参 五里霧中
彼の触れ方を思い出しながら、丸めた角の先へ触れる。
もはや軋まぬ角をなぞりながら、何食わぬ顔で戻ってきたあの子を見送る。
あの子は聡い。きっとすぐに辿り着いてしまうだろう。
そういうものから遠ざけると言った男は、今、ここにはいない。
むしろ、背を押すばかりで、約束は反故にされてばかりだ。
だから早く、一刻も早く済ませなくてはならない。
血の病など、あの子は知る必要がないのだから。
それは己の恥の一つを見せたくないという、ただの身勝手だとわかっているけど。
***
天文部に行ってから数日後。
お義兄様に用意してもらった地図を使って、手紙に書かれていた屋号がどこにあるのかを特定し終えた私は、芙蓉に時間を取ってもらうべく文を出した。
日付の間隔を見るに、犯人は強烈な情念に突き動かされて犯行を重ねている。
けれど、知識のない私には犠牲者たちの共通項がわからない。
そこは専門家に任せようというわけだった。
幸い、快諾の手紙がすぐに返ってきたので、次の事件が起きる前に犯人を特定できるかもしれなかった。
(急がないと……)
せっかく先回りが出来そうなのだ。ここで遅れるわけにはいかない。
そう意気込んで、いそいそ準備をしていると……。
「あれ、また出かけるの?」
母が釘を刺すように声を掛けてきた。
ぎょっとなりつつ振り向くと、どこかへ出かけていたのか外套を引っ掛けた姿の母がいる。
いったいどこへ行っていたのだろう……。
花見の資材の手配でも任されているのだろうか。その顔からは色濃い疲労の匂いを感じた。
この時期が忙しいのは例年通りだけど、それにしたって少し疲れすぎているように思う。
それだけ目に見えないところで衰えたということなのだろうか。
それとも……やっぱり、事件を起こしているからなんだろうか。
「う、うん。ちょっと、新しい図柄を教えてもらおうと思ってて」
「ふーん、なんか最近忙しそうにしてるね」
咄嗟に思いついた言い訳を口にすると、ここ数日の動向を把握されていたのか、そう返される。
その声音にはなにか疑るような気配があった。
「なぁにその言い方」
「いや~旦那さまがいない奥様が忙しくするなんて、ちょっと、ねぇ……?」
疑うような調子は引っ込んで、茶化すような声音が顔を出した。
まったく、何を言っているのやら……。
「お母様、やめて。そんなはずないでしょ」
「わかってるよ、あんたに限ってそんなことがないことくらい。まあ、暇を拗らせていいことはないからさ」
「だから、勉強しにいってるだけだって……」
本当は、私が事件を追い回していることを知っているんじゃないか。
そう不安になりつつ語気を強めると、疑いすぎだと反省したのか、ふっと笑みを浮かべられた。
「うん、うん、わかってるよ。ごめんね、ちょっと言いたくなっただけだよ」
「もう……」
ちょっと、でそういう品のないことを言わないで欲しい。
私が呆れるようにため息を吐くと、微笑を浮かべたままの母が続けた。
「でもね、あんたも一応は
「それって本家の人の話でしょ?」
白綺の女は病的な恋をするという。
それこそ、法や倫理を犯すことなど厭わないほどに。
一応は母の実家ということもあって、その事に関しては折に触れて警告をされている。
偏執の病と称されるそれは、色々な家の血が混じっている分家筋の私には、あまり関係がないと思っているのだけど……。
「先祖返りってこともあるからさ。特に色恋沙汰は、冷静じゃいられないからねえ」
「お母様もそうだったの?」
まるで我が事のように口にする母に、ふと、そう訊ねてしまっていた。
まずいことを訊いたな、という自覚は遅れてやってきた。
それはきっと、母が語るのを避けてきたことだから。
「……そうだね。そのせいで、あんたには苦労をかけてると思う」
どうしてそこが繋がるのだろう。
その顛末が、あの日聞かなかった、『母や行貞さんを嫌いになりそうなこと』なのだろうか。
「――って、ああ、この話はいいや。ごめんね、私のせいで遅刻させちゃダメだね」
わかりやすく話を逸らされた。
いいや、実際時間に遅れるのはよくないのだが。
「まあ、あんたのことは信じてるよ。でもね、だからこそかな。危ない事はして欲しくないの」
「お母様……」
それは間違いなく釘を刺している言葉だった。
心配が先行しすぎて、心のうちを微塵も隠せていない。
「ほ、ほら、最近は、物騒なことが起きてるみたいだからね。早めに帰ってくるようにするとかするのよ?」
「……うん」
じゃあ、母はどうなのだろう。
見てわかるほどに疲れを滲ませてしまっているあなたは、何をしているのですか……。
そう言いたい気持ちを必死で押さえ込んだ。
――いったいどうして、私の周りの人は自分を軽視したがるんだろう。
そんな風に思いながら、母に見送られて家を出た。
***
数日前と同じように、少し駆け足で芙蓉のところへ向かった。
私の着く少し前まで仕事をしていたのか、彼女は息抜きの一服をしながら、診察台に散った削り滓の掃除をしていた。
「ごめんなさい、少し遅れました」
「……なんかあった?」
開口一番、そう問われて、顔に出るほど母のことを考えていたのかと思った。
まったく親子でわかりやすいにもほどがある。
「ううん、ちょっとお母様に呼び止められちゃって。久しぶりに話したので、少し話すぎちゃって」
「ああ、なるほど……それはよかったね」
そこで時間を取られたと納得したのか、芙蓉はそれ以上追及してこなかった。
責めるでもなく、優しい言葉を掛けてくれたことが私にはありがたかった。
それから診察台に並ぶように腰掛けて、ここ数日の成果を転写した地図を差し出すと、彼女は呆れたような顔になった。
「しっかし、よくもまあ見つけてきたもんだねぇ……」
ぷかぷかと煙管から吸った煙を吐き出す芙蓉は、並べられた名前を見て眉を顰めた。
「これ、被害者の?」
「そうよ。……たぶん」
ついこの間、ここに来るまでの間に見かけた店も入っているから、たぶん間違いはないだろう。
「しっかしこうしてみると酷いねぇ。ここ数ヶ月、ほとんど毎週じゃないか」
「よく騒ぎになりませんでしたよね」
「内々に処理したのもそれなりにあるんだろうねぇ」
これだけの人数が害されているのに、報せが回ってくるのが遅れたのは、お偉方の複雑な事情があるのだろう。
「それで、水希はこれを私に見せてどうしろと」
「なにか共通点があったりしません?」
「そんなこと知ってどうするわけ?」
じ、と目を細めて見つめられる。
ただの興味本位と誤魔化すのは難しいだろう。
芙蓉の性格上、みすみす危険なことに首を突っ込むのを見逃してはくれない。
私は素直に母のことを話すことにした。
「なるほど、そりゃ気になる、か。ん~、そうだねぇ……っても、水派だからなぁ」
芙蓉はがしがしと頭を掻いて、煙管を揺らした。
同じ花派ならば師匠の繋がりも頭に入っているのだろうけど……今日、答えを聞くのは難しいだろうか。
じっと見つめていると、彼女はバツの悪そうな顔をした。
「そんな目で見ないで。ちょっと今思い出してたところだから」
「頭に入ってるんですか!?」
思わず大きな声を出してしまうと、芙蓉は微苦笑をした。
「そりゃ、商売敵がどういう彫りをするかってのくらいは調べてるよ。女性なので安心安全以外にも売りがないと生き残れないからね~」
ちょっち待ってな、と新しい半紙を持ってくると、さらさらと系統樹を書き始めた。
とてつもなく文字が汚いのを見るに、思考を整理するために書き出しているだけなのだろう。
ぶつぶつと煙管を噛んだ隙間から音を零しながら、紙の上にミミズがのたうち回ったような文字を増やしていく。
「とりあえず、こんなもんかな……ってことは、ああ、そういう……」
「なにか、見つかりました?」
「たぶんそうじゃないかなぁってのは……」
「なんですか!?」
「ちょ、ちょっと、そこまで食い気味でこない!」
思わず飛びついてしまった。
あんな風に思わせぶりに言う芙蓉も悪いと思う。
「はぁ……まあ、裏取りは任せるけど。少し前に水派で流行った手法があるのよ。結構難しいから出来る職人が少なくて、たぶんそれを売りにしてた人たちだと思うんだよね」
「なんだか、とても曖昧な言い方ですね」
芙蓉にしては珍しく、語気に力がない。
内容も、研究しているといったわりには、酷く漠然としたものだった。
まるで彼女自身が考え付いたというよりは、誰かから聞いたことをそのまま口にしているような……。
「お客さんとかからの又聞きだからねぇ。同朋ならお互い開陳しあって研鑽するってのはやるけど、同じ花派でも、師事したところが違うと勉強会を拒まれたりするし」
「そうなんですか?」
「そーよー。うちの師匠は開けっぴろげな方だったけど、細かいところは限られた子にしか教えませんよ、なんて人は少なくないからね」
それでもある程度の事情を知っているのは、何かしらの繋がりがあるのだろう。
数少ない女性彩角師同士の組合のようなものがあるのかもしれない。
「まあ、共通項があるのはわかりましたけど……」
「だよねー突っ込んでくるよねー」
「引いて欲しかったですか?」
「そりゃ危ない事だからね。親が関わってるかも、ってので気になるのはわかるけどさ」
そう言って私を見つめる彼女の目は、とても優しい。
「あんたのことを頼まれてるってのはあるけど……まぁ、純粋に心配なのよ」
「そういうところ好きですよ」
「はいはい。ありがたいことで」
私の言葉に、呆れた風に肩を揺らされた。そんな反応をされると苦笑してしまう。
「もう、誤魔化して」
「さてどっちが先にやったやらね。ともかく、ここらでこの話やめない?……って、引き下がらない子だよねぇ、水希は」
「よくご存知で」
「そりゃあ、ね」
こつん、と芙蓉は自分の角を小突いた。
そこには数日前に私が手がけた彫りがあるわけで。
つまり、私が根競べで勝った証だ。
「うーん……でもさぁ、その共通点が犯人の狙いだとしたら次狙う人は本当にわからないのよ」
「……この辺りでそれを売りにしてる人は全滅したんですか?」
確かに結構な人数が襲われているけれど……。
「いや、流石にまだ少し残ってたはずだけど。よほどの業突く張りの馬鹿でもなければ他派の私が気付いたことくらいとっくにわかってるだろうから、新規の客を取らないようにするとか防御策をとってくると思うんだよね……」
「しばらく事件が沈静化するということですか?」
「それは……どうかなぁ。文そのものは結構前から向こうでは回ってたはずなのに、やられてる相手が多いってことは、よほど口が上手いか――」
犯人がよほどの美人か、だ。
無言で煙を吐いた芙蓉に同調するように、私もため息を吐いた。
「男の人って、どうかしてませんか」
「そこは武器を上手く使ってると言ってあげるべきじゃない? いや、誰の肩持ってるのって話なんだけど」
慌てたように付け加えた芙蓉に、苦笑してしまう。
いずれにしろ、犯人は人に取り入るのがとてつもなくうまいのだろう。
「まあ、官憲連中も無能じゃないし、家が名家でもなきゃ、ほっといても捕まるだろうけど……親御さんなら難しいかねぇ」
「そうかもしれません」
侍女とはいえ、三大家の一つに名を連ねるのが母だ。
行貞さんに嫁ぐほどの方についていたのだから、その血は決して薄いものではない。
その人がなくなって尚、白綺に引き上げていないのだから、黄籃との間で何がしかの契約が結ばれている可能性もある。
……仮に母が犯人だった場合、捕まらない理由はいくらでも思いつく。
「……私は、どうすればいいと思いますか?」
「こそこそやるよりかは……って私は思うけど、それで通れば世の中困らないんだよね」
二人して肩を落した。
「行貞さんが帰ってきてくれれば、話は早いんですけど……」
「ちょうど、いなくなった頃くらいから?」
「はい」
地図上に踊る日付は、彼が都市からいなくなるのを見計らったように出現している。
母が忙しそうにし始めたのも同じ頃だった。
……考えれば考えるほど、母を犯人にしてしまいたくなる。
そうじゃない証拠を探しているはずなのに。
「大丈夫だよ」
考えていると、芙蓉に抱きしめられた。
いやな想像で強張った体をほぐすように、優しく背中を撫でてくれる。
「きっと、時期が重なっただけだよ」
「そう、ですよね……」
「そうよ。そう」
そこで、少し芙蓉は無言になって、
「私もさ、協力はしてあげたいけど、これ以上はやっぱり出来ないよ。ごめんね」
謝罪と共に吐き出された吐息は、ひどく深いもの。
それだけ彼女に心配をかけてしまっていると気付くのに十分なものだった。
「ううん、いいんです……。あとは、専門の方に任せるべきですし……」
わかっていても、納得がいかなかった。
それでも、ここで気付いたことを羅卒の人たちに教えて済ませるべきなのだ。
そうするしか、ないんだ。
「本当に、ごめんね……」
なぜだかもう一度謝った芙蓉の声が、やけに耳に張り付いていた。
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