三の色 「槿」重に薄氷の割るが如く
裏切りの翌日。二人は全てを夢の中に置いてきたと言うように、なんの変化も見せなかった。それはまるで、本当に何もなかったかのようだった。
最初のうちは疑いの目を向けていた定子も、やがては納得した。もしかすると、本人も意識しないような深いところでは感づいていたのかもしれないが、ヤヱへの信頼が目を曇らせていた。
ともかく、最初の一月が過ぎたその日、三人が一同に会する。進捗は毎日少しずつ報告していたが、その間、角は見えないように布で隠していたので、定子はどんな風な角が仕上がるのかいまいち掴めていなかったのだ。
先だって見せられた図案があまりにもありふれていたからこそ、流水がどんな風に腕を振るったのか気になっていた。
「これが、今の私がすべてをつぎ込んだ、あなたのための試作品です」
しゅるりと衣擦れの音とともに露わとなった角に、定子は息を飲んだ。
「こ、れは……」
角の先端には、穴を利用した幾つもの桃花が咲いていた。幹には月琴を奏でる角持つ天女と、彼女のために歌を読むヒトの男が、対になるように彫り込まれている。根の辺りには青々と茂る草たちが抽象化されて輪を連ね、悠久の繁栄を表している。
図柄自体は、ライ氏族の神話で白綺家の始祖に言及している範囲のものを再構築しただけのものだ。白綺の人間なら誰だって知っている程度の昔話で、図案を見せられたときにこんなものかと落胆しかけたほどにありふれたもの。
だからこそこの完成形が、恐ろしく思えた。
あまりにも自然だったのだ。まるで元々そういう角を持っているかのように加工を感じられない。
いいや、これが人の手になるものであるということは当然理解しているのだ。理解していてなお、あまりにも自然すぎて、意識しなくては図柄が見えなくなりそうになる。
だが、決して彫り込みが浅いというわけではない。たとえるなら、木々の表面のうねりを加工だと捉えないようなもの。
それほどまでに卓越した技巧だが、この彫りの真価はそこにはない。
角に合わせていた焦点がヤヱの顔を含めたものへと変わった瞬間、流水の真意が現れた。
「あっ……」
そのことに気づいた瞬間、我知らず、ぎりと音が鳴るくらい、定子は歯を噛み締めていた。
ヤヱは美女ではない。通りで石を投げれば当たる、十人並みの顔だ。しかし、今、恥ずかしげに俯きながら白襦袢姿で立っている彼女は、別人のように美しい。
素の顔を知っている定子ですら思わず見惚れそうになるくらいの変貌ぶりに、キリキリと奥歯が軋み始める。
緻密に計算されて配置された、孔と図柄たち。それらが巧妙に視線を誘導して、与える印象を変えているのだ。
なんて、なんて美しい……。
これが自分のための踏み台だとわかっていても、流水が多量の時間を費やして、ここまでヤヱを美しく仕立て上げたという事実に、定子はとてつもない嫉妬を覚えてしまう。
わかってはいるのだ。この後、己がこの美しさを得ることも、ヤヱがこの美しさを失うことも。それでも、目の前の光景に耐えられない。
……激情が、溢れる。
「如何でしょうか。気に入らないところがあれば、修正を加えるつもりですが……」
一通り見終えたと思ったのか、流水が定子に感想を訊ねた。不満点を訊きながらもどこか誇らしげなのは、そんなものはないだろうという自信からだろうか。
「思わず見惚れてしまいました……さすがは流水殿です。これが、わたくしの角を彩るのですね」
そして流水の思った通り、定子の口から不満は出てこなかった。溢れ出る陶酔するような声音が、その感動の深さを物語っている。
「もう少し細かいところまで見たいわ。こっちに来てくれる?」
呼ばずとも寄ればいいだけの話なのに……微笑みを湛えた定子に、ヤヱはイヤな予感を覚えた。しかし、だからと言って拒めるわけもないのだ。どうされようと、受け入れるしかない。
おっかなびっくり定子に近づいたヤヱの角を、検分するように定子の指が撫でる。
「ああ……本当に、素晴らしい」
その指遣いにヤヱは眉を顰めた。検めるつもりにしては、やけに力がこもっていたのだ。それは、彫りをなぞって味わうためではなく、削って消し去るつもりではないかと思えるほどだった。
だが、まさか流水の目の前でそんなことはしないだろうと、どこか甘く見ていた。そんなことはないと知っていたのに。
「私もそう思います」
「ええ、本当に。本当に……あなたの頭になんかついてなければ」
「え?」
一瞬にして雰囲気を変えた定子にヤヱは間の抜けた声をあげていた。
「定子様! ヤヱ、離れなさい!」
それに気づいた流水が声を上げて、定子を引き剥がさんと駆け出した。しかし、彼は遠すぎた。
激烈の情が噴火する。角を検めていた指が根元まで滑り、母指と合わさって根を挟み込んだかと思うと、みしりと音を立てて角がへし折られた。爪を立て、根から抉り取るようなその折り方は、確実に痛みを与えるものだった。
だがまだ足りない。角はもう一本ある。
「りゅ、すぃっ」
角を折られた痛みに耐えながら、ヤヱが逃れんと身を翻す。見張りなどをこなしているだけあって、その身のこなしは軽やかなものだったが、定子に似せるために伸ばしていた髪がその足を引いた。
「逃げちゃダメよ、ねぇ、ヤヱ」
身の毛もよだつ声を撒き散らす定子の手が、三つ編みにまとめられた髪を掴み、ヤヱを引き寄せる。
「いッ……ぁあ!」
強く引っ張られた髪の痛みで身をすくめてしまった隙を逃さず、取り付いた定子が残っていた角をへし折る。
角が失せれば用はなしと解放されたヤヱが、二人の間に割り込もうと駆け寄っていた流水の腕に倒れこんだ。普段ならばこちらにこそ憤怒したであろう定子は、奪い取った角に執心で、追撃がくることはなかった。
そんな怨嗟を一身に受ける一対の角は定子の足元に転がされるや、全力でもって踏みつけられた。床板が痛むことも、足が傷つくことも厭わずに踏みつけられ、砕かれる。
何度も何度も、親の仇か何かであるように踏みつけられ、角は形を失っていく。流水が丹念に彫り込んだ全てが、粉塵へと帰していく。
その全てを踏み砕いて満足したのか、荒い息を吐いて笑みを浮かべた定子は、ようやく正気を取り戻した。目の前に広がる光景に、彼女はすぐさま己が何をしてしまったのかを自覚した。
「あ……わ、わたくし……」
目の前には、涙声をあげながらこめかみを抑えてうずくまるヤヱが居て、その脇で、手の隙間から見える角の状態を確かめている流水がいた。
その姿に、また嫉妬が溢れそうになる。だが今度は踏み止まった。定子が正気に戻ったことに気づいた流水が、すぐに身を引いたからだ。
そして彼は平身低頭……土下座の形をとって謝罪する。
「これは見せ方を誤った私の責任です。定子様を、そのような情に駆らせる意図はなかったのです」
その姿を見て、定子は己が怖くなった。こうなることを避けるために、年に一度という枷をはめていたのではなかったのか。
ああ、己はなんと醜いのだろう。
「今日は、帰ってくださいますか」
「ですが……」
「これ以上、己の醜いところをあなたに見せたくはありません」
努めて作り出した声は、平静とは程遠いくらいに震えている。羞恥、悔恨、懺悔。様々な感情が、定子の声を揺らしていた。
「……は」
「ヤヱ、お帰りを」
「は……い……」
す、と身を起こしながらも頭は下げたまま、流水は身を引いて部屋を退出していった。
そのとき、彼に先だって部屋の戸を開けて出て行ったヤヱの顔に渦巻いていた激情を見て、定子はまた後悔した。
とんとんと遠ざかる足音を聞きながら、未だ何も刻まれていない、綺麗に磨かれた己の角に触れる。
「ごめん、なさい。ごめんなさい……」
これが彼の愛の形と知っているのに。ここに、確かに彼の作の一つがあるのに。
そして、ここにあれが咲いて、自分はもっと綺麗になれるのに。
現実から逃げ出すように、定子は部屋を駆け抜けて、奥の間に飾られた己の歴史に逃げ込んだ。
そこにあるのは六対の角だ。流水から彩角を施された歴史。こんなにも丁寧で、綺麗なのに。
――それを、自分の手で砕いてしまった!
はたして、流水はどんな気持ちだったろう? 喜んでもらえると思ったものが、相手を激情に駆らせ、この世から消し去られてしまったことに。
ああ、わからない。わからない。
だからおそろしい。
「嫌わないで、わたくしを、嫌いにならないで……」
六対の角に囲まれて、定子は涙を流しながら謝罪する。
……そんな彼女の姿を、戻ってきたヤヱがひっそりと見つめていた。
憤然と、燃え盛る瞳で。
***
夜通し泣いて、泣き腫らして、定子は面と向かって謝罪しようと決意した。
本来、下女などに謝罪などしなくてもいいものなのだ。主の思うがまま使い潰して良い。しかし、それでも彼女は謝りたかったのである。
それは、二人がそれほど長く連れ添い、定子が多大な信を置いていると言うことの証だ。
精一杯腫れを引かせるために冷やして、髪を一人でまとめて、出来る限り身だしなみを整えてヤヱを呼び出した。
現れたヤヱの顔に、昨日の激情の跡はない。ただ、失った角の跡を保護するように巻いている布が痛々しく見えるだけだった。
その姿を見ると、胸が焼けるように苦しくなる。溢れ出そうになる涙を必死で堪えた。泣きたいのはヤヱの方なのだから、己が泣いてしまうのは卑怯だ。
「おはよう、ヤヱ」
「おはようございます、定子様」
聞こえてきた声音は、吐き気を覚えるほどにいつも通りだった。いや、何か、ヒドく見えにくい感情が隠れているように感じる。
激情……ではない。もっと、暗く重い色だ。後ろ向きな……内向的な色。
「……どうか、なさいましたか?」
「いえ、なんでもありません」
見えかけた色を頭から追い出す。そんなこと、どうでもいいだろう。昨日あんなことをされて傷ついて、それを隠しているだけだろう。
そう思って、もう一歩踏み込めたはずの足を、定子は止めた。
しかし、いざこうして言うとなると、少し躊躇いが生まれてくる。自己満足の謝罪を果たして本当にするべきなのだろうかと。ただ怯えているだけと言われてしまえば、それで終わりだが。
でも、それでも、言わないよりは言った方が、良くなるように思ったから。
「今日は、あなたに言いたいことがあって……」
告げる。こうなればもう後には引けない。言い切るしかないのだ。
「なんです……?」
ヤヱに浮かぶのは、不安の色だ。当然だろう。前日あんなことがあって、翌日早々呼び出され、深刻そうな顔で主君から言いたいことがあるだなんて言われたのだから。普通、暗い未来を告げられると思うものだ。
……実のところヤヱが不安に思っていたのはそちらではないのだが。
「昨日は、ごめんなさい! 許して、とは言いません。嫌うのなら嫌ってくれて構いません。望むのなら、配置転換を叶えてあげても、よく……ってよ?」
最初の一言目は良かったのだが、段々と早口になるわ高圧的になるわで散々な結果だった。しかも、泣かないと決めたのに、配置転換と口にした瞬間涙がこみ上げて言葉はグズグズに崩れていた。
言葉を向けられたヤヱは、俯いて答えない。いいや、肩を震わせて、何かに耐えている。
「どう、かしら……」
駄目押しのような再度の言葉に、限界と言うようにぷっと音が漏れると、ヤヱが笑い出した。
「ど、どうして笑うのです!」
「いや、だって……配置転換……ぷぷ。そんなの、しませんよ。何年、定子様の暴威と付き合ってきたと思ってるんですか」
「まあ、暴威だなんてヒドい!」
プンプンと、目に涙を浮かべながら器用に怒り出す定子。それがツボにはまったのか、ヤヱの笑いが激しくなった。
「も、もう、ヤヱ!」
「気にしなくていいんですよ。くく……下女と主なんて、そんなもんでいいんです。多少手荒でも気にしませんって」
「角を折るのは、多少の域に収まらないと思うのだけど……」
「でも、命を奪われたわけじゃないですから。放っておけば、また生えてきますし」
その言葉は確実に強がりだった。いくら下女と言っても一人の女人である。角を折られて尋常な心でいられるはずがない。
それでも、そう言ってくれたことは定子としては嬉しかった。ヤヱの確かな愛を感じられたからだ。
「ヤヱ……」
感極まって、涙が溢れてくる。頬伝う雫を感じて、定子は焦り出す。いいや、違うこれじゃ卑怯じゃないか。
「ご、ごめんなさい。わたくしが、泣いては」
「そうですよ。泣きたいのはこっちです。でも、それでこそ定子様ですから」
自分勝手であれと、ヤヱは繰り返し告げる。本当に良いのだろうか、と思うのだけれど、それを望まれるのならば、そう振る舞うべきなのかもしれない。貴人の振る舞いなんて、そんなものだ。
「ありがとう……とりあえず、修繕は手配しますから」
「まあ、対外的に仕方ないですね」
短く切るならともかく、こうも激しく折ったとなると醜聞が立つ。まあ白綺であれば、比較的周囲も見逃すものではあるが、輿入れ前であれば可能な限り避けたいものだ。
特にヤヱは外回りが多い。その角は直しておいた方がいいだろう。
「腕のいい人を頼みますからね」
「どうせお抱えさんでしょ」
「あの方も接ぐことに関しては一流なのよ。……それしか取り柄がないとも言えるけれど」
「ズバッといきますね……」
「だっ、だって……ね?」
流水と比べれば見劣りするが、お抱えにまで選ばれているのだから、一流半くらいではあるのだ。ただ、定子の好みには著しく合わないというだけで。
「流石に、贔屓目すぎると思いますけど」
「そうかしら……」
「まあ、たぶん」
ここで言い切られない辺り、お抱えさんの技量が察せられるというものである。
とにかく、こうして二人は表面上仲を繕った。しかし、それは片方が引いたからこそ出来た、危ういものでしかなかった。
喜びで盲目となった定子は、そのことに気づいていない。ただ、腹の底に怒りを追いやったヤヱだけが、優しげな笑みの裏で理解していた。
***
その日の夜、再びの参上を許された流水がおっかなびっくりと言った風に現れた。
平身低頭になろうとする彼を制して、そんなことよりと定子は切り出す。
「今宵から、彩角に入りますか?」
「え? ああ……そう、なりますね。定子様が良ければ、ですが」
「構いません。予定より一日遅れているのですし、早急にお願い致します」
「……承知致しました」
その声音に、明らかな期待を滲ませながら流水が肯いた。そんな彼を見て、定子は微笑んだ。
***
一月振りに触れる定子の角は、当然だがヤヱのそれとは違う。
まず肌触りが絹のように滑らかなのだ。これは、食の違いだろう。角は何を食べているかがわかりやすく出る。
とはいえ、見た目の上でわかりやすいガク氏族ほどではない。あちらは、食事や睡眠を怠ると、ボコボコになるのだ。流水が受け持つような客にそんなものはいないが、中層区を歩いていれば幾人かは見かけるくらいである。この辺りはそもそもの角の性質が違うのだから、影響の出方も違ってくるものだろう。
次いで、曲がり方が違う。こちらは完全な個性だからとやかく言ったところで詮無いのだが、微妙な差異が目に付くのは、それだけ長いこと一つの角に触れていたからだろう。
頭の中でこの一月試行錯誤したものに微修正を加えながら、角の上に図を書き写す。薄墨色の線が乾くのを待ちながら、彫刻刀を並べる。愛用の逸品達は綺麗に磨き上げられ、使われる時を待っていた。
そして、色が落ち着いたのを確認して、流水は刀を手にとった。至高の美を作り上げるために。
***
ふぅ、と流水が一息入れる頃には、結構な時間が経っていた。角を削られていた定子は、小さく寝息を立ててしまっている。
「ヤヱ」
起こしてしまわないよう小さく声を掛けると、近くに侍っていたヤヱが苦笑いした風な顔で現れた。目線だけで定子を頼んだ流水は、辺りに散った屑の掃除に移った。
んぅと寝言を言いながら、定子が運ばれていく。どうも、夜の作業となると受け手たちは眠ってしまうものらしい。しばしば、ヤヱも眠っていた。感じるようになってからは、それどころではなかったようだが。
一通り、掃き終えた屑を壁際にまとめ、布団を用意する。それぐらいの頃にはヤヱが戻ってきて、お茶を出してくれた。
つい先日抉られた角は未だ布で隠されていて、痛々しさをありありと残していた。
「どう、進行度は」
「元々予定としては幾日か余裕を設けてはあるので……まあ、それほど焦る状態ではありませんね」
「当たり前だよ……」
「それはどちらが?」
「余裕! というか、初耳なんだけど」
言ってませんでしたっけ、と流水が首を傾げた。考えてみれば当たり前のことではあるのだが、それでも無茶な予定であるのには変わりない。
「まずあなたが二週間で終わったんですから、時間が余るのは当たり前でしょう」
「いや、あれ迷いながらやってたよね? 私八つ当たりしてるの見てたよ?」
「いやぁ、恥ずかしながら。でも、まあ、終わる確信があったので」
何故かはわからないが、間に合うとわかっていたのだろう。流水の師もそうらしいのだが、どうも彼の流派の達人というのはそういう不可思議な時間感覚を持っているらしい。
「……これだから、極まった連中は」
深々とヤヱはため息をついた。
「とはいえ、実際やってみないとわからないといえばわからないですよ。実のところ、あなたにだって二週間丸々使うつもりはありませんでしたから」
「そ、そうなんだ……」
平然と言い切られて、ヤヱは苦笑いしか浮かべられない。こう言ったということは、つまり、定子も三週間ぴったりで終わるのだろう。
「まあ、私が言えるのは体調崩したりしないでねってことくらいよ」
「それに関しては、気をつけてますし、何かあれば補佐をお願いします」
「はいはい。仕事の間はせめていいもの食べて、体調崩さないでね。おやすみなさい」
「そのつもりですよ。では」
湯呑みを回収して、その場を去ろうとしたヤヱは、ふと足を止めた。もぞもぞと布団に潜り込もうとしている流水をチラッと見て、何かに耐えるように肩を震わせる。それからたっぷり数秒して、彼女は振り返った。
「あの……」
「どうしましたか」
横になり、薄っすらと目を開いた流水が、目の端だけでヤヱを見てくる。睨んでいるようにも見えるが、単純に顔を向けるのが面倒なだけだろう。
「その、あれは夢だったんだよね」
「……なんの話ですか」
流水はとぼけてみせた。何を言うつもりなのかはもちろん伝わっている。
だが、ここは定子のお膝元。他の下女から定子に伝わらないとも限らない。どこに耳があるのかわかったものではないのだ。
「そう、だよね。うん、夢……ごめん。なんでもない」
流水の意図を汲んで、ヤヱは吐露しようとした言葉を殺した。
そんな彼女の顔を見て、流水の目がすっと細められる。
「もしも……もしも、夢が現実に現れたときは、すぐに私のところへ来てください。あの方を止められるかはわかりませんが、力にはなります」
「流水殿……」
それが今ここで言える精一杯の言葉だった。
「はい、そのときは、きっと……」
泣きそうな声でそう言って、ヤヱは立ち去った。
残された流水は、己の軽率を改めて自覚しながら目を閉じる。
そのときが来るだろうという確信はある。だが、今は眠らねばならない。
定子に至上の角を捧げねばならないのだ。そのために、ここにいるのだから。
***
ヤヱの不安を知り、未来の暗がりを知りながらも彼の手は鈍らない。日々刻々と定子の角への装飾は増えてくる。
また、この頃にもなれば白綺と黄籃の間で結婚へ向けた最終的な調整のために、人が行き来するようになる。屋敷はバタバタと騒がしくなり、定子もヤヱも忙しくなってくる。段取りそのものを決めるのは親であるが、小物への気配りなどは子世代の仕事で、進行を任せていればいいというものではなかったからだ。
その相談は夜遅くまで続くことがあり、流水が黄籃の君と出会うのも、当然の結果だった。
「なるほど、君が流水かぁ。話には聞いているよ」
初めて会った黄籃の君は、流水に衝撃を与えた。拘束を嫌う、ゆったりとした浅葱の着物が特徴的で、ともすれば下品とも思えるほどに緩く、着るというよりはかぶっているという方が近しく思える。帯も当然適当で、胸元からは素肌が覗いている。
彼は白綺とは違って渦まくような角で、その先端が、顔と同じ向きになるように整えていた。研磨跡の分かり易い凹凸のある角であるにも関わらず、その先端は元々のものであるかのように見えるのだから、凄腕の彩角師を抱えているのだろう。
人の良さそうな笑みを浮かべて流水に話しかけて来た彼からは、なんの圧も感じられない。普通、これから結婚する相手の想い人に会えば、男ならなにかしらの感情が浮かぶものだ。だのに、この男にはそれが全くない。
まるで、穴だ。流水はそう思った。人の形をして歩いている穴。底が見えなくて、何を考えているのかわからない。ただ、入るのに恐れはいらなくて、入ってしまえば安心出来るのがなぜだか確信としてあるという、不可思議な穴。
それこそが、流水にとって衝撃だった。懐が大きく見えるとか、そういう次元ではない。近くにいれば腑抜けになってしまいそうな、安心感を振りまかれるという恐怖だ。
出来ることなら話したくない。だが、向こうから声を掛けてきた以上、それを無視するのは非礼に当たる。
「お初にお目にかかります……」
頭を下げようとした流水を、彼は手で制した。
「ああ、そういうのいいから。面倒臭いじゃない、上とか下とか。握手でいいよー」
「ですが……」
「本人がいいっていうことを、あえてねじ曲げようとするのは感心しないよ? まあ、それが他の人たちの礼儀っぽいのは知ってるけどねぇ」
ふにゃふにゃと顔を崩しながら、彼は笑う。
「ささ、手を出してさ。って、ああ名乗ってなかったごめんごめん。僕は
「は、はぁ……流水、と名乗っております」
釈然としないまま、流水は行貞と握手した。その手は家柄に反して荒れて硬く、労働に従事していることがうかがえる。
「知ってる知ってる。雲行さんのお弟子さんだよね。うちの若いのはまだお世話になったことないみたいだけど、評判は聞いてるからそのうち行くんじゃないかなー」
「こ、光栄です」
何を考えているのかわからないというのが、素直な感想だった。定子とはまた別種の、会話に困る感覚がある。
そんな行貞がすぅと目を細めた。流水を通して、遥か遠くを見ているかのような、焦点の遠い瞳。
「なるほど。僕は失うのか」
突然飛び出した言葉に、流水はついていけない。しかも、それが深く得心のいくものであったらしく、何度も頷いている。
「さもありなん、かな。巡りが悪いね、どうも」
「ええと……どういう?」
言葉に、はっと夢から覚めたように行貞が笑った。
「ごめんね、なんだか置いてけぼりにしてしまった。僕は星読みなんだよ」
「つまり、未来が見えると?」
「ちゃんとした場所ならね。こうやって何気ないときに見えるのは……必ずしも未来ではないかな。それに見えたものがいつ表れるのかもわからない。ただの幻覚かなとも思う」
「遠すぎてわからない?」
「かなぁ。あとは時期を絞れるほどのものが見えないことが多い。今回は明確に未来だってわかったけど、日々の反復の中身が見えることもある。そういうときは幻覚としか言いようがないよね」
なんだか、わけのわからない話だった。ただ、黄籃がそういう不可思議な力を持つというのは有名な話で、実際鬼道の大家を何人も輩出している。
「ええと……いつかはわからないけれど、行貞様は何かを失うと」
「た、ぶんね。確定してるとは思いたくないけど。きっと不可避だと思う」
言って、彼は少し悲しそうな顔をした。生きている以上、何も失わないということは不可能だが、ここまで悲しむということは近い将来の話で、なにか大切なものを失うのだろう。
それがなんなのか。そしてなぜなのか。……流水は茫漠とした予想が脳裏に立ち上がるのを感じたが、それを黙殺した。
言霊という言葉があるが、そういう不気味な予想は音に出すべきではないのである。
音にしてしまえば予想は世界に染み込んで、それを引き寄せてしまう。そういう考え方が、彼らの中では一般的だ。
「さようですか」
だから、ただ流水は頭を下げた。行貞はそれを受け取って曖昧に笑うだけ。
暗黙の中、最悪の未来を共有した二人の間には奇妙な空気がただよっていた。
それから、少し。ふと、芽生えるように行貞が言葉を落とした。
「でも、そうだね。一つだけ。触れたくなったのなら、触れるといい。もしかしたら、変わるかもしれない」
それは忠告だったのか。それとも予言のようなものだったのか。流水にはわからないが、ひどく平板な声音だった。
「……はい」
だから、ぞっと背筋に怖気が走るのを感じながら、流水は頷いた。頷くしか、なかった。
ほんのわずかな、しかし、あまりに濃密な邂逅はそれで終わりだった。
出会わない方が良かったと思うくらい、嫌なものを二人に残して。
***
そんな不気味な一幕があっても、流水の仕事は変わらない。ほんの少し、心の奥底に突き刺さりはしたが、彼の腕が鈍るほどではなかった。
かりかり、しゃりしゃり、さらさらと定子の角は彩られていく。
美しく、艶かしく、誰もを虜にしてしまうように。
定子は婚姻が近づくにつれて美しくなっていった。しかしそれは角の彩りは関係なく、開花を拒んでいた蕾がようやく開いていくような、定子生来の美しさの発露。
夫である行貞を陽の美しさを持つ御仁とすれば、定子のそれは陰の極み。宵闇の深さのような、底知れぬ、吸い寄せられるような美だ。
おそらく当てられたのだろう。日が照り輝けば輝くほど、夜の闇は深くなる。傍らに立つ定子は暗く、美しくなる。
そしてそれは、流水が生涯で一度も触れたことのないようなものだった。しばしば角を削る手を止め、はたしてこの図柄で良かったのかと、彼を悩ませることになる。
しかし、改めて図案を考えられるほどの時間は残っておらず、しかたなしに初めの図柄のまま作業を続行した。細かな部分は若干の手を加えたものの、それは差異と呼べるほどのものではなかった。
ある意味、彼は逃げたのである。時間がないという事を言い訳とし、定子と改めて向き合うことから逃げたのだ。彼のこだわりからすれば、あり得ないことだった。
けれど、そうすることによって、流水は陰に取り込まれることを防ぐことに成功する。いいや、そうしなければ、彼は間違いなく定子に狂っていたから、そうせざるを得なかったとも言える。
結果から言えば、それは角の完成へと繋がったし、絶世の美しさを挙式にて定子へ提供することが出来た。
でも、それはやはり。
致命的に間違っていたのだ。
***
最後の日、道具を置いた流水は深く息を吐いた。予定をいっぱいまで使っての作業は、ここに無事終了した。
仮面を外し、屑を拭い去って、深く一礼する。
「定子様」
優しく、寝入りそうな定子へ声をかける。
ぱちりと目を覚ました彼女はゆっくりと上体を起こした。
「終わり、ですか」
「はい。私の仕事は、終わりました」
「……出来栄えを見てもよろしい?」
「ええ」
長時間横になっていたせいで、少しふらつく定子を支え、彼女が起き上がるのを手助けする。
流水に手を取られ、すっくと立ち上がった定子は姿見の前に立つと息を飲んだ。
そこにいたのは美しき魔人であった。
角が描くなだらかな流線は、視線という雫を集めるように巧妙に調整され、頭上へ眼を向ける人々を定子の顔へと誘導する。
誘導した先、角の根には繁栄の模様が陰気の中にかすかな陽を浮かばせて、よりくっきりと定子の放つ陰を縁取っていた。
そこから一歩進んだ場所にある顔は病的に白く、暗暗とした雰囲気をもち、吸い寄せられる過程ではうっすらとしか全体が見えない。だが、一度焦点があえば、宵闇の中、月光で茫と浮かび上がる花のように、くっきりと目に見える。
釣り目がちな眼、流れる雲霞のように薄い唇と共に顔の中央を彩る高めの鼻。ぬうと前に飛び出てきそうなそれらは、じいと見ていると目を離せなくなりそうな、妖しい魅力に溢れている。
しかし必死で顔から眼を背けても、一度角の流線で誘導された視線は体の流線でも同じように誘導されて、穴に落ちるように定子の顔に引き寄せられていく。
「これが、わたくし……?」
「はい」
己の顔なのに、目が離せない。自己陶酔するわけではないが、ともかく美しいと定子は感じた。
傍らに立っている流水の顔を見ようとしなければ、姿見から視線を外せそうになかった。
「どうでしょうか。ご満足いただけましたか?」
「……ええ」
瞼を伏せ、定子は頷いた。本当に、流水に頼んでよかったと心の底から思っていた。
吐息が熱くなっていく。愛おしい彼の愛に包まれていると自覚して、定子は高ぶる。けれど、その心を牢に閉じ込めるように、彼女は一度眼を閉じた。
求めてはならないと、暴れ出そうとする心を遠ざけていく。それは、過日にヤヱの角を折ってから、習得してしまった自制の技だった。
色に狂う白綺の血を、彼女は制する術を得たのだ。
「名残惜しいですが、これでお別れとなりますね」
「……はい」
努めて平静の声を出した定子は、心の内でさめざめと泣いた。
ほんの少しだけ、わがままを言いたかった。
――列席してくださいますか?
言葉にしてしまえば、たったそれだけのもの。
けれど、それは言うべきでない言葉で、自制の技を得た彼女には、押し殺してしまえるものだった。
「最後にあなたの絶技を受けられたこと、光栄に思います。この彩角、生涯忘れることはないでしょう」
「恐悦至極に存じます」
「格別の褒美と……一つだけ欲するものを与えましょう。なにがよろしいかしら?」
言葉に、流水はしばらく思案して答えた。
「色を、さしたく」
色をさす。それは、彩角師が己の仕事の中で、格別に認めたものにだけ行う特別な行為である。
特殊な彩色方によって行われ、角のごく一部に、師から与えられた色をつけるというものだ。
これは、その作が己にとって特別であるということを意味する。特別の内容は人によって異なり、一つ山を越えたという意味合いだとか、告白を意味するなど多岐に渡る。そのため、特別というわりにそれほど珍しいとも限らなず、人によっては数十もの角に色をさす者もいるようだ。
そもそもが彩角師の自己満足でしかない表現であるし、色をさすことによって調和が崩れるとの意見もあり、現代ではその重みはあまりない。
だが、定子は知っている。流水は今まで一度として色をさしたことがないことを。
そして彼は調和が崩れるからと、色をさすことに否定的な立場であるということも。
ゆえにその申し出は、真の意味で特別なものだった。
「わ、わたくしで、よいのですか」
「はい」
戸惑いながら問うた定子に、流水は力強く頷いた。胸中から溢れ出る嬉しさに、彼女は天にも昇る心地で受け入れを表した。
すぐさま作業は始まった。おそらく流水の中にも確信のようなものがあったのだろう、普段は持っていない、色をさすための道具を持ってきていた。
色は、角の根に茂る輪の一つにだけさされた。目を凝らさなければわからない、流水の透明に近い水色がそこに刻まれた。まるで二人だけの秘密のようだった。
「わがままを受け入れてくださって、ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ、あの流水殿の色をもらえたのですから、至福という他ありません」
くすり、と定子は微笑んで。
流水もにっかりと笑った。
そして、
「ヤヱ、流水殿がお帰りです」
「……は」
侍るヤヱに流水を送らせる。
「定子様、行貞様とお幸せに」
去り際、その言葉を残し、流水は定子の世界から消えた。
とん、と閉じる簾戸が、二人の世界を完全に隔絶した。
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