第8話 愛と戦い

 透明な青い空にイワシ雲が浮かんでいる。微かに体温を奪う風が肌に心地いい。

 中国山地のとある鄙びた駅のホームでベンチに座って、凛音は幾重にも重なり連なる遙かな山並みを眺めていた。


 凛音は、あの有名なループ橋を見たかった。

 山瀬悠河(やませゆうが)は、見に行こうと言った。


 悠河がホームの端まで行って、こっちに向かって何か叫んでいる。

 けれど、凛音には聞こえない。

 手を振ってみた。

 悠河が手を振り返す。

 やがて戻ってきた悠河は凛音の隣にストンと腰を下ろした。頭の後ろで腕を組んで空を見上げる悠河の姿を見ながら、これも〝彼〟の愛なのかとふと思う。


 この度、"やつ"は"彼"に昇格した。


〈愛してる〉


 首筋に〝彼〟のくちづけを感じて、あっと小さな声になる。振り向いた悠河が不思議そうに首を傾げてふっと笑った。そしてそっとキスをくれた。


「隙だらけの顔するな。落ち着かなくなるだろ」


 そう言うと、立ち上がって「行くぞ」と手を差し出した。凛音はその手を握る。凛音が経験していることはすべて〝彼〟の愛。悠河からの軽いキスと無造作に握られるこの手。少し照れた悠河の横顔。

 不思議な感じがした。

『目の前に悠河がいることと、悠河をわたしの現実に現した〝彼〟』


――どっちに幸せを感じているんだろう。


 〝彼〟の愛の中に居られればそれでいいと思いそうになって、凛音は慌てて首を振った。


――いやいやいやいや、悠河あってこそでしょう。


「温泉だぜ、露天風呂だってさ。お前好きだろ」

「すご~い。しあわせ! 夜も朝も入ろう」

「そんなうれしそうな顔されると、ぼくもうれしいわ」


 大きいのにミニだって、と凛音が揶揄うお気に入りのミニクロスオーバーを、悠河はとてもしあわせそうに飛ばして走る。そんな悠河を見つめながらふと、悠河にもいるはずの〝彼女〟のことを考えた。悠河の〝彼女〟が凛音を悠河の現実に贈ったことになる。そして悠河は〝彼女〟の愛に応えている。それはそれで、ちょっと焼き持ち焼いてしまいそうになった。


 でも、〝彼〟は凛音で〝彼女〟は悠河だ。突き詰めればその〝彼〟と〝彼女〟は同じ一つなるものだ。とすると――。


「んん? わたしと悠河は同じ一つなるものの愛で創られたってことじゃない」


 凛音は自分の手のひらを見つめた。ふと指人形を思い浮かべる。一つの手のひらで操られているような、なんだか割り切れない気持ちで一杯になって、凛音はブンと頭を振った。


 悠河の運転するミニは山奥の鄙びた温泉地の駐車場に到着した。ここからは徒歩で旅館まで向かうことになる。トロリーケースがとても転がり難い道で、悠河がそれを提げて歩いた。

「重くない?」

 もう少し荷物を減らしてくればよかったかな、と凛音がふと思ったとき、


〈申し訳ないなんて思うなよ〉と、〝彼〟の声が聞こえた。


――えっ。


「重いよ。何をこんなに持ってきたんだ? ファッションショーでもする気かよ」と、悠河が唇を尖らせる。


〈ほらみろ〉


――え! 何? ほらみろって。


 凛音がおろおろしている間にも、悠河はブツブツ言いながらトロリーケースを運んでいる。


〈ごめんなんて言うなよ〉


 まさに、ごめんって言いそうになっていた凛音は、思わずごくりと言葉を飲み込んだ。


〈ごめん以外のことを言え。なんで重くなったのか思い出せよ〉


 あ……、そうだった。凛音は思い出す。


「いつも普段着だから、今日は可愛いのをあれこれ着て、悠河に見てもらいたかったの。ついたくさん持ってきちゃった。」


〈そうそう〉


「ふっ、朝昼晩着替える気か?」

「うん」

 悠河は、飽きれたような、だけどまんざらでもない顔で肩をすくめた。

「まあ、見てやるよ。重くても許す」


〈ちゃんと言えたじゃないか。その調子〉


 最近は部屋で会うばかりで、ゴロゴロするだけだから悠河には部屋着しか見せたことがなかった。久々の旅行で可愛い服を悠河に見せたいと思ったら、三泊四日分でトロリーケースが一杯になっていた。


〈昨夜楽しそうに詰めてたじゃないか。その気持ちを大事にしろよな。やめとけばよかったなんて、もっての外だ〉


 〝彼〟の言葉に凛音は深く頷く。そして、ちゃんと言えてよかったと思う。ごめんと誤ってしまっていたら、きっと何も気持ちを伝えられなかっただろう。


〈たいせつなのは、ほんとうの気持ちだけだ。相手に迷惑かけるとか、困るとか、まったく関係ないから〉


 滅茶苦茶ドキドキしたけれど、言ってよかった。凛音は悠河の腕を取って歩き始めた。


――焼きもち、焼く?


〈バカ言え。あり得ない〉


 凛音はふと思った。〝彼〟は『愛してる』と言ってくれるけれど、凛音に愛してると言われたいとは思わないのだろうか。凛音は悠河に愛してると言うけれど、悠河からも言われないと、絶対嫌だ。今度聞いてみよう。って、こんな時には話しかけてこないよね、ほんと。

 凛音は耳を澄ましてみたけれど、聞こえるのは川の水音と、ふたりの足音だけだった。


 夕食前に温泉に浸かり、凛音は浴衣に着替えた。浴場の前で出会ったら、

「へえ、浴衣も持ってきてたのか。いいじゃない。ちょっとうれしい」

 悠河は照れ隠しみたいに軽いノリでそう言うと、上から下まで凛音を眺めた。

「夕食まで時間があるし、散歩でもするか」

「行こう、行こう。蛍が見られるかもしれないわ」

 凛音は悠河の腕にそっと腕を絡めた。

 と、髪を上げた首筋にキスされて、凛音はふっと首をすくめた。


〈愛してる〉


――わたしも愛してる。


〈ぼくに返す必要などない〉


 〝彼〟はそっけなくそう言うと、その夜はいっこうに現れる気配がなかった。

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