天使が森にやって来た
日崎アユム/丹羽夏子
天使が森にやって来た
エリアスがいなくなった。
最初からひと月のことだと聞かされていた。たったひと月だ、別れの日はすぐにやって来る――分かってはいた。だがドミニクは大きな喪失感に見舞われた。
こんなことならもっとあんなことやこんなことを教えてやればよかった。うまい食い物を食べさせ、うまい酒を飲ませてやればよかった。あちらの職人に会わせたりこちらの商人に会わせたりもできたはずだ。後悔した。もっとエリアスにしてやれることがあったように思えてならない。
けれどエリアスはもういない。
ドミニクのもとにエリアスが現れたのは今から一ヶ月と三日前のことだった。
いつものように材木置き場に出勤すると、元締めが見知らぬ青年を連れていた。
元締めが見ず知らずの人間を連れてくることはそう珍しいことではない。家庭も定職も持たないドミニクたちのような境遇の人間に木こりの仕事を斡旋することはままある。そういう人間は基本的にろくな人生を送っていない。だからふつうは擦り切れた服と瞳の男が流れてくるものだ。
しかしエリアスと名乗った青年の瞳は輝いていた。肌のつやはよく、髪も短く整えていた。少々
――今日から一ヶ月うちで面倒を見ることになった。お前ら、仕事を教えてやってくれないか。
元締めが言うと、エリアスは明るい声で、
――たったのひと月であなたたちのすべてを理解できるとは思わないが、少しでもこの仕事について学びたい。よろしく頼む。
そう挨拶して右手を差し出した。
ドミニクを含めた七人の木こりたちは顔を見合わせた。
あとで確認したところ、この時七人が七人とも反感を覚えたようだ。きっとこいつは金持ちの息子だ。もしかしたら貴族の息子かもしれない。親も当人も本当の苦労の何たるかを知らずに社会勉強をしに来たのではないか。道楽で貧民の暮らしを覗きに来て、さわりだけ見て哀れな木こりたちの境遇を分かった気になろうとしている。
誰もエリアスの手を取ろうとしなかった。
それでも、エリアスは右手を差し出したままにこにこして待っている。
最終的にその手を握ったのはドミニクだった。嫌味のつもりだった。わざと笑ってこちらこそよろしく頼むと言った。どうせ半日で音を上げて逃げ帰るだろう。むしろ人生とはいかに苛酷なものか分からせてやろう。思い知らせてやる。
ところが予想に反してエリアスは粘った。昼食の時間まで薪を抱えて森と材木置き場を往復するだけの仕事をこなした。
エリアスの手が真っ赤であることに気づいてドミニクは慌てた。木の皮でささくれて血が出たのだ。大事な商品に血がついてしまう。買い取りの商人が嫌がる。そう思いドミニクはエリアスの手に薬を塗って手袋をはめてやった。だがエリアスは喜んでドミニクになついた。
一本でも多くの薪を運ばせるため、薪をまとめる帯の使い方を。腰を痛めて使い物にならなくなった時に責任を問われないようにするため、重い薪を持った時の腰の入れ方を。ドミニクはあくまで自分たち普通の木こりの負担にならないよう指示していたつもりだったが、エリアスは素直に聞き、吸収した。肌は綺麗だが屋内でやわに育てられたわけでもないらしく、体力はそれなりにあり、結局日が暮れるまでドミニクについてきた。
――あなたたちはすごいな。これを週六日繰り返すのか。とてもではないが体力が追いつかない。
日暮れ時、さすがに疲れを見せ始めたエリアスがそう呟いた。ドミニクは、そうだろう、と胸を張った。自分たちは町でぬくぬく暮らしている連中とは違うのだ。そう思うとドミニクは嬉しかった。何者でもなかった自分が急に特別な存在の気がしてきた。
驚いたことに、エリアスは夜も自分たちと同じ小屋で寝たいと言う。木こりたちは七人全員で雑魚寝だ。しかもろくに掃除をしていない、ねずみが床を走り回る汚い小屋である。八人目、九人目を受け入れられないわけではない。しかし小ぎれいなエリアスを、と思うと七人は動揺した。まともな生活をしていない自分たちが恥ずかしくなった。とはいえ追い出すわけにもいかない。エリアスは何でもない顔をして一緒に寝転がったが、七人の方が眠れなかった。
翌朝、木こりたちはエリアスに小屋の掃除を命じた。エリアスは笑って請け負い、一日かけて小屋をきれいにした。その日の夕方、木こりたちはようやく人間らしい暮らしができるようになった小屋でエリアスとともに酒を飲んだ。
三日目から木こりたちはエリアスの世話について本気で考え始めた。エリアスに斧と
週末になる頃には、エリアスはすっかり木こりたちの間に馴染んでいた。新米として仕事のほかに掃除と洗濯を押し付けられたが、文句を言わずに働いている。そしてやはりにこにこしている。いつもご機嫌なのだ。誰かがご機嫌だと皆もご機嫌になる。木こりたちはいつしかエリアスにとっておきのハムやワインを分け与えるようになった。
――この薪を買うのはどんな人たちなんだ?
――仲介の商人を介して炭焼き職人のところに売られる。
――ここでは炭焼きはしないのか?
――ばかやろう、炭焼きってぇのは技術と知識が必要なんだ、そんな簡単にできるかよ。
――でもあなたたちは森の木の専門家だ。
――そうだ、俺たちは森の木の専門家だ。どの木が炭に向いているのか俺たちは知っているのさ。
半月が経つ頃には、ドミニクもすっかりエリアスが可愛くなっていた。どこに行くのでも何をするのでもエリアスを連れて歩くようになった。日が暮れると炭焼き職人の工房や町の酒場に行った。
昼はよく働き、夜はよく遊ぶ、そんな健康的なエリアスを見ているとドミニクは嬉しい。
自分も年頃に結婚していたらこれくらいの息子がいたかもしれない。そう思うと、エリアスにいいものを食わせてやりたいと思った。エリアスにいいものを食わせてやれるほどには働かなければならない。日々の仕事にも熱が入った。
エリアスはいい子だ。どんなことでも疑問を持ち、素直にぶつけてくる。時折木こり全員で議論になることもあり、この頃の七人はむしろいい刺激になると感じていた。
――炭焼き職人は大量の木炭をどうするんだ?
――また別の商人を介して高炉職人に売るのさ。
――コウロ職人? コウロとは何だ?
――石から鉄を取り出す巨大な窯のことさ。風車で空気を送り込んで、ものすごい熱で石を溶かして鉄のかたまりを取り出すんだ。
三週間目、エリアスは早くもドミニクのいい相棒に育って、他のどの組み合わせより速く一本を伐れるようになった。日に焼けて見た目の印象が精悍になったように思う。丁寧だった所作が木こりたちに溶け込んできた結果少し粗雑になった気はするがご愛嬌だ。
朝から日暮れまで木を伐り、夕方になると肉を焼いて酒を飲みながら食う。月が傾いたら八人で雑魚寝をする。その繰り返しが肌に馴染んですっかり日常となった。
――高炉職人が取り出した鉄のかたまりはどこに行くんだろう?
――またまた別の商人を介して鍛冶屋に売る。
――鍛冶屋は何を作るんだろう。
――剣さ。剣を作って城に納める。騎士団が戦争をするための道具になるんだ。
――そうとも。俺たちの木は剣になる。
――俺たちの木は剣になってこの国を守る。異民族や異教徒をばったばったと薙ぎ倒して大地に血を流すんだ。強く勇ましい俺たちの木! 俺たちは遠くからこの国を守っているのさ。
――そうとも。そうともよ。
――ふうん……。こんなに苦労して伐った木も最後は人を斬るのか。
――そう、それは、いろいろ思うところもあるけど……、でも、女王陛下が剣をお求めだからなあ。
――女王陛下が、か。そうか、そうか……。
永遠にこうしていられると思った。
永遠に、エリアスと楽しく暮らしていられるのだと思った。
けれど無情にも三日前、約束のひと月が来て、元締めはエリアスを連れていってしまった。
――今までありがとう。
三日前の夕方、エリアスはそれだけ言い残して消えてしまった。
ドミニクたちが、エリアスがどこの出でどこへ帰るのか確認しなかったことに気づいたのは、エリアスが去った夜のことだった。木こりたちは話したくなかったのだ――自分たちが何者で、どこから来てどこへ行くのか。誰も訊かない、誰も答えない。その掟は絶対であり、誰も何も言わずとも自然とエリアスにも適用されていた。だがエリアスには本当は家があるに違いない。自分たちとは違って、エリアスには、戻るべき場所があったのだ。訊けば答えたかもしれない。
一人、また一人と、木こりたちはここに来るまでのことを語り始めた。親に捨てられたこと、女房子供を置いてきたこと、異民族に生まれた村を焼かれたこと――中には人を殺して逃げてきたことを告白した者もあった。懺悔だった。村の教会の神父ですらできなかった告白をエリアスは木こりたちにさせたのだ。エリアスは天使だったに違いない。彼は木こりたちの心を浄化した。
服は擦り切れても、瞳は輝きを取り戻した。
しかしもうエリアスはいない。
「しけたツラしてるなあ、ドミニクよ」
元締めが笑いながら言う。ドミニクは「うるせえ」と返した。
いつもの材木置き場、元締めと七人の木こりたち――エリアスがいなくなる前と変わらない一日が始まろうとしている。
そう思っていた。
元締めが言った。
「ところで、今日はお客様がある。お前ら、現場に行かずにここで待て」
七人が顔を見合わせた。
「お客様だあ? いつもの薪買いじゃねぇのか」
「それが違うのよ。お前ら驚いて目ん玉飛び出すぞ。――ほれ、聞こえるか?」
道の向こうから馬のひづめの音と重い金属の音がする。木こりたちの日常には存在しない音だ。
まさか、まさか――と思っているうちに、材木置き場に騎士たちが現れた。
四人の騎士たちは騎乗したまま木こりたちを見下ろした。木こりたちは震え上がった。今までの人生には何の接点もなかった人々だ。むしろ接点があっては困る。ひっ捕らえられて叩かれたら皆ほこりが出る身の上なのだ。
しかし元締めは笑って手をこまねいている。
騎士のうちの一人が言った。
「女王陛下のご名代がお越しになる。皆の者、身を低くして待て」
全員が言われるがままひざまずいた。何事もなく過ぎ去ることを祈った。なぜこんな辺鄙なところに女王の名代が、とは思わなくもなかったが、政治の難しいことは知らないドミニクたちに女王の深謀遠慮は分からないのだ。
やがてまた三つほど馬のひづめの音が聞こえてきた。自分の人生で出会う中でもっとも偉くて立場のある人間が来る。若い頃にはそんな権威に負けないつもりでいたドミニクだが、今はただただ縮こまって嵐が終わるのを待った。
馬が目の前で止まった。
そのうち、上等な
騎士が声高らかに言った。
「ヨハン・ハンス・エリアス王子のおなり!」
弾かれたように顔を上げた。
ドミニクの目の前には、絹の服の上に
体から力が抜けた。その場にへたり込んでしまった。
「やあ、みんな、三日ぶり」
言いつつ、エリアスがドミニクの前で膝を折る。そしてドミニクに向かって手を伸ばす――出会ったあの日のように、だ。
ドミニクには何もできなかった。他の六人も何も言わなかった。ただ元締めだけが意地悪そうににやにやと笑っているだけだ。
「お前、王子様だったのか」
それも、ヨハン・ハンスといえば女王の長男、次期国王だ。
帰る先は家ではない。城だったのだ。
膝が震えた。
権威に負けないなどと言っていた若い頃の自分が愚かに思えた。本物の権威が目の前に来た今どう振る舞ったらいいのか分からなくなってしまった。
しかし――ひと月の木こり生活で図々しくなったエリアスは、ドミニクの手首を強引につかんで引くと、むりやりドミニクと握手した。
「黙っていてすまなかった。どうしても、どうしても、我が国の主要産業である鉄具がどこから来るのか知りたかった。僕は誰がどのような苦労を積んで作っているのか知らずに剣を配る王にはなりたくなかったんだ。でもただ話を聞いて回るだけでは真の意味で理解することはできないと思っていてね。みんなこうして畏まってしまうことも分かっていたし」
そう語るエリアスは日に焼けている。ここで働いていたからだ。
「憶えている? いつかドミニクが酔って僕にお前は何にも知らないお坊ちゃまだからと説教を始めたのを。僕は本当に、本当の本当に、心からそう思ったからね」
なんと畏れ多いことをしたものか。
けれど微笑むエリアスの笑顔は見慣れた可愛い息子のもので、
「でも、僕はあなたたちのおかげで少しだけ世間知らずから成長できた。そうだろう?」
ドミニクは腕を伸ばした。
エリアスも腕を伸ばしてきた。
強く、強く、抱き締め合う。もう二度と、後悔しないように。
「――少し考えたのだけれどね」
エリアスがそのままの体勢で言う。
「木こりから炭焼き職人に行って、炭焼き職人から――また別の道では鉱夫から、高炉職人に行って、最後鍛冶屋に辿り着いた時、とても大勢の人が汗を流して作った鉄で血を流すための道具を作るのは少し悲しいなと思ったよ」
「はさみや包丁を作るのはどうかな」と彼は笑った。
「僕はあなたたちが作ったものを運用する立場の人間としてもっともっと考えるからね。あなたたちが、誇りをもって送り出した木が、どうなるのかを。だからあなたたちも、どうせ木こりなんか、などとは思わずに、胸を張って生きていてほしい」
それから「今度は鍛冶屋に弟子入りしないとな」と言うので、ドミニクは泣きながら「ばかやろう」と笑った。
天使が森にやって来た 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid
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