俺、国府台という順に座る。そして、俺の後ろの座席に夏澤と樹理が物憂げに座っていた。


「で、どう話がついたのよ?」


 俺は後ろに聞こえないよう、通路を挟んで釈迦戸と内緒話をする。


「ちょいと考える時間が必要なだけや。今日中には何とかする」


 何とも頼もしい答えだ。どのような作戦であろうと、俺は全面的な協力を申し出た。


「さっきは下手を打ちましたけど、今度は大丈夫っすよ」

「失敗したのは準が下ネタぶっ込むからやろ」

「マンゴーに言われたくないわ! ただ響きがエロいだけのくせに!」

「うるっさいんだよ! くだらないことで喧嘩するな!」


 男二人で不毛な醜い言い争いをしていると、俺の隣に座っていた国府台の堪忍袋の緒が切れた。どうせだから彼女の見解も訊いてみることにしよう。


「……すみませんでした。でも、国府台さんも二人には仲良くして欲しいでしょ?」

「どうだか。ああやって感情を爆発させるのも、時には必要なんじゃないかねぇ? はっきり言えることは、一人で悩みを溜め込むよりかは断然マシだよ」


 流石は熱血スポーツ少女。なるべく穏便に良好な人間関係を保ちたいと考えている俺とは、根本から正反対である。なぜなら、彼女は他人と衝突することで、本質を受け止めるスパルタで前向きな考え方だからだ。


「それも一理ありますけど、アフターフォローには参加してくださいよ?」

「アタシも協力はしたいけど、基樹の抱えている悩みが何か分からない内は手の出しようがないよ。せめて、本人がどうしたいのかさえ教えてくれたら……」

「あれ? 僕の時とは対応が違くないですか? もっとこう、無理やりグイグイ引っ張って行くような手段に出ませんでしたっけ?」

「アンタのは分かりやすいからいいんだよ」


 えええー……。俺の心もセンチメンタル・ジャーニーするくらいに繊細で複雑なのだが、彼女に言わせればバスケさえしていれば解決することらしい。そりゃバスケはしたいけど、あの部の人たちとは一緒にプレイしたくない。


 気持ちの収め所に苦しんでいると、元気は無くとも話に耳を傾けていた基樹は釈迦戸と席を交換し、こちらの方へ身を乗り出して来た。


「オレは樹理ちゃんと仲直りしたい」


 俺だって早く二人を仲直りさせ、気兼ねなく修学旅行を楽しみたい。それは班のみんなが思っていることだ。大切なのは仲直りするためのプロセスである。


「喧嘩したのって初めて?」

「いや、何度かあるけど、いつもオレが折れて何か奢らされてたかな……」


 俺の妹と全く同じパターンだな。妹と遊んで無茶させたら泣き出してしまい、その口止め料として駄菓子か何かを買って帰った思い出がある。それと縁日では要注意だ。財布の中身がスッカラカンになるまで屋台で奢らされる。


 ……などと基樹の境遇に共感している場合ではなく、今回は奢るだけじゃ樹理の傷心は癒されそうにないぞ。とはいえ、思案しても別の方法が考えられなかったため、面倒見の良い国府台に相談してみる。


「それでも、反抗したのは初めてなんだろ? なぁ、どうして樹理に対して怒ったのか教えてくれないか?」

「……ここじゃ、言えない」


 それは引っくり返した意味で捉えるのなら、このバスの中ではない場所でなら言えるということだろうか。だが、今日はバスでの移動が中心になるため、どこかで下車しないと話の続きをすることができない。


「じゃ、次で降りたら聞かせてよ」


 それから暫くして、やっと目的地に着いた。ここは弥生時代の遺跡らしく、竪穴式住居やら、櫓やらが組み立ててあり、当時の人たちの生活を再現している。


 ここでは基本的に個人での自由行動であり、他の生徒たちは竪穴式住居に入ってみたり、当時の人たちを模した人形と写真を撮ったりして楽しんではいるのだが、なぜか俺たちは班でまとまって行動していた。


「おい、なんとかせぇや」

「僕に言われましてもね……」


 それもこれも、樹理が俺たちの後ろにくっ付いているせいである。てっきり、彼女は仲の良いグループの女友達と一緒にいると思っていたため、大っぴらに基樹の悩みを聞くことができずにいた。


 竪穴式住居を団体で縫うように歩き、青空から照りつける直射日光が責め立てるように旋毛を焼く。仕方ないので俺が彼女を連れ出そうとすると、今日の朝から今まで沈黙を守っていた夏澤が唐突に提案した。


「鬼ごっこしよ」


 意味が分からない。なぜ、ここに来て鬼ごっこをやる必要性があるのか? 懐かしい子供ワードに引っかかるものはあるが、少し冷静になって対応せねばなるまい。


「そんな子供じゃあるまいし、鬼ごっこなんてしませんって」

「タッチ。ブギーが鬼ね。負けたら罰ゲーム」


 俺の肩に触れるや否や、彼女は人通りを掻き分けて走ってしまった。


「馬鹿馬鹿しいっすねー。ま、あのくらい明るければ可愛らしいですけど」


 さりげなく近くにいた基樹の肩へ手を置こうとしたら、ささっと避けられてしまう。


「は? なんで逃げんの?」


 釈迦戸と国府台にも避けられる。次に樹理へ手を伸ばそうとしたら、彼らはタイミングを計ったかのように散り散りに逃げ出した。


「おい、ちょっと待てよコラ…………ウガああああぁぁぁぁーーーーッ!!」


 たまらなくなって追いかける。なぜ走っているのか自分でも理解できない。逃げられたら追いかける。まるで生まれついての本能が呼びかけるように、俺の体は駆け出さずにはいられなかった。


 ただ一つだけ言えることは、勝つために燃える対抗心が芽生えたことである。人をコケにする俗物共め、舐めんなよ!


 最初のターゲットは釈迦戸だ。体格の大きい彼は人通りを上手く駆け抜けることができず、遺跡の中心地点を立ち往生している。体力のありそうな彼を追いかけるのは困難のため、そこから抜け出される前が勝負だ。


 俺はバスケで鍛えた持ち前のフットワークを駆使し、他の生徒と衝突しないよう人混みの中を駆け抜ける。浅黒い肌のハゲ頭を手の届く射程圏内に収め、跳躍した俺は人垣を飛び越えて釈迦戸を捕まえた。


「タッチぃ!」

「やってもうた!」


 早々に一人を捕まえたことにより、これで逃げる人を挟み撃ちにすることができる。そして入り組んだ竪穴式住居に追い込めば、それだけで一気に有利だ。


 櫓に登った女子のスカートを覗く暇もなく、俺たちは次なるターゲットを探した。制服を着た画一性のある生徒がぞろぞろ歩いている中、明らかに一人だけ周囲から浮いている人物を発見する。


「いたぞ金髪ぅ!」

「回り込めやぁ!」


 俺が左、釈迦戸が右から行くことによって、国府台の挟み撃ちを狙う。その間の延長線上には竪穴式住居が密集しており、そこまで追い込めば袋の鼠も同然である。俺たち二人は反対方向から人混みを掻き分け、彼女を竪穴式住居へ逃げ込ませることができた。


 しかし、国府台は建物の陰に隠れてしまい、俺は彼女の姿を見失ってしまった。その上、あろうことか味方である釈迦戸の位置も把握できず、挟み撃ちするという連携を発揮することができない。策士策に溺れるとはこのことか。


 途端に不利な状況に陥っても、俺は慌てず冷静に状況の分析をする。ただ闇雲に走り回っているだけでは、例え国府台を見つけたとしてもスタミナ切れで息が上がってしまうだろう。おそらく、遺跡で鬼ごっこをし始めたのは俺たちの班でしかありえないため、近づく足跡を聞き分けていけば気配を察知できるはずだ。いつも周囲の会話を盗み聞きしている俺ならではの芸当である。


 今は他生徒の声をシャットダウンして耳を澄ますと、固く踏み固められた地面をザッ、ザッ、っと力強く蹴る音が聞こえてきた……。予想していたよりも近い。焦らず息を整えてから、俺は足音のする道の方へ飛び出す。


「キャッ!」

「ぐわっ!」


 突然、建物の陰から横向きで飛び出したものだから、走ってきた国府台と交差点で正面衝突する。お互いに額をぶつけて仰向けに倒れてしまったが、俺の動きが止まっていたおかげか、不幸中の幸いとして気を失うことはなかった。


「あ痛たたた……。すみません、大丈夫ですか?」


 先に俺が立ち上がって国府台を助け起こそうとすると、彼女は俺の右手を取ることなく仰向けのまま両手を口に当てていた。ぶつけたのは額なのに? そして気づく、俺も逆の左手で口を抑えていたことに。


 きっと国府台はぶつかった拍子に、唇と唇が合わさったと勘違いしているのだろう。きっとそうに違いないのだが、俺と彼女の間には気まずい空気が流れていた。彼女の白い肌は徐々に赤みを帯び、空を見上げる瞳は潤んで揺らぐ。


 こんなの第三者から見たらレイプ現場でしかない。早いとこ誰かに見つかる前に、なんとか俺だけで対処せねば……。


「おーい、国府台は見つ…………邪魔したわ」

「待ちやがれコラぁ!」


 国府台が倒れている現場を目撃して、即座に立ち去ろうとする釈迦戸を呼び止める。そして、なぜか彼の脇には基樹もいた。


「まさか鬼ごっこを利用して押し倒すなんて……」

「どこから湧いて来たぁ⁉」

「普通におったから捕まえたで」

「いやぁ、体力なくて……」


 出会った時から病人のような人相をしていた基樹にとって、太陽の光が降り注ぐアウトドアでの運動は体に悪かったか。

 まぁ、そんな男共のことはどうでもよく、俺は国府台を助け起こした。


「立てますか?」

「……うん」


 普段は姉御肌の強気娘だったくせに、俺の手を取る今の国府台は蝶よ花よと育てられた箱入り娘のようにしおらしい。そのギャップに俺の方までドギマギしてしまうと、様子を隠れ見ていた不審人物がレポーター風に現れた。


「おや、ここが噂のレイプ現場ですか? どれどれ……」

「お前は捕まってもいないのに出てくるなよ!」


 一応はツッコミを入れつつも、この時ばかりは空気を読もうとしない夏澤の図々しさがありがたい。国府台の態度はたどたどしいままだが、これでキスも無かったことにすればノーカウントとして忘れてくれるだろう。そうであってくれ。


 何はともあれ、残るは樹理の一人だけである。俺たちは再び遺跡で散開し、彼女の姿を探し回ったのだった。


「見つかりました?」

「どこにもおらんわ」


 けっこうな時間が過ぎてしまったというのに、俺たちは樹理を見つけることができないでいた。もう遺跡見学の時間が終わってしまうので一旦は集まったのだが、樹理以外で人数が一人足りないことに気づく。


「……そういえば基樹君は?」

「確かあっちに……って、走っとるで⁉」


 釈迦戸が指した方向には、遺跡より離れた丘の上で基樹が樹理を追いかける姿があった。すぐさま俺は基樹の加勢に行こうとしたのだが、追いかけている途中で彼が情けなく転んだら、樹理も立ち止まって彼の元へ歩み寄って行く。


 その美しい青春の光景を見ていて、なんだか二人の間には俺たちのような部外者が入り込めない繋がりがあるように感じた。そりゃあ、二人は従姉弟なのだから当たり前なのだが、結局は自分がいなくとも問題が解決してしまうことに、俺は内心でショックを受ける。


 まるで自分の存在意義が他人から否定され、自ら必死に肯定する被害妄想が膨らむことで、俺は他人が人を救おうなんて烏滸がましいとさえ考えた。自分の無力さを痛感して、そこから一歩も足を進めることができない。


 今までの面倒事を避ける自分では考えられなかったことだ。それゆえに、俺は地面から発生した闇に呑まれたかのように、醜い自己嫌悪に陥る。本当は仲直りを祝福するべきなのに、俺の心はドス黒く渦巻いた虚無で穿たれていた。


「走ろう」


 そう言って夏澤は俺の背中を叩く。


「え、見守った方が良くないか……?」


 意識が外の世界へ戻った俺は、ひとまず先へ進もうとする夏澤を引き止める。すると彼女は振り返って衝撃的な台詞を言う。


「生きてるなら齷齪しないでどうするの!」


 空から落ちてきたハンマーで、頭を殴られたような気分になった。確か俺の好きなブルーハーツの曲にも『ハンマー』という歌がある。前まではハンマーの意味を分からず聴いていたが、ハンマーには価値観を引っくり返すような効果があるということだろうか?


 考えている時間は無い。俺は夏澤の背中を追って、釈迦戸と国府台と一緒に、基樹と樹理の元へ駆けつけたのだった。


× ×


 今日中に行かなければいけない観光スケジュールの日程が終了し、俺たちはホテルへ帰るバスに揺られている。みんな移動ばかりで疲れたのだろう、車内は窓から差し込む夕日に照らされ、物寂しい静穏に包まれていた。


 いつもは耳障りな喧噪も、静かなら静かで退屈なものである。そして今日に限って、なぜか胸が騒いで眠くならない。暇潰しに本を読もうとしても、気持ちが追い立てられて内容に集中できない自分がいた。


 隣に座る夏澤は携帯ゲームに熱中していて、俺は話しかけるのを遠慮していたのだが、もう手持無沙汰すぎて退屈しのぎに何のゲームをやっているのか訊いてみた。


「それポケモンですか?」

「うん」


 ゲーム機の画面を覗き込んでも、見たことのないモンスターばかりで半信半疑だ。とはいえ、ポケモンなら俺も金銀までやっていたことがある。体力や技構成などのシステムは見慣れたものだった。


「誰と対戦を?」

「基樹」


 それなら席を交換して隣でやれよ……。技選択を盗み見られる不正の防止だろうか? 二人ともポケモン対戦にかけては本気らしい。


 ちなみに、基樹が使用しているモンスターは親子ポケモンのガルーラだ。初代から存在しているモンスターであり、カンガルーの怪獣みたいな見た目をしている。親の腹部にあるポケットに子供が入っている姿がラブリーなのだが、なんか対戦中に進化し出したぞ。


 新しいシステムに驚いていると、光に包まれた中から現れたガルーラの子供は、袋から飛び出して自立し、あろうことか一緒に攻撃している。そんなのってあり?


 夏澤のポケモンは親子の二段攻撃に耐えられず、あっさり沈められてしまう。お互いに残るは一匹ずつであり、次に彼女が繰り出したのは顔と胴体が一体化している、人型キックポケモンのサワムラーだった。サワムラーも初代から存在するポケモンとして認知度が高い。


「あ、サワムラーじゃないですか。懐かしいですねー」


 サワムラーは対戦中に進化することなく、手堅い猫騙しを放ってガルーラを怯ませた。俺はそのセコイ戦法に安心する。


「今はレート戦じゃ全く見かけなくなったけどね」


 レート戦とは何だろうか? 聞き慣れない専門用語が多すぎる。少しポケモンから遠のいている内に、急激な環境の変化があったようだ。それなのに、彼女がサワムラーを使い続けている拘りに興味が湧く。


「じゃあ、どうして使ってるんですか?」

「まずは、高い攻撃力と素早さにあるよね。その代わりに耐久は紙だけど、潔い種族値のピーキーさが魅力的かな」


 なんか急に饒舌になって語り出したぞ……。何が魅力的なのかは分からないが、自分から質問したことなので最後まで聞いてあげよう。


「それだけじゃなく、猫騙しで相手の体力を削った後に、特性捨て身からの飛び膝蹴りが当たれば大抵の相手は瀕死だよ。不意打ち、カウンター、マッハパンチで型を読まれにくいのも利点だね」


 聞いているだけでもモンスターっぽくないし、格闘家らしくもない卑怯な技を使うポケモンだった。それゆえにネタっぽくて好感が持てる。


「へぇ、サワムラー強いじゃないですか。どうして誰も使わないんです?」

「サワムラーの飛び膝蹴りが当たる確率は二分の一だから。タイマン性能は高いんだけど、三対三とか交代要素を考慮すると、読み合いのギャンブル性も高すぎるんだよね。だから不遇のマイナーポケモンって言われてる」


 確かサワムラーの飛び膝蹴りは外すと、自分がダメージを受けてしまうものだ。サワムラーの耐久力では次の攻撃で何もできずに倒されてしまうだろう。


「でも、ワクワクしない? マイナーポケモンでありながら、第一線で戦うために様々な工夫をして勝ち残ってきたんだよ? これほど読み合いに特化したポケモンは存在しないね。だから私は好き」


 熱の籠った力説で夏澤のサワムラー愛は伝わったが、やはり確実に勝ちたいのなら使用するべきではない。何事もリスクを避けた上で、最小限の力で課題を解決する選択をした方が賢明なのだ。


「面白そうですけど、外したら負けますよ?」


 不安は精神を摩耗するし、孤独は身を削られる。たった一度の失敗で奈落の底へ堕ちてしまうこともある。くだらないポリシーに人生の全てを懸けることはできない。


「ロマンだよ、ロマン」


 たった一言で彼女は挑戦することの素晴らしさを表し、さんざん迷った上にゲームで飛び膝蹴りを選択した。これが当たって勝利したのなら、俺は彼女のようなカッコいい生き方を肯定しても良いと思う。


 しかし、肝心なところでサワムラーは飛び膝蹴りを外してしまい、ガルーラに身代わりを許してしまった。これでは飛び膝蹴りも不意打ちも通じない。万策尽きる。


「クソがぁ! 厨ポケ死ね!」


 帰路を走る静かなバスの中で、錯乱した夏澤はゲームの電源を切った。大きな声を出したせいで眠っていた生徒たちが次々に起き、軽く車内はパニック状態になる。


「ちょっと、ちょっとぉ~、マナー違反だよ?」


 車内の異変にも気づかず、呑気にも基樹はシート越しに立ち上がって抗議してきた。そのタイミングに合わせ、夏澤は自分の鼻を抑えて声色を変えてから叫ぶ。


「犯人は転校生だ!」


 混乱している生徒たちは状況の整理ができておらず、言われるがままに視線を基樹に集中させる。その視線を一身に浴びている基樹は、他の生徒たち以上に何があったのか把握できていないため、間抜けな顔を晒すしかなかった。


「え、オレぇ? 何がぁ?」


 騒動の真犯人である夏澤は罪を基樹に擦り付け、自分は狸寝入りしやがる。俺は彼女の長話を全て忘れることにし、バッシングを受ける基樹との無関係を決め込んだ。

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