弐 嫉
最後の最後の調整が終わった。
彫刻そのものとして評価するために離れてみて、日常の中で危ういものになっていないかたしかめるために、角に指を這わせる。
私の大して厚くなっていない指先に、痛みは感じられない。バリもささくれも、きちんと処理できたらしい。
(よし……)
時間をたっぷり使っただけあって、私個人としては満足がいく出来だった。
これならば、去年のようにため息を吐かれることもなく、頷きを返してもらえるかもしれない。
去年は本当に酷いものだった。一目見るや振り向いて「わかるね?」と言われたのは、今でも時折夢に見る。
あのあと、こっそり様子を見にきた時、私の彫った痕跡は全て消されていて、酷く胸が痛んだことを覚えている。
もう二度と、あんな思いはしたくなくて。だからこの一年励んできた。
結実したものは、今の最高傑作と言えるもの。もしかしたら、喜びの声も、聞けるかもしれない。
いいや、いいや。芙蓉はそんな甘い師匠ではないと、淡い期待を否定する。
きっと私が見逃してしまったり、彫りきれなかったところを捉えて、ビシバシと指導してくれるだろう。
もちろん、褒めてくれた後に、だけど。
「……出来たよ」
そんなたっぷりの妄想を終えて、本当に、もう何も手を加えるものがないと判断した私は、横になってもらっていた彼女を引き起こした。
芙蓉は姿見を前に、少しだけ呼吸を落ち着けるようなそぶりをしてから顔面保護用の仮面を外す。
それから明暗の変化に目を慣らすように、視線を姿見から外し、しばらくまばたきをしていた。
やがて、しっかりとものが見えるようになったのか、改めて姿見を見つめる。
すると、傍から見ていてもわかるくらいに眉根に力がこもっていくのがわかった。
それは怪訝というよりは、不愉快という色。
私は、何か、致命的に誤ってしまったのだろうか……?
たしかに、顔の向く先へ伸びる角に花を模した翡翠の飾りをはめ込んだのは、少し挑戦的だったように思う。
鋭い角の先端部だけが前を向いているよりも、印象が柔らかくなると思ったのだが……。
それよりも、それと一緒に施した星と渦を組み合わせた模様が気に入らなかったのだろうか。
角の生え際から先端にはめた翡翠にまで、うまく繰り返しの模様を作れたと思ったのだけど……。
ごくりと、自分の喉がやたらと大きく鳴ってしまうのを感じながら、芙蓉の感想を待つ。
姿見を見つめる彼女は、全体から細部へと視線を移したようだ。ゆっくりと瞳が輪郭を撫でるような動きをしているのがわかる。
果たして、それはどれだけの時間を掛けて行われたのだろう。
もう心臓がとまってしまうのではないかと思うくらいの重圧の中で、ようやく芙蓉が口を開いた。
「うん。よく出来たものだと思う」
その評価に、胸を撫で下ろしかける。
けれど、その言い方は続きがある雰囲気だった。
……決して、よくはない言葉の続きが。
「だけど……ごめん。すぐには決められない。これが名前を与えるに足るものなのか、少し、検討させてもらってもいいかな?」
それはある意味、前向きな言葉だったのだろうけど。
聞いた瞬間、私は全身の力が抜けていって、その場に倒れこんでしまった。
「だ、大丈夫!?」
「ちょっと、力が、抜け、ちゃって……」
数日前から意識のしすぎで少し寝つきが悪かったのもあるのだろうか。
なんだか、酷く、眠い。
「いいよ。奥まで運んであげるから、少し休みなさい。なぁに、認定の時はよくあることだから」
「は、はい……」
慰めの言葉をかけられながら、店の奥にある居室にあげられて、彼女の使っている布団に横たわらせてもらう。
「起きる頃には、結果が出せるよう考えておくから」
「……はい」
もう限界で、私は意識を手放した。
***
少しして、目を覚ました私は、芙蓉の香りが染み付いた布団に包まれながら必死で考えていた。
一体、何がダメだったんだろうかと。
私の自己満足でしかない彫りをしたつもりは、ない。
彼女のことを、彼女が美しくなることだけを考えていた。
……もしかすると、その、私の考える美しさが押し付けがましかったんだろうか。
だからあんな、見たことがない不愉快そうな顔をさせてしまったのだろうか……。
(綺麗にできたと、思ったんだけどな)
彼女の願う美しさと、私の願う美しさはそれほどまでにかけ離れているのだろうか。
わからない。
何も、何も。
「はぁ……」
しかし、ここでウジウジとしていても何も変わらないし、わからないままだ。
一眠りして、それなりに時間も経っただろうし、芙蓉も答えを出しているかもしれない。
正直、聞きたくはない。
けど、聞かなくては前に進めないのだから、会いに行かねば。
だけど、最後に、と。布団に染み付いた彼女の匂いを吸い込んで、少し自分を勇気付けるようにして。
せせこましい居室から抜け出して、診察室へと戻ろうとした、その時のことだった。
(怒鳴り、声?)
芙蓉の怒声が聞こえた気がした。
自然と息を潜めるようにして歩いて、戸口の陰から診察室を覗き込んでしまう。
そこにあったのは、診察台に腰かけた行貞さんにもたれかかるようにしている芙蓉の姿で。
二人の顔は、あまりにも近くて。
まるで口付けをしているようで。
それを見た瞬間、全身が炎に包まれたかのように熱くなって、呼吸が止まる。
言葉になんてできない強烈な衝動が、体の中を暴れまわって私を苦しめる。
初めて経験するその感情は、そもそもどちらに向けられたものなのかもわからない。
けれど、一つだけたしかなのは、二人がとてもお似合いに見えるということ。
背丈もそうだし、歳だってそうだろう。
だから、衝撃と同時に、ああそうか、と奇妙な納得があったのだ。
私を弟子にとったのは、私を迎えにくる彼と会う口実を作るためで。本当は彩角なんてどうでもよくて。
いいや、最初の頃は真剣だったのかもしれないけど、彼とそういう関係になってからは、私はただの道具に成り果てたのだろう。
だから、私の一年を詰め込んだものに、芙蓉は不愉快そうな表情をしたのだ。
だって、免状を渡すということは、私という言い訳を捨ててしまうことに他ならないのだから。
どうして気付かなかったのだろう?
その程度のことにも気付けないくらい私は、夢中で、楽しくて、好きで、たまらなくて。
ああ、ああ……私は、私は――逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
けれど、どこへ行けばいいというのだろう。
ここから出るには彼女の脇を抜けていかなくてはいけなくて。
きっと、今の顔では引き止められてしまう。
だから、瞼の裏で繰り返されるさっきの光景が消えますようにと必死に祈りながら、布団の奥に逃げ込むように深く深く被りこんだ。
「水希?」
芙蓉の呼び声が聞こえる。
応えてはいけない。
私は眠っているのだ。
眠っていたのだ。
だから私は何も見なかった。
そうしておけば、何もかもが丸く収まるのだ。
この苦しみも、この嘆きも、何もかもが消えて、元の通り彼女を好きな私でいられる。
そう、わかっているけど。
苦しくて苦しくて、涙が止まらない。
どうして、どうしてと問いたい気持ちがなくなってくれない。
(どうしてよりにもよってあなたなの?)
別の娘であれば、これほどまでに苦しむことはなかっただろう。
だって、行貞さんはそういう人だからだ。
あの人は貼り付けた笑みで誰もを魅了する。そういう振る舞いをする。
そして、だからこそ、私は彼が苦手で。
きっと、芙蓉もそういう人だと思っていた。
……ああ、そうか。
そう思い込んでいたから苦しいんだ。
そして、だからきっと、私の彫りは彼女を不愉快にしたのだろう。
なんて、なんて愚かで。
視野狭窄で、どうしようもない。
「もう、いや」
消えてしまいたい。いなくなりたい。
どうして今私はここにいるんだろう。
どうして私は見てしまったんだろう。
『なら、こっちへいらっしゃいな』
ふと、呼び声がした。
優しい声。いつかどこかで聞いた声。
さっき聞いた声とは違う。
けれど、私が知っているはずの声。
それは悪霊の呼び声なのだろうか。
ちょうど、そんな時間のはずだった。
こちらにこそ、応えてはいけない。
応えてしまえば、どうなるかわかったものではない。
けれどけれど、ここに居続けて苦しむくらいなら、私は。
「たすけて」
――ちりん
鈴の音が、聞こえた気がした。
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