申す申す、と問ひしこと
壱 繋ぎ逢瀬
勇之助が甕の蓋を開けば、
真っ白なそれは、強烈な粘着効果のある糊の原液だ。別の液体と混ぜることで凝固するそれは、空気に触れるとあっという間に悪くなる。急いで患者のところへ戻らなくてはならない。
商い者向けに貸し出されている二階建て長屋の一階は広い。甕の置かれている長屋の最奥部から、通りに面する診察室の間にもう一部屋あるくらいで、難しい仕事の時などはここに泊まってもらうことになる。
おかげで糊のキツイ匂いが届かないのはいいのだが、いざ仕事となると少し不便だった。
のっぺりとしたその顔を歪めながら、いそいそと途中の部屋を通り抜け、草履を履いて暖簾をくぐれば、ぱっと視界が明るくなる。診察室に戻ってきたのだ。
垂らした糊や削り粕の掃除のしやすいように、土間を改装して作った診察室の真ん中には診察台が置いてあって、今、そこには勇之助を待つ患者が横たわっている。
まだ年若い少女だ。その頭から左右に伸びる患者の角は、その片方が中ほどから折れてしまっている。張り裂けたような傷跡が目に見えて痛ましい。それでも十二分に繋ぎやすい部類だ。
軽く息を整えると、不安そうにしている彼女へ声をかける。
「おまたせしました。では、繋いでいきますね」
「お願いします……」
ふるりと身を震わせた患者の角に折れた先端を添える。まずは糊を塗った後、凝固を待つまでの間、ズレないようにするために縄で固定する。それから縄を少し緩めて隙間を作り、角同士に糊を塗った。接着面から漏れ出してこないよう調節したそれに凝固剤をまぶし、すぐさま縄を締めてズレないようにする。あとは完全に糊が固まるのを待つだけだ。
「出来ましたよ」
身動ぎをしてはいけないと意気込んで、息を止めていた患者に優しく声をかける。ぷは、と水面から顔を出したような音がして、激しく呼吸するのが聞こえた。
「あ、ありがとう、ございます」
「糊が固まるのにはもうしばらくかかりますので、それを確認したら処置終了となります。跡が目立たないように彩角師を紹介することもできますが、どうしますか?」
提案するのは、どうしても跡が目立ってしまうからだ。角の削り粉から作った塗料を塗り込んだりして分かりづらくはしているが、その跡すらも美に変えるような真似は、
無論、中には自分の手でやるという者もいるし、同じ技を学んではいるので、やれと言われて出来ないことはないのだが……。
「え、あ……馴染みのひとがいるんですが……その、大丈夫、でしょうか?」
「予約とか大丈夫な方ですか? こちら経由でなら即日にねじ込めるので」
普段、流行りの図柄を刻むなどの角化粧で日銭を稼いでいても、彩角師の本分は角を傷つけた者たちを労わることである。医師とも言える繋角師経由の依頼を否と言えるものはいない。それはどんな太客の予約が入っていたとしても変わらない。むしろ、そこで否とでも言えば、悪評になって食いっぱぐれるようになる。
「へ、平気です。その……人気、ないので……」
「そ、そうでしたか」
「ええ……ははは……下手じゃないんだけどなぁ」
親しみのある苦笑いは、患者と彩角師の信頼関係を感じさせた。ぽつとこぼした言葉を聞くに、ただの客とは、また違う関係なのかもしれない。
それはともかく、紹介状を書く手間が省けるのは助かる。彼はどうにも筆を取ることが苦手だった。
「こほん。では、終わり次第そちらに足を運んでいただく、ということで」
「はい!」
元気いっぱい返してきたのは、会いに行く口実が出来たからなのだろうか。その若々しさが少し眩しいなと思いつつ、そろそろ乾いただろうかと角の削り粉を散らして煽ってみる。……飛んだ。
それを確認すると角を締めていた縄を解いて、接着がしっかりとなされているかを確かめる。
「よし。直りました」
「あ、ありがとうございます!」
身を起こして礼を言う患者を置いて、設置してある姿見を彼女へ向けた。
「繋ぎ方はどうですか。ご不満があればやり直しますので」
「大丈夫です!」
「ならよかった」
たまにここで猛烈に文句を言ってくる輩がいる。
言い方さえ変えてくれたならとは思うが、文句を言いたい気持ちはわかるので、そういう時は素直に接着し直すことにしている。
とはいえ、折れ方によっては限界もあるのだが……。
「では、お代は……」
***
決して少なくない額のお金を受け取って患者を見送ると、もう今日は店じまいだろうと思いつつも、看板を休憩中に変えた。
繋角師の仕事なんてものは、日に一つあればいい方なのだ。仕事が少ないということは怪我人が少ないということでもあるし、喜ぶべきではある。だが、おかげで日々の食事は細々としたものだ。彩角師となれば収入も桁が違うのだろうが、生憎才能がなかったのだから仕方がない。
受け取った金を無くさないよう帳簿をつけて保管場所にしまっておく。記入した時、糊の残りが怪しいことに気づいてしまって、この金が早晩なくなってしまうのだと思うとなんだか物悲しい気分になった。
(まあ、仕方ない)
食えるだけマシなのだと思おう。修めたはいいものの、食えずに他の仕事をしているものなど腐るほどいるのだから。
やれやれとため息を吐くと、陰鬱になりそうな気分をごまかすために、術後にいつも嗜んでいるキセルを持ち出してきた。
水上都市は魚以外がなんでも高い。このタバコも、大事に大事に吸ってきたが、そろそろ底をなくなってしまう。出費が重なりそうだし、水揚げの日雇い労働でもやろうかと考えてしまう。
武士は食わねど高楊枝、などと言えるような矜持はない。実際、以前にも何度か世話になっているし、タバコのために、また水をかぶるのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、火打ち石を打ち鳴らした途端のことだった。
タバコから煙が上がるのとほぼ同時、けたたましい音を立てて店の戸が開いた。
「ごめんくださーい!」
甲高い、通りの端から端まで届きそうな元気のいい声が響く。
入り口を見やれば、まだ幼さを残した可愛らしい顔つきをした赤い着物の少女がいる。その頭には気性を表すような短い髪と、美しく研ぎ澄まされた牙のような細く鋭い角が二本。しかし、今は片方が半ばで折れてしまっている。
「お雪! おまっ、また折ったのか」
火打ち石を足に落としそうになって、慌てて避けながら勇之助は口にする。少女……お雪は、照れ臭そうに頭を掻いた。
「いやー、またやっちゃった」
「やっちゃったって……」
彼女がやってきたのは、今月だけでもう三度目だ。
繋角のお代は決して安いものではない。着物の質から判断するに、お雪はかなりいいところのお嬢様だが、それにしたって家令が苦情を言いかねないだろう。
そもそも、そんな家ならお抱えがいるはずだが、彼女はいたく勇之助を好んでいて、わざわざやって来るのだ。
「まあいいともかく座れ」
「えー、タバコ臭い」
「休憩中の看板無視したのお前だろうが」
本来客にこんな言葉遣いをすべきではないが、自然とお雪の前ではこうなってしまう。好意がわかっているからかもしれないし、不良患者だからかもしれない。
勇之助はキセルを咥えたまま、座らせたお雪の頭を確認する。
折れた角の断面は、まるで断ち切ったかのように恐ろしく綺麗だ。繋ぎやすいことこの上ないが、全く何をしていてこうなったのか、少し訊きたくもなる。
「今度は何した」
一度目は本を投げ合っていて折ったと言った。
二度目は転んだ拍子に柱に引っ掛けたと言った。
今度は何だ。
「え? えー……薙刀やってる時に、ちょっと」
「あの手の訓練ってのは、模擬刀だろう」
模擬刀ではこういう折れ方にはならない。超絶の使い手なら話は別なのかもしれないが、普通はもっとひしゃげた跡になる。あれを繋ぐのには残った角を削ったり、長さを盛ったりと一大工事になる。時間も手間もお金もかかるものだ。
「いやー真剣もたまには使いなさいって時にはしゃいじゃって」
「お前な……」
それでよく角だけで済んだものだと感心するし、そんな娘をよく外に出したものだと嘆息する。いや、すり抜けていった、のだろうか。
家令と薙刀の師匠の胃が無事であることを祈ることしか勇之助には出来ない。これと普段から付き合うのは、相当に疲れるだろう。
「無事だったんだしいいじゃん?」
「はぁ……まあ、接ぐのはいいが、いい加減こうほいほい折られるとやる気が無くなるんだが」
稼ぎにはなるが、そういう問題ではない。
「嫁入り前の娘なんだから、ちゃんと直してよ!」
「そもそも折るな。ガキじゃあるまいし」
「これでも裳着は済ませてますー。大人ですー」
子供のように反論してくるお雪に、勇之助は頭痛がしてくるのを感じていた。
もっとこう、女性というものはおしとやかなものなのではなかったのか。それは、飾角族たちも同じなのではなかったか。
お雪が特殊すぎるのだろうか。そうだとすればそれはどこからくるのか……というか、裳着ということはやはりこの娘、いいところのお嬢様なのではないか。
「なら尚更おしとやかにしろ」
「ユーの字はそっちの方が好き?」
「一般論だ」
言ってから、いつの間にかタバコの味がなくなっているのに気づいて、腹立たしげに床をこすりながら勇之助はキセルを置きにいった。全く味を楽しめなかった。
「えー、アタシはユーの字の好みが知りたいな」
繋ぐための準備をしていると、軽快な口調でそう訊ねられた。
話題の流れからなのか、それとも本当に勇之助の好みが知りたいのかわからないが……ともかく。
「ほいほい角を折る女は嫌い。これでいいか?」
「えー! で、でもそしたらもっとこう、控えめに暮らさないといけないじゃん?」
「そこは上手いことやれよ。自分の頭のことだろ」
「うーん、そうは言うけどね。ヒトと違って何寸も頭から飛び出てるって気を使うんだよ?」
実際苦労しているのだろうが、だからと言って他の飾角族がほいほい角を折っているわけではないので、彼女個人の問題だろう。
彼女の角が細くて折れやすい方だと言うことも、原因の一つではあるのだろうが……。
「お前の症例、だいたいは物を投げられたからとか、転んで引っ掛けたとか、はしゃぎすぎて切ったとか、気を使うも何もないじゃねえか」
「いやー……耳が痛いなー」
道具を手に戻れば、慣れた様子で横になったお雪が苦笑いを浮かべていた。慣れて欲しいものではないのだが、どうしようもないだろう。
「ったく、気をつけろよ」
「えー、お金になるしいいでしょ?」
「俺たちはお前らに健やかであって欲しいから繋ぐんであって、服が破れたから直す、みたいなものとは違うんだよ。そこに金銭がどうこうってのは関係ない」
「うう……気をつけます」
初めてお雪がシュンとなった。これ以上食い下がると本格的に勇之助に嫌われると思ったからなのだろう。
静かになったお雪をよそに、勇之助は角を繋ぎ始める。
目を細め、手がブレぬよう息を整え、縄を操り、角と角を触れ合わせる。
断面は綺麗だ。手習い始めにやらせても上手に繋げるだろう。だが、細い角は縄で仮止めをする時にも注意が必要になる。
細い角は、弱い。縄の跡が残らないように、締めすぎて折ってしまわないように、技量の求められる角だ。
我知らず胸を高鳴らせながら、指先でヒビなどないか検めて、勇之助は計画を立てていく。
嫌々ながらも作業に入れば真剣そのものだ。
その顔を、愛おしい男が己に注視してくれる様を、申し訳ないと思いながらもお雪は盗み見る。
――彼は知らないだろう。その眼がどんなにか鋭いか。
――彼は知らないだろう。その面がどんなにか男前か。
――彼は知らないだろう。その手が、指が、角をいたわる触り方がどんなにか心地よいか。
そんな女は嫌いだと言われても、つい角を折ってしまうほどに魅力的であるかなんて、彼は知らないだろう。
彼は己の価値を低く見積もっているから。遥か高みにある鮮烈なものに敗北してしまった男だから。
思いを伝えたところで受け入れてはもらえまい。それに、それはとてもはしたないことだし、やはり、彼に好きになって、言ってもらいたい。
だから、今は。嫌いだと言われても、角を折ってしまうのだ。
***
愉快な気分だった。
思わず、調子外れの鼻歌を歌ってしまうくらいに。
思わず、踊るような足取りをしてしまうくらいに。
晩靄の立ち始めた夕暮れの道をお雪は歩く。その頭から伸びる
それは折損箇所を補助するように、角を組紐で締めて作った吉祥結びだ。今も前髪の端を割って、顔に彩りを添えている。
角を紐で補強するのは、まだ良質な糊が作られる前の原始的な繋角の技法だが、お雪は随分と気に入ったようだ。
何せこれは、彼が自分に施してくれた
愉快にならないはずがなかった。気に入らないはずがなかった。
それに加えて、施された時の会話が、彼女の心を軽くしていた。
『それなら多少ヤンチャしても持つだろ』
『でも、髪洗う時邪魔じゃない?』
『もっと邪魔にならない結び方もあるが、そうしたらお前すぐ折りそうだからな。わざとだよ』
『じゃあどうするの?』
『洗う時はほどいていい』
『それはそれでなんか勿体無い気分なんだけど』
『そうしたらまた来い。結んでやるよ』
しかもただでな、と苦笑しながら言った彼は、本当に困った風な気配を背負っていた。無料で施術をする方が、すぐに角を折られるよりマシなのだろう。
お雪からすれば、わざわざ角を折らなくても勇之助に会いにいく大義名分が生まれたのは、素直に嬉しかった。想いを、許されたような気になった。
もちろんそんなことはないのだろう。面倒な客が、気を滅入らせにこないよう対策しただけかもしれない。
そうだとしても、これで公然と入り浸れるのが、嬉しかったのだ。
「~♪」
閑散としていた道も、家のある中層区に入る頃には人数が増えて来る。あまりはしゃいでもいられないだろう。
彼はおしとやかな人が好き、なんて言っていたし、人目のあるところでは少し落ち着いてみせるのも必要かもしれない。
なんて、考えながら、高い高い鐘楼のある自宅を目指していた途上のこと。
――ふ、と……背筋が凍りつくような感覚があった。手足が強張って、上手く歩けなくなる。
何か、恐ろしいものの気配がある。果たして何が、こんなにも慄きを生み出しているのか。
ぐるり、眼を巡らせてみても行き交う人々に異変はない。自分と同じような、角を持つ人々が歩いている。なんてことはない、見慣れた夕暮れ時の景色。
否――違和感がある。この時間になれば後は帰っていくばかりなのに、何処かへ向かっている者がいる。
視線、吸い寄せられた先、羊のような渦巻く角を持つその人物は箱を背負っていた。
(あれは、黄籃の……)
黄籃家の紋が入った以外はなんてことはない箱だ。薬屋が背負って歩いているものよりも小さく、恐らくは一尺もあるまい。
単なる荷物運びだ。ただ家紋を背負って、誰かの元へ向かっているだけの、なんの変哲も無い者。
だがそれが、やけに気になった。何かがズレているような気がして、居心地が悪かったのだ。
――目が、あった。
ジロジロと見ていたのだから当たり前だ。向こうだって、前を見て歩いているのだから。けれど、たしかにその瞬間、互いに意図を感じた。
ゾクッ、と全身に鳥肌が立つのを感じた。何かとてつもなく大切なものを握り締められたような気がして、咄嗟に吉祥結びに触れてしまう。
「もし」
喘ぎ混じりの声で、彼女が問いかけてくる。遠くてよく見えなかった顔が、鮮明になる。
……何処かで見た顔のような気がした。
「その角化粧……いずこのお店で?」
続いたのはなんてことは無い内容だった。古い技法で珍しいから、訊いただけかもしれない。
だが、それだけの意味では無いことが、その表情から伝わってくる。
ひしゃげたような、狂喜の笑み。
ようやく見つけたというような、そういう、恐ろしい笑顔。
「ひっ……」
素直に答えてはいけないような気がした。この女を、勇之助に会わせてはいけないような気がした。
けれど、目の前の女から押し付けられる強烈な圧力から逃れる術をお雪は知らなくて。
問われるがまま答えてしまう。
「下層区、の、勇之助という、繋角師に」
「まあ、彫り師ではなくて? 接ぎ師さんが?」
「は、はい」
声を出す度に喉が締まっていくような感覚がある。ジロジロと見つめてくる眼が、引きずり込まれそうなほど深くて、逃げるように視線を逸らしている。
「へぇ。へぇ……。ありがとう。とても、腕のいい人なのでしょうね」
だから、すっと腕が伸びてくるのに反応できなかった。気付いた時には吉祥結びに触れられていて、きぃと怖気で喉が鳴った。
「可愛らしい結び。紅楼家の細い角にそんな細工ができるだなんて、本当に本当にお上手ね」
あの方には敵わないだろうけれど、と誰かと比較しながらその女は笑う。
勇之助すら気付いていないお雪の素性を一目で当てて見せた女は、からからと笑っている。
そこで、ようやく気づいた。目の前の女の違和感の正体。よく見なければわからないほどズレている角の位置……偽物の角だ。
そして、この女の顔をお雪は知っている。幼い頃に、三大家の娘同士として引き合わされたことのある相手。
「あ、あんたは、黄籃に嫁いだはず」
一年前、この大通りを埋め尽くして、花嫁行列を行った白綺の……!
「お、し、ず、か、に。お互い、こんなところを出歩いているだなんて知れたら困るでしょう? いいえ、
しぃー、と指を立てて声を潜める彼女に、お雪は柳眉を逆立てた。恐ろしい相手だが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「ユーの字をどうする気」
「お仕事を頼むだけですよ。上手に繋いで欲しい、ただそれだけ。安心して。取ったりなんかしませんよ」
返答に、お雪はほっと胸を撫で下ろした。
白綺の娘がとある彩角師に熱を上げている、というのは界隈では有名な話だった。結婚を機に関係を絶ったと聞いていたから、勇之助に秋波を送られるのではないかと不安だったのだ。
だって彼女は、黙っていればおしとやかという言葉が立って歩いているようなものだから。自分なんかとは違うくらい豊満で、美しくて、艶やかだから。
だが、冷静に考えてみれば、これほどの恐ろしさを撒き散らす相手に秋波を送られても靡きはしないだろう。いくら男が美女の前では愚かだとて、それが劇物かどうかくらいの判断はつくはずだ。
自分の好きな彼ならば、それを見定めるくらいの眼力はあると信じている。
「なら、いいけど……」
「ふふっ、いい顔。恋の顔です。きっと、その方の前でもそういう顔をしているのでしょう」
「うっ……」
たぶんそうなのだろう。彼の前で上手く感情を隠すことなんて出来るはずもない。
羞恥で顔を赤くしたお雪を見て、からからと楽しそうに白綺の娘は笑った。
それからすっと、手が離れていって、解放されたことに安堵を覚えてしまう。
「先人として、一つ忠告しておきます。その方が囲われるのを厭うかどうか、早めに確かめておいたほうがいいですよ」
ホッと息を吐くお雪に、距離を取った彼女が心底心配する風にそう告げた。
酷く実感のこもった言葉だったのは、彼女の想い人が、そうではなかったことを示している。
「ユーの字を、囲う?」
「わたくしたちの幸せの形はそういうものでしょう? わたくしたちの
上流階級にとって結婚とは子孫を作るための儀式だ。嫁いだ相手を愛せるかどうかなどわからないし、向こうも求めているのは継嗣を作るための子宮だけなのだから。
もちろん、愛し合えたのならそれが最上だし、努力はすべきだろう。端からそれを求めない白綺は、割り切りすぎている。それは彼女たちの持つ気質が、そうせざるを得なくさせているのだが。
「うちとあんたのところは違う」
「なら諦められるの?」
「それは……」
お雪はまだ幼い。婚姻相手はとっくに決まってはいるが、あくまでそれは制度上のもので、恋をしたのだって勇之助が初めてだったのだ。
だから、恋の実らせ方も、断ち切り方も、何もかもを知らない。
いつかは諦めなければならないとわかってはいても、何も知らないままなのだ。
「わからない? かもね。わたくしも、昔はそうだった。誰かに恋なんかしないで、したとしても諦められると信じていて。けれどダメで、好きで好きで、今でも狂いそう」
ぶるり、と想い人の顔を浮かべた娘が体を震わせた。
白綺の恋は狂気であり、不治の病だ。だから娘は、死ぬまで思いを断ち切れない。役目を果たすまで、叶わぬ恋に焼き殺されるのを引き延ばすしか術がない。
「この都市で、
「でもそれは」
「はしたないことね。けれど、あなたはソレと命を秤にかけるの? そんなちっぽけなもの、満たされることの前では意味のないことですよ」
「……」
「急ぎなさいな。もう裳着は済ませてしまったのでしょう? なら、すぐに母になることを求められる日が来る」
「そんな……」
否定はできなかった。だってそれは当たり前のことだからだ。母も祖母も曾祖母も、誰もがみんなそうしてきたことだ。
女が大人になるということは、そういうことなのだ。
黙り込んだお雪に、娘は幽かに笑って言葉を続ける。
「けれど、まだあなたは都合よく大人と子供を行ったり来たりしてるのでしょう? なら冗談めかしてやればいいの。あなたの好きな人は、きっと笑って受け入れてくれます」
「それは、まあ……」
「ふふ。面白い子。それじゃ、わたくしは行くから」
くすり、悲哀を滲ませる笑みを浮かべた彼女が会話を打ち切って歩き出した。
その背に、なんと声をかけていいかわからなくて、お雪はただ、見送ることしかできなかった。
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