#EX 後日談
ふかふかのベッドで目覚めて、愛しい人の寝顔を眺める。大抵の場合、それが僕の一日の始まりだ。
冬の朝は慣れない。もしかしたら春生まれのせいかもしれない。人恋しさとぬくもりを求めて、僕は傍で眠る橘を抱き寄せた。
「んん……」
程なくして彼女は目覚める。数秒間見つめあって、おはようの挨拶をして、それから五分ぐらい無言で抱きしめ合う。ひとしきりぬくもりを味わうと、ようやく僕たちはベッドから出る。
「ほら、地元に帰るんでしょ。準備しなきゃ」
一足先に洗面所へ向かう橘の背を見送りながら、僕は欠伸をして二度寝を始める。
五分後、ぺちぺちと顔を叩かれて僕はまた目覚めた。
***
1999年の冬。僕は19歳だった。かつての世界とは比べ物にならないくらい、今の僕は生き生きとしている。
その日、僕は橘と共に、新幹線に乗っていた。
高校卒業後、僕は6年間──体感的には15年間だが、この世界では6年だ──過ごしたアパートを妹の智花に譲り、就職のため上京して都心のやや郊外に安めの小さなマンションを一室借りた。橘は何をいうでもなく、僕についてきた。
「真くんは放っておくとカップ麺しか食べなくなるからね」とは橘の言だ。確かに否定できない。高1の夏以来の橘との同棲生活が約半年ほど続き、季節は巡って冬がやってきた。
僕の就職先は当時ではまだ多くはなかったIT系の中小企業だ。デジタルが発展してIT革命が流行語になる前年、世間はノストラダムスの大予言について大騒ぎしていたが、IT業界では2000年問題についてさかんに騒がれていた。
そのどちらも、現実に大きな影響はなかったことを、僕だけは知っている。
年末が差し迫った12月23日、溜まった有給を申請した僕は長めの冬休みを取り、実家に帰省することにした。
「もうすぐだね」
陽が傾いて数時間、実家のある県に入った頃、橘が囁いた。車内にはどことなく懐かしい匂いが漂っていた。
窓から見える夜景を見て、僕は呟く。
「好きだなあ、この景色」
百万ドルの夜景、と表現したのは誰だっただろうか。無数の電気の光は、夢のない言い方をすると、夜も仕事に追われたサラリーマンたちが築く光でもあるのだけれど、見ていて美しいと思うのは仕方がないことだ。
「そうだね。……ね、真くん、私は?」
「……? 橘は橘だろう」
「もう、そうじゃなくて……」
アヒルみたいに唇を尖らせる橘。見えないところで、僕は顔を綻ばせる。
そりゃあ、橘の方がずっと好きに決まっているとも。
「智花ちゃんに会うのも久々だなぁ」
「うん、橘も来るって聞いたら、喜んでたよ」
「そっか。嬉しいなぁ」
末っ子だった橘にとって、義理の妹はさぞかし新鮮な感覚であったことだろう。橘は頰を緩めた。
かくいう僕にとっても、智花は義理の妹だ。彼女にとっては義理のさらに義理になるのだが。
夜の9時を回る頃、最寄駅を降りて、久方ぶりに地元の空気を吸った。パチンコ店や居酒屋で賑わう、騒がしい街だった。
それから20分ほど歩いて、ようやく僕たちは実家の近くまで帰ってきた。ふと思い立って、僕たちはすぐ近くにある青い橋の下へ足を運んだ。暗がりでもすぐにロッカーを見つけることができたが、そこで橘が「あ」と声を上げた。
「どうかした?」
「……やっぱり、ロッカーは開けちゃダメだよ」
と、主張する橘を無視して、僕はロッカーに手をかける。彼女が「ああっ!」とさらに大きな声で僕の腕を掴むが、残念ながら力は僕の方が強い。絡んで来る橘を突き飛ばさないよう細心の力加減でロッカーの扉を強引に開く。
すると、中から一枚の手紙が風に乗って飛び出してきた。とっさに僕はそれを掴み取る。水色の便箋はやや色褪せており、それが何年も放置されていたことが窺えた。
「うん?」
「……もう、真くんの馬鹿」
「馬鹿っていうことはないだろう。……これは?」
唇を結んでしばらく橘は無言を貫いていたが、僕が根気よく見つめていると、やがて彼女は諦めたように呟いた。
「見ての通り、手紙だよ。私の病気が治って、真くんが居なくなっちゃったこの世界で、最初に書いた手紙。いつか、真くんが取りに来てくれるかもしれないと思って、ここに隠しておいたの」
──手紙。
脳裏から、数え切れないほどたくさんの記憶が湧き上がってきた。ひょっとしたら、もっと早くここを訪れていたら、僕はより早く彼女の真意を知ることができたのかもしれない。
けれど、それは意味のない仮定だ。僕がここにいて、橘が隣にいる。その事実だけが重要なのであって、だとしたら、僕たちの出会い方は何も間違ってなどいない。
橘は手の届かない手紙をなんとか奪おうとぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
「橘。あんまり飛び跳ねると、お腹の子がびっくりするんじゃないか」
「もう。それを言うなら返してよぉ」
僕が手紙の封を切ろうとすると、橘がようやく隙を見せたとばかりに素早い動きでそれを奪い取った。
「……見せてくれないのか?」
「当たり前でしょ。恥ずかしすぎるよ」
何が書かれているのか非常に気になったが、僕は渋々諦めた。無理矢理奪い取って、嫌われたくはない。
橋をあとにすると、僕たちはようやく実家のマンションの玄関をくぐった。戸を開けると、すぐに智花が出迎えてくれた。
「おかえりーお兄ちゃん。先輩も、お疲れ様です!」
ビシッと敬礼する智花に、橘は苦笑していた。
「もーやめてよ智花ちゃん。もう卒業してるんだから」
「ただいま」
「あはは、ごめんなさい。あ、お父さんは明日美容院に行ってから帰って来るんだって」
美容院。普段はそんなところに行かないくせに、どうやら橘に会うために多少のおめかしをしたいらしい。
「移動で疲れたでしょ。お風呂沸いてるよ」
「じゃあ、橘」
「うん、ありがと。それじゃ先にいただくね」
荷物をリビングに置いて一息つくと、僕は久方ぶりに地元の空気を吸ったような気分になる。
ストーブの側では、実家で飼っていた犬(レトリーバーだ)のロビンがぐーすかと眠っていた。もうじき9歳くらいになるだろうか。
ロビンの頭を撫でながらテレビを見ていると、ふと智花がこう言った。
「お兄ちゃん、結婚はしないの?」
「……なんだよ、いきなり」
「今年でもう4年くらいでしょう? 桃華さん、お兄ちゃんが就職してからもつきっきりなのに、そういう話は聞かないからさ」
「別に、考えてない訳じゃない。ただ、今は結構忙しくてな。働き始めてから長めの休暇を取ったのだって、今回が初めてなんだ」
だからこそ有給による長期休暇ができたと言っても過言では無いだろう。
「桃華さん、ずうっと待ってると思うよ?」
「……わかってる」
僕はハンガーに掛けた上着に目をやった。あれの内ポケットには、手の平サイズの小箱が入っている。
僕だって、本当はその報告をするつもりで帰ってきたのだ。問題は、新幹線に乗る前に、それを渡せなかったということだけれど。
「それとも、クリスマスを狙ってる感じ? だとしたら、それもいいと思うよ」
僕が何かを言うより先に、智花はそんなことを言った。まあ、確かにタイミングとしては悪くない。あとは僕が勇気を振り絞れるかどうかだ。
程なくして、橘が入浴から上がってきた。入れ替わるようにして僕は浴室に向かった。振り返ると、髪を拭きながらすっかり談笑が始まっていた。
かつての生徒会メンバー同士、積もる話もあるのだろう。
***
「にしても、未だに信じられないです。あの生徒会長が、お兄ちゃんの彼女さんだったなんて」
智花ちゃんの言葉を呑み込み、私は思い出に浸る。高校を卒業して半年と少し。就職と同時に上京した真くんを逃すまいと勢いでついて行ってしまったけれど、その選択は間違いではなかったと今では思う。
「生徒会長かぁ、懐かしいね」
そう。私は二年に上がってすぐ、生徒会に入った。一年の時の成績不振を覆すためという打算もあったけれど、理由は他にある。
つまり、私も何かを変えたくなったのだ。
秋に入った頃、智花ちゃんも生徒会役員になった。一年生では珍しいことだ。書記であった彼女とは女の子同士ということもあり一番の話し相手になった。そこで、同じ苗字だねという話をすると、偶然にも真くんの妹だったのだという。もっとも、血は繋がっていないらしいけれど。
そういう意味では、智花ちゃんには負い目を感じている。きっと、兄弟愛を超える範囲で、彼女は真くんに好意を持っていたであろうから。真くんのことが好きだからこそ、私にはそれが手に取るようにわかった。
「先輩──いいえ、桃華さんには、感謝しているんです」
「……え?」
突然、予想だにしない一言に、思わず面食らう。
「高校入学の辺りから、お兄ちゃんの様子がなんだかおかしくて。寂しそう、というか。覇気がないというか。理由を付けてお兄ちゃんのアパートに住み込んでからも、結局その違和感は払拭できなくて」
「…………、」
「でも、夏の終わりから、お兄ちゃんは昔より活き活きとするようになりました。だから、感謝しているんです。……本当に、ありがとうございます」
「……そんな、私はただ、」
真くんに、たくさん迷惑をかけただけで。
我が身可愛さに、彼を遠ざけようとして、でも、やっぱりできなくて。そんな状態で振り回してしまっただけ。
挙げ句の果てには、崖から身を投げて自殺までしようとした。
今にして思えば、どうかしている。けれど、当時の私は、噂や奇異の目というものにそれぐらいに追い込まれていた。
病に倒れた世界の小学生時代も、周りの人たちには得体の知れない病原菌扱いされて遠ざけられていたけれど、どちらがマシかと言われれば、どちらも同じくらいにひどかった。苦しいことは苦しいし、悲しいことは悲しい。そこに順序や優劣はないのだ。
不幸になるよ、と私は言った。
それでもいいよ、と彼は言った。
それにどれだけ救われたか、真くんはたぶん知らないのだろう。
いつもそうだ。
かつての世界で、頻繁に学校を休んでいたあの小学生の頃、まともに友達もできなかった私に心身になって付き合ってくれたのは真くんだけだった。
それが、たとえ一週間に一度の、義務的なやりとりだったとしても。
私にとって、あの時間は人生で数少ない救いだった。
両親は私の病をどうにかする方法を探るために動いていてくれたのだと今になってわかるけれど、当時の私にとって、頻繁にある両親の不在は心的ダメージが大きかった。お姉ちゃんだって当時は受験シーズンで忙しかったし、仕方のないことなのかも知れない。
私が思い出に浸っていると、ふと智花ちゃんがおずおずと聞いてきた。
「……お兄ちゃんと、どこまでいったんですか?」
「あは、それ聞いちゃう?」
「気になります!」
強い子だ、と思う。もしかしたら、
でも、真くんは私を選んでくれた。あのセーラー服の女の人の正体はわからずじまいだけれど、感謝してもしきれない。
「じゃあね、これは夏頃の話なんだけど──」
私はそっとお腹を撫でる。私のお腹の中には、新たな命が宿っている。今は4ヶ月。真くんいわく、女の子だそうだ。
どうしてわかるの? って聞いてみると、彼はただ「きっとそうだよ」とだけ言った。だから、私はそれを信じている。
私たちはその日、ほんものの姉妹のように仲睦まじく、夜が更けるまで語り合った。
***
翌日、イブはそれぞれの家族と過ごした。
さらにその翌日、25のクリスマス。僕たちは夕方まで家でゆっくり過ごし、夜になるとイルミネーションの飾られた市内をぶらりと巡る事にした。
「智花ちゃん、良い子だね」
ふと、優しげな目で橘が言った。
僕は即答した。
「うん。自慢の妹だ」
「いいなあ。私はお姉ちゃんしかいないから」
妹も欲しいなあ、と橘はかすかに聞こえるくらいの声量で呟いた。
誰かに背中を押されたような気がした。
……わかっているさ。
ただ順序が逆になっただけ。けれど、僕はいまだ決定的な一言を告げられていない。
先日、橘を前にした親父は、終始挙動不審だった。
無理もない。若くして妻──即ち僕の母親──を亡くし、仕事人間であった親父にとって、智花以外に若い女の子と会話する機会などほとんどなかっただろうから。
ほんの少しだけ膨らんだお腹を見たあと、父は隠れて涙を流していた。その日、僕は初めて父と二人だけで酒を飲み交わした。
外堀が埋まったとなれば、あとはやはり、僕次第ということになるのだろう。
「真くん」
ふと、マフラーを翻して、橘が振り返った。
「うん?」
「──真くんは、いま、しあわせ?」
「……うん。幸せだよ」
「そっか。真くんが幸せなら、私も幸せだ」
そうじゃない。言うべきことは、そんなことじゃないんだ。
他人の幸せこそが幸せだ、という彼女の人生観を否定するつもりはない。
けれどいつか、心から橘に幸せになってほしいと思う。
僕は手袋を脱いで上着の内ポケットに手を伸ばす。そこにあるのは、黒い小箱だ。
それを差し出しながら、僕は意を決した。
「──橘。結婚してくれ」
相変わらず、告白というものが下手な奴だな、と自分で下卑してしまう。けれど、思い返してみると、僕はもともと不器用な男なのだ。それこそ、恋を成就させるのに、娘の手助けが必要なくらいに。
それに、自惚れでなければ、橘はそんな僕を好きになってくれたのだ、と思う。
「……、」
「遅くなってごめん。順序が逆になったことも。でも、責任を取らなきゃとか、義務感とか、そういう気持ちで言っている訳じゃないんだ。橘──桃華のことが好きだから。愛しているから、これからも、一緒にいたい」
心から、そう思う。
──はい、と短く、橘は答えた。とびきりの笑顔で。
その後、指輪を嵌めた橘の手を握りながら、僕たちはぐるりと街を一周した。そこら中がカップルだらけだった。
ひょっとしたら、僕たちを超える幸せなカップルは世界にごまんといるのかもしれない。けれど、だからどうしたというんだ。
僕がいて、橘がいる。そして『彼女』が産声をあげるのを待っている。これほどの幸せは、きっと勝ち負けなんてくだらない差で優劣をつけるものではないのだ。
──取り戻してやったぞ、運命。
光源に隠れた星を見上げながら、僕は想う。
全てを喪って、取り戻して。ならば次は、また一から積み上げていく番だ。
「──お、雪」
道行く誰かが呟いた。
見ると、小さな白い光が、クリスマスイルミネーションを引き立てるようにして街に降り注いでいた。
呟きが伝播する。
誰もが足を止めて夜空を見上げた。
まるで、その空間だけ時間が止まっているかのような光景だった。
──なんとなく、近くに『彼女』が近くに居るんじゃないか、という予感があった。
誰もが停滞する中で、僕だけが肩越しに振り向く。
その雑踏の中から、僕は『彼女』を見つけ出す。
深い紺色のセーラー服。
黒檀のようなにきれいな黒髪。
その中に引き込まれそうなほど澄んだ瞳。
そして、そのモノクロな組み合わせを否定する、首元の赤いリボンタイ。
あるいはそれは、ただの他人の空似か、今度こそ幻覚の類であったのかもしれないけれど。
見つめあっていた時間は一秒にも満たなかった。
雪の到来を受け入れた市民が、魔法が解けたみたいに一斉に動き出したからだ。
人影に揉まれて『彼女』が見えなくなる直前、その唇から五文字が紡がれたことを、僕だけは見逃さなかった。
思わず口角が上がる。
それがさようならだったのか、はたまたありがとうだったのか、あるいはおめでとうだったのか。確かめる術はきっと永久にやってこない。けれど、それでいい。
「……あ」
「うん?」
隣で橘が小さく声を漏らした。
相槌を打つと、彼女は頰を緩めてお腹に触れながら言った。
「今、お腹を蹴ったかも」
「──そっか」
どうやら夏の魔法は、まだ続いているらしい。
ラヴィアンローズ ヒロタカリュウ @HirotakaRyu
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