いつものように

由海(ゆうみ)

I’m home.

『僕はいつ何時なんどき、どんな形で命を落とすか分からない。それでも、誰かが僕を待っていてくれると思うだけで、何があっても生きて帰らなきゃと頑張れるんだ。きみを悲しませないように最大限の努力をする。だから……これからは、僕らの家で、僕の帰りを待っていてくれませんか?』


 「世界で最も危険な職業の一つ」と言われる仕事に従事するあの人の、不器用だけれど偽りのない言葉を受け入れてから、もうどのくらいになるだろう。




 まだ薄暗い夜明け前の静けさを突いて、エンジン音が鳴り響く。

 車の後部座席に必要なものを投げ入れたあの人が、ドライブウェイに無造作に転がっていた新聞を拾い上げると、足元にじゃれつく愛犬を相手に、子供のように追いかけっこを始めた。そんな一人と一匹の姿を、ガラス戸越しに呆れたような顔で眺めていた愛猫が、くわあっと大きな欠伸あくびをする。


 少しだけ息を切らして玄関口にたどり着くと、新聞を渡すついでのように私の肩に軽く腕を回して、静かに唇を重ねる。

 「いってらっしゃい」の言葉を持たない国では当たり前の仕草が、私達にとって特別な朝の儀式となる瞬間。

 喧嘩をして不機嫌な朝はふくれっ面のままで。風邪をひいた時にはマスク越しに。一日も欠かすことのない、私達の大切なひと時。

 くすぐったいね、と笑いながら唇が触れる。そっと優しく、ゆっくりとれるように、何度も、何度も。

 まるで、これが最後のキスだとでも言うように。



『恥ずかしいからめて。あなたの国と違って、私の国では人前で抱き合ったりキスしたりなんてしないの』

 恋人、と呼ばれるようになった頃、人目が気になって仕方がなかった。


 今では、お互いの身体が触れ合うことで、大きな安堵感に包まれる。外出先では、どちらからともなく自然に手をつなぐ。共にいる時間を少しでも近くで過ごしたいと思う。「大好き」の代わりの言葉も、恥ずかしがらずに言えるようになった。



 たとえば、今日を最後に、あなたが戻らなかったとして。


 最後の朝の、たった5分間を、かけがえのない宝物として心に刻みつけておけるのなら。

 もっと「愛している」と言っておけばよかった、とか、勿体ぶらず素直にキスしておけばよかった、とか、後悔だけを想い出に残すのは嫌だから。




「ほら、ダディにバイバイして」

 ピックアップトラックが白い息を吐きながら動き出し、やがて遠くに見えなくなるまで、少し哀しそうな表情であの人の車を見つめ続ける愛犬の耳の後ろを撫でてやりながら、いつものように心の中でそっと願う。


 今日も一日、無事でいてくれますように。


 車のエンジン音を聴きつけて嬉しそうに玄関口まで出迎える愛犬の姿に、顔をほころばせたあの人が、いつものように「ただいま」と言ってくれますように。

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いつものように 由海(ゆうみ) @ahirun

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