四の色 「氷重」命に罪の在らざるが如く
時間は矢のように過ぎ去り、気づけばもうすぐ半年になる。
二大家の婚姻ともあって盛大に行われた披露宴も、もはや遠い昔のことのように思えた。
黄籃の沼のような安寧が、定子を腐らせていく。胸の奥で慕情が滾っているはずなのに、その熱は導管を失ったように行動へ結びつかない。
だって、幸せなのだ。
流水はいないけれど、行貞は深く愛を注いでくれていて。ヤヱは相変わらず尽くしてくれて。手に入らないものもほとんどない。
一つの飢餓を誤魔化せるくらい、たくさんのものがここにはあったのだ。
「ふぅ……」
こん、と肘置きにもたれかかって、定子は陰鬱な息を吐いた。
ヤヱといえば、彼女はひどく体調が悪い。
食事はとっているようだが、量が頓に減ったと聞く。定子と違って環境の変化にうまく適応出来なかったのか、輿入れして少し経ったあたりからずっと具合が悪いのだ。
床に伏せるというほどではないのか、仕事はしているようだが。
「このまま、死ぬなんてことがなければよいのだけど」
定子は心配だった。この、他人にまみれた家で唯一の白綺の人間なのに……。本音で語り合える、数少ない相手なのに……。
暗い未来を想像してしまい、嫌な気分になっていると、とんとんという軽快な足音と共に夫である行貞がやってきた。
「あら、どうかしまして? 今日は議会だったのでは?」
行貞は普段、飾角族代表議員として、議会に赴く長男の補佐を担当している。他にもいくつか仕事を持っていて、本人の雰囲気ほど暇ではない。
「議論が拍子抜けなくらい早く落着してねぇ。愛しい定子さんとおやつを食べようと思ったのさ」
「まあ。お兄様がたはそれでよろしいって?」
「新婚さんだもの。早く帰って睦まじくしろって、急かされるくらいさ」
こんな風に茶化しながら、行貞は家に早く帰ってきて、定子を気にしてくれている。
たしかに、一番に好きな男ではない。だが、これほど愛されてなお袖にできるほど、定子は薄情ではなかった。
「なら、おやつにいたしましょう。ヤヱ!」
柏手一つ。呼び出されたヤヱは少しふらふらとした状態で現れた。本当に、心配になる。
「お菓子を……適当に三つ用意してくださる?」
定子と行貞と、ヤヱの分で三つだ。白綺でならこんな注文をすれば家老に目くじらを立てられそうだが、黄籃ではそう珍しいことでもない。
この長閑で、ゆるい雰囲気は、嫁いできて素直に良かったと思える部分の一つだ。
「あなたが食べたいと、食べられると思えるものをお願い」
「……はい。いつも、申し訳ありません」
けれども、ヤヱにはこの環境が合わないらしい。体調もそうだが、明らかに性格が変わった。昔ほどの快活さがなくなってしまった。ずっと何かに怯えているようで、ずっと何かを考えている。
のろのろとお菓子を取りに行くヤヱの後ろ姿は、見ていて不安になる。
「なかなか、復調してはくれませんね……ごめんなさい、行貞さん。いつも、二人の場にあの子を呼んでしまって」
「構わないよ~。大切な家族だもんね。ただ、たぶん……体調は回復すると思う。僕の見たてに間違いがなければ、だけど」
「あら、医術のたしなみがあって?」
「どちらかというと鬼道寄りかなぁ。……間違ってくれてると、嬉しいんだけどね」
続いた言葉に定子は耳を疑った。それではまるで、体調が戻らないことを望んでいるようではないか。
いや、彼は星読みである。そう考えるとここでヤヱが復調することが、何か悪いことへ繋がってしまうのかもしれない。だとしても、出来れば聞きたくない言葉だ。
「……早くよくならないかしら」
「そうだね……そうなると、いいね」
帰ってきた言葉には、暗い未来の色が滲んでいた。
***
「う、ぅげぇぇぇ……」
お菓子を取りに行ったはずのヤヱは、厨ではなく厠へと駆け込んでいた。攪拌されるような吐き気に耐えきれず、嘔吐する。
定子の前に出たあとはいつもこうだった。元気な姿を見せて、心寂しく思っている主を支えなくてはとは思っているのだ。しかし、食欲の減退と同時期に湧き上がり始めた吐き気のせいで、そう振る舞うことが出来ない。
これは裏切りの代償だった。一族的に見れば、祝福されるべき事柄というのはわかっている。無関係の他人が似たような状態にあれば診察して、祝福を与えていただろう。
だが、そうはならない。自分は不本意な相手に嫁いだ主から、愛しい男の胤を奪い取ったのだから。
「えっ、ぇう゛……はぁーはぁー」
――ヤヱは妊娠していた。言うまでもなく、流水の子だった。
嬉しいのに喜べない。明らかとなれば申し開きがたたない。この不義は、腹の子ごと屠られても仕方がないものだ。それがわかっているから、ヤヱは定子が恐ろしく、出し抜く方法を延々と考えている。
彼は頼ってくれと言ってくれた。けれど、頼れるわけがなかった。
ヤヱを守るために流水が口を出せば、定子は深く傷つくだろう。今の環境に耐え切れなくなるほどに。だってそれは、明確な差が二人につけられることになるからだ。そうなれば、何をされるかわかったものではない。
しかし、そう考えながら口を拭うヤヱの顔には、不安ではなくどこか恍惚とした優越感のようなものが浮かんでいた。
さあ、早くお菓子を用意しなくては。どれほど苦痛でも、主から逃れるなど出来ようはずもないのだから。
――ヤヱは変わらず定子を愛していたのだ。だからこそ、ずっと苦しんでいる。
そしてその苦悩は、吐き気が去って腹の子が大きくなるにつれ、ますます大きくなっていく。
***
「まあ、ヤヱ、いつの間にやら子を作っていたの? お相手は?」
「言えないのです……その、相手の方にも色々と事情が」
「まあ! でも不本意ではないのよね? 本意なのよね? なら、喜びなさいな。どうしてそんな辛そうなの?」
隠しきれぬ大きさになった腹を見て、無邪気に喜んでくれる主の顔に。親を告げられぬ己の不義に内省する。
「どうすれば子は宿るものなのかしら……ねぇ、ヤヱはどうしたら出来たの?」
「こればかりは、太母の思し召しとしか……」
「そうよねぇ……」
行貞と必死で子をなそうとする、滑稽な主の姿に。
真の幸せから遠ざかるとわかっていながらも、役割を必死で果たそうとするその姿があまりにも無様に思えて、あざ笑う己を感じて赤面する。
女としての己は定子を見下していた。けれど、従者としての己は定子を案じていた。
相反する二つの思考は、しかし不思議なことに彼女の中で釣り合いが取れている。
だから案じながらも、彼女は裏で必死に画策する。
日々大きくなりゆく流水の子を、いかにして守るかを。
生まれてしまえばもはや隠し立ては出来ない。好いた男の面影を、定子はきっと見つけてしまう。
その前に、どうにかして隠さなくては。いいや、己が逃げ出せばよいのか。それとも定子の想いを別のところへ向ければいいのか。
わからない。考えても考えても答えは出ない。
わからないまま時間だけが過ぎていく。
刻限が近づくにつれて、取れる策が減っていく……。
***
やがて、ヤヱには暇が与えられた。お産が近いとなれば当然の処置で、彼女は手厚い保護のもと、貴重な子を産む手はずになっていた。
もうこうなれば逃れることは出来なかった。完全な善意からの思いやりは、彼女の脱走を許さぬ監視でしかなかった。
外へ出たいと欲すれば、必ず誰かが付き添った。少しでも具合の悪いそぶりを見せれば医者が呼ばれた。何をするにも、年増たちはついてきた。
この目が無ければいいのにと心の底から思っていた。だが、初産であり、高齢出産でもある以上、年増たちはヤヱから目を離そうとはしなかった。
どこまでも甲斐甲斐しく出産の心構えを説き、陣痛の苦しさと回避の仕方を説き、無事に生まれることを祈るばかり。
うっとうしくて、ありがたくて、ヤヱは泣きたい気分だった。
とはいえまだそれだけならよかったのだ。そういうものをやり過ごす方法は知っていたから。
だから怖いのは定子だけ。彼女は定期的に現れて、心を脅かしにきていたのだ。
「ねぇ、名前は決めたの?」
「男の子かしら、女の子かしら」
他意などないのだろう。子供の頃から共にある下女が好きな相手の子を孕んだのだ。純粋に心配し、寿ぎ、期待していた。
だから表面上はそんな主に感謝を述べて、己も未来への期待を語った。けれど内心では早く帰れと、いなくなれと願っていた。
悪いのは己だ。そんなことはわかっている。それでも、主を疎ましく思うことを止められずにいる。
そして、そのことに定子が帰ってから気づき、ヤヱはいつも涙していた。
そんな、ある日のことだった。
「やぁ、元気かい?」
「だ、旦那様……」
黄籃行貞。定子の夫であり、ヤヱを苦しませる元凶のひとつ。
いつものように、何を考えているのかわからない、ふにゃふにゃとした笑みを浮かべて彼は現れた。
「お見舞いにきたよぉ。どぉ、順調に育ってるかな?」
「ええと……医師の見立てでは、何も問題は無い、と」
「そ。それはよかった」
彼の声音からは、何も窺うことが出来ない。
純粋に祝福しているようにも思えるし、何か別の意図があるようにも思える。
思えば初めて会ったときから、ヤヱは行貞のことが苦手だった。
定子は彼をいい人だという。けれど、彼の何を考えているのかわからない雰囲気が受け付けなかった。
そのくせ、こちらの事情は十全に理解されているのも、盗み見られているようで気分が悪かったのだ。
「ん~……うん。僕の見立てでも君の子は大丈夫そうだ。君とも定子さんとも違う星が見える」
何せ彼は星読みだ。どんなことを読み取られるのかわかったものではない。
星読みは過去や未来を見通すという。ならば、不義が読み取られる可能性だってある。
定子がいるのならば、彼も配慮するだろう。しかし、一対一ならばそれを直裁に告げてくるかもしれない。
それが、たまらなく怖かった。
「安心していいよ。君の子は、大丈夫。君の子、はね」
含みを持たせるように、もう一度同じことを口にした。
まるで、お前は幸せにはなれぬというかのように。
「は、はぁ……」
「あれ、喜ばないんだ? まぁ、そうだろうね」
その言葉で、彼がすべてを知っていることをヤヱは悟った。
「告げますか?」
つい、語気が荒くなった。無礼にもほどがあるとわかっていても、感情の高ぶりを押さえられない。
怒声に近い声を浴びた行貞は、しかし、なんら感じていないようにひょうひょうとしている。
「言わないよ。言っても、意味が無い。……あー、いや、言ったほうがいいのかな。未来は変わってくれるかな?」
少し、悲しそうに行貞が言う。意味がわからない。彼には何が見えているのか。
「それは、どういう……」
「そうだね。君になら言っておこうかな。釘を刺すことになるかもしれないしね」
そして、彼は恐ろしいことを口にした。
「君は定子さんを殺すよ。近い将来、蕾に囲まれた道で、君は定子さんを殺す」
「そ、んな……」
「ありえない、って答えてくれないんだね。まあ、わかってたけどねぇ」
「――ッ」
言われて、はっとなった。どうしてありえないと即答できなかったのか。
たしかに何度も考えたことだ。逃れられず、子を殺すことも出来ず、生きたいならば定子をこの世から消すしかない。
定子が今から妊娠しても遅すぎる。あちらが赤子のことで頭がいっぱいになるより早く、腹の子は生れ落ちてしまう。
「今、怖いことを考えているね。僕の言葉がきっかけになってしまったかな」
くす、と行貞が笑う。好きな人が自分の言葉のせいで死ぬかもしれないのに笑っている。
意味がわからない。理解ができない。ただただ恐ろしい。
これは本当に、同じ人なのだろうか?
「まぁ、それならそれでしかたないね。元々心が手に入らないのはわかってたんだ。でも、それでも、僕は満足だったんだけどね」
結局、全部手に入らないのか。そう呟いた行定は、一方的に会話を打ち切って退室した。
「定子さんはあげるよ。君と流水くんに、あげる。だから、代わりにその子を頂戴。時がきたら、僕に頂戴」
……去り際に、そんな言葉を残して。
残されたヤヱはぐるぐると考えていた。
空転する思考は、必死になって告げられた言葉を噛み砕いている。
ありえないはずだ。ありえないと思う。ありえないで欲しい。
けれど、言葉にされたことで芽吹いた意思は、彼女には殺せない。
――それこそが、言霊の恐ろしさだった。
***
時は過ぎ去った。
楔のように打ち込まれた言葉を、ヤヱが少し忘れかけた頃。
……彼女は出産した。
玉のように美しい女児だった。角はまだ無く、しわくちゃな顔からは父親の面影はうかがえなかった。
だから彼女は安心した。これならきっとバレることはない。自分は下女に戻ることが出来る。昔のように定子に付き添い、子が出来ぬ彼女に助言をもたらすことが出来る。
そう、思っていた。一週間が経って、定子が赤子を見にくるまでは。
忙しかったの、と申し訳なさそうに言った彼女は、赤子を見た瞬間凍りついた。
それはほんの一瞬だった。まばたきでもしていれば、見逃せるほどの硬直だった。
けれど、我が子を心配する母は、敬愛する主だろうと、赤子に触れようとするのに目を離すことなんてしなくて。
その瞬間を、見逃すことは出来なかった。
――見えたのは、驚愕の色。嘘でしょう、と言うような裏切られたものの色。
ぞっと怖気が駆け抜けた。
気づかれてしまったのだろうか。詰問されるだろうか。殺されるだろうか。
怯え始めたヤヱに、しかし、定子は優しく声をかけてくれた。
「可愛い赤ちゃんね。羨ましいわ……ほんとうに、羨ましい。よくがんばりましたね、ヤヱ。わたくしも、早く行貞さんの子が欲しいものです」
にっこり笑う定子から狂気の色は見えなくて。もしかしたら見間違いだったのかもと、その時は思ったのだ。
けれど疑念は、確かに埋め込まれた。あの言葉のすぐ近くに。まるで、それを掘り起こそうとするように。
それでも激情は溢れずに、努めて平静になってヤヱは言葉を返す。
「ありがとうございます、定子様。その、実はお七夜になるのに、まだ名前が決まっていなくて……よかったら、名付け親になってくれませんか?」
「あら、本当に?」
打算的発言だった。名前をつけた子を、まさか殺しはしないだろうという思いからだった。
だが、それこそが薄氷を割る言葉だった。
「そうねぇ……」
少し、考えるそぶりを見せた定子は、にっこりと微笑んで名前を告げた。
「ミズキ。ミズキというのは、どうかしら? 水を
言葉が耳に届いた瞬間、ヤヱは嘔吐した。
水を、求める。そんなの、この二人の間では、意味するのなんて一つしかなかった。
「あら、どうしたのヤヱ。ねぇ、大丈夫?」
にっこりと定子が笑っている。少し心配そうにしながらも、笑っている。
「いい名前だと思わない? ねぇ、どうかしらヤヱ」
布団を吐瀉物で汚しながら、ヤヱは必死に肯く。そうしなければ赤子が殺されてしまうような気がしたから。
涙を流しながら、何度も何度もありがとうと言葉を吐く。そうすれば、満足してくれると思ったから。
「喜んでくれて嬉しいわ。ねぇ、水希ちゃん」
無邪気な顔をした赤子だけが、状況をわかっていなかった。
結果から言えば、名前をつけさせたのは正解だった。
順調に育っていく水希を、定子はいたく可愛がった。まるで、自分の子であるかのように。
食べ物を、服を、遊び道具を、彼女は持ってきてくれた。
しかし、ヤヱは不安だった。いつ豹変するともわからない。いつ奪われるかもわからない。不安で心が折れそうになる。
加えて子育ての大変さが、ヤヱの心を削っていた。年増たちは助けてくれるけれど、真の意味で彼女の助けにはなってくれない。
誰にも秘密は打ち明けられない。それでも何とか正常であったのは、行貞の大丈夫という言葉があったからだ。
当たるかどうかもわからない言葉だ。でも、ないよりはマシだった。
赤子は母の感情に敏感だ。不安そうにしていると、すぐに泣き出してしまう。だから定子がいないときは、必死で心を落ち着けて水希を愛した。
そうすると水希も笑ってくれる。可愛らしく笑ってくれる。彼の面影がほんの少し見える顔で、ヤヱに微笑んでくれる。そのことが僅かばかりの癒しだった。
そうして日々成長していく彼女の姿が、段々とヤヱの安定剤へと変わっていく。
たしかに夜は眠れないし、うっとうしいと思うこともある。それでも、この子は愛しい人との子で、自分が守らなくてはいけない存在だったから、ヤヱは強くなれた。
気づけば怯えは消えていた。忙殺されていたせいか、行貞の恐ろしい言葉も忘れていた。
だが、その日はふいに訪れたのだ。
***
水希をおんぶして散歩に出かけた日のことだった。
段々と気候が春めいてきて、花々が蕾をつけ始めた道を散歩していた。
この頃になると、色々なものに興味津々な水希は、あれはなに、これはなにとあ~とかう~とかいう言葉で聞いてくる。
その一つ一つを説明してやりながら散歩を楽しむ。
そんな中で、ふいに定子に会った。まだ暇は終わっていなかったから、別の下女を従えていた。
その姿を見てヤヱは驚いた。出会ったことに、ではない。生え変わったはずの角が、前年と全く変わっていなかったからだ。
「お久しぶりです、定子様」
「そんなこといって、この前遊びに行ったじゃない」
ふふ、と笑う姿に異変は見えない。昔から知っている、優しい定子の姿だった。
「この子と二人で話したいの。少し、離れていてくれる? 適当に何か食べていていいわ」
「え、……あ、承知いたしました」
定子はそうして下女を追っ払ってしまうと、座りましょうとヤヱを誘って、取水用に作られた人工川のほとりに並べてある床机に座った。
陽光を反射してきらきらと輝く川は、人工物とは思えないくらい自然で美しい。
それを少しでも近くで見せられるように、背負っていた水希を抱っこに切り替える。
ぴかぴかと水面が光るのが楽しいのか、視線を向けてはきゃっきゃと笑いかけてくれる。
「ほんと、なんだか疎遠になってしまったわね。早く暇が終わってくれないかしら。どうにもあなた以外の子だとしっくりこないの」
「定子様は気難しいですからね」
「あら、ヒドい。わたくしだって、迷惑をかけないよう努めているのですよ?」
「本当ですか?」
「ええ」
なんだかそのやりとりが面白くって、二人して笑い出した。つられて、水希も笑ってくれた。
「水希ちゃんもずいぶんと大きくなって。あんなに小さかったのに、子供って不思議だわ」
「私もそう思います。動物みたいなものだったのが、段々と人に近づくというか、なんだかへんな感じです」
「そのうち言葉も話すようになるんだものね。あ~とかう~とかしか言えなかったとは思えない」
「それはまだまだ先の話です。まあ、最初になんて言うのかな、っていうのは気になってますけど」
父親はいないから、自分の名前を呼んでくれるのだろうかとか。
それとも、その辺にある物の名前を呼ぶのだろうかとか。
毎日、つい試してしまうくらいに、楽しみで仕方がない。
「ほんと、羨ましいわ……どうして、わたくしは授からないのかしら」
「前も言いましたけど、そればかりは時の運ですし……」
「そうね、そうなのよね……あなたが、ずるをしたのも、時の運よね?」
唐突に、話の流れが変わった。にっこり、変わらず微笑んでいるのに、定子のまとう空気が変わった。
「まったく、足元を掬われた気分だったの。わたくしは必死で我慢したのに、あなたを信じていたのに、ね」
くす、くす、と笑い声が響き始める。嫌な感じがして、ヤヱは抱いていた水希を守るように、体の向きを変えて距離を取った。
「あら、どうしたの? なにもしないわ。……でも、ねぇ。つい、考えてしまうの。あの日、最後の日に流水殿を誘っていたらどうなったのかしらって」
つ、と剥落したはずなのに、今も変わらずそこにある角を、定子が撫でる。うっとりと顔を蕩かせながら、口角をギチギチと持ち上げて、荒く吐息をこぼす。
「たぶんきっと、なんだかんだと流水殿は受け入れてくれたはずですわ。そして、行貞さんも。本当に、そうしていればよかった。そうすればきっと、わたくしもすぐに孕んだはずなのに」
一言、一言。言葉がこぼれ落ちるたび、どんどんと美しい定子の顔に影が差していく。ぞっとするほどに暗い、底の見えない穴のような影が彼女の顔を覆っていく。
やがて彼女はぽっかりと開いた穴のような瞳で、焦がれの言葉を口にする。
「ねぇ、ヤヱ。どうしてかしら。どうしてあなたには水希がいるの?」
立て板の文言を読み上げたような、平板な声音だった。
「どうして、わたくしには水希がいないのかしら」
けれどそれは、あまりにも重く、苦しみの篭った言葉だった。
ヤヱが休んでいる間にも、彼女は行貞と子作りに励んでいたはずだ。
けれど、ご懐妊の御触れが出回ったことはない。流れてしまったという報せすらない。
……命は、二人の間に芽吹くことすらなかったのだ。
「どうして、どうして、どうして……」
「さ、定子様……」
平板な声で繰り返される疑問の声。
恐ろしくなって、席を立とうとしたヤヱの裾を強烈な力で定子が掴んだ。
地獄から這い上がろうとする亡者のような顔で、にぃと定子が笑う。
「そうよ、その子はわたくしが孕むはずだったんだから。ねぇ、もらってもいいでしょう? 名前だって付けた、その子の身の回りの物だって、ほとんどわたくしがあげたんだから」
「やっ……はな、して……」
「いいでしょう? いいに決まってる。だってその子はわたくしのなんだから。ねえ、ちょうだい、ちょうだいよ。ねえ、ねえ」
両手が塞がっているから、うまく引き剥がせない。頂戴頂戴と口にする定子が、恐ろしくてしかたない。
奪われてしまう。水希を、流水との子を、奪われてしまう。
そんなこと受け入れられない。この子は自分が腹を痛めて産んで、今日この時まで大切に育ててきたのだ。
たくさん苦しんで、悩んで、投げ出したくなったときだつまてあったけど。それでも、笑ってくれるのが嬉しくて。育っていく毎日が楽しくて。
だからたとえ、流水との子でなくたって、この子は誰にだって渡さない。渡せるわけがない。
……私がこの子を守るんだ。
「ねぇ!」
「嫌!」
くっと歯を食いしばって、定子を押し飛ばす。勢いよく飛んでいった定子は、どうと花の中に倒れて起き上がってこない。
まさか打ち所が悪くて……。そう思ったヤヱは、恐る恐る覗きに行った。
――倒れた定子は、泣いていた。
「ねぇ、どうしてなの。どうしてわたくしはここにいるのかしら。子供も作れずに行貞さんに悲しそうな顔をさせて、なのにあの人に抱かれるのが、気持ち悪くてしかたがなくて」
訥々と語られるのは、秘されていた本心。定子は行貞のことを、本当の意味では愛せなかったのだ。
「諦めて、せめて、この人を幸せにしようって思ったのに。どうしても受け入れられないの。ねぇ、どうして?」
「定子様……」
哀れだった。気丈に振舞っていた女の素顔は、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。
「だからなの? だから太母は子を授けてくださらないの? お前はずっと苦しむがいいって、そういうこと?」
「それは……」
嫌々だからだとか、そんなことは関係ない。私たちは元々子供ができにくい体質だからだと。
そんな言葉は気休めにもならない。
追い詰められた定子は、何か原因になりそうなものがあれば、それに結びつけてしまう。
「もう嫌よ。子が出来ない自分も、あなたの姿を見せられるのも、あの人の悲しそうな顔を見るのも、あの方の評判を聞くのも」
さめざめと泣きながら、定子はヤヱを見つめた。
その目は、あまりに空っぽだった。
「ねぇ、ひとつだけお願いを聞いてくれないかしら」
「なん、でしょう……」
「簡単よ。とても簡単なこと……手配はね、もうしてあるの。だから、あとはいくだけ」
「定子、さま……?」
聞きたくなかった。
なにか恐ろしいことを言われるような気がしたから。
でも、耳は塞げなくて。定子の声は、すんなりと耳に滑り込む。
「殺して」
ね?と甘えるような声音で告げられる。
そんなこと、出来るはずがない。
けれど、そう、けれど……それこそが、定子を救う唯一の方法なのだ。
でも、出来ない。定子を愛しているから。
嫌々と首を振るヤヱに、定子は言う。
「もう嫌なの。苦しいの。だからお願いよ。あなたになら、安心して任せられるから」
だから――と定子は両手を伸ばして懇願する。
何度も何度も、涙を流して。
ヤヱもまた泣いていた。そんな悲しくて辛いこと、出来るはずがないと何度も言った。
けれど、定子はもう諦めていた。もう立ち上がらなかった。
二人の女が泣いていた。どちらも救いが欲しくて泣いていた。
その二つを遮るように、一際大きな赤子の泣き声が響いた。
その声で、ヤヱは鬼になることを決めた。
ひとつ、決然と吐息して、水希を床机に置いて、見てはダメよと布を被せて。
ぐっと、定子の喉を握り締める。
ぎりぎりと、肉のつぶれていく感触が手に返ってくる。顔が一度赤くなって、段々と色を失っていく。
そして――ごきり、と何かの折れる音がする前に。
「ありがとう」
ぽつ、と声が落ちた。
そうして定子は死んだ。
とても穏やかな顔で。救われたような顔をして、死んだ。
ヤヱは泣いた。泣いて泣いて泣き続けた。
水希も泣いた。母が悲しんでいるのを感じて泣いていた。
そして下女が戻ってきて、まるですべてを知っていたかのように、黙々と定子を連れて行くのを、二人は呆然と見送った。
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