第2話 転校生
「ふ、○○県から来ました! 安瀬基樹(あんぜもとき)と言います! の、残りの中学生活は一年しかありませんが、卒業までよろしくお願いします!」
次の日に登校すると、朝のSHRに担任が転校生を教室に入れた。ぎこちない自己紹介を終えた転校生は、そそくさと廊下側の一番後ろの席につく。
このクラスのことだから転校生の存在に騒然となるかと思いきや、どうやら戸惑っている生徒の方が多いようだ。理由は彼の外見にある。伸ばしっ放しになっている灰色がかった黒髪に、睡眠不足と言うよりは末期の病人に近い目の下の隈。
彼を同級生として受け入れる度量が、果たしてこのクラスにあるのだろうか? 表向きには歓迎したとしても、裏では彼を腫物として取扱注意のラベルを貼るのか? それが判明するのに、きっと時間はかからない。
「樹理ちゃん、同じクラスだね」
朝のSHRが終わって早々、なんと転校生は親しげにクイーンビーである安瀬樹理に話しかけた。教室内の緊迫感が一気に高まる。
「…………」
「どうして無視するの⁉」
「…………気安く話しかけないでって言ったよねぇ?」
肩を強く揺らされるのに耐えられなくなった安瀬は、鋭い目つきで転校生を睨む。すると、平穏の危機を察知した取り巻きが集まってきた。
「え? 何々ぃ、もしかして知り合い?」
「名字一緒だし、従姉弟とか!」
「その通り……」
道理で珍しい名字が一致していると思ったら、まさかの従姉弟だったのか。それなら転校生が安瀬樹理に話しかけるのは当然のことなのだが、他の女子生徒は無理に場の雰囲気を明るくしようとする。
「えー、ヤバーい!」
「マジでウケんだけど!」
教室の真ん中で騒ぐものだから、後方にいる俺の席まで大きな声が響く。彼女たちに任せていては転校生の安否が心配になるが、もう少しだけ様子を観察してみよう。
「へ? ヤバいって何が? どこでウケたの?」
空気が凍りつく。
自己紹介ではどもっていたくせに、焦燥感で周囲の状況を把握できていない転校生は、なおも余計な事を饒舌に喋り出した。
「やっぱり都会の子は感性が違うね! 僕には樹理ちゃんの茶髪も失敗したようにしか見えないけど、これもオシャレなんだよね!」
「若白髪のあんたに言われたくないしぃ……」
悪気は無いのだろうが、転校生は褒めているつもりでも彼女の神経を逆撫でするだけであり、笑顔で耳を強く引っ張られる。
「痛い痛い! お、オレ何か変なこと言った?」
まぁ、遠目から見ている限りでは従兄妹同士の微笑ましいやりとりである。転校生は彼女が黙らせたことだし、これで俺が懸念していた心配も杞憂に終わるかと思いきや、そうは問屋が卸さなかった。
「ブヒャッ、ヒャッ、ヒャッ、ヒャッ、ヒャッ! 女にやられるなんて情けな!」
あろうことか、野球部の高橋が笑いながら割り込んできたのである。坊主頭の筋肉達磨。見ているだけでうっとおしい。
「いや、女性に手を上げる方が情けないよ」
下手な挑発をする高橋に対し、転校生は耳を解放された途端に正論を言う。その台詞は同性である俺が惚れそうになるほどカッコ良いとしても、悲しいことに決して最善の選択ではなかった。
「はぁ? 今なんて言ったんだ?」
皮肉を言われた高橋は筋肉を膨張させ、転校生の胸倉を掴む。話し合う余地のない暴力に訴えられては、流石の転校生もビビッて降参するかと思いきや、それまで以上の信じられない爆弾発言を投下した。
「え、ひょっとして二人は付き合ってるの⁉」
……大体、高橋が不自然な形で会話に入って来たのは、安瀬樹理に好意があるからだ。これは隠しているわけではなく、むしろ周囲への自己アピールであることは丸分かりなのだが、それを分かっていて転校生は爆弾発言を投下し続けた。
「まさか樹理ちゃんの好みがゴリラだったなんて……。すごいショックだけど、身内としてオレは応援するよ!」
「んなわけあるかぁ!」
胸倉を掴まれて身動きの取れなかった転校生の顔面に、安瀬の左ストレートが炸裂する。殴られた際に高橋の手が離れ、転校生は派手に吹っ飛んだ。……俺の前へ。
「おうわぁ!」
厄介事に巻き込まれる災難となったが、今の転校生を救えるとしたら俺しかいない。俺の前へ吹っ飛ばされたことを好機に、教室から抜け出すための算段を組み立てた。
「鼻血が出てるって! メディーーック!」
本当は鼻血など出ていないことを隠すために、転校生の鼻穴へありったけのポケットティッシュを詰め込む。
「あいよ! いっちょ、保健室まで運ぶよ」
信頼できる保健委員である国府台を呼び、俺が転校生の上半身、彼女が足を持って素早く教室を出る。運ばれている転校生の意識は朦朧としており、ますます病人のような顔色になっていった。
これは冗談ではなく、早く転校生をベッドで安静に寝かせなければいけないと思った矢先に、保険医は出張中で保健室に鍵がかかって入れなかった。
「こんな時に限って⁉」
「職員室から鍵を取ってくる!」
国府台が転校生の足から手を離した時だった。同じく保健室を目指して来た夏澤、釈迦戸、加害者である安瀬が遅れてやってきたのである。
「その必要はない!」
自信満々で言うなり、夏澤はヘアピンを取り出してドアの鍵穴に突っ込む。ガチャリ、という安っぽい金属音が鳴ると、彼女はドヤ顔で厳かにドアを開けた。
「ピッキングの特技については不問とします!」
保健室に入るため、再び転校生を持ち上げようとすると、釈迦戸が颯爽と一人で転校生を抱えた。何も言わずに軽々と運んでくれるなんて、流石は男子ッ!
……くだらないギャグは無かったことにして、転校生をベッドに寝かせてから、俺は夏澤たちに後を追ってきた理由を訊いた。
「手伝ってくれるのはありがたいですけど、どういった気まぐれで?」
「自分は夏澤に引っ張られただけやで」
よく見ると、うっすらハゲ頭に小さい手形が付いている。それだけで夏澤に何をされたのか想像がついた。
「あたしが殴っちゃたわけだし……い、一応だから!」
渾身の左ストレートをヒットさせておいて、今さら赤面しても可愛さの欠片も無い。ギャルの恐ろしさに肝を冷やしていると、夏澤も俺と同様に小さく身を竦めている。
「この馬鹿、本物だ!」
どうやら夏澤の竦みは武者震いだったようで、その視線の先は転校生にあった。彼女は前髪の隙間から大きく目を見開き、頬を紅潮させている。
急なテンションの上がりように俺たちは戸惑うが、意味深なことを言う夏澤のことを俺だけは無視できなかった。
「本物って、何が?」
オドオドした小市民ぶった態度でありながら、狭い範囲でのコミュニティに捉われない柔軟性と、暴力には決して屈しない芯の強さ。さらには言いたいことをはっきり口に出してしまう愚直さと、迷いながらも考え尽くされた個人の意見を併せ持ち、それでいて思考が自己完結していない。
度を越えた田舎コンプレックスがたまに傷だが、それゆえに大人が案出した処世術は身についておらず、困難に直面しても自分独自の方法で解決しようとしている。要するに、ただの気持ちの良い純粋な馬鹿だ。
以上、離れた席から聞いていたやりとりだけで分析した、転校生に対する俺からの評価である。実は夏澤の言う本物についても、ある程度の検討がついていた。
それは世の中の理不尽に反抗する意志だ。彼には立派な牙が生えている。
「……ここは、どこだろう?」
思っていたよりも早く転校生が目覚めたため、夏澤の見解は聞けずじまいになった。従姉弟の安瀬がいち早く彼の元へ駆けつける。
「もー、貧血で倒れるなんて心配させないでよね。気分は大丈夫そう?」
この女、自分が殴って気絶させたというのに、わざわざ転校生の記憶を改竄しようと教室から後を追ってきたらしい。なかなかのクズ……いや、茶目っ気を発揮しているが、怖いので口を挟むようなことはしない……できない。
「うん、大丈夫そう。いつになく優しいね樹理ちゃん」
「あたしはいつも優しいっての」
「ハハハハ……それで、この人たちは誰?」
乾いた笑いで誤魔化したな。話を逸らされた流れとはいえ、国府台から順に簡単な自己紹介をした。
「よろしく転校生。アタシの名前は国府台クロエ。みんな同じクラスメイトだから、顔を覚えておいて損はないよ」
「私は夏澤夕景。よろしく」
「……釈迦戸永介や」
いよいよ俺の番だ。俺は転校生に国府台のようなイケてる生徒側だと思わせたいため、爽やかな笑顔を意識する。
「どうも初めまして、村西準です!」
「あれ、ブギーの自己紹介ネタそんなだったっけ?」
「夏澤さんマジで勘弁してください!」
まだ昨日のギャグを引っ張りたいのだとしても、人前で恥ずかしい過去を掘り返すのは反則である。案の定、安瀬樹理に理由を訊かれた。
「村西って、夏澤からブギーって呼ばれてるの? なんで?」
「他人の白髪を抜かせたら……」
「わーーッ! 給食のデザートあげますから!」
慌てて夏澤の口を手で塞ぐと、彼女は右手の人差し指をピンと立てる。
「一週間ね」
必死の懇願は受け入れられたものの、その代償は高くついてしまった。もしかして、俺は一生このネタで強請られてしまうんじゃないかと悲観する。
「でも、あだ名があるのは呼ぶ時に便利だよね。ほら、従姉弟だと名字が一緒だからさ、ややこしいでしょ?」
あまり余計な事ばかり言うと、転校生の毛髪から根こそぎ引っこ抜くぞ……。あだ名についての話題は広げられたくないのだが、面倒見の良い国府台は快く承諾した。
「じゃあ、転校生が親しみやすくなるように、あだ名でも考えようか?」
「あたしは?」
みんなへ話を振ろうとしたら、徐に安瀬が手を挙げた。国府台は冷たく答える。
「安瀬は安瀬さ」
「何か変じゃない? あたしもあだ名で呼ばれたい!」
「それなら一発ギャグをしないと……」
「ちょっと黙っていてもらえませんかね?」
片手で夏澤の両頬を挟む。その際に周りの視線が集中してしまったため、場を繋げようと適当に思いついたあだ名を答えた。
「……えっと、そうっすねぇ。安瀬樹理なら、アンジュとか?」
「可愛い! それいいね!」
「良かったね樹理ちゃん」
そこまで絶賛されるとは思わなかった。今後は地の文でも安瀬を樹理、転校生を基樹と下の名前で呼ぶことにしよう。軽はずみなことを口にして罪悪感に苛まれていると、夏澤が俺の制服の袖を掴む。
「私のも考えて」
「いや、安瀬家のどちらかに、あだ名をつけるという話なんすけど……」
「不公平」
何を基準にして不満を訴えているのかは分からないが、自分勝手な夏澤の方から頼み事をするとは珍しい。彼女が望むとおりにあだ名を付けてやろう。
「夏澤だから……サワーはどうっすか?」
「うーん、悪くはないかな」
どうせ絶対に定着することはないだろうから、一応は及第点といった評価で充分だ。それこそあだ名を付けるのに本末転倒だが、自分が親しく呼ばれることに抵抗のある他二名にとっては関係ない。
「アタシはいいよ。というか、このメンバーなら呼び捨てにした方が楽」
「どうでもええから、この六人を集めた理由を教えてくれ」
俺と一緒に基樹を保健室まで運んだ国府台はともかく、夏澤に連れてこられた釈迦戸に至っては自己紹介以外で発言していない。もしも夏澤に狙いがあるとすれば、人数から察するにあのことだろう。
「修学旅行の班。これで決まったね」
そう、これで男女三人ずつの六人グループが結成できるのだ。後は樹理次第なのだが、自然とこのメンバーで固定されたようなムードが広がっている。
しかし、修学旅行の話をするには時間が無い。実は基樹を保健室へ運んでいた時点で、一時間目の授業は始まっていた。この学校は生徒の自主性を重んじるとかで、予鈴などのチャイムが放送されないのだ。
「修学旅行かぁ。どこに行くの?」
今日来たばかりの転校生が学校のルールを知る由もなく、呑気に話題を広げようとしてくる。本当は教室へ戻らないといけないが、俺は不思議と授業をサボりたくなった。
「行き先は京都ですよ、京都!」
「はぁ? 長崎ちゃうんかい」
「マジでッ⁉」
「……ホントに知らなかったの?」
釈迦戸からは驚愕の事実を発見され、樹理には可哀想な子を見る目で心配される。いやはや、道理でテンションが空回りしていたわけだ。修学旅行の行き先を勘違いしていたとは、思い込みというのは恐ろしい。
「ブギーはインドにしか興味ないから」
夏沢がフォローに回ってくれるのは嬉しいが、知っていたなら最初に話した時点で教えてくれよ! そのことを非難しようにも国府台がインドについて興味を示したため、奥歯を噛みしめて我慢する。
「へぇ、初耳だね。どうして?」
「ガンジス河でバタフライしたいんだって」
勝手なこと言うな! どうせ自分でも妥当な理由を答えられないとはいえ、小説のタイトルから持ってこられては浅はかなミーハーだと思われてしまう。
「隅田川でよくない?」
元ネタを知らない樹理に尤もなことを指摘され、反射的に言い返してしまった。
「よくないですよ! いいですか、今やインドは金融・ITにおいて先進国以上の期待を背負っているんです! 生半可な気持ちじゃ、いつか足元をすくわれますよ!」
「何と戦っとんねん? 川で泳ぐ理由になっとらんで」
「ですから、ガンジス川で泳ぐことによって、貧しい環境から抜け出そうとするインド人の鋭気を感受するんですよ!」
実際に激しくバタフライする動きを見せ、揚げ足を取る釈迦戸のことを黙らせる。いくらドン引きされようとも、基樹だけは優しく同意してくれた。
「確かにインドは魅力的な国だよね」
「お、話が分かりますなぁ」
「沢木耕太郎の『深夜特急』なんか読むと、オレも一人でユーラシア大陸を突っ切るような旅に出たくなるなぁ」
読んだことのない本のタイトルを出され、会話が急停止する。
そもそも俺は本を読むという習慣が身についておらず、『ガンジス河でバタフライ』も工藤官九郎が脚本を書いたドラマ版でしか知らないのだ。
「マカオでのギャンブルも面白かったよね。よく本は読むの?」
俺が反応できずに固まっていると、夏澤が助け舟を出してくれた。いかにも読書家らしい会話が始まる。
「あっちでの娯楽は少なかったからね。読むスピードは遅いんだけど、学校の図書室から頻繁に借りてたよ」
その後も二人はお勧めの本を紹介し合い、すっかり他の四人は蚊帳の外だ。手持無沙汰になった俺たちは気まずそうに視線を交わすと、唐突に樹理が発言した。
「……長崎の話じゃなかったの?」
そうそう、確か修学旅行の話題だったはずなんだよ。どうして話が逸れてしまったのか不思議にさえ思った時だった。
「待って、足音が聞こえる……」
すぐさま耳を澄ますと、国府台の言う通りペタペタとサンダルを引っかけるような足音が聞こえてきた。堂々と授業をサボっている俺たちは危機感により、研ぎ澄まされた思考が以心伝心する。
決死のアドリブがスタートした。
「寝ろ」
「ぶぐぅ……⁉」
まずは近くにいた夏澤が基樹の鳩尾に拳を打ち付け、再びベッドの上へ沈んでもらう。その間に国府台は救急箱、樹理は目薬を保健室から拝借する。これで準備は完了した。後はそれぞれの演技力が試される。
国府台は体温計を抑え、樹理は泣き真似をし、それを夏澤が介抱している横で釈迦戸が基樹に心臓マッサージを行う。……あれ、俺は?
誰かが来る前に、基樹を総出で看病しているフリをしなければいけない。こうして迷っている間にも、足音は着実に近づいてくる。正常な判断ができないまま、俺は苦肉の策に出た。……マウストゥーマウスである。
「あなたたち、何をしてるの⁉」
寝ている基樹の口に俺の唇を押し当てた時、間一髪で綾部教諭がドアを開けて入ってきた。俺はゆっくりと振り返り、半ベソになりながら質問に答える。
「……人命救助です」
「ふざけるのも大概にしなさい! そんなことがあるわけ――ひぃっ、死んでるぅ!」
剣幕な表情で迫ってきた綾部教諭は、基樹の顔を見るなり腰を抜かした。なるほど、白髪に目の下の深い隈を見れば、初めて会った人は基樹が死んだと勘違いしてしまうだろう。これで教師も騙せたし、後は基樹が目を覚ませば解決だ。
もう起きて大丈夫だと、そっと基樹に耳打ちをする。
「…………」
返事が無い。ただの屍のようだ。
ここまで死んだフリを極めたら、もはや一種の芸術だな。ほら、こうやって口の上に手を翳しても、全く吐息を漏らさない。
「え、呼吸して……なくなくない?」
樹理が嘘であってくれと願うように呟いた瞬間、俺たちは基樹が本当に死にかけていることを悟った。
「心臓マッサーーァジ!」
「合点や!」
俺が気道を確保してから、釈迦戸は両手で胸越しに心臓へ刺激を与える。慎重さと素早さが求められる作業に室内の緊張感が高まる。
「きゅ、救急車ぁ!」
「落ち着いて!」
綾部教諭が取り乱しているのを国府台と夏澤とで抑える。事件が社会へ露見することと、基樹の命が風前の灯火であること。どちらにせよ迷っている暇は無い。
タイミングを計るため3、2、1とカウントし、俺は覚悟を決めて人工呼吸を行う。深く空気を吸った後に、ありったけの息を基樹の肺へ流し込んだ。
「うおげぇッ!」
見事、魂の息吹は基樹を蘇生させることに成功した。彼はベッドから飛び起き、床へ崩れ落ちて体を痙攣させている。元気そうで良かった。
「ヒィィィィっ! 生き返ったああああッ!」
「人命救助ですってば!」
今度は糸が切れたように綾部先生が気を失ったため、俺たちは彼女をベッドへ運んで休ませる。そして何事も無かったかのように保健室から抜け出し、無言のまま誰にも気づかれないように教室へ戻った。
…………基樹を置いて。
× ×
昇天する一歩手前から帰ってきた基樹を含め、夏澤、釈迦戸、国府台、樹理、俺の六人は目出度く修学旅行中に自由行動する班として正式にまとまった。当日のスケジュールも話し合いで決まり、後は個人で荷物の準備と整理をするだけである。
そしていよいよ、修学旅行を明日に控えていた、お茶の間での夕食のことであった。ちなみに、村西家の家族構成は祖父、父、母、長男、長女、俺、次女、三男の八人家族である。祖父は風呂、長男は外に出かけていて不在だ。
古き良き日本家屋とも呼べる我が家のお茶の間で、家族六人テーブルを囲み団欒している際、二つ年上である高校二年生の薊姉ちゃんが話題を振ってきたのだ。
「あんた明日どこ行くの?」
「長崎だよ」
「長崎ってどこ⁉」
好奇心旺盛である末っ子の律が目を輝かせて訊いてくる。小学五年生ともなれば、そろそろ地理についても学ぶ時期だろう。俺は勉強の意味を込めて、問題を出してみた。
「九州って言えば分かるか? 九州地方の都道府県を全て答えてみ?」
「えっと、九州は福岡、宮崎、鹿児島……佐賀! 他にもあったの⁉」
全て答えられないとしても、その返しは予想外だったな……。俺が秘境に行くと勘違いさせてしまう前に、残りの県を律に教えてあげようとすると、二つ年下である中学一年生の雫が会話に参加してきた。
「九州って言うくらいだから、きっと九つの県があるんだよ」
「そうかぁ! 雫姉ちゃんスゲぇ!」
いや、間違った考え方ではないんだけどね、それは廃藩置県する前の話であって、現在の九州は八つの県に分かれているんだよ。
……などと訂正して質問されながら説明するのは面倒なので、再び食事に集中した。すると、また薊姉ちゃんの方から目配せしてくる。
「お土産よろしくね」
それが狙いか。買いたいのは山々だが、持って行ける金額には限りがある。お土産代の上限額は五千円だとか言って、親父がそれ以上の小遣いをくれなかったのだ。
「小遣いちょうだいよ」
「仕方ないなー」
薊姉ちゃんから千円だけ貰うことを約束していると、その一部始終を見ていた雫が艶っぽい表情でおねだりをしてきた。
「準お兄ちゃん、雫にも買って来てね?」
「期待していてくれ」
「おい、その差は何だ?」
俺が甘やかすせいで、中学一年生にして魔性の女となりつつある雫だった。嫉妬に燃える薊姉のことは流して平然と食事を続けると、いきなり律が立ち上がって宣言する。
「ぼくは沖縄がいい!」
長崎に行く俺に対しての当てつけだろうか? 俺に言われても困るため、大黒柱である親父に任せた。
「親父に頼め」
「お父さん沖縄に行きたい!」
仏頂面で食事をしていた親父の動きがピタッと止まる。末っ子に思い出を作ってあげられない無力感を押し出し、本当に申し訳なさそうな表情を取り繕った。俺も繰り返し何度も騙されていた立場から言わせてもらうと、それが大人のやることか?
「お父さんなぁ、お仕事が忙しくて沖縄に行けないんだよ」
嘘吐け。店番サボってパチンコに行ってただろ。積年の恨みから怒りに震えたが、そのことを言ってしまうと後で俺が親父に小遣いを減らされてしまうため、ここは大人しく黙っているしかない。
「じゃあ、ぼくがみんなを旅行に連れてってあげる!」
何とも子どもらしい短絡的な発想だが、その純真さには無視のできない輝きがあった。甲斐性無しの父親に反して、末っ子の成長を目の当たりにした親父は頬を涙で濡らす。その傍で優しく見守っていた母も涙目になっている。
「泣くなよ!」
「うう……。パチンコ行ってごめんなさい~~!」
「息子の前で懺悔しないでくれる⁉」
何が悲しくて親父の情けない姿を見なければならないのか。どんなに遺伝子が強力だろうと、俺は絶対に親父みたいにならないと誓った。
「飲み過ぎですよ」
母は自分の涙を拭うと、赤い顔をした親父を介抱した。子どもたちに何か催促されたら、酒に逃げるという二段構えである。今回はその作戦が裏目に出たようだ。
「風呂上がった」
家族と夕食の時間を合わせず、風呂に入っていた祖父が居間へ戻ってきた。
「次俺入る!」
この空間に嫌気が差した俺は早く風呂に入り、明日の準備をして寝ることに決めた。残りの飯を掻っ込み、自分の分の食器を流しへ片づけるために立ち上がる。
「ちょっと待って」
食器を持って歩き出した瞬間、薊姉が俺に足払いした。倒れても食器だけは守る。
「あっぶね! 何すんだよ⁉」
「わたしが先に入る」
「えー、雫も今の内に入っときたい」
二十一時から始まるテレビのドラマ番組を視聴したいがために、姉と妹は我先にと風呂場へ駆け出した……。
あまりの理不尽さに打ちひしがれていると、二人を見送った祖父が俺の方へ手招きをする。もしかして小遣いでもくれるのだろうか?
「涯」
「俺の名前は準だけどね! 何ッ⁉」
涯は兄貴の名前だ。小遣いをくれるわけではないのなら、もう俺は祖父に八つ当たりするしかなかった。
「爺ちゃんは芋焼酎がいいなぁ」
「知るかッ!」
ちゃっかり孫の行き先を把握している抜け目のない祖父だった。
「もう、早くお夕飯食べてください」
親父の話では昔の祖父は頑固爺だったというが、今は見る影もないような温和な表情を浮かべている。認知症になるのも時間の問題だろう。
「ねーねー、準兄ちゃん。沖縄ってどこにあるの?」
小学五年生にしてアホの才覚を見せる弟の将来が不安になってきた俺は、学校の教科書に載っている日本地図を見ながら地理を教えたのだった。
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