epilogue

 ミカミは仕事復帰後、総務部に配属された。

 子供の保育園の送迎などもある為、時短勤務なので十時頃に来て午後四時には帰っているようだ。僕とは勤務の時間帯が合わず、フロアが違うために会うこともほとんど無い。一度エレベーターの中で偶然乗り合わせたことがあった。お互いはっとして顔を見合わせたが、すぐに僕は彼女に背を向けてしまった為にその後の彼女の様子はわからなかった。目的のフロアにつくまでの数秒がとてつもなく長く感じた。僕は何も言わずにエレベーターを降りた。彼女も声を掛けなかった。

 ワカシマもミカミとはあれ以来接触を持っていないようだ。ウミノが双方の間を取り持とうとしているようだったが、既に本人たちは諦めているのだろうと空気から感じた。

 ミカミにはミカミの生き方があり、彼女の求めていた幸せの形がある。それはイシダが彼女に与えることが出来なかったもので、ワカシマや僕が何かを言う資格は無い。

 久しぶりにSNS上のミカミの日記が目に入った。家族で花見をした様子が写真付きで紹介されており、相変わらず数十名の友人、知人が彼らの幸福へ賛辞を送っていた。

 イシダの辞表は受理され、四月一日を持って退職となった。

 営業部で盛大な送別会が行われたようだったが、僕ら同期でも彼を何らかの形で送り出したかった。

 僕とウミノ、ワカシマの三人は彼を呼び出し、小さな送別会を行った。ミカミにはメールでイシダの送別会を行うことと、店の場所、日取りを教えていたが、返事は無かった。イシダは何も知らないというように「ミカミは来ないんだな」と一回だけ言ったが、僕らは曖昧に笑うだけで何も言わなかった。ホリちゃんが会社を来月いっぱいまで有給を取ることは聞いていたが、イシダの為に手紙を書いてくれていた。同期一同から、と書いたメッセージカードを刺した花束を一緒に渡した。僕とウミノは少し奮発して二人で新宿のヨドバシカメラに買いに行ったシュアーのヘッドホンを、ワカシマはイシダの好きなアイドルのDVDをプレゼントした。イシダは「いいよ、もうたくさんもらってるから」と言ってなかなか受け取らなかったが、押し付けるように渡した。思ったより盛り上げることはなく、大した話題も出ずに「時間が経つのは早い」とか「これからどうしようか」とか、同じような言葉を何度も繰り返しているうちに時間は過ぎて行った。

帰り際、イシダは「困ったことがあったら俺に言ってくれ」と言って地下鉄の駅に消えて行った。

 この先困ったことがあっても、イシダに相談することはないだろう。

 僕は確信に近い思いで彼の後姿を長い間見送っていた。


「この間、ごめん」

 ワカシマは噴水の方に視線を向けたまま言った。蕎麦屋の出来事を言っている、と気がつくのに数秒かかる。ああ、と間の抜けた声が出て、それから少し考えて、でも、俺は正直恰好いいと思ったよ、と言った。ワカシマの表情は硬いままだ。噴水を見ながら、あたしがあの子のこと怒るのっておかしいよね、と小さく呟く。ワカシマは両手で包み込むように持った缶ビールを一口飲むと言った。

「それでもあたしはおかしいと思う。人間として、最低だと思う。あの子もナカヤくんも」

 それから短い瞬きを数回繰り返して、小さく息を漏らした。ライトアップされた噴水に水面に反射した光が彼女の右頬を照らし出している。その表情は硬いままだったが、言いたかった言葉を言えたという想いからか、どこかしら安堵の色が浮かんでいるようにも見えた。

 僕はほとんど反射的に「わかるよ」と言う。その声が自分の想定よりもずっと小さく乾いていて、何の意味もなさない言葉であることを僕によりはっきりと突きつけてくる。一年目の頃から僕はそうだった。言葉をうまく組み立てることが出来ずに、出来の悪い素材の上にすかすかの感情をまぶしたまま、何とか体裁を整えて皿の上に盛り付けたものを、おずおずと周囲の人々に差し出してその場をしのいできた。

 それだけじゃないだろう。自分の胃の裏側あたりに落ち込んだままやり過ごそうとしている言葉を引っ張り出すために僕は右手を腹の中に突っ込む。言葉の淵に手が届く。あと少しだ。それは掴んでいると火傷しそうなくらいに熱い。それでも僕は吐き出さなければならない。

「俺は」

 口から言葉の一部が流れ出した。後は勢いを付けてすべて掻き出すだけだ。

「俺、あいつの子供と自分の子供が同級生になるっていうの、言いたくなくて黙ってた。同じにされたくなくて。俺とお前は違うって思ったから。今思うとよくわかんない理由だけど」

 喉が痛い。飲みすぎて戻した時のように、吐瀉物が通過した喉が胃液でひりひりと焼けるように痛む時と同じような感覚に襲われた。

 ワカシマは一瞬はっとして顔になって、目を左右に細かく揺らしたが、すぐに嬉しそうな顔になって言った。

「わかるよ」


  桜は今年も、七年前と同じように綺麗に咲いている。

  でも僕らは、もう七年前と同じようにはなれない。春はいつだって、不幸など知らないような薄ら笑いを浮かべて、ふわふわとして足取りで、僕たちの前に現れる。 夏の激しさも無く、秋の憂いも無く、冬の厳しさもなく、ただ僕たちを暖かく包むためだけに、春は阿保面をさげてやって来る。

 何度でも。それでいいのだ。

  僕らの憤怒も、嫉妬も、焦燥も、悲嘆も、打算も、欲望も、怠惰も、過ちも、全てを包み込んで「大丈夫」と呟く。 そんな誤魔化し方を教えてくれるのが春なのかも知れない。


  僕は阿保面を浮かべて、もう戻って来ない空を見上げながら、そう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

明日、春が来たら。 いりやはるか @iriharu86

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る