彩角師 ~角を彩る彼らの恋物語~
佐々森渓
その角に色を見る
一の色 「卯花」角に彩りの流るるが如く
しゃっしゃっと何かを削る音が響いている。
明るく照らされた室内には、顔の上半分に布を被せられた女性が横たわっている。
それはただの人ではない。
布の額部分には穴が開いており、そこから一本、角が伸びている。
――角持つ人、飾角族である。
流水は、汗を垂らさないよう額に手ぬぐいを巻きつけて、その角に彫刻刀を立てていた。
一度、また一度と刀が往復するたびに、小さな意匠が角の上に浮かび上がる。
ここは掻き屋。飾角族の角を装飾する、彩角師と呼ばれるものが営む、数少ない専
門店だ。
特にここの店主である流水は腕が立つと評判で、下層区に店を構えているというのに、わざわざ中層区から足を運ぶ客もいるほどだった。
ふと、何かを読み取ったのか、彫る手が止まった。ほんのわずかに遅れて、女性が口を開く。
「揺れもほとんどなくてすごいことですわ」
「喋ると揺れます。いま少し、辛抱を」
「それは失礼」
女性が口を閉じるのにあわせて、流水の手の動きが再開する。
それからしばらく、流水は黙々と作業を続け、再び手が止まった時には、女性の角に今流行りの蔓模様が浮かび上がっていた。
「仕上がりました」
流水は別の布で角の根元に溜まっている屑を拭き取ると、被せていた布をとり、鏡を手渡す。
女性は鏡を受け取って多方から角を確かめると、満足したようにふふりと微笑んだ。
「流石、弟子を取りたがらない雲行翁が太鼓判を押したお方。素敵ですわ。もはやありふれてしまっている意匠なのに、生き生きとしています」
「恐悦至極に存じます」
うっとりとした様子で己の角を見ている女性は、
飾角族特有のむっちりとした肢体からは嫋やかな色香が立ち上っている。
それほど美しい彼女が来店したとき、くたびれた気配に満ちていたと言って誰が信じるだろう?
たった一箇所の化粧で、これほどまでの色気を取り戻したのだ。
「不快でなく、仕事も早いとなればこの人気も当然ですわ。昇殿を赦されたお歴々が夢中になるのもわかります」
「私など、まだまだ未熟ですよ」
「あら、ご謙遜なさって……そこが好いのかもしれませんね」
ふふり、女性は嫣然と顔を歪めると、ゆるりと立ち上がった。
「ではまた二月ほど後に」
「刻限は、今日と同じでしょうか」
「取れれば、ですけれど」
言葉に、流水は台帳をめくった。
一月先までビッチリと人名の書かれた台帳も、流石に二月先となると空きが見える。
「大丈夫でございます」
「ならばそれで。また、お願いしますね」
さらり、流麗な筆致で女性の名を台帳に記すと、彼女は驚きの声を上げた。
まるでお手本をそのまま写したかのような、くっきりとして読みやすい文字だったからだ。
「
「師に叩き込まれましたから」
「素敵ですわ……好きになってしまいそう」
舌なめずりをしそうなほど濃密な色香を放つ女性に、流水は小さく笑って、
「あなたのようなお美しい方に言われるには、いささかこの身は醜悪でございます」
「ほほ、お上手だことね。弁えてもいる。ああ、あの方もそれくらい弁えてくださればよろしいのに……あら、いやだわ」
ほほ、と愚痴を始めそうになったことを笑って誤魔化すと、女性は金子を払って立ち上がった。
「あなたの手を待つ方が他にもいるんですもの。煩わせてしまってはいけないわ。ふふ、ではまたお会いしましょう」
「またのおこしを、お待ちしております」
入り口まで出て行って、深々礼をして女性を見送る。
姿が消え、一分も経ったくらいのころ、流水は顔を上げた。
「本当に口がうまい。さて、次の準備をしなくては……」
出そうになった愚痴をうまいこと誤魔化して、流水は道具の研ぎに入る。
すぐそばには自分を見つめる目があるのだ。迂闊に愚痴をつぶやくことはできなかった。
それから、夜になるまで数人に同じ主題の別の図案を彫って、その日の営業は終了した。
退屈極まりない仕事だが、翌日に待ち受ける陰鬱な仕事と比べればはるかに気楽ではある。
(とはいえ、あの方に見初められたからこその今の地位なのだから……)
はぁ、と吐息する。恩義があるのは確かで感謝もしている。だが、苦手なものは苦手なのだ。
流水は暖簾を下げ、玄関戸に支えを掛けてしまうと、いそいそ工房の奥にある居住スペースへと向かった。
六畳間の私室には、万年床と文机が鎮座している。壁には一面、角へ施す図柄や装飾の新案などを書き散らした和紙が張られ、いかにもといった雰囲気に満ちていた。
「ふぅむ……」
唸りながら文机の上に投じられていた文を取り上げる。明日向かう予定の顧客から届いたものだ。
流麗な筆致で綴られた、熱っぽい、恋文とも取れる内容に混ざって、彫って欲しい図柄の提案がある。
――天露をまとう
そこに含まれた想いに、頭が重くなる。
(だがやるしかない。やるしかないのだ……)
吐き出された息は深く、重苦しい。
いずれにしろ逃れられはしないのだから、今日は早々に眠って、出来る限り早く済むように万全の体調で挑むしかなかった。
***
翌早朝、流水の姿が中層区にあった。
猥雑な印象を受ける下層区と違って、限られた空間を活用するために、京に倣って整備された中層区は、小綺麗で行き来がしやすい。良質な料理店も多いということもあってか、浮かれた顔で訪れる人も多い。
だが彼の顔は見るからに陰鬱で、足取りもまた重かった。
それは、出張施術のために重い荷物を背負っているせいだけではない。
今日彩角をする予定の相手が苦手だからだ。
その人はライ氏族と呼ばれる、こめかみから角を生やした飾角族のお嬢様で、金払いはいいのだがつきまといが酷くてたまらないのだ。病的といっていいほどの愛情を注いでくれる彼女は、店の近くに監視用の使用人を送り込んで、じっと行動を見ている。
その使用人の名前をヤヱという。彼女はある程度話が通じるので、一から十まで筒抜けというわけではないが、それでもずっと誰かに見られているというのは辛いものがある。
そしてさらに面倒なのは、それだけ愛してるくせに彩角の時くらいにしか会おうとしないことだ。
本人としては控えめなつもりらしいが、本当に控えめな女性は監視要員を送り込んだりしないだろう。
気配こそ感じ取れないが、こうして向かっている今もヤヱが後をつけてきているはずである。
しかも、いざ到着すると流水より先にいるのだから、鬼道か何かを用いたとしか思えない。
ヤヱ曰く、中層には中層の裏道があるとのことだが、そんな通りの存在は流水にはわからなかった。
そんなわけで陰鬱な気分で彼は出張してきていたのだ。彼女のおかげで名が売れたと言っても、辛いものは辛い。それこそ道ゆく飾角族たちに、きゃいきゃいと褒め言葉を浴びせられても、反応できないくらいに。
嫌だ嫌だと思いながらも、歩みを進めて大通りを行けば、建物がだんだんと洗練された、大陸風の秀麗なものになっていく。
その中でも、特筆して目立つものが三つあった。
それはライ氏族の中でも格が違う豪族たちが住む邸宅だ。すなわち
流水が向かっているのは白綺邸で、そこの三女が彼をいたく気にいっているのだった。
***
門の前に立つと、もう逃れられないことを再確認してしまって陰鬱な気がいや増してくる。
偏執的な白綺家の気質がありありとうかがえる純白の石垣は、今日もシミひとつ無い。
それは生活感が無いというのではないのだ。たしかに、その汚れのなさからも生命の営みを感じ取れる。
いいや、むしろ、だからこそ怖いのだ。ほんの些細なことで汚れてしまうはずの石垣を、完璧に白く保ち続けるその労力を、なんの惜しみもなく注ぎ込めるというその執着心に。
「もし」
呼び声をあげると、通用門がかたんと音を立てて開く。
すると、中から割烹着姿の快活そうな顔をしたヤヱが現れて出迎えてくれた。
「お待ちしておりました」
いつもなら同情の色が見えるはずの声音は、今日は別の色を帯びていた。なにかを、惜しんでいるような悲しみの情だ。それがなんなのかはわからないが、これからすることは変わらない。
「失礼します」
彼女の後について敷地に足を踏み入れると、息の詰まりそうな、完璧な空間が広がっている。
庭木は乱れなく切りそろえられ、やわく足跡のつくはずの地面は均したかのように平板だ。自然と芽吹くはずの雑草すら、計算されたかのような生え方をしている。
はたしてこの光景を維持するのに、使用人たちはどれほど心血を注いでいるのだろう。
分家、それもかなりの末席とはいえ彼らもまた白綺家の一員だ。それを苦とも思わないのだろうか……今度、ヤヱと二人っきりになったときに訊いてみようと、今更ながら思った。
邸宅内も、外と同じように息の詰まりそうなほどに整えられている。わずかな壁紙の焼けすらもない、本当に恐ろしい限りだった。
きしりという、床板の音の響きすらも計算されたものなのではないかと思いそうになる廊下を抜けると、うっすらと向こうの見える簾戸に出迎えられる。
「定子様、流水殿をお連れいたしました」
「どうぞ、お入りになって」
喜びを隠しきれていない主の声に、ヤヱが戸を引く。その先はさらに御簾によって隔てられている……などということはもうない。通い始めの一二年目は御簾によって隔絶されていたが、七年目の今では最初から素顔だ。
一々使用人を介して会話するなどというお遊びに興じていられるほどの余裕がなくなったらしい。それが純粋な慕情の深まりならばいいのだが、嫉心からの場合、ヤヱの命が心配になる。
白綺家の恋慕は重篤な病に似るという。元より恋慕は病のようなものだが、彼らのそれは他人を害することへの抵抗感すら失わせるというのだから、向けられる側としてはたまったものではない。
しかし、部屋の中、白い襦袢をまとってにっこり微笑んでいる、幸薄げな顔つきの三つ編みの娘――白綺定子からは、そのような病的な色を読み取ることはできない。
――彼らは巧妙に病を隠す。自身が病んでいることを忘れてしまうほどに。
湧き上がる恐怖心を押し殺しながら、流水は部屋の中へと足を踏み入れる。それを確認すると、ぞっとするほどに冷たい声音で定子が告げた。
「ヤヱ、もう下がっていいですよ」
無言のまま、とん、と軽い音を立てて簾戸が閉じられると、味方が消え去った空間が出来上がる。
実際のところは、なにかがあったときのためにすぐ近くに控えているのだが、それでも視界の中にいないというのは恐ろしい。などと思っていると、先手を打たれた。いつの間にか、腕の中に定子がいる。
流水より四寸ほど小さい彼女も、座っていれば眼前に頭がくる。並みの男ならば、いくら苦手な相手でも、美女抱きつかれれば意識もするだろう。
しかし流水は、定子のまとう香や髪から立ち上る香油の匂いよりも、伸びきった枝角が邪魔そうなことに気を向けていた。
彼はどうしようもなく職人だった。
「ああ、流水殿、お会いしとうございましたわ……一日千秋の思いで、この日を待っておりました」
恋仲の相手に言われたならば飛び上がりたくなるほど嬉しい言葉も、この娘の手にかかれば恐怖の文言である。お戯れを、と彼女の体を引き剥がした流水は、持ってきた包みを解く作業を始めることで、その続行を阻止した。
「いけずな方……いつになったら、お応えしてくださるの?」
「それは星のめぐりしだいです」
「まあ、なら天の帝にお願いすればいいのかしら?」
「お話を聞いてくだされば、ですが」
彼女の問いに迂闊な答えはできない。もしここで実行可能な範囲の文言を返すと、本当にこの娘はやってのける。真っ当な人ならばあるはずの逡巡は、定子にはない。
応えのために首を切れと言われれば切る。誰かを殺せと言われたならば殺す。そこに倫理の壁は存在しない。
だからこそ、白綺は偏執の病を患っていると称されるのだ。
「幾度か試しているのですけれど、あの方も多忙なようで声が届くことはないのです……ああ、残念ですわ」
「そうですか」
幾度となく繰り返されたやりとりだが、ほんの僅かでも誤れば流水は店に帰ることはできない。作業外で精神を削りたくはないが、己の平穏のためには必要なことだった。
「さて、今年はどのような形にいたしましょうか?」
「あら、もうお仕事の話?」
「そのために来たのですよ」
「風情のないお方。でも、そこをお慕いしておりますわ」
言葉と共ににっこり笑うさまは、獲物を前に舌なめずりしているようにしか思えない。
逃げ出したくなる気持ちを抑え、なんでもないように話を続ける。
「……それで、いかがいたしましょう?」
「そうね……いつものように、長さは三寸五分に収まる範囲で、枝は双方三本ほど。各枝の先に一つと、幹の中ほどに二つ穴を穿って、根の辺りに小さく彫りをお願いしますわ」
「図柄はどういたしましょうか」
文に書いてはあったが、日が経って要求が変わっていないとも限らない。だからこうして確認することは、とても大切なことなのである。
問われた定子は、焦らすように考える姿を見せてから口を開いた。
「ん……文にも書きましたけれど今年は紫陽花を。天雫に濡れた様をお願いいたしますわ」
――あなたが冷たくて泣いています。
図柄に込められているのはそんな意味合いだ。
ちなみに去年は
詩歌に添えるならまだしも、一年間その図柄を晒し続けられるのだから定子という女性は恐ろしい。人間でいえば、顔に『私は懸想相手がおります』と刺青をするようなものだ。
たかが化粧とはいえ、よくもまあ親が許すものである。見合い相手や許嫁相手のものだと言い張っているのだろうか。あるいは親と喧嘩した末に認めさせているのか。
いずれにせよ、掘って良いのなら掘るだけだ。
流水にできるのは、それだけなのだから。
「承りました。では、横になっていただけますか」
「はい。……この枕がもう少しどうにかならないかと、いつも思うのです」
「固すぎますか?」
頭を包むような窪みのある高枕に頭を乗せながら、定子がぼやいた。
最初の頃は持ってきたものを使わせていたのだが、今では定子が自分用に用意したものの上で作業を行っている。ズレたりしないように頭をしっかりと支えるよう作られたそれは、率直に言って寝心地が悪い。
それに何時間も横たわっているのだから、不快感はかなりのものだろう。
「固い、というのもありますが、高さのほうが気になりますわ」
「定子様用に調整してすら、そう感じますか」
「ええ。職人たちが改善のために励んでいるのはわかっています。けれど、どうしても不快なものは不快です」
「申し訳ありません、としか言えないのが
素材の関係上仕方のないことではあるが、それでも不快な思いをさせているのは口惜しいのだ。
申し訳なさそうな顔をする流水に、ふっと定子が微笑みかける。
「ですが、これくらい不快のほうがよいこともあります。あなたの作業するときの息吹を、しっかと感じられるんですもの」
「面白いものではないと思いますが」
「いいえ。案外と、あなたの息吹には感情が乗っていてよ?」
そうなのだろうか。作業中は無心に近いので、読まれて困るような感情は乗っていないはずだ。精々がやり遂げた喜びか、不満の息吹だろう。どちらもあまり読み取られたいものではないが……。
「羞恥で頬を染めるあなたも、愛おしいですわ」
我知らず顔を赤くしていたらしい。指摘された恥ずかしさを誤魔化すように、流水は咳払いをした。
「……作業に入りますよ」
「あら、いけず」
くすりと笑いながら、定子が顔を保護するための仮面をつける。こちらも、もっと軽くて丈夫な素材が欲しいところだった。
***
ぎりぎりと音が響く。
額から伸びるガク氏族のものと異なり、コメカミから伸びるライ氏族の角の扱いは比較的雑だ。
生え方の関係上、間に板などの防護材を挟めるので、直接肌に刃の向くことがほとんどないからだ。怪我をさせたりしないよう慎重に作業しているのには変わらないが、精神的に楽なのはありがたい。
ただ怪我をさせやすい工程はどうしてもあって、その一つがいま流水が行っている、長さの調整だった。
精密作業用の小さなノコギリを使って、長く伸びた角を切りそろえていくのだが、このときうっかりすると耳を切ったり頭を強かに打つ。耳ならまだマシだが、頭は死につながりかねない。より、慎重にならねばならない。
このことは受ける側もわかっているので、身じろぎしないようにするし、暇を紛らわそうと会話を試みることもない。
どんな手でも使う白綺のご令嬢もそれだけはしないのは、流水に嫌われるとわかっているからだろう。
ころん、ころんと切り落とされた枝が床に転がっていく。これらはのちに加工され、新人弟子の練習用の角として再利用される。無駄にはならない。
とくに、格の高い家の枝角は枝が多い。健康状態が良好のために、角が思いっきり伸びてしまうからだ。過去には一尺近い長さの角と、十を超える枝を持つ御仁もいたというのだから驚くばかりである。角の大きさは益荒男の格を示すものではあるが、そこまで大きいと眠るのにも邪魔だし、何より頭が重すぎて困るので、大抵はこうして彩角師の手によって切りそろえられる。
枝を落とした跡は面取りされ、綺麗な曲線を描くようにされる。こうして、日頃見る枝の少ない枝角が出来上がる。
ちなみに、枝の本数には意味があり、双方偶数は既婚を、双方奇数は恋人募集中を意味し、片方奇数は失恋中を表す。
今回の場合は双方三本なので、募集中ですと言っているのだ。誰に言っているかなど、言うまでもない。
「ふぅ……切り落としは終わりました。すこし、休憩を入れましょう」
「お疲れさまですわ。……ん、ふぅ」
緊張していたのだろう。深く息を吐いた定子が体を起こして、軽く肩を動かすとコキリと音がした。
「は、ぁあ……すっきりしましたわ。やっぱり、この軽さでないと」
慣れ親しんだ軽さに戻ってきたという感じのようだ。ここまで伸びる間に重さに慣れそうな気もするのだが、その辺りは気持ちの問題なのだろう。
しっとりと汗ばんだ首筋からは、馥郁たる体臭が強く立ち上っていた。その独特の艶っぽさに胸が高鳴らないかと言えば嘘になるが、流水の頭の中は最終的にどんな形に揃えるかということでいっぱいだった。
何しろ、ここからが腕の見せ所なのだから。
「鏡、いただけます?」
「どうぞ」
定子は受け取った手鏡を動かして、様々な角度から角の様子を確認する。
にっ、と笑みを作ったところを見るに、枝の落とし方はお気に召したようだ。
「本当に、わたくしの好みをよく理解していらっしゃるわ」
「恐縮です」
無論、だからこそ呼ばれ続けているのだが、何度経験してもここで好みが変わっていやしないかと怖くなる。
数年付き合った彩角師を変えるということは、そう珍しいことではない。だから、そのせいで悪評が立つということはないのだが、どうしても捨てられたような気持ちになってしまう。
苦手な相手のはずなのに、関係を打ち切られることは怖いというのは、なんだかおかしな感じがする。心というものは、とかくわからないものである。
「ふふ、寸評をもらう前の詩人のようですわ。ああ、愛おしい」
あばたもえくぼなのか、流水の反応はなんでも愛おしく思うらしい。ゾッとはするが、その実、本心から嫌というわけではないのだ。
「ねぇ、流水殿? 一つお訊きしたいことがあるの」
「なんでしょうか」
いつもなら応えを聞くやすぐさま質問が飛んでくるのに、定子の顔には逡巡の色があった。
「いえ……後にします」
「そう、ですか?」
「ええ」
……果たして何を訊きたかったのか。その疑念は、しかし、楔と呼べるほど流水の心に刺さることはなく。彼は今まで通り、淡々と定子の角を整えていく。
切り揃えの次は穿孔作業だ。角に墨で置いた点を掘っていく。
このとき、力を込めすぎてはいけないし、径が大きすぎても小さすぎてもいけない。
力を込めすぎれば、角にヒビがはいることがある。径が大きすぎれば、装飾品を通したときに重みで角が割れてしまう。かと言って小さすぎては装飾品が通らない。その微妙な塩梅は精神を削るものだ。
そして孔は開ければそれで終わりではなく、その周りに平易な彫りものを施すのが一般的だ。これは、装飾品をつけるとき、指で孔の位置を探りやすくするためだ。
また、この彫りもののお陰で、孔そのものが装飾にもなり、角にさらなる彩りを添えることになる。そんな一石二鳥のものであるだけに、気が抜けない。
時間と体力を削るこの作業を終える頃には、二人の空腹が著しいものになっている。
――陽を見れば、そろそろ未の刻(午後二時頃)に差し掛かるのが察せられた。腹も空いて当然である。
「食事休憩を取りましょう」
「そ、そうですわね」
流水は手を止めてそう誘った。誤魔化すような口調で定子が同意する。
その顔が赤いのは、先ほどから幾度も腹を鳴らしていたからだ。生理反応だといっても、好意を抱く相手の前で腹を鳴らすのは恥ずかしいだろう。
いそいそと体を起こした定子の腹が、また、くぅと鳴った。
「お、お聞きにならないで……」
耳まで真っ赤に染めて小さく呟く定子を見ていると、なんだか不埒なことをしている気分になってくるのだった。
***
ヤヱが呼ばれ、食事の手配がされる。
話すための格好の機会だというのに、定子は顔を伏せているまま、手配以降いっこうに口を開こうとしなかった。
その沈黙がなんだか不気味で、図柄を煮詰める作業に意識を向けることが出来ない。お互いただ身じろぎするばかりで、沈黙が重苦しい。
「……その、流水、殿?」
「っ、なんでしょうか?」
沈黙を破る定子の声に、流水は思わず過剰に反応してしまう。顔を見やれば、先と変わらぬまま耳まで真っ赤にした定子がそこにいた。
「幻滅、いたしませんでしたか……?」
ゆっくりと顔を上げつつ流水の様子を伺う定子は、なんだかひどく愛らしい。こうしてみるとただの恋する乙女にしか見えない。いいや、実際その通りなのだが。
しかし、他人を蹴落とすことに躊躇いない女が、自分の腹の音を聞かれただけでここまで動揺するというのも、なんだか面白い話だった。七年間付き合って、初めて腹の音を聞かれた、というのも大きいのかもしれない。
「いいえ、定子様も真っ当なヒトなのだなと、どこか安心している自分がいます……少々、不遜なものいいではありますが」
初めて、かもしれない。素直に心情を吐露するのは。吐き出す言葉にはいつもの欺瞞をほどこしていたから、もしかすると、嫌われるかもしれない。
そんな流水の不安を現出させるように、定子の目から涙が一筋流れた。
「も、申し訳ありません。そんな、涙を流させてしまうほど傷つけるつもりは――」
焦り始めた流水を、小さく首を振って定子が制する。
「いいえ、いいえ、そうではないのです」言葉を続けながら、徐々に彼女の顔がほころんでいく。それはまるで、蕾が開いていくさまを早回しで見ていくような、心臓を鷲掴みにしてくる笑顔の形成。
「うれし、くて。うれしくて、しかたがないのです。だって、ずっと、ずっと話していて、あなたの顔が見えたのが、初めてで」
嬉し涙なのです、と定子は微笑む。見ほれてしまうほど美しい微笑を浮かべながら、彼女は不穏な言葉を続けていた。
「こんな、ことなら、もっと前から素直になるべきでした。そう、すれば、わたくしは」
――これではまるで別離の前のようだ。
それも、恋慕を抱えたまま引き剥がされるもののような……その発想が浮かんだとき、ピタリと欠片が嵌ったような気がした。
「……ご結婚なさるのですね」
言葉に、定子の目が大きく開かれ、瞳が揺れた。正解だったらしい。
冷静に考えてみれば当たり前どころか、遅いほうだろう。定子は今年で十五を迎える。良家の娘であることを考えれば、行き遅れと揶揄されてもしかたがない齢である。
いつまでも、こんな庶民の男へ熱を上げられるはずもない。そもそも男と接するのだって、憚りがあるはずなのだ。
嫉妬を煽るにしても許嫁の話などは一度も出たことがなかったから、あまりに苛烈すぎて親から好きにして良いとお墨付きでももらっているのだと思っていた。
けれど、どうやらそうではなかったらしい。
――涙の色が変わった。
「……ええ」
「お相手は」
「黄籃家の方です。とにかく優しいかたで、わたくしが流水殿を好いているのを知って、いろいろと手を回してくださっていたのです」
上流社会において婚姻は家同士のつながりを強めるための道具でしかなく、そこに感情が介在する余地は少ない。家長が結ぶべしといったのならば、結ばれねばならないものだ。
飾角族は寿命が長いが、その代償とでも言うように子供が出来にくい体質を抱えている。ゆえに婚姻は可能な限り早いほうがよく、子を成す機会は増やしておいたほうがいいのだ。
上流のものは誰もがそれを理解しているし、だからこそ、彼らの婚姻は庶民からすれば幼児趣味かと思えるほどに早い。
だというのに、それを遅らせていたというのだから、優しいというよりは、何かの陰謀を疑りたくなる。あるいは、それほどまでに彼も定子を愛しているのかもしれない。
白綺の病は生涯ついて回るものだ。たとえ政略結婚だろうと、その外に男女含め、本命を囲うということは白綺家では珍しいことではない。他家であるにも関わらず白綺の女を娶ろうというのだから、底知れぬ懐の深さだ。さすがは死をも憩わせる黄籃家かと、流水は感服していた。
「それでも、引き出せた刻限は今年まででした」
「そうだったのですね」
ヤヱの声音の意味がわかった。もう二度と会うことはないと、そういう意味だったのだ。
そして、求められた彫刻の紫陽花も、冷たいと涙を流しているのではなく……。
「私はお払い箱ですか」
「わたくしとしては嫌ですが、そう、せざるを得ません。あなたは、一人の角を彩るだけでは満足出来るほど小さな男ではありませんから」
「なる、ほど」
頷く言葉を吐き出すのが、ひどく苦痛だった。苦手な相手に二度と会わなくていいと知ったのに、胸が締め付けられそうなほどに痛い。
それは見捨てられた悲しみとは、違う。
――これは、なんだ。
「ごめんなさい、流水殿。ほんとうは、すべて終わってから言うつもりだったのです。あなたの、技の冴えを曇らせたくなくて」
涙に濡れた顔で謝る定子を見るのが、辛い。そんな顔をさせたくはなかった。
受け入れるつもりが本当になかったのなら、告白された次の年から仕事を断ればよかったのだ。文で顛末を知ることにはなったかもしれないが、このような顔を見なくて済んだ。
金になるからとか、宣伝になるからとか、そんな言い訳を全部取っ払えば――ああ、流水と言う男は、定子の角に触れ、刻み、喜ぶ顔を見るのが好きだったのだ。
ほんとうは、単純な話だった。いろいろなものが、それを隠していてしまっただけ。
――けれど、それを自覚していたところでどうなったというのか。
結末は、今と変わらなかっただろう。ただ、痛みは少なかったかもしれない。
元より結ばれることがありえないとわかっているのだ。どこかで二人は別たれねばならない。
子飼いとなり、黄籃の中で彼女と共にあるという選択もあるにはある。だが、それは流水が耐え切れまい。いかに心がこちらを向いていると理解していても、男は浅はかな嫉妬を抱かずにはいられない。たとえそれが、子を成すためだけの繋がりでしかないとわかっていても、誰かの手垢がつくことに、男は耐えられない。
それに、定子の言うように子飼いでは流水は間違いなく満足出来ないのだ。家人すべてを含めたとして百にも満たない数しか角を彩れないなど、小さな箱に押し込められるようなものだ。
――だから、二人は、決して結ばれない。
沈黙が満ちる。かすかに聞こえている使用人たちの音が、現実味を失った遠さに思える。
その静寂の中、流水は必死に考えた。自分は、彼女に何を上げられるのだろうかと。
答えなど、一つしかない。
「……なら、より手を加えないと、いけませんね」
努めて平静な声で、流水はそう告げた。
え、と定子が顔を上げる。
「婚礼は、いつですか?」
「え? あ……二月、後です」
「なら、それまでに間に合わせます。輿入れ前にどこかの誰かに、あなたの枝を落とすことは許さない」
輿入れするとなれば、今作り上げる一品は、壊されてしまう。可能な限り形を崩さないようにはするだろうが、三で調和の取れるようにしてある枝を削れば、全体は歪になる。
そんなこと到底受け入れられない。なにせ、これが最後なのだ。なら、今あるすべての技量を注ぎ込む。
凄まじい勢いで思考が回転を始め、流水の顔が凄絶なものへと変わっていく。
「定子様」
「は、はいっ」
真剣な顔の流水に、蕩かされたような顔で定子が答える。惚れた女からすれば、その顔はあまりにも凛々しかった。
「ひとつ、お願いがございます」
「な、なんでしょうか?」
「二月の間、夜ごと眠るまでの間あなた様の下に通うことを許していただきたい。可能であれば一室をお借りしたく」
「そ、それは……?」
情を交わすという意味か、と一瞬勘違いしそうになった定子はすぐに気づいた。流水の眼の奥でぎらぎらと燃える美への執着を。
――あなたを天人の如き美しさにしてみせましょう。
続いた言葉は、彼なりの告白であることは間違いなく。定子は陶然とした声で頷きを返したのだ。
***
食事後、流水が行ったのは定子の角の採寸だった。目測ではなく正確な値が必要だったという事実からして、どれほどのものを作り上げようとしているのかと、定子は空恐ろしくなった。そして、同時に言い表せない幸福感にも包まれていた。
正確に写し取られた定子の角を前に腕を組む流水を見て、彼女は僅かな怖れの色を読み取った。それは、はたして己に成せるのだろうかという弱気である。
彼がどれほどのものを作り上げようとしているのか、定子にはわからない。だがそれは、この上ない難業であるのは間違いなく、ほんの僅かな狂いすら許されないものなのだろう。
そんな彼を前に、かけられる言葉はなんなのか。自分になにが出来るのか。
悩み、導き出した答えは、実験台の提供だった。
金を出せば剥落したライ氏族の角を集めることは容易いだろう。たしかに、それを使えば試行は幾らでも出来る。けれど、おそらくそれではダメなのだ。生きて動く姿の中でどう浮かぶのかを、彼は見たいはずだ。
だから。
「ヤヱを貸し出しましょうか?」
告げた言葉に、流水が驚愕に目を広げた。返答はなく、ただ眼が激しく動いている。
これはただの自己満足だ。はたしてそれに、第三者を巻き込んでよいのかと思っているのだろう。
定子に言わせれば今更すぎる逡巡である。嫁入りする娘に告白としか思えぬ彫刻を施すのである。その時点で、相手方の男に喧嘩をふっかけているようなものだ。
おそらく彼はそこまで理解はしていまい。ただ、純粋に美を追い求める彼にはわからない。けれど、そんな鈍感な彼が好きだから、定子は言葉を続ける。
「あの子の角は、わたくしと似ています。径も傾きも、なにもかも……いいえ、似せているのです」
二人が会ったとき、せめて自分を思い出してはくれないかと、あの子に押しつけていたものだ。体型も所作も矯正した。身長や顔こそ僅かに異なるが、ほとんど写しと言って遜色ないと、定子は思っている。
そう、身長さえ同じだったなら……。そんな、もはや意味のない思考を握りつぶして、努めて笑顔を作り上げた。
「ですから、格好の試作になると思いますわ」
普段なら間違いなく引かれていた発言だと自覚はある。だが同時に、これに流水が飛びつかないとわけがないというのも理解していた。初めから断れるわけのない意地悪な提案だった。
「……ヤヱにも、訊きましょう。一年間、同じものを身につけるのは彼女なのですから」
それは答えの決まっている無意味な問答でしかないが、流水の倫理的な壁を乗り越えるためには必要な行為だった。
***
「私が、ですか?」
呼び出しに応じたヤヱは、どうして今更そんなことを訊くのかと言いたげな顔で問い返した。
彼女は使用人である。そも、上からの命に逆らう権利がない。どんな無理難題でもやって当たり前なのだ。
だのに、拒んでも良いと言われても困ってしまう。
「そんなこと言われましても……ああ、嫌というわけではないんです。そりゃ、希代の名匠やろうとしてる偉業に携われるなら、光栄すぎて心の臓も止まりそうです。でも、私なんかでいいんですか?」
「あなたなら流水殿と気心も知れてるし、角だって私に近しいでしょう」
「……というのが、定子様の推薦理由です」
ここでいう気心も知れたというのは、純粋に仲が良いというよりは、『過ちを犯したりはしないわよね』という牽制の意味合いが強い。実際、二人が自分について愚痴を言い合うような仲であるというのを定子は他の使用人や情報屋などから仕入れて知っているのだ。さらに言えば、ヤヱが自覚出来ていない想いも、定子は理解している。
そんな主君の想いをちゃんと汲み取って、小さく頷いてから。
「理由は納得いたしましたが……本当に、私なんかでいいんですか?」
ヤヱが問うたのは流水にだ。幾ら周りが肯としても、最後に腕を振るうのは流水である。気持ちに曇りがあれば、技の冴えは鈍る。
定子よりも、はるかに流水を知っているからこそ、ヤヱは問うたのだ。
「構わない」
釘を刺されたばかりだというのに、ヤヱは気がついたときには、そのギラついた眼に吸い込まれていた。恋を語る定子のそれに似た狂気の眼……いいや、あれよりもはるかに深度も純度も優れた眼に、一瞬で虜になった。
もともと淡い気持ちがあった、というのも関係はしているだろう。だが、奇しくも釘を刺すための定子の言葉が、この陥落の引き金を引いていた。
「……不束者ですが、宜しくお願いいたします」
陶酔の色濃い声音で告げるヤヱに、定子の眉があがる。ヤヱの自覚に気がついたのだ。しかし、今更二人の仲を裂くことも出来ない。
定子は最後の最後に薄氷を割ったのだ。けれど、まだ、沈んではいない……渡り切れるかどうか、それはまだ、わからないのだ。
荒ぶりかけた心を抑えた定子は、二人が作業に入るのを鬱屈とした眼で睨んでいた。
その心の中で渦巻くのは、後悔と嫉妬と……一抹の祝福。本人すら気づけないほど小さな祝いの気持ち。
***
流水の立てた計画は、一週で図案を完成させ、二週で彫り込みと技術の確認をヤヱで行い、残る一月で本作業に入るという、未知に挑むには殺人的かつ余裕のない計画であった。さらに言えばこの作業とは別に、普段の仕事をしているのである。自殺願望でもあるのではないかと疑りたくなる有様であった。
絶対に破綻する。いかに惚れていても、それくらいは冷静に見てとれた。無理はしなくていいと、二人して説得をしたが、がんとしてこの計画で行くと流水は折れず、実行へと雪崩れ込んだ。
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