第9話 パワーかフォースか

 眩しさに目を覚まし、眩しくて再び目を閉じると、瞼の上にキスが降ってきた。


〈あ、ん〉


 一瞬〝彼〟かと思ったけれど、愛してるという声が聞こえてこないので慌てて目を開けると、悠河が笑っていた。


「悠河……!?」

「なに驚いてんだよ。他に誰がいるんだよ」

「あ、ううん、家と間違えちゃった」

「なんだ、寝ぼけてんのか。朝風呂行くぞ」

「あ、わたしも行く、待って」

 凛音は急いで身支度をして、悠河の後を追った。


 女風呂は凛音の他には誰もいなくて、貸切露天風呂のようにゆったりと静かだった。まだ涼やかな朝の風を肌に感じながら凛音は岩風呂に身体を沈めた。少しぬめりのあるまろやかな湯に肌がつるつると滑る。

「なんて気持ちのいい朝なのかしら」と、凛音は口に出してみた。湯舟に注ぐ源泉かけ流しの湯の音だけが響いている。この瞬間、この空間、この感覚、一瞬も留まることのない「今」の連続の中で、これは、しあわせとかそんな言葉にできるものじゃない……、と凛音は思う。なんだろう、肚の底から熱くほとばしるこの感覚、生きている、ここにいる、という歓喜のようなもの、愛というより力が湧く感覚に近い。

 パワーだ、湧き上がるパワー。とても静かで、そして沸々とし、熱く、そしてクール、穏やかで、そしてうねるような。至福とは「静」じゃなくて「動」ではないだろうか、と凛音は思った。

 愛してるってそういうことかしら、わたしは今この瞬間が、とても愛しい。


〈間違えるな。どの瞬間も、だ〉


「あ……」


〈どんな瞬間も。たとえ至福にほど遠く思える瞬間でも、至福であり得る。そして愛しい〉


「え?」


〈何が起こっても、きみへの愛だ。すべてはパワーだ〉


 遠くで風呂桶のコロンという音が響いた。肩先にキスが舞い降りる。そして七番目の頸椎にも。凛音は目を閉じる。


〈戦うな〉


「え?」と、凛音は思わず振り向いた。けれど、もちろんそこには誰もいないし、〝彼〟はそのまま何も言わずに気配を消した。


「『愛してる』じゃなくて、『戦うな』って言ったよね。どうして?」


 問いかけてもなんの返事もなく、湯船から露出していた肩先が急に冷たく感じられて、凛音は思わず湯に深く沈んだ。いつもと違う〝彼〟に、湯の温かさとは裏腹な冷たさを感じた。


 凛音が部屋に戻ると、ドアの鍵が掛かっていた。悠河は長湯を楽しんでいるのだろう。わたしの身支度より長いなんて、とクスリと笑いながらドアを開けたら、悠河がiPhoneを手に振り返った。

 ハッとした息遣い。少し慌てた様子が醸し出す違和感。ぎこちなく強張った表情。携帯から漏れ聞こえる微かな音。何?

 凛音は瞬きを忘れて立ち尽くしていた。


「お、かえり」

「う、ん」


 癖で、ごめんと謝りそうになった。悪いことをしたような気がしていた。悠河がこんな姿を見せるのは、わたしのせい?


〈謝るな〉という〝彼〟の声に、凛音は心の中でうなづいた。

 こんな時、ゴメンという他にどういう選択があるのだろう。いつもつい癖でゴメンと言ってしまうのは、どうしてだったのだろう。〝彼〟はわたしにどうさせたいのだろう。愛するわたしが、何をすれば〝彼〟は満足なのだろうか。言いたい、聞きたい、知りたい、それを満たすために全部やってみることが愛なのだろうか。


〈愛してる〉


「うん」


〈愛してる〉


――もっと愛して、もっともっと愛して。間違わないように――。


 心の中でそう言いながら、凛音は笑った。そうだ、笑おう、笑顔だ。戦わないためには、笑顔になればいい。笑顔になると、今をそのまま受け入れられる気がした。悠河は悠河のしたいことをする権利がある。それが悠河の幸せなら尊重しよう。それに、わたしには今、泣く理由なんて何も無い。


〈誤魔化すな〉


 こくりと頷きながら、凛音は悠河にくるりと背を向けた。今は、ただただここには居たくない、と思った。


「今、一緒に居たくないから」

 そう言って部屋を出た凛音を、悠河が追ってくる様子は無かった。


〈コーヒーを飲まないか〉


「え、コーヒー?」

 的外れの〝彼〟の提案に一瞬疑問を感じたけれど、次の瞬間それはとても凛音の心を躍らせる提案だと気付いた。熱くて濃くて苦いコーヒーが飲みたかった。砂糖を入れて、混ぜずに飲み干すエスプレッソ。そんなコーヒーがこのホテルにあるかどうかは分からないけれど――。


〈手に入れる前に望みを誤魔化すな。あるかどうかは問題ではない。きみはそんなコ

ーヒーが飲みたいんだろ〉


「あ……、うん、そう」


〈望むときは、素直に望め〉 


 レストランへ入っていくと、朝食のバイキングの準備ができていた。その一角にセルフのコーヒーマシンが置いてあった。そして、レギュラーコーヒー用のマシンの隣にエスプレッソ用のマシンがあった。

 凛音は、嘘! 夢みたい! と胸の中で声を上げた。


〈嘘! は余計だ。良いことを嘘みたいと言うのはやめろ。良いことが当然なんだ〉


 シュゴーッという音を立てて、エスプレッソの液体が滴り落ちる。確かな香りが漂ってくる。不思議に、さっきまでの孤独感が吹っ飛んでいた。


「されどコーヒーね」


〈たかがコーヒーだな。いったいどんな奴が『たかが』とか『されど』なんて言葉を作ったんだか〉


 〝彼〟の相変わらずの皮肉を凛音は心地よく聞いていた。そう、すべて『誰か』が創ったのだ。


〈そして創り変えても一向にかまわない〉


 濃い香りの漂うエスプレッソを、冷めないうちにくっと飲み干した。最後に感じる甘みが、コーヒーをより一層芳ばしく仕立て上げる。


〈愛してる〉


「うん」


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