#07 バラ色の人生 (完)
始まりがあれば、当然終わりもある。
夏休みは佳境を超え、残暑の続く終盤に入りつつあった。
8月18日。
目を覚ますと、左手に幸せな重みを感じる。
顔を横に向けると、僕の腕を枕にして橘がすやすやと眠っていた。
頭を撫でたいと思ったけれど、生憎と右手は包帯がされていて何もできない。
僕は寝返りをうつと橘に向かい合う。
睫毛が長い。長い髪から漂う匂いはそれだけで惚れ直してしまいそうなほど甘くて心地のいい匂いを発していた。
僅かに開かれた唇がやけに色っぽく映って、僕は昨晩の二度のキスを思い出す。
今日はどこに行こうかな。
たしか、そろそろ夏祭りがあったような気がする。
橘の浴衣姿が見たい、と思った。
時計が8時を告げる短い電子音を鳴らす。僕はとんとんと右の手首で橘の肩を優しく叩いた。
「おはよ、橘」
「ん……おはよう。真くん」
橘は眩しい笑顔を浮かべたあと、肘で這いながら顔を近づけ、僕の頬に口付けをした。
「唇は、ご飯食べて、歯磨きしてからね」
さっさと準備をしなきゃな、と思いながら僕たちは揃って体を起こした。
庭の物干し竿で朝日に晒された布団を布団たたきでぽんぽんと叩く。橘は古いキッチンで朝食を作ってくれている。
こうして二人だけで過ごしていると、新婚の夫婦にでもなったみたいだ。近すぎる距離感は、恥ずかしさはあれど嫌ではなかった。僕たちはこの時をずっと待ち焦がれていたのだ。
しかし、焦ってはならない。僕の主観でいえば、僕の精神年齢は21歳だけれど、橘にとってはいまだ15歳のままなのだ。肉体の年齢が変わらないとはいえ、ふとした拍子に年の差特有の衝突を起こさないように注意しなければ。
それはそれとして、僕は中に入って、橘を後ろから抱きしめてみる。女の子の柔らかさというのはどうしてこうも心を安らげるのだろうかと考えながら、華奢な体の中に確かに彼女の命があることを実感する。
「もう、危ないよ、真くん」
「ん、ごめん」
橘は文句を垂れながらも、しかし満更ではなさそうだった。
焼き魚と白米、漬物と味噌汁。二人して「いただきます」と手を合わせ、しばし無言で朝食を頂く。
切り分けた魚の一部を、橘が食べさせてくれた。恥ずかしいけれど文句は言うまい。使い慣れない左手のフォークで白米をかきこみ、幸せな時間はすぐに終わりがやってきた。
「ご馳走さま」
「はい。お粗末さま」
「美味しかったよ」
「ありがと。……ふふ。隠し味が効いたのかもね」
隠し味って? と僕が問うと、ナイショ、と橘は答えた。
その顔は、いろいろずるいと思う。
昼までは適当にテレビを見ながらだらだらと過ごした。橘は読書をしていた。どうやら、夏樹さんが書いた本であるらしい。内容を聞くと、自分で読んでと怒られた。橘は橘なりに、夏樹さんの描くお話が好きなのだろう。
ふと、僕は思い出したように橘に問うた。
「そういえば橘、宿題は?」
「そんなの、とっくの昔に終わらせたよ。真くんと一緒にいる時間が減っちゃうでしょ」
……なるほど。僕もコツコツやるタイプではあるけれど、まだ少し残っている。
「真くんは? まだなの?」
「まあね。あと2割くらいは残ってるかな」
毎日やれば十分に終わる量だけれど、なにせ利き手が使えないのがもどかしい。
「じゃ、ちゃちゃっとやっちゃおうよ。私も手伝うから」
橘はしばらくの間、僕の筆跡を真似ながらノートや問題集にペンを走らせていた。読書感想文については、先ほど読んでいた夏樹さんの小説について書いてくれるらしい。
至れり尽くせりだな、と軽く自己嫌悪する。
夕方の5時に差し掛かった頃、僕たちは浴衣に着替えて外に出かける。バスに乗って地元に戻り、煌びやかな縁日に向かった。
「それ、凄く似合ってる」
「ふふ。でしょう?」
見せびらかすように橘は両手を広げてくるくると回った。黒地にところどころ花びらが飾られたデザインの浴衣で、顔は少し化粧がされていた。ハーフアップでまとめられた黒髪の後頭部からはちょこんと余った髪のポニーテールが垂れていて、それは僕が一番好きな彼女の髪型だった。
「でも、これだけ綺麗だと心配になるよ。橘がよその男に声をかけられないか」
「心配しないで。私は真くん一筋だもん」
それに、と橘は一拍置いて、
「もし何かあっても、また真くんが守ってくれるんでしょう?」
もちろんそのつもりだ、と僕は頷いた。
花火が上がる。屋台はどこもかしこも何かを焼いた煙が立ち上っており、食欲をそそる匂いが辺りに充満していた。
手を繋いで、人混みを歩く。奇しくも祭りの会場となる公園は、僕が腐っていた時代に寝食の根城として利用していたあの公園であった。
あの時は、こんな幸せな未来が待っているとは思わなかったな。
ふと、不良時代に味わった暴力的な喧騒がどこからか聞こえてくる。
こんなにいい日なのに喧嘩をしているなんて、罰当たりな奴らだ。まさかなと思いつつ声の方を向くと、体のどこかをぶつけられたと思しき華奢な男が地面に転がっていた。
彼の正面には、予想通りというべきか、秋元庵の姿があった。未成年だったこともあり、すぐに釈放されたのだろう。別に、それについて僕が言うことはない。もし次があったとしたら、今度こそ返り討ちにしてやろうじゃないか。
彼はやがて自分で殴り倒した男に手を貸して立ち上がらせると、ばちんと両手を掴んで何やら話し込み始めた。
おおかた、そいつの中に何かを見出して勧誘でもしているのだろう。庵はそういう男だった。
「真くん?」
「うん?」
「ふー、ふー。はい、あーん。熱いから気をつけてね」
目を離した隙に買っていたらしいたこ焼きに爪楊枝を刺して僕の方に突き出していた。頬張ってみると、たちまち熱が口の中に広がった。
「あちっ」
「あはは。もうちょっと冷まそっか」
たこ焼きを食べて、それから焼きそばを食べた。りんご飴を買った。当たりもしないおみくじに挑戦して、その結果に一喜一憂した。
人気のないところから花火を眺めて、僕たちは五度目のキスをした。それから、きつく互いを抱きしめ合う。この幸せを逃すまいとするように。熱くて大人のキスは、30秒にも及んだ。
きっとこれからも、こんな日常が続いていく。ほら、だから言ったじゃないか。橘と一緒なら、なんだって幸せだって。
星々が空に絵を描く。星座の形なんて一つも知らないけれど、食べ物や虫の名前を勝手に付けて、僕たちはバカみたいに笑いあった。
「真くん」
「うん?」
「ふふ。呼んでみただけ」
右手でキツネのジェスチャを作りながら笑う橘はすっかりかつての調子を取り戻していた。
意趣返しに、僕は小声でこう呟いてみる。
「……桃華」
ぶんっ、と音がなるくらい、素早く橘が振り返った。
「……いま、なんて?」
「なんでもない」
「嘘。絶対桃華って呼んだ」
「呼んでない」
「ねえ、もう一回。もう一回だけ呼んでよ」
「橘、愛してる」
「もう、違うよ。嬉しいけど……」
日付が変わるくらいまで、僕たちは公園ではしゃいでいた。お酒でも買おうか、と提案する僕に、橘は大人になるまでダメだよ、と断固拒否した。この体でタバコを吸わなくてよかったな、と心底そう思った。
木造の家に帰ったその日、僕たちは互いの愛を確かめ合うように、また一つ、大人の階段を登った。
***
9月2日月曜日の朝は雲一つない青空が広がっていた。前日の雨はどこへやら、残暑が厳しい日であった。相変わらず蝉が鳴いているし、朝日は真夏の如く眩しく輝いていた。
夏は終われども学校は始まる。二学期初めての登校だ。僕は早起きして一度家に帰り、智花と朝食を済ませてから家を出る。橘の住むマンションに迎えに行ってから、そのまま二人で登校した。
僕たちの姿は、周りにとってはいささか異常に映ったことだろう。なにせ、学校内で表立って僕と橘がつるむことはこれまで殆どなかったのだ。
急に交際を始めた僕たちを見てよからぬ噂が立つかもと不安がっていた橘であったが、明るくなった彼女は、すぐにクラスに溶け込み、誰とでも仲良くなっていった。
加瀬の奴は、相変わらず僕と橘の仲をからかうようになった。今では橘にも気安く話しかけている。あるいは彼は、紫苑の存在を橘のどこかに重ねているのかもしれないな、と思った。
***
かくして僕の、不思議な夏の物語は幕を閉じる。
歪で、共依存的で、まともではない恋だったかもしれない。
けれど、それの何が悪い、とも思う。愛とはいつだって一方通行だ。道路のふたつの車線が、決して交わることのないように。
けれど、勘違いしてはならない。それは、ヒトが抱える数多くの美しい
その一方通行の愛がお互いを見つめ合ったとき、初めて僕たちは恋をする。世界はきっと、そういう風にできている。
恋がお互いを見つめることだとしたら、愛は同じ方向を見据えることだ。僕は、恋が愛に変わる瞬間というものを知った。そこに見えるのは何色だろうか。
赤が情熱を司るとは限らない。
青が清らかさを抱かせるとは限らない。
緑が青春を演出するとは限らない。
けれどそこには、本人にしか納得できない"色"がある。あなたの中に宿る色を、決して他人に説明できないように。
隣で橘の暖かさを感じながら、僕は、ここにはいない誰かを想う。もう誰も覚えてはいないのかもしれないけれど。あの日、僕に彩りをくれた、もう一人の大切な人のことを。
***
あれから、実に20年が経った。
2016年の春。今日から娘の美雨みうは、晴れて高校生となる。僕たちが通っていた学校よりもワンランク上の、難しい女子校の合格通知を美雨は受け取っていた。
小学生の頃、僕が語って聞かせた話をもとに発表した美雨の作文は、小学校内でいたく評価された。
荒唐無稽な話だ。どうせ、誰も信じることはあるまい。
「お父さんとお母さんは、わたしのおかげで結ばれたんだよね」
「……ああ。そうだよ」
「その子とわたし、今なら見分けがつかない?」
「敬語を使えば、そうかもな」
「……こんな感じですか?」
彼女の風貌は、まさしくあの日の彼女とほとんど同じだった。
桃華が朝食を作っている傍ら、美雨は目を輝かせて僕の話を聞いていた。これで話すのは、通算で三度目だ。彼女はこの話をとてもよく気に入っていた。
ある意味では当然だ。これは、僕の主観では初恋がありうべからざる超常現象によって実る物語だけれど、『彼女』の視点からすれば、それは自らが産まれるための物語なのだから。
時刻が7時を回り、美雨は高校の制服に身を通した。
暗い紺色のセーラー服。
そして、首元には赤いリボンタイ。
その風貌は、あの雨の日に出会った彼女と瓜二つであった。
けれど、一つだけ違うところがある。彼女の頭には、紫色の花の髪飾りがついていた。先日、僕が入学祝いにプレゼントしたものだ。
「お父さん」
「うん?」
「誕生日おめでとう」
「ん、ありがとう」
4月7日。僕は36歳を迎えた。主観的な精神年齢では40を超え、もう立派なおじさんになってしまった。
美雨が紙袋から長方形の小包を手渡してくれた。
それを見た桃華が、あっと声を上げた。
「もお、一緒に渡すって約束だったでしょ!」
「えー。だってお母さんばっかりずるいもん」
「いいの。真くんはママの旦那さんなんだから」
「むむむ……」
「それより、支度は終わったの?」
姦しい光景から目を逸らし、僕は小包を開けてみる。
中に入っていたのは藍色のネクタイだった。
「……桃華も、美雨も。二人とも、本当にありがとう」
目頭が熱くなる。溢れ出るものを堪えながら、今一度感謝を述べる。二人は互いに手を止め、にこりと笑った。
そうそう。もう一つ、報告することがある。
先日の4月2日、我が家にある女性から、結婚式の招待状が届けられていた。
差出人の名は、井上恵。
覚えているだろうか。茨紫苑のアバターとして僕の前に現れた、あの女の子の名前だ。
招待状には僕と、そして父の名もあった。
驚いた僕が父に連絡して家系図を確認したところ、どうやらその子は、僕の祖父の兄弟の孫にあたるらしい。彼女と同姓同名の、血の繋がりが僅かにある遠い親戚。
もしかしたら、かつての世界で、親戚の間をたらい回しにされたあの時。僕は幼いその子と出会ったことがあるのかもしれない。
奇妙な縁があるものだな、と思った。
僕には僕の恋があったように、彼女にも彼女の恋があったのだろう。
さて、彼女の恋はどんな色をしていたのだろうか。その話は、またじっくり聞かせてもらうとしよう。
次の夏。僕は桃華と美雨を連れて、彼女の結婚式にお邪魔するつもりだ。
fin
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