五の色 「桃」共に想いの添遂げるが如く
その日は雨が降っていた。
開いたばかりの花が散ってしまうんじゃないかと心配になるほどの豪雨だった。
そんな日でもお構いないしに、流水は仕事をしていた。
定子の角を手がけてから、彼の仕事は倍増していた。休む暇は作ればあるので、それほど困窮しているわけでもない。嬉しい悲鳴というやつだ。
「ふぅ……」
最後の客を見送って数時間、道具の手入れも終わって、そろそろ寝ようと思っていたときだった。
とん、とん、と戸がたたかれる音がした。
風で物が飛んできたのだろうか? それとも、評判を聞いて駆け込んできた輩が、また無理難題を押し付けに来たのだろうか?
少し面倒に思いながらも戸を開くと、そこには雨合羽を着た人の姿があった。
大事そうに、腹に大きな包みを抱えている。
暗さもあって、一瞬誰だかわからなかったが、その正体に気づいて驚愕した。
「ヤヱ……」
人相がまるきり変わっていた。
最後に会ったときは、定子とは正反対のふっくらした明るい顔つきだったのに、今では肉が落ちて鋭くなっている。
どう見ても病的な痩せ方なのに、元々の明るさが感じられるのが、薄ら寒く感じられる。
その気配は一瞬、定子が会いにきたのかと思うほどそっくりだった。
「お久しぶりです、流水殿」
言葉と共に微笑んだヤヱは、深い翳りに満ちた笑みを浮かべていた。
彼女に何があったのだろう。心配になった流水は、彼女を中へと通した。
「あの、これ、置いても?」
「え、ええ。どうぞ」
中へ入ったヤヱは、合羽を脱ぐよりも先に抱えていた包みを作業台の上に置いた。そして、包みを解くと大きな箱が現れる。
あれは一体……疑問に思いつつヤヱを見れば、悲しげな慈しみに満ちた瞳で、箱が濡れていないか検めている。
己より先に気にするなど、それほどまでに大事なものなのだろうか……。
箱の中身が気になり始めた流水の前で、ヤヱが合羽を脱いだ。
隠されていたそれが露わになったのを見た瞬間、流水は声を上げそうになるのを必死で堪えた。
合羽の下から現れたヤヱの頭部には、ひどく短い角があったのだ。双方共に一寸あるかないか。それほどまでに短く切り落とすのは出家か喪中くらいのものだが、どうも漂う気配は尼のそれではない。
であれば白綺か黄籃、いずれかの家で誰か薨去したか。しかし、そのような話は流水の元には届いていない……これは一体どういうことなのか。
疑問は尽きなかったが、彼は一度奥へ引っ込み、白湯を運んでくる。
「白湯です、どうぞ」
合羽を着ていたとはいえこの雨だ。体が冷えているだろうと手渡すと、ふんわりと微笑んでくれる。その顔は、いつかの夜を思い起こさせる艶やかな笑みだった。
おほん、と芽生えそうになった煩悩を咳で払うと、こくこくと白湯を啜り始めたヤヱに訊ねる。
「いったいどうしたのです。こんな時間に……女性が出歩いていい時間ではありませんよ」
既に日が沈んで一刻は経っている。女性が一人で出歩くような時間ではない。いくら火急の用件があるとしても、可能であれば下男に任せるべきだろう。
「どうしても、あなたに会わなくちゃ、いけなかったんです……」
言いながら、うっとりした顔で箱を撫でる。
いったい何の用事だろう。自分はとうにお払い箱で、彼女らとの関係は長いこと途切れている。
いいや、ヤヱ個人に限れば会わなくてはいけない用事というのが思いつかないではないが、それにしたって時期がずれすぎている。
「そう、ですか……」
なんと言葉をかけていいかわからず、会話が途切れてしまう。なんとも居心地が悪かった。
しとしとと雨音がする中、しばし二人は沈黙の中にあった。ず、と時折白湯をすする音だけが、二人の間にあった。
「……そういえば、黄籃の生活はどうですか。定子様はお元気で?」
この話題なら大丈夫か、と思い投げた言葉は、しかし、首を振られてしまった。
「なにか、具合が悪い、とか?」
「……お隠れになりました」
「なっ……い、いつ?」
定子が死んだ。それは衝撃的な知らせだった。
流水は全く知らなかったのである。あれほどの大家の娘であり、黄籃家次男の正室だ。薨去したとなれば、まず間違いなく耳に届くはずだ。
だのに、流水は知らない。ということはその死は世間に秘されているのである。秘さねばならぬような死とは、いったい定子になにがあったのか。
「一週間ほど前に……」
「そう、ですか」
体から力が抜けていく。病の兆しなど全くなかったのに……どうして。
ふと、耳の奥に、行貞の声が蘇ってきた。彼の星読みは的中してしまったのだ。
「定子様は、最期まで流水殿を愛していました。黄籃に嫁ぎ、旦那様と情を交わしてもなお、あなたのことを忘れませんでした」
す、とヤヱが箱を差し出し反転させた。一尺はあるだろうか、いやに大きな箱だ。
材質は桐、だろうか。黄籃の家紋をあしらった金具が二つつけられており、観音開きになるようだ。
「……開いても?」
「はい。少し、驚くと思うけど」
その脅しにごくりと唾を飲み込んでから、流水は覚悟して箱を開いていく。
あっ――箱の中身を見た瞬間、彼は息を呑んだ。
そこに安置されていたのは、誰あろう定子の首だった。満足げに口角をあげて微笑む顔は、仏のように穏やかで、華美にならない程度に金の装飾によって彩られていた。
だが、驚きはそれだけではなかった。彼女の角は、流水が彫った角そのままだったのである。
「生え変わったものを……接いだのですか」
普通、角は生え変われば捨てられてしまうものだ。取っておくものもいるが、再び接いで使おうと思うものはほとんどいない。
だが定子はそれをしたのだ。それほどまでに、彼女は流水を愛していた。
一流の接ぎ師を探したのだろう。巧妙に接がれた角は、それでもほんの少しだけズレてしまっている。結果としてその差は、流水の意図した陰ではなく陽の側へと傾いていて、眩しく思えるほど定子を美しくしていた。
かっと目の奥が熱くなる。気づけば彼は涙していた。
「定子、様……」
こんなことになるなら、あの時逃げずにちゃんと向き合っておくべきだった。
数年後、数十年後また会えるかもしれないなどと甘えずに、きちんと話すべきだったのだ。
「死してなお、共にいたい、とのことです。そんな風に涙を流してくれるなら、きっと喜んでくれてますよ」
「……大切に、受け取らせていただきます」
自分でよいのかという想いはある。だが、定子がそれを望み、行貞も承諾しているとなれば拒否する理由はない。
「はい」
ぱたんと箱を閉めて、流水は箱を抱きしめた。にっこり微笑む定子の顔が、瞼の裏から離れない。
傲慢な女だった。面倒な女だった。それでも、可愛らしい、素敵な
それがこんなにも若くして死ぬなど、悲しすぎた。
「どうして……どうしてなのです。私は……」
流水の口から嗚咽が漏れる。ヤヱはただ、その姿を見ているだけだった。
ひとしきり泣いて、声を落ち着けた流水が問うた。
「ヤヱ、教えてくれませんか。定子様はなぜ、お隠れに?」
ヤヱは何も答えず、ただ目を伏せて己が掌を見ていた。それは語ることを禁じられているという様子ではなく、言いたくはないが察してくれと告げているようであった。
それにしてもなぜ掌なのだろう。そこに定子の名残があるからなのだろうか。それとも……。
(まさか)
浮かびかけた妄想を鼻で笑い飛ばした。よしんば的中していたとしても、ヤヱが己からしたことではないだろう。それだけ定子は追い詰められていたのだ。
これ以上穿鑿することに意味はなかった。そうしたところで誰も救われはしないのだ。
「……あなたはどうするのです」
定子が死んだとなれば、黄籃にいる理由は無いだろう。居心地も悪いだろうし、白綺に戻るのだろうか。
「いろいろと、旦那様とは契約を結んでいるのです。それが終わったら……旅に、出ようかと思います」
どんどんとヤヱの顔色は悪くなっていた。掘り起こしかけた真実と合わせて、その契約は彼女をひどく苛むものだったのだろう。
一度は情を交わした相手だ。どうにかしてやりたいという気持ちはあった。けれど、最早一人の男が足掻いたところでどうにかなる段は、とうの昔に終わっていたのだ。
目の前には揺るがしようのない結果だけが転がっている。
「そう、ですか……そのとき、私が生きていれば誘ってください」
流水は強い無力感に包まれながら、そう伝えることしかできなかった。
はい、と消え入りそうな声でヤヱは肯いた。
その後、会話が膨らむということはなかった。
ヤヱは来たときと同じように、ひっそりと帰っていって、流水は残された箱を前に、ぼうっとしてしまう。
「定子様……私は、あなたが幸せになってくれるようにと、あの角を彫ったのですよ」
首は、何も語らない。ただ微笑んでいるだけだ。
やっと、本当の居場所にたどり着けたというように。
「……でも、これがあなたの望みなら、私は受け入れましょう」
ぱたん、とまた閉じて、神棚の上にあげる。そこから、見守っていてくださいというように。
だから彼は目をそらす。その箱から滴るものに。その箱から伸びてくるものに。
それが自分の破滅を招くとわかっていても。
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