心残りのあなたに
二年前に死んだ夫の幽霊が見つかったと役所から連絡が来た。
「××町の山中で幽霊となっているところを県の職員に発見されました。その場から移動する様子はないので地縛霊だと思われます。一般的にはその土地に何らかの未練や心残りがあることで地縛霊となるのですが、心当たりはありますか?」
そこは夫のケンイチさんが生まれ育った町で、山もケンイチさんの実家からさほど離れていないところにあったが、私はその山について何も知らなかった。ケンイチさんの実家には何度も行ったことがあり車でその山を通ったこともあったけど、あの山に地縛霊になるほどの執着があるだなんて話は聞いたことがない。
後日、役所の人に案内され現地に行くことになった。舗装された山道の途中で車を駐め、山の中をスマホのGPSアプリを頼りに三十分ほど歩くと開けた場所に出る。
一本のシイの木に寄り添うように半透明のケンイチさんが佇んでいた。目は虚ろで私達が近づいてもなんの反応もない。話しかけてもこちらを見ることすらなく、ただ人形のように微動だにせずそこに居るだけだった。
あまりにも反応がなかったので一緒に来た役所の人に訊いてみた。
「あの、ケンイチさんと話すことはできますか?」
「死んですぐなら降霊術などで意思の疎通がとれることもありますが、死後二年ほどが経過しているので難しいでしょう」
普通の人が幽霊となって現世に留まれるのは長くて十年くらいだが、人としての意識はもっと早くに失われてしまうそうだ。たいていは死んでから数ヶ月で未練だけを抱えて彷徨う亡霊になってしまうらしい。
「旦那さんの場合はだいぶ弱っているのでこのままだと早ければ半年、遅くとも五年で自然に成仏すると思います」
そう説明した後、気まずそうに書類を渡してくる。
「申し訳ないのですが、ここは県が管理する土地なので一ヶ月以内に立ち退いてもらう必要があります。可能性は低いのですが悪霊化するケースもあるので……」
書類に目を通すと一ヶ月以内に立ち退かなかった場合は強制成仏が執行されると書いてある。一緒に渡されたパンフレットには友好的な成仏のさせ方や初心者でも読める祝詞が記載されており、巻末には最寄りの神社や寺の連絡先も書いてあった。
「強制成仏と友好的な成仏って何が違うんでしょうか?」
「やってることはたいして変わりませんが、しいて言うなら気持ちの問題ですかねぇ」
気持ち、か。それは確かに大切だと思う。
夫が亡くなり幽霊になったのに、その処分を役所に丸投げするのはあまりにも愛がない。
そう、私はケンイチさんを愛している。その気持ちは死後二年経った今も変わりはない。
「旦那さんの状態だと専門家の手を借りずとも塩で清めたり祝詞を読むだけで成仏させることは可能だと思いますよ。家族の手で成仏させてあげるケースもよくあります」
それから役所の人は「先に戻ってますね」と言って車を駐めた方に戻って行った。気を遣って一人に、いや、二人にしてくれたのだろう。
役所の人の姿が見えなくなってから改めて周囲を見回したが、なんの変哲もない場所だった。自然が豊かで、木々が生い茂っていて、土が湿っている。どこを見てもよくある山の景色でしかなく、ケンイチさんがこの場所に執着する理由はわからなかった。
「…………」
人が急逝したときは未練を抱えていることが多いので幽霊になって家族などの元に現れることが多いと聞いていた。けれど、ケンイチさんは急な事故で亡くなったのに幽霊になって私の元に現れることはなかった。
ケンイチさんが来なかったのは、私が正しく愛していたからだと思っていた。私は正しくケンイチさんを愛していたのだから、ケンイチさんも正しく私を愛していたはずだ。私達の生活には充分な愛があったのだから満足して成仏したのだろうと、そう思っていた。
それなのに私の知らないところで幽霊になって、私の知らない未練を抱えて地縛霊になっている。ケンイチさんを愛していても釈然としないものがある。
たしかに私の元に来なかっただけで別のところで幽霊になっているかもしれないと思うことはあったし、不安もあった。けれど私はケンイチさんを愛していたからそんなことはないと、私達は正しく愛し愛されていたのだと信じていたのに、この仕打ちだ。裏切られた気分だ。
私の愛は伝わっていなかったのだろうか? ……私は愛されていなかったのだろうか?
嫌な気持ちを振り払うように首を振った。もう帰ろうと思ったとき、何かが太陽の光を反射しているのに気づいた。
ケンイチさんの頭上の枝に何かがぶら下がっている。背伸びをして手に取ると、それはカタバミをくわえた青い鳥のペンダントだった。
「この青い鳥はカワセミだよ」
そう、ケンイチさんが教えてくれたことを私は思い出していた。
ケンイチさんはアルバムを作るのが趣味だった。
スマホで撮った写真を印刷して、アルバムに一枚一枚丁寧に貼り付ける。写真の配置を考えるだけでも数日かけていたし、シールやメッセージカードも使ってオシャレな装飾をしていた。写真をクラウドに保存するよりもアルバムにまとめた方が自分の手で思い出を独占するみたいで好きなんだ、というようなことを言いながらよくアルバムを見返していた。
私も何度かそのアルバムを見せてもらったが、その中にハイネックのセーターを着た女性の写真があった。
他の写真はメッセージカードでその人との関係性や写真を撮ったときの状況が書かれていたのに、その女性の写真にはメッセージカードもなければシールなどの装飾もされておらず、ただ写真だけが素っ気なく貼られているだけだった。しかしそれが逆に特別性を感じて不穏な気持ちになる。
彼女は大学のサークルの後輩だとケンイチさんは言っていた。その後輩はサトウさんという名前で、アクセサリーを手作りするのが趣味なのだという。
じゃあ彼女がつけてるこのペンダントも手作りなの? と私が訊くとケンイチさんはそうだよと答えた。そのペンダントはサトウさんが作ったものだから世界に一つしかないのだと、やけに親しげな口調でケンイチさんが言っていたことを今でも覚えている。
その世界に一つしかないペンダントは山の中にあるシイの木にぶら下がっていて、今は私の手の中にある。
「…………」
私はケンイチさんを愛しているのだから、サトウさんと連絡を取るべきだと思った。
ケンイチさんのアドレス帳にサトウという名前は何人かあったが、どれも男性で私の探すサトウさんではなかった。ならばとケンイチさんの友人に片っ端から聞いて回ったが、芳しい結果は得られなかった。
手詰まりになり諦めかけたそのとき、サトウさんのことを知っているという人が現れた。その人はケンイチさんの大学時代の友人で、卒業後はケンイチさんと疎遠になっていたけど人づてに私がサトウさんを探してると聞いて連絡を取ってくれたそうだ。
その友人から話を聞くと、彼女はケンイチさんが言っていた通りサークルの後輩だったが、ケンイチさんと特別親しくしていたわけではないらしい。
「彼女は二年か三年のときぐらいにはサークルに来なくなったから、つきあいもそれっきりだったよ。ケンイチも連絡を取ってる様子はなかったな。それからしばらくして彼女が大学を休学したって話を聞いたときも、ケンイチは興味なさそうだったよ」
休学の話は初めて聞いたのでなぜ休学したのか訊ねたが、理由までは知らないと言っていた。
「あの、サトウさんと連絡をとりたいんですけど連絡先をご存じですか?」
「俺は知らないけど、知ってそうな人なら紹介できるよ」
そう言ってサトウさんと同郷の知人を紹介してもらえることになった。
数日後、その知人から連絡が来たのでケンイチさんが亡くなったこと、生前のケンイチさんはサトウさんと親しくしていたようなので連絡を取りたいという旨を伝えると「それは無理です」と言われた。
「彼女、行方不明なんです」
思いがけない言葉に驚いて、行方不明ですか? と聞き返すと、知人はそうですと答えた。
大学三年の春、帰省していたサトウさんが自宅に戻るため実家を出たのを最後に行方がわからなくなったらしい。
「彼女の両親は今でも彼女のことを探してるんです。だからどんな些細なことでもいいので、彼女の行方について何か手がかりになるようなことはありませんか?」
そう、すがるように問いかけられる。私に連絡してきたのも少しでもサトウさんの手かがりを探すためのようだった。
教えてもらったサトウさんの情報提供を求めるサイトを開くと、そこにはサトウさんの顔写真、失踪時の服装や最後の足取りなどが事細かに書かれている。サトウさんが失踪した当日に撮った写真もあり、実家を出る直前に母親と一緒に写ったサトウさんはペンダントを身につけていた。
それは、世界に一つしかないカタバミをくわえたカワセミのペンダントだった。
「……すいません、お役に立てないようです」
私は電話を切り、手の中のペンダントを見つめた。サトウさんが失踪したときに身につけていたペンダントが、ここにあった。
深夜、私はケンイチさんのいる山の中に来ていた。夜の山は昼間とは印象が違い何度か迷いそうになったが、GPSアプリのおかげでなんとか辿り着けた。
ケンイチさんは以前と同じ場所に佇んでいたが、心なしか姿が薄くなっている気がする。役所の人が言っていた通り、成仏する日が近いのかもしれない。
私は持ってきたシャベルを握ると、ケンイチさんの足下を掘り始めた。懐中電灯の明かりだけを頼りにシャベルを地面に突き刺し、土をすくい上げ、穴の外に捨てる。それら一連の行動をただ無心で繰り返し、穴を掘り続ける。
三十分ほど掘るとシャベルの先端に何かが当たったので、そこからは手で掘り進める。白い石のようなものが見えたので丁寧に掘り起こすと、骨が出てきた。
それは長骨だったが、その骨が動物のものなのか、それ以外のものか、見ただけで判別できる知識はなかった。なおも掘り進めると、さらに大きな骨──人間の頭蓋骨が出てきた。
「…………」
この頭蓋骨がサトウさんなのかどうかはわからない。なぜここに埋まっているのかもわからない。何もわからない。何も、何も。
ただ、ケンイチさんは私の元ではなくこの頭蓋骨が埋まるところに幽霊として現れたのだ。ケンイチさんの未練はここにあって、心残りはこの頭蓋骨だった。
それが、悲しかった。ただただ、悲しかった。
だって、これは、愛じゃないか。こんな山の中にまで来て、大きな穴を掘って、埋めて、死んだ後は幽霊としてここに縛される。これは愛がないとできないことだ。彼女を独占するための営みだ。ケンイチさんがこの頭蓋骨の人を愛していたのはいやでもわかった。
結局、私は愛されていなかったのだ。いや、少しは愛されていたのかもしれないが、ケンイチさんの一番ではなかった。
ケンイチさんのために料理を作ったり、誕生日を祝ったり、サプライズでプレゼントを用意したり、一緒に旅行に行ったり、二人の時間を大切にしたりと、私は正しくケンイチさんを愛したのに、ケンイチさんは私を一番に愛してくれなかった。なんて惨めな女なのだろう。
私は頭蓋骨をそっと地面に置き、ケンイチさんを見上げた。けれど、ケンイチさんの姿はそこにはなかった。
懐中電灯を手にして周囲を探すと、少し離れた場所にケンイチさんを見つける。ケンイチさんは一本の木に寄り添うように佇んでいた。
その木に近づき、ケンイチさんの頭上を見る。枝に指輪が引っかかっていた。
「…………」
私はまたシャベルを握り、穴を掘り始めた。穴を一つ掘ったばかりで体は疲れ切っていたが、無理矢理体を動かし掘り進める。
また、人の頭蓋骨が出てきた。今度の頭蓋骨は後頭部が砕けていた。
私は立ち上がり、ケンイチさんを探したけどまた姿を消していた。懐中電灯で周囲を照らす。やはり少し離れた場所にケンイチさんを見つけたので、近づくと頭上の枝にキーホルダーがぶら下がっていた。
シャベルで穴を掘る。疲労困憊で目に見えて穴を掘る速度は落ちていたが、何も考えず、何かの義務であるかのように穴を掘り続けた。
頭蓋骨が出てきた。体が疲れ切ったせいなのか、もうなんの感情も沸いてこなかった。
やはりケンイチさんがいなくなっていたので周囲を探し、木の傍にいるのを見つける。立つのもままならないくらい疲れ切った私がふらふらと歩いて行くと、体が浮遊し、視界が回転し、全身をしたたかに打ち付けた。
何が起こったのかわからず混乱したが、数秒の後、自分が穴に落ちたのだとわかった。暗さと疲労で木の根元に掘られた穴に気づかず、そこに落ちたのだと。
それは深さが一メートルぐらい、縦に一.六メートル、横が六十センチほどの縦長の穴、私の体がちょうど収まるぐらいの大きさの穴だった。
そう、ちょうどだ。ちょうどピッタリ、私の体が収まるサイズの穴。
だから私は、これが私のための穴なのだとすぐ理解できた。私のサイズに合わせた、私を埋めるための穴。急な事故で死んでしまったから使われることはなかったけど、ケンイチさんが事前に掘ってくれていた私のためだけの穴。
ケンイチさんが穴の上から私を見下ろす。生前よく私に向けていた、優しく柔らかな眼差し。ケンイチさんは微笑みながら両手を伸ばし、私の首を絞める。
幽霊だからかさわられた感触はなく、ただ冷たさだけがあった。形のない重さで押さえ付けられているような圧迫感があり、呼吸ができなくなる。私は苦しさに喘ぎながら、愛を感じていた。
そう、これは愛なのだ。私にはわかる、これがケンイチさんの愛の形なのだ。
私がケンイチさんを愛していたように、ケンイチさんも私を愛してくれていた。愛がなければこんな大きな穴を掘ることはできない。つまり私の愛は正しかった。私は愛されなかった惨めな女なんかじゃない、ちゃんと愛されていたんだ。
ケンイチさんに愛されていたのだとわかって、嬉しさで涙が出た。自然と笑顔になり、酸欠で気が遠くなる。
私はポケットに入れていた塩を掴み、ケンイチさんを振り払うように塩を撒いた。
「…………っ!」
声にならない悲鳴を上げ、ケンイチさんが悶えながら私から離れる。撒いた塩に当たった部分が削れるように透けていた。
呼吸ができるようになった私はむせながら役所の人からもらったパンフレットを取り出し、書かれている祝詞を読み上げる。信仰心がない私が読んでも効果があるのか不安だったが、ケンイチさんはのたうち回って苦しみ始めたので充分に効果はあるようだった。
苦痛に顔を歪めながら、何かを懇願するようにケンイチさんが私のことを見ている。私はその目線から何を言いたいのか察したが、無視して祝詞を読み上げ続けた。
たしかにケンイチさんは私のことを愛してくれたし、私もケンイチさんのことを愛していた。しかしだからといって殺されてやるいわれはなかった。
心を込めて、丁寧に、消滅を祈りながら祝詞を読み上げるとケンイチさんは陸に上がった魚のようにぐったりしていき、体も徐々に薄くなり、やがて煙のように消えてしまった。
念のためケンイチさんがいた辺りにもう一度塩を撒き、穴から這い出た。疲労が限界に達した私は仰向けに倒れる。穴に落ちたときに打った全身が痛み、絞められた喉はまだ苦しいし、疲れすぎて気持ち悪くなっていたけど、晴れ晴れとした気分だった。
急な事故で死んだのに幽霊になって会いに来ることもしなかったケンイチさんにずっと釈然としないもやもやを感じていたけれど、それが払拭されてとても気分が良かった。もしかしたらケンイチさんに愛されていなかったのではないかという不安もあったが、それも解消されて気分爽快だった。
私の愛の正しさは証明された。だからケンイチさんにまつわる感情に心残りはもう何もない。これからは新しい気持ちで前を向いて生きられると思った。
空が白み始め、いつの間にか夜が明けていた。もうそんなに時間が経ったのかと驚きながら体を起こし、昇り始めた朝日に目を細める。
私は最後にケンイチさんとの思い出を振り返ろうとしたけど、もう、顔も思い出せなかった。
BOX 坂入 @sakairi_s
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